第六十六話 仕事がしたい
シンガポールは、今日も良く晴れている。相変わらず空は澄んで高い。
朝からマンダリンホテルで会議のため、朝食を済ませ、動き出した美しい街へ飛び出した。ホテルまでは近いので散歩がてら歩くつもりだ。
大きく枝を広げた街路樹の下を、オープン前の華やかなブテイックやショップのウインドウを眺めながら歩いてゆく。朝の光がすでに澄み切った空気を暖め始めている。まぎれもない熱帯の大きい太陽が放つストレートな光線は、街にきらきらと乱反射を起こしている。光が溢れ、緑が覆い、本当にこの国の美しさには感嘆する。
この国は、良く整備された道路と近代的な高層ビル群、ごみ一つ無い美しいショッピング街、そして北部の熱帯雨林の雄大な自然保護区と、淡路島くらいの大きさの島の中に近代国家が凝縮されているという感じだ。自由貿易を根幹として栄えた経済は暗雲を知らない。観光都市である前にNIES(新興工業経済地域)のエリート国家としてアジアのみならず、世界に注目されるアジア有数の近代国家であることは周知の事実だ。
ホテルに着き、そのまま予定の会議室へと向かう。まだ、会議まで二時間以上時間はある。
「あいつ、絶対もう来ている筈だ」
実は、昨日の未知の電話での態度がどうしても納得いかず、ここで捕まえようと早く出てきた。
彼女の事だ。きっともう準備に遣ってきている……。
会議用の広間の開閉ドアをそうっと開けてみた。
「やっぱり……」
正面の細長い机の上に、書類の束を丁寧に並べている未知。相変わらず生真面目な性格だ。
「おはよう……」
俺の声に未知が顔を上げた。
「きゃああああ!」
「!!」 待って、何?この悲鳴は!
未知はテーブルに隠れるようにしゃがみこんでしまった!
あっけに取られて立ち尽くす。何なんだ?一体!
「お、おはようございます……」
テーブルの下から、やっと未知が顔を出した。
俺は、ちょっとムカついて、ため息を吐いた。
「ふう! 何なんだ、そのリアクションは! 俺は殺人鬼か、それとも強姦魔か!」
未知が顎をテーブルの上に置いて、睨みつけてる俺に向かってボソッと言った。
「コイビト……」
「宜しい!」
カツカツと靴を鳴らして彼女の元へ歩み寄った。この再会を昨夜からどんなに心待ちにしていたか!
立ち上がって俺を待つ未知の白いスーツが眩しいくらい、彼女は綺麗だった。ライフリーの時は本当にナチュラルメイクで色気より元気印みたいな女だったのに、濃い目のメイクが顔立ちをはっきりさせて、知的で可憐に映る。昨日と同じように髪をアップにして、ほっそりした顔の輪郭が強調され、本当に別人になってしまった。
「待って!」
と、近づいた俺を未知は両手を突き出して制した。
「何? どうした?」
未知は、哀願するような目を向け、躊躇うように話し始めた。
「ごめんなさい。きっと反対されると思って、一越で働いている事言えなかったの。でも、ここへは貴方を追いかけて来たんじゃないの。偶然に採用されたのが一越だったのよ。でも、私にしたら、英語の資格も生かせるし、セクレタリーとして仕事が出来る。その魅力が勝ってしまって……。絶対に歩の邪魔はしない。それだけは、ここで誓います。私は、貴方の彼女じゃあなくって、森野未知という派遣社員として来たんだから!」
「口上は解ったから……」
未知の腕を掴んで、白いスーツの体を腕の中に仕舞いこんだ。細い体が俺の胸にすっぽり納まり、甘い香りが漂ってくる。何もかも忘れられるこのひとときがここで味わえるなんて……。
彼女の唇を求めて、俺の五感は一層敏感になる。
「駄目! 大矢主任、やめてください!」
「うん? なんで? 誰もいないじゃん」
未知は、体を捩って、俺の腕から離れた。
「私は仕事がしたいの! ここで貴方に触れてしまったら、また歩のことばかり考えて仕事なんて出来なくなる。もう、関係ない女だと思って!貴方はただの私の上司!そう思っているから」
未知は、唖然とする俺にきっぱりと断言した。
「本気なのか?」
「当然、本気です!」
「だだの上司?」
「そうです。大矢主任」
未知は口元をキュッと締めて、上目遣いのきつい目をして俺を見つめる。何やらムカムカと腹が立ってきた。
