1.流離う者たち
無数の光の欠片が散らばった暗闇の世界。
分厚いガラス越しに手をかざすと、暗闇はひんやりと冷たく、徐々に体温を吸い取っていく。
いつ眺めても変化がない。だが、ベルティスは知っている。
光のような速度で移動している自分たちを囲む景色は、刻々と移ろいで行っているのだと。
景色。――果たして、景色と呼べるほどのものだろうか。
窓の外に広がる景色は常に星空だ。頭上はもちろん足下も。
透明ガラスで造られた床と壁に囲まれたこの場所に立つと、宇宙空間に放り出されたような錯覚に陥る。
だけど、好きなのだ。この場所が。
怖いと多くの友人たちが言うように、めったに人が立ち寄らない場所だから、一人で考え事をするには打って付けの場所だった。
胸が苦しい。近頃特に膨らんできている気がして、憂鬱だった。
身長はとうに止まってしまっている。声は一向に低くならないし、細い手足や腰も視野に入る度に気が滅入った。
――別に今更、男になりたいなんて言わないけどさ。
お前は女になるしかないと言われているようで癪だった。
実際、周りは皆、ベルティスが女になると思っている。疑いやしない。
ドアを開けてくれたり、荷物を持ってくれたり、人が聞いたら羨むような待遇だけど、そういう女扱いをされることが堪らなく悔しかった。
――まだ女になったわけじゃないのに。
18歳になると、性別が決められる。それまでは男でもなく、女でもない。また、男でもあり、女でもあった。
ベルティスたちの祖先が地球を脱出してから三世紀ほどが経っているが、未だに自分たちは目的地に到着できていない。
おそらくベルティスが生きている間に到着することはないだろう。
目的地の土を踏むのはベルティスの数代先の子孫たちだ。
このことは既に三世紀前に地球を出る際に計算済みのことで、故に船には新人類たちが乗り込んだ。
成人後、ホルモン剤を飲むことで男女の性別を持てる新人類は、隔離された世界での男女比の問題を無くした。
男の数が減れば、男となる子どもを増やせばいいだけの話だからだ。また、その逆も然り。
今のところ、巨大な船の七割方が無人エリアである。
船に乗り込んだベルティスたちの祖先の使命は、目的地に着くまでに人口を増やすことである。
この使命はまだ当分は達成されそうにもなく、自然、ベルティスたちへと受け継がれてきた。
ベルティスはガラスの壁に寄りかかり、足を前に放り出すようにして腰を下ろした。
膝上丈のスカートのような物を履いているため、脹ら脛は直にガラスに触れる。
するとその部分は、元々体温が低いせいもあって、すぐにガラスと同じように冷たくなっていった。
躰が徐々に凍っていくようだ。
――エルド。
呟くように、今一番会いたい相手の名前を呼んでみる。
迎えに来てくれたら、それで善し。来なかったら一生ここに居たっていい。
そんな気分だった。
船が地球を脱出してから、もうずっと船内の男女比は三対七に保たれ、一夫多妻制の社会が築かれている。
女は子を十ヶ月その腹で育て、その間生殖活動ができないからだ。
それなら、どう考えても、女より男になった方が得だ。
女は子を産む道具という見方をされている現実も、生まれてきたからには男になって人生を楽しむべきだという考え方に結びつく。
ベルティスだって幼い頃は当然のことのようにそう考えていた。
いつの間にか、男にならなくてもいいやと思うようになっていたのだけど。
女になりたいわけではない。ただ、エルドが男になると言っているから、ずっとエルドと一緒にいるために、自分は女になった方がいいのだろうと思っただけ。
エルドもベルティスは女になるものだと信じて疑わない一人だ。
エルドは、自身は男になって、ベルティスを女にして、そうして夫婦になるつもりでいるのだろう。
それは構わない。エルドが好きだから。
――だけど、なぜか気に食わない。
女に与えられた権利はただ一つ。夫を自分で選べる。
男に求婚されても女はそれを断ることができるが、女から求婚されたら男は断ることを許されない。
一夫多妻制の社会で、ベルティスはエルドだけのものになれるが、エルドはベルティスだけのものにはならないだろう。
エルドがベルティス以外の妻はいらないと言っても、エルドの妻になることを望む女が現れたら、エルド自身にもベルティスにもどうしようもないのだ。
それに何よりもベルティスの頭を悩ませることは、エルドが気の多い性格であるということだ。
最終的にはいつもベルティスの元に戻ってくるのだが、ふと気付くと、他の誰かと姿を消していることがある。
エルドがベルティス以外の妻はいらないなどと言う可能性は零に等しいように思う。
堅い靴底がアルミ製の簡易階段を上がってくる音が響いて、ベルティスは気のない視線を数メートル先へと送った。
ガラスの床に半畳ほどの入り口があり、階段が取り付けられている。
階段を下りると、高等学校の廊下の端に繋がっており、廊下を少し歩くと教室にたどり着く。
今の時間、授業中だが、教室はガランと静まりかえっているはずだ。
体育という科目だが、格闘技の授業の時間なのだ。
力の強い者が男になる。力の強さが生殖能力に比例しているか否かは定かではないが、そうだと思われているため、強い者が男になる。
毎年ある時期、18歳以上の者が参加するレースがある。
別名を喧嘩レースというのだが、これの上位数名が男になれるというレースだ。
体育の授業は、この喧嘩レースに向けた喧嘩の練習と言ってもいい内容なのである。
男になる予定のないベルティスには関係のない授業だ。
いつもなら武道場の上に設けられた観覧席で見学しているのだが、今はそんな気分じゃない。
レースが行われる日が近付いているせいだ。
きっとエルドはそのレースで勝ち進んで男になるのだろう。
そうしたら、自分はどうなってしまうのだろう?
