2.疑う想い
香水を顔面に吹き付けられ、大きく咳き込んだ。
ラシュヌは良い香りだと言うが、ベルティスはちっともそうは思わない。
トイレに置いてある芳香剤のようだと言ったら、冷ややかな目で見つめ返された。
「あんたって、ガキね。エルドに同情するわ」
ラシュヌはベルティスから、ふいっと目を逸らし、机の上に化粧道具を広げた。
出会った時のラシュヌは皆と同様、男になりたいのだと言っていた。
すらりと背が高いラシュヌは、涼しげな顔の作りをしており、男になればさぞかし美青年になるだろうと思わせた。
だけど、二年前。体力の限界を感じたと言って手にしていた模擬剣を床に投げ捨てると、武道場を去った。
以後、ベルティスと共に体育の時間は観覧席で見学するようになっている。
ラシュヌが手鏡と睨み合って睫毛に何か黒々とした糊のようなものを塗りたくっているその隣で、ベルティスは自分の机に頬杖を付いた。
男になるのを諦めたとたんラシュヌは化粧をし始めた。服装もガラリと変え、どう見ても女だ。
ラシュヌと一緒にいるといろんな人が話しかけてきて、ラシュヌの気を惹こうとしているのが分かる。
女っていうのはそういうものなのだ、とラシュヌは言う。
化粧をして、綺麗な服を着て、甘い物を食べる。
できない、やれない、分からないと涙を潤ませて、相手の腕に己の腕を絡ませる。
そして、意味ありげに微笑んで、いい男を手ぐすね引いて捕まえるのだ、と。
――だけど、ベルティスにはエルドがいるのだから、そのような真似をする必要がないのだとラシュヌは続けた。
ラシュヌはコトンと小さな音を立てて手鏡を机の上に置くと、ばっちり開いた瞳でベルティスに振り返った。
「あんたがいつまでもガキなのは、きっとエルドのせいね。エルドがあんたから何もかもを遠ざけているから」
あんた、知ってる?とラシュヌは声のトーンをわずかに低めて、目を細めた。
「あたしがこうしてあんたと話をしていられるのはね、あたしが男になるのを諦めたからよ。二年前、まだあたしが武道場で剣を振り回していた時は、とてもじゃないけど、エルドが怖くてあんたには近づけなかった」
「エルドは確かにすぐ怒るし、怖いけど……」
「あんたが言う怖いの比じゃないわよ、あれは。――ベルティス、あんたはね、中等部の時からすごく目立った存在なのよ。誰よりも小柄で、誰よりも可愛い。手首だってこんなに細いし、肌も透き通るように白い。あんたを初めて見た時、こういうのが女の子なんだって思ったもの」
ラシュヌもベルティスたちも本物の『女の子』というものを知らない。
船には女の子も男の子もいない。いるのは、男か女か、性未分化の子どもだけだからだ。
本物を知らないラシュヌたちが、13歳で少年らしさを失ったベルティスに『女の子』を見たとしてもそれは仕方がないことだった。
実際、ベルティスは誰よりも少女らしく可憐で、華奢だ。
「本当に気が付いていなかったの? みんながみんな、あんたに話しかけたがっていたのに。同級生はもちろん上級生だってね。そいつらをことごとく追い払っていたのよ、エルドは」
「なんでそんなこと?」
「あんたを他のやつに取られたくないからでしょ!」
なぜそんなことも分からないのだ、とラシュヌの眼が吊り上がる。
「だけど、失敗ね。あんたはエルドしか知らない娘になってしまった。だから、他の男への対応が分からないし、恋の駆け引きに関してはさっぱりお手上げじゃないの」
「恋の……駆け引き?」
「エルドの浮気相手たちを思い出してみなさいよ。みんな大人っぽかったでしょ? あんたに足らないものを他で求めている証拠よ」
浮気という響きを耳にして、ベルティスの心はズンと重くなった。
谷の底に沈められた気分。
浮気。――本当に浮気なんだろうか?
