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第四十六話 消えない痕跡
すっかり夜が明けてしまった。
 闇にのまれた心も、の光で少し心和らぐ気がするのは気のせいか。

 あんなに怒りに支配された俺の心は一晩たって、ようやく落ち着きを見せ初めていた。
 湖面を覗き込むとそこに映る自分の顔が醜い。
 鱗に変わってしまった顔は、昨夜と比べれば左半面だけに納まってきていたが、それでもまだまだ時間がたたねば引いてはくれないだろう。
 それに加え、これでも少しはましになっているのだと分かるが、変わってしまった金の瞳は自分はその気の微塵も思っていないのに勝手にギラギラと殺気立った光を見せていて、この姿のままでは帰ることもできないと己を落胆させた。

 その醜い姿をかき消すように勢いよく両手を水の中に浸ける。バシャリと音をたてて水しぶきが舞った。そのまま両手で水を掬い上げ、顔を洗う。
 これからどうするか考えなくては。
 夜が明けたばかりでまだ水温のあがっていない湖水で意識がはっきりとするのを感じながらあかつきは思った。

 ここは中都国と天龍国のちょうど境目。どちらにも属さない静かな土地だ。人も龍もあまり通ることのないので、深く森林が覆い茂りとても静かな場所だった。ただ、鬱蒼うっそうと森が広がっているだけではなくて、ここは巫女が輿入れをするときの通り道でもあるから、一応は道はあるのだ。ただあまり使われないだけ。国と国とが互いに干渉することは限りなく零に近いから。

 静かに朝を迎える森の中を一度見渡してから、近くに獣の気配が無いのを確認してから曉は腰をあげ静かに湖面から離れた。自分ひとりがここにいるわけではないのだ。曉はまっすぐに一本の太い木の下までくると、そこに力なく寄りかかる少女の姿を確認する。今だ彼女の目はつぶられたまま。だが、時折もらす嗚咽に、目を覚ましたのかと目を見張るがまだ彼女は夢の中だった。そんなことをこの一晩で何度か繰り返した。
 悪夢を見ているのか、たまに声を漏らして涙を流す。それに声をかけてみるが、聞こえていないのか苦しそうに呻くだけの彼女を自分はただ見ているだけ。それを何度も。無理矢理起そうともしたが、できなかった。まだ元に戻っていないこの醜い顔を見られたくなかったから。

 はやく彼女の身体が朝の訪れに気がついて目を覚ましてくれないだろうか。ただただそれだけを祈る。

 曉はその場にかがみこみ、彼女を自分のほうに引き寄せた。
 硬い大木に身を預けたままでは痛いだろう。ならば自分の腕の中にいたほうがまだマシだろうと考えての行動だった。そして代わりに自分が大木を背にしてその場に座りこんだ。

『…………』 

 誰もいない。獣もいない。小鳥のさえずりだけが聞こえてくる静寂さに、まるで世界が二人きりになったような感覚に陥る。自分も腕の中の彼女もボロボロだった。いつもより少し着飾った服装はたった一日でここまで汚したかと笑ってしまうほど土埃つちぼこりやら血やら涙やらで汚れていた。血はあの男のものだ。いつもあの皇子の傍についていた榊という名の男の。
 あの場を去る瞬間、殺す勢いであの男に深手を負わせたのを覚えている。どうしようもなく憎くて、目についたあの男の背を裂いた。龍と違ってあっけないほど人肉はよく裂けた。あの時、人間の弱さを改めて知ったと同時に死んでしまえと内の中の闇が囁いた恐ろしい瞬間でもあった。

 ――…あの男はどうしているか。
 死んだか、それともかろうじて生きているか。

 最後に見たあの男は血溜りのなかで倒れて死んでもおかしくない量の血を流していた。

 ………………

『…………』

 どちらにせよ、あの男を痛めつけて大切な人間を失いそうになる焦燥感、消失感は充分にあの皇子も味わったことだろう。同じ思いをすればいい。鈴音だけは苦しめてはならないのだから。自分とあの皇子と沙羅かのじょの間に起こった愛憎の渦の中に、鈴音だけは巻き込んではならないのだから。そこに無理矢理巻き込もうとし、いなくなればいいと鈴音の存在を否定したあの皇子はそれ相応の報いを受けなければならない。俺を受け入れてくれた唯一の存在を傷つける奴だけは絶対に許さない。

 ……ああ、駄目だな。
 怒りが。少し思い出しただけでまた身体が熱くなってくる。

 抑えなくては。鈴音がいるのに。

 視線を落として腕の中の彼女を見つめる。今は穏やかにねむっている。その安らかな姿に心が和らいで
黒く艶のあるその髪を撫でつけた。
 いまのこの瞬間が一番幸せな時なのではないかと思ってしまうほど静かで心地よい。
 このまま、このまま静かに二人で過ごせたら………。

 髪を撫でていた手を、頬へ、頬から顎へとその素肌を楽しむかのように滑らせていく。滑らかな肌を丹念に愛撫していき、やがてその唇に口付けようと顔を上へ向かせようとして、曉はその手を止めた。

『…………』

 鈴音の少し乱れた襟元えりもとから覗くのは、彼女の華奢な鎖骨と白い肌。その真っ白な肌には似合わない小さな鬱血うっけつした痕跡が残されていた。
 それが何かはすぐに分かる。自分じゃない。つけたのはあの皇子だ。
 涙を流して嫌がる彼女の素肌を無理矢理暴いてこれをつけた忌々しい光景が容易に想像できた。

 『沙羅』と違う女の名前を呼ばれながらこれを付けられた鈴音。
 どんなに苦しい思いをしたことだろう。
 どんなに傷ついたことだろう。

『守ってやれなくて…遅くなって…ごめん。鈴音』

 己の非力さが悔やまれる。だが、過ぎたことは何度後悔しても塗りかえることはできない。過去は誰にも変えられないのだ。変えることができるのは……

 ――今――

 現在いまと未来をどう生きていくかということだけ。

 曉は鈴音の身体を強く抱き寄せる。
 そして、吸い寄せられるように鬱血したその場所に口付けた。弥太の思いを塗り替えるように、その上から強く吸い付く。
 自分の唇で何度も何度も―――……。

『…すずね…』

 甘く切なく今だ目を瞑る彼女の胸元に唇を這わせながら、何度もその名を呼び続けた。

『鈴音……、すずね…』

 曉のかすれた声が次々とつむぎだされては深い森の中に掻き消えていく。
 そして彼の口付けが幾度いくどとなく繰り返され、いつしか彼の口付けは情欲をともなうそれへと変化していった。
 曉は弥太と沙羅の心に触れて苦しみ、疲労している鈴音にこんなことしては駄目だと叱責しっせきするが、止まらない。
 それは、大切な存在に触れられてしまった男の強い嫉妬心と独占欲から。
 結局気の済むまでひたすら口づけてしまい、自分の行為に反省しつつも少しは欲が満たされていくのを、あかつきは感じた。
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