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契約社員物語
作:関なみ



第七十七話 過去 2


 雨は非情なものだなと、あの日、髪をつたう雫に涙を一緒に流しながら、目を細めて見上げた暗い空。
 私は忘れた訳ではない。ただ、心が悲しすぎるから封印してくれたんだ。

 大学を出て、内定を貰ったワールド服飾(株)で働くようになり、私は元町より一つ西の駅で一人暮らしを始めた。
 ワールドは神戸でも指折りの企業で、全国的にも名の通った優良の上場企業。私もここで働いていることに誇りを感じていた。ましてや、配属が海外事業部。この部署には一流の国際人間が、国外の企業を相手に仕事をこなしている。英語のみならず、中国語、マレイ、ハングル、フランス、イタリア、世界の言葉が飛び交う日常を身近に感じて、緊張と興奮の日々を送っていた。

 高梨 陵と親しくなったのは必然の結果だった。
 同僚で、何をやってもそつ無くこなし、甘い容姿が社内でも人気になっていた彼と同じアジアチームに入ったことから、私達はそうなることが当然のように付き合いだした。
 今にして思えば、男達の中でがむしゃらに働いていた私が、彼に愛されたなんて可笑しなことだ。高梨にとって、自分に夢中の仕事の上で利用できる女くらいの軽い考えでいたのだろう。お互い仕事の上では、一番身近な良き同僚だった。

 でも私は、はじめて身も心も溶かされるような恋を経験した。いつも一歩引いてしまって、飛び込めない臆病な自分が、男と女の本当の恋を知った喜びは大きかった。
 何を言われても、何をされても、何が起ころうとも、彼のために時は過ぎる。
 
 仕事中も、ただ、肩が触れ合うだけで、彼が私だけに視線を向けてくれる一瞬だけで満足感に浸れた。
 別れたくなくって離れたくなくって、駅のホームから、自宅へ帰る彼をいつも悲しい顔で見送って、
「もう、しょうがないなあ」
 と、私の姿に負けて、発車寸前の電車から飛び降りる高梨にうれし涙を流して……。
 神戸の街を、二人で語り合いながら、ぐるぐるただ歩いたり……。
 高梨がどうあれ、溺れてゆく身は止められない……そんな熱い想いは数限りなく、今でも心を擽る。
 
 いつしか一緒に暮らすようになって、オフィス内でも私達の事は周知の事となった。私は、永遠に彼と一緒にいられると思っていた。
 
 
 でも、一年後、新入社員として入社した彼女が、高梨に恋をした。
 私と正反対の、しとやかで女らしい可愛い人……。彼女に言い寄る男はいたけど、高梨一筋だったらしい。
 
 暫くして、私の元へ帰らなくなった彼をなじって問い詰めて、彼女との事を知った。
 でも、三日会社を休んで泣き通した私が、やっと諦めようと決心した日……高梨が突然やって来た。

「未知、やり直そう。お前を失いたくない……。彼女とは別れるから」

 本当にこんな在り来たりなセリフを信じてしまったなんて、今思えばドラマでももっと気の利いたことを言うだろうに……。それでも私は嬉しくって嬉しくって……。彼の胸で泣いた……。
 
 時々、顔を見せる高梨に彼女の存在を悟りながら、それでも別れは自分から切り出せない。
 体も心も苦しんで悲しんでボロボロに崩れてゆきそうなのに、彼の姿を見ると、また同じ事を繰り返す。

「これじゃあ、まるで肩身の狭い愛人だ!」
 そう思いながらも、同じ仕事をし同じ空気の中にいる職場がある限り、いつか元の二人に戻れるかもと淡い期待。翻弄される馬鹿な自分を切り離せなかった。

 
 
 そして、あの雨の日、私は彼女から呼び出された。
 
 神戸の空は厚い雲が今にも雨を落しそうだった。風に煽られた波が、フェリー乗り場の桟橋にぶつかり白いしぶきを上げていた。いつも穏やかな神戸港は珍しく荒れていた。
 
 長い髪を風に流して、一年後輩の彼女が顔を蒼白にして、怒りで震えながら言った。
「私、秋に高梨さんと結婚します! 森野さん、それを知ってて彼と会っているんですか?」

 結婚――――勝利宣言をするように、高らかに私を見下だすように伝えられた一言。

「彼は、貴女がかわいそうだって言ってます。同僚だから見捨てられないって。同情されてまで彼に纏わり付くつもりですか?」

 言葉は粉々に私を砕いて行く。
 「結婚」という言葉を先に告げて、私から完全に高梨を奪い取ったところなのに、まだこれ以上に私から何を奪うつもりなのか?

