第七十一話 夜の沈黙 2
「泣いてくれるんだ。僕のために……」
三原の手が頬に置かれる。暖かい手。私の気持ちの中に平気で入り込んでくる。
「私、今日はおかしいのよ。普通じゃない。三原とこうして会えたことが死ぬほど嬉しい!」
何を言ってる?
「有り難う。ミッチを抱きしめてる自分が信じられない。夢でも嘘でも何でも良い。君に触れられたら、僕はこれで良いんだ」
彼の深いため息が私の心に吐かれる。三原の胸を濡らしている涙の訳を必死で探している私の理性が、段々と影を潜めて、何も考えられなくなった。
三原が決心したように厳しい顔付きで言った。
「今夜だけ、僕に時間を下さい」
月が海を照らしている。
夜空より少し闇色の薄い瀬戸の海は、島の黒い影を点々と抱いて、静かな夜の鏡のようだ。
車は、海沿いの道路を時間を止めたまま走っている。
私は運転する三原の左肩に頭を擡げて、車窓に広がるその夜の海を、言葉もなくを眺めていた。
どうしたいのか、どうされたいのか……そんなことさえ、考える事を既に放棄したこころは、ただ彼の傍にいたいとそのことだけ繰り返す。今夜だけは三原の傍にいたい。
「ミッチ……。何か君に言ったら、仕事を辞めることをせめてせめて、きっと嫌な思いをさせると思った」
と、三原が肩の私を気にしながら、低く抑揚の無い声で言った。
「僕の気持ちはミッチを苦しめることになる。それは解っているし、大矢さんに勝てないことも知ってる。でも、店に君がいる限りは、傍にいられる。そのことが唯一、ぼくが大矢さんから君を奪い取ってることになった。一緒にいる時間があれば良い……そう思っていただけなのに、もうそれも叶わない」
私は、静かに目を閉じた。
三原の気持ちは痛いほどよく解っている。私自信が、歩を愛しながら三原を離したくなかったんだ。それは歩の身代わりをさせたかったのか、心の奥底で本当は彼の方を愛していたのか、私には解らない。
ただ、希薄になる歩との関係と、一層深まる三原との関係がいつしか逆転していたのかも知れない。
だから、冷たくされた時、あれ程辛かったのか……。この二週間は、三原のことばかり考えていたし、十川さんに嫉妬していたし、いつもの自分じゃいられなかった。
ひどい女だ……。心の中は、三原でいっぱいだ……。
十五階のコウベベイホテルの窓に、海に浮かぶ様々な灯りが揺れている。
月明りでほんのりと、遠くを蠢く漁をする船の形が見える。
「ミッチ、海好きだからここを予約してた」
私の肩を抱き寄せる三原が、窓を眺めながら言った。
「おかしいと思うだろう? こんなところを最後の場所に選ぶなんて……。君がもし来てくれなければ、僕一人でこの風景を眺めて泣いてやろうと思ってた」
私は、何も話せなかった。貝のように口をずっと閉ざしている……。
「大丈夫……。僕の心には、あの嵐の夜にかっちりと堅く箍がはまっているから、ミッチをどうのしようなんて考えてないよ。ただ、一緒に最後の夜を過ごしたいだけだ。二人でいたいだけだ」
心が弾けとんだ。この人はなんでこんなに優しい! なんでこんなに素敵なんだ!
私はもう止められない! 彼の胸に飛び込んだ。
「ミッチ!」
「三原! 私を抱いて! 貴方が好き!」
箍が外れたのは私の方だった。もうどうしようもなく、彼へと心が流されてゆく!
「お願い! 何も言わないで! 今は三原しか要らない!」
三原が、狂おしそうに「ミッチ」と呼んでくれる声を、白いシーツの上で聞いた……。
上気して赤味の差した綺麗な彼の顔に、何度も顔を近づけ口づけした。
激しく剥がされてゆく服がベッドの下に落とされる度に悦びを感じる。三原が私を求めていると思うだけで、体の末端まで痺れるような興奮に襲われる!
「本当にいいのか?」
頬を持って、彼は私の顔をもう一度見つめた。コクリと頷く私に、ふっと笑みを洩らして、激しくキスを落としてくる。
いつもの優しさのままに、ゆっくりと時は流れて、触れ合う肌の汗ばんでゆくのを感じながら、私はすべてを解き放つ。
三原を感じて宙を漂う心は、もう彼の元から離れたがらないだろう。
こうなりたいと思った瞬間に、私は全てを捨てたんだ。……歩を捨てたんだ。
きっと遠距離恋愛の罠に嵌り込んだんだ。自分だけは大丈夫と高を括っていた。でも、繋げない手はもろ過ぎる。聞こえない言葉は心に響かない。抱きしめられない時間はせつな過ぎる。傍にいないのに絶対に愛を育てられない。
私は三原の腕の中で、歩を心から消し去ろうとしていることに気付いた。そして、それを受け入れているずるい私がいる。
夜の海の見える部屋で、三原は私のために狂おしい夜をくれた。本当に幸せだった……。
白んでゆく窓を眠れないまま見ていた。
瞳を動かすことさえもどかしい。ただ、ボウッと一点を眺めていた。
三原は、静かに寝息を立てていたが、目が覚めたようだった。
「ミッチ……」
背中に三原の胸を感じた。背後から回された腕に抱き取られ、耳元で名前を呼ばれた。
「……泣いてんの?」
彼は私を振り向かせた。
「泣いてるのか……」
暫く私を見つめていた。でも涙の訳は訊かなかった。ただ、強く抱きしめてくれた。
そして、そっと呟いた。
「ミッチ。有り難う。これで終わりにしよう……君を苦しめるつもりは無いんだ」
息を一つ吐いて、言葉を続けた。
「僕との事は夢だ。君は大矢さんの元へ帰れ……」
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