第八十八話 疑い
「あら?そう言えば、まだ来てないんですか? 桐原課長は」
向かいの村田さんに尋ねた。
村田さんはテーブル越しに私に顔を近づけて、囁くように言った。
「デートです!」
「えっ!」
驚く私に、彼女は丸顔の眉根を寄せて続けた。
「びっくりでしょう? ここへ集まる前に、エスニック料理食べに皆で繰り出したんですよ。そしたらね、突然携帯がぶるぶるって感じ。取った途端に真っ赤になって……あの桐原課長がですよ! タカナシさ〜んとか言ちゃって、さっさと会いに行っちゃったんです。信じられます?」
「た、高梨!」
瞬間、私は息が止まってしまいそうだった。村田さんは、コクリと頷いて、頬にえくぼを見せた。
ほんのり赤い頬が、二十五才の派遣社員の彼女をとても幼くみせる。山口さんが横に座っていたが、そんな村田さんを頬笑んで見ていた。
「しかし、あの『歩君』しか言わなかった桐原さんがねえ……。で、タカナシって誰?」
横で訊いていた林主任が、村田さんに尋ねた。
「ああ、何でもワールドの社員だって、こっちに来ている海外事業部のアジア部門のチーフだって聞いたけど」
私は、高梨の名前が出て、陰鬱な気持ちになってきた。元カレというのがばれてないかハラハラした。でも桐原さんは本気であんな奴と付き合うつもりなんだろうか……。
「うふっ!でもね、大矢主任ったら、桐原さんが行った後、めちゃくちゃ機嫌悪くなっちゃって!どいつもこいつもってすごい仏頂面! 案外あやしいですよ。何せ『歩君』ですもの」
どいつとこいつ……一つは私だ。でも、まだ、彼女に未練あるのかしら。
「ホントあやしいわね!」
と、ムッとして私が言うと、林主任がぶっと吹き出した。
何となく、4人で大矢主任を見た。カレンがキャーキャー笑っていた。大矢主任は横で笑いながら、水割を飲んでる……。もう、どうなっても知りませんから!!
「長いの? 大矢さんと付き合って」
グラスを傾けながら、林主任が私に顔を向けて尋ねた。
「いえ……。いいじゃないですか、私の事は。林主任の事を話してください」
「僕の事? 少しくらいは興味ある?」
「すご――く、有ります」
「ちぇ!わざとらしい。えーっと、林 有也。O大工学部建築学科卒、31歳独身。一級建築士、インテリアコーディネィター。現在、一越デパートデザイン室勤務。シンガポール出張中。大阪市出身」
少し投げやりな彼の経歴を訊きながら、それでも歩が気になってつい目がゆく。
「何だ、ちっとも訊いてない!」
と、主任は少し拗ねた顔をして、
「おーい! 青野さん! こっちおいでよ。一緒に飲もう」
と、大矢主任の隣りで飲んでた秘書課の青野さんに声をかけ、手招きをした。
それまで現地スタッフと話し込んでいた彼女は、何だかパッと明るい顔になって林主任に手を振った。そして、それまで話していたスタッフに断って、こっちに飛んできた。
「ほら、大矢さんの隣り座っておいで」
「林主任!」
「秘密にしといてやるよ」
と、目配せして、笑って言った。
青野さんと交代で歩の隣りに座った。
チラッと私を見て、手に持ったグラスを傾けようとした。
「大矢主任、グラス貸してください。作りますから。何杯目ですか?」
「2杯目」
歩は、素直にグラスを渡して、またカレンの方に体を向けた。
「ふう!」
携帯では優しい言い方だったのに、やっぱり根に持ってるのは丸わかり。でも、三原のことでは強いことも言えない。私が、悪いんだもの……。カレンと楽しそうに話す声が結構、辛い。
氷を足して、ミネラルウォーターをグラスに注いだ。そして、そっと歩の前に差し出す。
「ミスモリノ。シド・サリダです。ヨロシク!」
隣りに座っているマレーシア出身のスタッフが握手の手を差し出してきた。
「コンバンワ! ジョーダン・ヨハンです。ジョーでOKだよ」
「ヨロシク! ミチでいいですよ。シド! ジョー、今日は飲みましょうね」
お互いのグラスを掲げて乾杯した。シドは東南アジア系の顔に黒い澄んだ目が印象的で、西洋人のジョーは、もう結婚してシンガポール在住の元商社マンという事で、40歳位だろうか。
三人で乾杯していると、隣りの大矢主任が、
「ぶっ!」
と、グラスの酒を吹き出した。
「どうしたの? 大矢」
「いや、何でもない……」
当然でしょ! 彼のグラスは、正真正銘の「水」ONLYです!
「どう?仕事覚えられました?」
日本語で、二人のスタッフに尋ねた。シドが丁寧な日本語で答えてきた。
「まだまだだめですね。デパートメントストアは、はじめてはたらきます。Know−Howわからないことあります」
「日本語、上手ねえ。シド」
「イエス、日本でまなびました」
片言のような日本語と英語で結構話は盛り上がってきた。
でも……、背中がとても寒い気がする。隣り通しなのに、顔も合わせない。そんな事って今まであっただろうか?
私は今更ながらに、三原の事で歩を酷く傷つけていることを感じた。昨日までの彼からこんな態度を取るなんて考えられない。
ふっと目を落すと、彼の膝に握り締められた手が置かれていた。
どうしても、その手に触れたくなった。今までずっと私のためにあった歩の右手……。そっと手を延ばす……。拳の上から私の手で覆う……。歩の手がぴくっと動いて、暫くそのまま動かなかった。
「ねえ!ミスモリノ! 想いません?」
と、歩の横から私を見るカレンの綺麗な顔が覗いた。
そして、それと同時に膝の手は、私の手を取り残し、テーブルに上げられた。
歩に拒否された……。間違いなく、故意に……。
「何かしら?」
気を取り直して、ワザと明るくカレンに答えた。
「大矢主任がね、ずっとここで頑張ってくれれば良いと想いません?」
「え? ここにずっと?」
華やかなカレンの笑顔が歩にむけられる。
「そういう訳にも行かないよ。でも、オープン後も暫くはこっちで仕事するつもりだけどね」
と、歩はカレンに笑顔を返して言った。
傍にいながら、こんなに淋しい……。
「ゴメンなさい」
シドに言って、席を立った。
大人げ無いと思ったが、歩の傍が辛くて座ってられなかった。
立ち上がった私の後ろで、歩が大きくため息を吐いてる。お互いに、何も切り出せないまますれ違ってゆく。
私は、自分の裏切りが、もしかしたら歩に知られているのではと考えた。
いいえ……そんな事あるはず無い。三原は私を困らせたりは絶対にしない……。
やっぱり……、私の気持ちを疑ってるんだ。
そう思いながら、カレンと楽しそうに笑う彼を見ていると、歩の心がもしかしたら、本当にカレンに傾いているのかも知れない……。自分の中にも彼に対する疑いの気持ちが湧いてきているのを感じた。
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