 一言も言い返せなかった。
「あんたが私の幸せを壊したんだ!」
 と、せめて言ってやりたかった。でも、結婚する二人にとって私はただの悪者。

 雨が、落ちてきた。夏を予感させる大粒の雨。

 車が私達の傍に近づいた。
 運転席に高梨の堅い表情が見えた。途端に彼女は走りよって、助手席に乗り込んだ。

 雨が乾いた道路の色を転々と変えて行った。そして土砂降りになった。
 彼は一度も私を見ようとしなかった。髪を濡らして、呆然と雨の中に立ち尽くす私の凍りついた時間は、はじめて捨てられたという悲しみを気付かせてくれた。

 私を残して去った車の消えた先を、雨に打たれてずっと見つめていた。
 体の芯まで雨が沁みこんで、私の全てを悲しみが溶かしてゆく。
 人目も憚らず号泣したのは、あの時だけだ。思いっきり思いっきり、雨に打たれて泣いた。
 悔しかった。寂しかった。惨めだった……。消えてしまいたかった、雨に溶かされて……。

 次の日、会社を辞め、二、三日内には引越し、携帯も替えた。
 あの雨の中で、高梨に置き去りにされた心の傷はあまりに深くて、ワールドにいたこと自体を忘れ去りたかった。哀れな自分を消し去りたかった。
 こうして私のワールドでの日々は終わりを告げた。


 
 まだ、激しい雨は続いていたが、窓の外は少し明るさが帰ってきた気がする。

「彼と付き合ってんのか?」
 高梨が、窓から空の様子を気にするように目線を上げ、訊いて来た。
「うん、そう。死ぬほど好きな人……」
「そりゃあすごい」
 と、はにかむように頬笑んで私を見た。
「私だけを見てくれる優しい人。けっして雨の中に女を置き去りになんてできない人……どんな状況でも、それが誰であっても」
 高梨は返事を返さなかった。

 雨が途端に上がったようだ。早い雲の流は、もう切れ間から光を放とうとしている。

「さっきのどしゃぶりが嘘のようだな」
「本当ね。不思議な現象……」

 瞬く間に、街はいつもの原色鮮やかな賑やかさに戻ってゆく。緑が一層濃さを増したように見えた。

「で、どうして別れたの? あんなに貴方に夢中だった人と」
 高梨は、少し躊躇っているようだったが、息を一つ吐いて話し始めた。
「彼女、妊娠してたんだ」
「え?」
 驚いた。思わず高梨の顔を見入った。

「俺がふらふらしてる時に打ち明けられて、結婚を決めたけど式を挙げる前に流産してね。結婚はしたものの何かしっくり行かなくなって……。翌年離婚したけど……。気の強い娘だったから、大変だった。お前と別れる時みたいにあっさりとはいかなかった!」
 あっさり? この人はそんなふうに思っていたんだ。私の気持ちなんか考えなかったんだ。
「あっさりだなんてよく言える。本当に貴方と別れて良かったよ! あのままじゃあ地獄見るとこだった」
「ははは……。あっさり別れたじゃないか俺達。お前、色気無くって男みたいなとこ在ったからなあ。でも……案外可愛い女だった。俺は彼女の妊娠が無かったら未知を選んでいたよ、きっと」
 今更と思いながら、少し心が軽くなる気がした。たとえでまかせでも、最後の言葉は私の中でずっと言ってほしかったのだろう。
 
「相変わらず、歯の浮くようなセリフを平気で言える性格だね。恐いくらい!」
彼は、また楽しそうに声を上げて笑った。
「ははは……。何せワールド一の遊び人ですから!」
「ワールドも大変だ。こんな悪癖のある社員を野放しにしておくなんて、危な過ぎる!」

 七年ぶりに、高梨に笑いかける自分が不思議だった。

「妊娠してたのか」
 ポツリと口を突いて出た。
「ああ、パパになりそこねた。でも、理由はどうあれ……」
「え?」
「未知を置き去りにしたのは事実だ。本当に悪かった。お前が突然辞めてから、マンションへ謝りに行ったけど、もう引っ越してたし、連絡も取れなかった」

「もう、七年も前のことだよ」
 心が妙に軽くて、同僚だった頃の二人に戻った気がした。雨の記憶もいつかは消えてしまいそうな予感がした。

「高梨さん。一つお願いがあるんだけど……」
「何? なんでもどうぞ」
「私のこと、未知って呼ばないで。大矢主任が嫌な顔をするし、もうそんな関係じゃあないし」
 高梨は、フッと満面の笑みを零して言った。
「いやだね! お断り!」
「へ?」
「未知は未知! 俺はここに居る間、お前と思いっきりお近づきになるつもりだから、彼氏に遠慮はしないよ! みっちゃん」
 と、唖然とする私の前でクスクスと笑った。

 もうすっかりスコールは上がって、強い陽射しが窓から差し込んできた。
 陽射しに手を翳す彼は、七年前よりも素敵な男に見えた。


早速「過去」を更新しましたが、生みの苦しみでした。回想って言うのは難しい。旨く伝わったでしょうか……。
次回は、未知と桐原女史のお話の予定。早くしないとオープンしちゃうので、結構焦ってます。






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