エルドは未だにベルティスに対して、好きと言ってくれていない。
エルドのベルティスへの想いは、幼い頃から所有していた玩具を他の誰かに奪われたくないという子どものような執着心なのではないだろうか。
周りの皆はエルドとベルティスが結婚することを当然のことのように思っているから、エルドの行動を浮気だと言い表すけれど、本当は、エルドは本物の恋を探しているのではないだろうか。
ベルティスとではない他の誰かと本物の恋を。
好きだって言ってくれないのは、好きだって言えないから。
心にもなく好きだなんて言えない。そう、エルドは思っているのではないだろうか。
ベルティス、と呼ぶ声が聞こえて、動揺で揺らいだ瞳をラシュヌに向けた。
「だからね、ベルティス。あんたがほんの少し努力したら、エルドの浮気性は治まると思うのよ」
「別に――」
尚も言い募ろうとしたラシュヌの言葉を遮って、ベルティスは頭を左右に振った。
「一夫多妻制の社会なんだし、エルドが他の誰と何をしていようと、俺に何か言う権利なんてないよ」
「権利なら十分にあるじゃない」
「ないんだってば!――だって、俺、まだエルドと結婚するとは決めていないから!」
「はぁ? 決めてない? どういうこと?」
エルドとは結婚しないかもしれないと告げると、ラシュヌは信じられないとばかりに眼を大きく見開いた。そして、呆れ顔だ。
「それ本気?」
やや低めた声を響かせたラシュヌは、他の者に会話が聞こえないようベルティスに顔を近付ける。
「もし本気なら、あんたがフリーになったこと、それとなくみんなに宣伝してあげるわよ。あんたを物にしたいってやつなら大勢いるからね。うざったいほど群がってくるに決まってるわ。――でもね、ベルティス。一時の感情で口にしたことなら、あたしを最後にするのね。他の誰かに言ってはダメ」
「なんで?」
「あんたの無責任な言葉は、周りにいる多くの人を不幸にするからよ」
それっきりラシュヌは黙り込んでしまった。
化粧道具を手早く片付けると、ベルティスを置いて教室を出て行った。
すでに本日の授業はすべて終わり、放課後である。
ラシュヌと話し込んでいる間に他のクラスメイトたちの姿は無くなっていた。エルドもいない。
寮の自分の部屋に戻ろうかと思ったが、そんな気分ではなかった。
――武道場にいるかもしれない。
レースが近い。男になるためのレースに勝つために、エルドは武道場で体を動かしているかもしれない。優勝するのだとか言っていた。
レースは、1対1で戦うトーナメント方式である。
刃を潰した模擬剣を手渡され戦うことになっているが、素手で戦っても良いことになっている。故に、喧嘩だと言われるのだ。
エルドも剣を扱うよりも素手で相手を殴ったり蹴ったりする方が得意なのだと言う。
得意。――これは、嘘だ。
本当は、以前、刃を潰していたにも関わらず、エルドは模擬試合で剣を使用して相手の片腕を切断してしまったことがあるから、必要以上相手を傷付けてしまうことが怖くなってしまったのだ。
もちろん、エルド本人がそう言ったわけではない。
そんな素振りチラリとも見せないが、何となくベルティスには分かっていた。
教室を出て、武道場に向かう。教育施設は大方同じエリアに固まって設けられているが、武道場などは一般使用もされるため、教育施設のあるエリアAと大人たちが生活しているエリアBやエリアCの中間地点くらいにある。
区分としてはエリアBということになっているが、武道場までの距離はベルティスたちの教室からけして遠いというわけではない。
直線廊下を数十メートルほど突っ走って、エスカレーターを三階分駆け下りれば、授業と授業の間の10分休憩で行き着けないこともない距離だ。
もっとも、そうして走っても、ベルティスが授業開始に間に合ったことは一度もないが。
エスカレーターを三階分下りてしまうと、武道場の入り口に着いてしまう。その上の観覧席に行くためにはエスカレーターは一階分下りればいい。
観覧席は武道場を囲むように設けられ、斜め上からの観戦が可能になるように造られている。
客席の数は、約三千席。剣道や柔道なら16面、バレーボールなら6面分の広さがある。
初等部生から大学生まで使用するとは言っても、教育施設としてだけの使用ではもったいないと主張し、一般開放を決めた当時の知事の思いが痛いほど分かるような武道場である。
要するに、立派すぎるのだ。
客席列の間を通り、手摺りに寄りかかるようにして観覧席から武道場を見下ろした。
エルドの姿を探す。
数メートル下方で好きずきに躰を動かしている者たちは皆、人差し指程度のサイズをしていた。
50人? ――いや、100人くらいいるだろうか?
ベルティスたちの学年は140人いるから、その三割というと42人。
この内で42人しか男になれない計算になる。そして、残り98人が女になるのだ。
小さくしか確認できない大勢の中から、ベルティスは青みかかった黒髪を見つけることができた。
誰よりもしなやかに動くその人は、おそらく自らの意志とは関係なしに、ベルティスの眼を一瞬で惹き付けた。
――エルドだ。
呟くように名前を口にすると、ほんわかと胸が熱くなる。
もっとエルドの姿をよく見ようと、手摺りから身を乗り出した。
エルドは上級生に相手をして貰い、剣の稽古をしている様子だった。
その上級生はエルドよりも体格がいい。動きも敏捷で、彼が剣を押し出す度に、エルドの表情が歪むのが分かった。
確か、彼の名前はキルキスだ。二つ年上で、二年前のレース優勝者。
エルドと仲が良いらしく、一度だけエルドを介してベルティスも彼と話したことがあった。
――あの人、もう男なんだ。
レースで優勝したっていうことは、そういうことなのだ。
だから、あんなにも筋肉の付き方が違うのか。
エルドが豹なら、キルキスは虎だ。太い腕が力一杯剣を振り下ろす姿がベルティスの眼に映った。
不意に呼ぶ声があってベルティスは彼らから目を離した。振り返ると、マーフがそこに立っていた。
「落ちるよ、ベルティス」
マーフの腕がベルティスの腹の下に潜り、ベルティスの躰を手摺りから引き離す。
肌が触れあったその瞬間、マーフから甘い香りが漂ってきた。思わず、ベルティスはマーフの顔を仰ぎ見た。
「マーフ、もしかして香水つけてる? まさか化粧もしてない?」
驚きに満ちた表情を向けると、マーフは気恥ずかしそうにベルティスから目を逸らした。
「やめにしたんだ、男になるの」
「え!なんで?」
――だって、マーフは授業中よくエルドと組んで模擬試合をやっていたではないか。
お互いにお互い以外では相手にならないから、毎度そのような組み合わせになってしまっていたのだが。
つまりはエルドと同じくらいにマーフは強いのだ。
当然、男になるものだと皆に思われていたし、本人もずっとそう言っていた。
それなのに、なぜ?