――気が滅入る。
カツン。カツン。カツン。
甲高い音を響かせながら階段を上がってきた人物は、床に座り込むベルティスの姿を見つけて、一瞬頬を緩め、すぐに眉を顰めた。
「珍しいな、お前が授業をサボるなんて」
「出ても仕方がない授業だったから。どうせ見学だよ? ――エルドこそ体育なのにサボるなんて珍しいね」
「だって、お前いないし」
エルドはやや乱暴な口調でそう言うと、ベルティスと並ぶように腰を下ろした。
「ケツ、つめてぇー」
エルドも膝丈スカートのようなものを履いていたが、更にその下に長ズボンを履いているので、ベルティスよりは体温を奪われないはずだ。
ベルティスの躰はすっかり冷え切っている。
そうと気付いたエルドはベルティスの腕を掴んで顔を顰める。
「何やってんだよ」
腕を引かれ、エルドの膝の上に座らされて初めて足の感覚が鈍っていることにベルティスは気が付いた。
エルドの大きな手が脹ら脛は温かくさする。次に背中を撫でられ、髪を梳かれた。
こんな風に包み込まれるように抱きしめられると、同い年なのに同い年とは思えない体格の差を思い知る。
エルドがベルティスを女のように扱えば扱うほど、ベルティスは女になっていくのだ。
ホルモン剤なんて貰わなくても女になれてしまうかもしれない。
エルドに初めて抱かれたのは十三歳の時だ。それ以来、身長が伸びなくなってしまった。
声が低くならないのも、手足や腰が細くなってしまったのも、すべてエルドのせいだ。
男になることを諦めた他の友人たちだって、ベルティスよりはずっと背が高く、声が低い。少年っぽさが依然として残っているのに。
ベルティスはどう見ても少女にしか見えない。これは、大抵の者は男になることを目指して成長していく中でとても珍しいことだった。
そして、それさえもベルティスの癇に障った。
――何もかもエルドのせいだ。
エルドの端正な顔を、きっ、と睨み付ける。
だが、エルドは笑った。ベルティスの金髪を何度も梳き、時々指に巻き付け、唇に当てながら言うのだ。
「切るなよ」
横たわった時に髪が躰の下敷きになってしまうのが嫌だった。
だから一度、腰下まであった髪をばっさり切ってしまったことがある。
その時のことを思い出して度々エルドは言うのだ。髪を切るな、と。
ベルティスは女になるのだから髪は長い方がいい、というのがエルドの主張だ。
勝手な言い分だが、エルドの好みがそれなら仕方がないと思って従っている。長い髪は邪魔で邪魔で仕方がないけれど。
エルドの吐息が髪に触れる。
「早く女になったお前が見たい。――綺麗なんだろうな」
「……」
「なあ。レースに優勝したら、その場で男性用ホルモン剤と女性用ホルモン剤の両方を貰えるって知ってたか? 男性用は当然自分で飲むわけだけど、女性用は求婚したい相手に手渡すんだってさ」
レース終了後速攻で求婚できるのだと、エルドは楽しそうに言う。
通常だったら、まずは自分が男になって、相手も女になってから、求婚するしないの段階になる。
女性ホルモンの配給は、レースが終わり、男性ホルモンの配給がすべて完了した後、女になる決意ができた者から順に受け取りに行くという形なので、それなりに日数がかかるのだ。
エルドがベルティスの髪を軽く引っ張って弄んでいる。
「俺、ぜってぇ優勝するし」
やはりエルドは疑わないのだ。ベルティスが女になる、と。
女になってエルドの妻になることを信じて疑わない。ベルティスは小さく息を吐き出した。
「ねえ、エルド。もしも、もしもさ、俺がそれ、受け取らないって言ったら?」
「は?」
「だから、女性ホルモン。エルドからは受け取らないって言ったら、お前、どうする?」
「どうするって……」
