第八十二話 朝のカフェで
歩が目を伏せて、一つ息を吐いた。
「俺に言えない訳があるのか? 涙を流すようなこと……。普通じゃないだろう」
彼は眉根を寄せて、不快感を顔に表している。
解っている! 私にもこの気持ちが解らない。私がおかしいのは解っている!
「懐かしかっただけよ……。突然、連絡くれて。三原はいつも私が悲しいとき傍にいて優しくしてくれた人だもの。私には掛け替えの無い友人だもの。だから……」
「だから? だから泣くのか? 苦しめていたのが俺で、支えになったのが三原ってことか……。俺がこうして傍にいても、三原に会いたいんだ」
「そんな言い方しないで! 遠くに行って連絡もくれない貴方を待っている事が、どんなに辛かったか解らないでしょう?仕事仕事って、私と距離を置いていったのは貴方じゃない! 私が泣いてようが、淋しがっていようが関係なかったんでしょう?」
「未知……」
「私がもしここに来なかったら、貴方とは終わってたわ! 歩が一番大事なのは一越じゃない!私なんか傍にいなかったらいないで、貴方は平気なのよ! でも、三原は違うもの! 私が一番大事って思ってくれている!」
「そんな風に思っていたのか……」
重い沈黙が流れてゆく。
私は歩の悲しそうな落胆した表情に、口をついて出た自分の感情的な言葉の全てに青ざめた。
彼は、静かに化粧室の扉を閉めた。
狭い化粧室の中で、震えてくる体を抱き締めた。言ってはいけないことを並べ立てて、歩を責めて何になるの! 今はこんなに幸せじゃないか!
「歩! ごめんなさい!」
化粧室から飛び出して、彼に叫んだ。
歩は、着替えをはじめていた。
「ごめんなさい! 私、あんな言い方して……。歩の事は解ってるのに……」
歩は私に背を向けたまま、シャツの袖を通して静かに言った。
「いいさ。悪いのは俺だ。確かに仕事仕事って、未知に辛い思いをさせてきたし……。でも、俺も自分の体が二つあればって、思っていたよ。日本に帰ってお前の傍にいられるからだが欲しいと思ってたよ。だから、今は本当に嬉しい」
「歩……。ごめんなさい。私も貴方しか思ってないよ! 信じてね」
彼が私を振り返って、小さくため息を突いた。
「で、三原は来るんだろう? ここまで」
「え、うん……」
「良かったじゃないか。久しぶりに優しくしてもらえるじゃないか」
「歩!」
彼は、顔をしかめる私の前で、スーツの上着を羽織った。
「悪いけど、先にでるよ。宿舎に帰って着替えてくるから」
私が言葉を失くしたまま立ち尽くす傍を、すり抜けるようにして、彼は部屋を出て行った。
扉の閉まる音で、身が切られるような痛みが私の全身を襲う。さっきまで、燃えるように興奮して火照っていた体は、血の気が失せたように冷たくなっていた。
熱帯の太陽はもう息苦しいほどの温度で 朝の街を照り付けている。
既に、通りの喧騒は始まっていた。私は、次々と巡ってくる後悔の想いに暗い気持ちで、その街の中をふらふらと事務所に向かって歩いた。すれ違って通り過ぎる様々な言葉が、ただの雑音のように体を流れてゆく。私は、本当にオオバカだ!!
事務所の入ったビルの前まで来ると、偶然桐原さんが入ってゆく所だった。
「あ、おはようございます。あの……」
「おはよう! ふーん、一人?」
彼女は、唇をキュッとしめて、意味ありげに私を覗き込んだ。
「はい……。すみません。昨夜は失礼なこと……。なんて言ってお詫びしたら良いか」
「ふふ。驚いたわ。歩君には! まあ、薄々はそうじゃないかって思っていたけど」
桐原さんは、ふっと笑みを浮かべて私の肩を掴んだ。
「え?知ってらしたんですか?」
「だって、彼、ストレートな性格だから、すぐ解るわよ。貴女を見る目が違ってたもの。惚れてるなって解るような悩ましい目をしてた」
「え……」
心に突然、涙を連れて後悔の想いが起こった。自分が許せない!
「も、森野さん? どうしたの? 何かあったの!」
桐原さんは、ぽろぽろと零れる涙に驚いて声を上げた。私は、両手で顔を覆って嗚咽を洩らしている。
「喧嘩でもしたの?仕方ないわねえ」
彼女は、ビルに入る人から私をかばうように肩を抱いてくれた。
「あ! ちょうど良かった! 山口君!」
「おはようさんです。え? どうしたんですか、森野さん……」
「悪いけど課長に、森野さん気分悪いから少し遅れるって言っといて。私が一緒だから、何か合ったら携帯に連絡頂戴」
桐原さんは、そう言ってビルの玄関から離れた。
近くのホテルのカフェは、芳しいコーヒーの香りが立ち込めている。
桐原さんは綺麗な足をゆったりと組んで、カップを口に運びながら、椅子に深く背をつけ座っている。
私は、まだ子供っぽく涙を拭っていたが、さっきよりは落ち着いてきた。
「少し落ち着いてきた?」
彼女が優しく言った。
「すみません。大人気なかったですね。大矢主任をおこらせてしまったものですから……。私が悪いんです。」
私を見つめながら、桐原さんはふうとため息を吐いた。
「そうね。貴女が泣くくらいだから、歩君、余程怒ったのね。女にはやさしいのに、彼……。良かったら話してみなさい。気持ちが軽くなるわよ」
桐原さんから、こんな言葉を聞くとは思わなかった。歩の事を好きな筈なのに、私を慰めるような言い方。少し躊躇って、顔を上げた。
「いいんですか? 大矢主任と私の事……」
「ふふ。私は彼の保護者じゃないわよ! 歩君とは、彼がまだ高校生の時から知っているから、姉のような気持ちはあるわよ。でも、十歳も離れているし、恋愛対象にはならないわ」
嘘―――だと、思った。桐原さんは、私がキスをみたのを知らないから……。でも、大人の彼女には心にきちんと堅い箍が嵌っている感じだった。それは、十歳年上っていう、どうしようもない事実という箍……。その気持ちは、私には痛いほど解る。
「話して御覧なさい。それだけでも気持ちは楽になるわよ」
彼女は、本気で私を心配してくれている。そして、知りたがっていた。
「はい……私が悪いんです。大矢主任を傷つけてしまって……」
カチャカチャと、ウエイターが私達のテーブルの傍をリズムよくコーヒーを運んでゆく。BGMのないカフェは、時が余計にゆっくりと流れている気がする。
私は、一つ息を整えて、三原の事を彼女に相談してみる決心をした。
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