マーフの顔を凝視したまま固まってしまったベルティスに向かって、マーフは薄く微笑んで、だが、やはりすぐにスッと目を逸らした。
エルドと同じくらいに背が高いマーフ。
エルドと同じくらいにしなやかな筋肉がついているマーフ。
銀色の髪は、やはりエルドと同じくらいに短く切られている。
「本当に女になるわけ?」
「そう」
「なんで急に?」
「エルドのせいだよ」
「エルド?」
「あいつ、俺と手合わせしている時いつも手を抜いていたんだ」
ぐっと悔しそうにマーフは下唇を噛みしめた。今にも裂けて血が吹き出てくるのではないかというくらいに。
「マーフと手合わせしている時、エルドは剣を使っていた?」
「当然だろ。レースの練習の手合わせだ。本番では剣を使うのだから、剣で練習するものだよ」
――それならきっとマーフの言うとおりエルドは手を抜いていたのだろう。マーフを傷付けないように。
だけど、その優しさはマーフの自尊心を傷付けた。
「エルドには勝てない」
「でも、上位者になれば男になれるだろ?」
「一人でも勝てない奴がいるのなら、俺は男にはならない」
「本気? 勝てない相手はエルドだけなんだろう?」
「だから俺はエルドの女になる!」
大鐘が脳内で響き渡った。古典的な表現だけど、まさにそんな感じ。
マーフの爆弾発言を耳にして、ベルティスの思考回路は一瞬にしてぶっ飛んだ。
躰を硬くしているベルティスの隣で、マーフは言葉を続ける。
「エルドと対等の勝負ができるのは、俺たちのクラスで俺だけだと思っていた。エルドの相手が務まるのは俺だけだって。だけど、あいつは手を抜いていたんだ! それって、すごく俺を馬鹿にしていると思わないか? 俺はあいつを親友だと思っていたのにさ、あいつは俺なんて眼中になかったんだ!」
マーフの視線が下る。その先にはキルキスと剣を交えるエルドの姿があった。
「エルドのあんな必死な顔。俺、見たことない。俺ではああいう顔させられないんだな。そう、思ったら悔しくて。――悔しくて。悔しくて。悔しくて。胸が苦しくて。俺、エルドが好きなんだって……思い知った」
ラシュヌもそうだが、男になるのをやめたとたんに女らしくなるから不思議だ。
マーフの胸の苦しみはベルティスにも覚えがあるもので、マーフの銀色の瞳が切ないほど、ベルティスの心も締め付けられた。
「エルドのことが本当に好きなんだな」
ポツリと口にすると、マーフの顔がくしゃりと歪んだ。
「エルドはベルティスを愛しているのにな」
「……」
「――愛なんていらない。ただ、ずっと。これから先もずっとエルドの傍にいたいんだ。女になればそれが叶うだろ? 女からの求婚は断れないことになっているから」
「マーフはエルドと結婚したい?」
頷くマーフにベルティスの胸は鷲掴みにされる。息が苦しい。肺が圧迫されて、呼吸ができない。
――震えるな!
ガクガクと笑う膝に心の内で叱咤する。ごくりと咽を鳴らすと、少しだけ息がしやすくなったようだ。
――マーフと自分は同じだ。
ベルティスだって、ただずっとエルドの傍にいたいから女になってもいいと思った。
エルドの傍にいて、エルドに自分を見て貰いたいから、女になろうと思ったのだ。
マーフと自分は同じ想いだ。それなら、マーフの想いを否定することも拒絶することも、ベルティスにはできない。
それどころか、むしろ、マーフの想いが自分と同じ過ぎて、分かりすぎてしまって、切ない。
――マーフが幸せになるといい。マーフがエルドと。
そんな考えさえ浮かんでくる。
ベルティスには好きだと言ってくれないエルドもマーフが相手なら告げるかもしれない。好きだって。
エルドはマーフを傷付けまいと剣を交える時に力を抜いた。それは、エルドはマーフを大事に思っている証拠だ。
――マーフにならエルドは言うかもしれない。好きだって。
ベルティスには手に入れられない言葉をマーフなら手に出来るかもしれない。
それなら、ベルティスは? 自分はどうする?
好きだと言われない苦しさを抱えて、エルドの妻になるのか?
――嫌だ! そんなの堪えられない!
ベルティスは遠いエルドの姿を目に焼き付けながら、隣に立つマーフに向かって静かに言葉を放った。
「エルドは俺のこと何とも思っていないんだ。俺たちは結婚なんてしない」
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