呆気に取られている。そんな表情だ。
――ほら、やっぱり。エルドは考えもしなかったんだ。
ベルティスはお返しとばかりに、エルドの青みかかった黒髪を引っ張った。
エルドはベルティスには切るなと喧しく言うくせに、自分はいつも短く切っている。
引っ張り甲斐がない。面白くないので、ドンとエルドの胸板を叩いてやった。
「今更、男になりたいなんて言わない。女になるしかないと思う。けど、エルドの女になるとは限らないからな」
「おいっ。それ、どういう意味だよ!」
吊り上がったエルドの眉を見て、ベルティスは罵声を浴びる前にエルドの口を両手で塞いだ。
ベルティスには優しいエルドだが、根は短気なのだ。そして、怒ると非常に怖い。
真正面から彼の怒りと向き合って竦まない者はないだろう。
ベルティスだって怒っているエルドは怖い。
怒らせたくない。第一、今、怒っているのはベルティスの方なのだ。
「ねえ、エルド、知ってる? お前さ、今まで一度も俺のこと好きだって言ったことないんだよ? お前、本当に俺のこと好きなわけ? ――言わなくても分かるだろうっていう態度、腹が立つんだよ。お前の女になるのが当然っていう周囲の目、苛々する。お前だって当然って顔しているだろう? 嫌なんだ、そういうの」
次の子どもを身籠もるために、大方の女は育児を己の手でしない。
赤ん坊は二畳ほどの育児室に育児ロボットと共に入れられて、6歳まで育てられる。
7歳になると初等学校に入学するため育児室から出され、実母の手によって育てられた子どもたちと共に学校寮で暮らすようになる。
エルドもベルティスも育児室で、育児ロボットによって育てられた。
育児室は隣合う部屋の境はガラス壁で出来ており、隣室であったエルドとベルティスはその部屋を出るその時までお互いにお互いを見つめて暮らしてきたのである。
触れ合えない。だけど、お互いのすべてを知っている。
ガラス越しに言葉を交わすこともあった。
ベルティスには逆隣りがあったが、端部屋であったエルドにはベルティスしかいなかった。
エルドのベルティスへの想いは、刷り込みなのかもしれない。
雛鳥が孵化して初めて見たものを親だと思うもの。
エルドが見た初めての人間がベルティスだった。ただそれだけの理由で、エルドはベルティスに執着しているのではないだろうか。
――執着。そうだ、執着だ。
愛とか恋とか、そんな甘いものがこれまでに自分たちにはなかったように思う。
好きだって囁く前にエルドはベルティスを抱き寄せていたし、好きだって聞く前にベルティスはエルドに身を委ねていた。
――好きだって言われたことがない。
当然のことのように自分の傍らにいるエルドが憎たらしくて堪らない。
胸が痛い。
なんでエルドはこんなにも自分を苦しめるのか。
たった一言。好きって言ってくれたら、それだけでいいのに。
エルドが他の女をどれだけ抱こうと、その度に好きって言ってくれたら、どんな辛くても堪えられるのに。
ちゅう、とベルティスの手のひらが鳴る。
エルドの口を塞いでいた手のひらにキスを受けたのだと気付いて、ベルティスは慌てて両手を引っ込めた。
エルドが笑う。やはり、どこか楽しげだ。
「教室に戻ろう。そろそろ体育の授業が終わるころだろ」
「……」
「それとも、次の授業もサボるか?」
無言で首を横に振った。すると、エルドは軽々とベルティスを両腕に抱き上げ、立ち上がった。
階段の方へと歩き始めてしまったエルドに、ベルティスの瞳は陰った。
結局、エルドは言ってくれなかった。
絶望に似た感情をどこに向けて良いか分からず、ベルティスはガラスの外側の冷たい世界を見やった。
暗闇に散った光の欠片。
虚ろに瞬く星々は次第に滲んで見えなくなってしまった。
|