「お前ねえ、いつもどうしてそう俺をイラつかせるわけ? 突然、関係ないって言われて納得する男がどこの世界にいるよ!待ってるって言ったのはお前だろ? 俺をからかってんのか?もう愛してないってことか?」
俺の語気を荒げた言葉を、彼女は黙って聞いている。俺はますます不愉快になった。
「おはようございます」
その時ドアが開いて、派遣社員の二人が入ってきた。
「あら、大矢主任!早いですね」
と、二人が俺達に足早に近づいて来た。
「あ、ちょっと早すぎたね。えっと…村田さんと山田さん」
若い二人は、はしゃぐような仕草を見せて喜んでいる。
「そうだな、まだ一時間以上あるから、良かったらお茶に付き合ってくれない?ここは森野さんだけでも準備はできるから」
「え……?でも、森野さんに悪いですから……」
二人はまた準備を始めた未知を見た。
「あ、いいよ。大した準備ないから、行って来て。私は良いから……」
「そう?じゃあ、主任、ちょっとだけお付き合いします」
未知は俺を見ようともしないで、仕事を続けている。
ワザと目を合わせ様としない彼女に背を向けて、俺達は一階のティールームに降りた。
未知の気持ちは解らないでもない。
あいつはいつも何に於いても、一生懸命で手を抜くなんて出来ない性格だ。俺との事が知れたらと気にしているんだろうし、折角掴んだチャンスに邁進したいのだろう。
しかし、あんな態度を取られるとは思いもしなかった。淋しがっているのを知りながら、未知をぞんざいに扱った俺の罪だろうか……。
静かな朝のティルームで食器の当たる音を聞きながら、濃いコーヒーを口に運んだ。未知に拒まれたショックで気持ちは落ち込んだままで、付き合ってくれた二人とも話しは弾まなかった。
九時から、社員全員と現地採用のスタッフも加わり、会議が始まった。百名近い人数が席に着くと、流石に壮観だ。
河課長が、日本語で皆の労をまずねぎらい、そしてオープンまで緊張感をもって業務をこなす事を鼓舞した。
彼の挨拶を、五人の女の子達が現地スタッフに手分けをして通訳している。俺は始めて未知の仕事ぶりを見るが、にこやかに笑みを浮かべてサラリと通訳しているようだ。外国語学部卒というのは聞いたが、目の当たりにして意外な驚きだった。
俺達は、本当にお互いの事を知らない……。付き合い始めてから、いろんな事で会う時間が制限されたから仕方ないのだろうが、今更ながら、事あるたびにぶつかってしまうのは、信頼関係を築けなかったからかと思ってしまう。未知から何か相談されたこともないし……。ここへ来ることさえ知らされなかった……。
「では、大矢の方から今後のスケジュールについて説明をして貰う」
河課長が俺に目配せをした。俺は壇上にマイクを渡され上がった。
「おはようございます。手元にスケジュールの概要が配られていると思いますが、まず、工事関係の進行状況を簡単にお知らせしておきます」
壇上から全員を眺めた。そして、正面の後方でスタッフの後ろに立ち、俺の言葉を通訳している未知と目が合った。彼女は、さっきの様にスタッフの耳元で話さないで、すっくと立って俺を見つめている。
「十一月の中旬には、内装は完成し、翌週より商品の搬入を開始します。各セクションはその旨をメーカーサイド、テナント、協力店に必ず伝え搬入の予定に従うよう確認を取ること。現在、施工先が神戸本社の新木組に変更になっています。以前よりは融通も利きますし信頼も出来ますので、不都合が生じた場合は速やかに申し出ること。直ぐに対応できますので、中旬までにデザイン室に確認をお願いします。後程、林君の方から詳しく説明して貰いますが……」
未知の真っ直ぐな潤んだ目。ドキッとするほど熱い彼女の視線が俺に絡みつく……。俺を見つめたまま、言葉を繰り返している口元。『歩』と呼ばれている気がする。
どうして、信頼関係が築けないなんて、さっきは思ったんだろう……。何故気持ちを疑うような事を彼女にぶつけたんだろう。この今にも泣き出しそうな未知の瞳に映っているのは、間違いなく俺だけじゃないか!
離れていようが、時間が短かろうが、そんな事関係ない。彼女の想いの篭った視線を感じられる今の奇跡を、俺は本当に感謝する。
彼女が望むなら、今度は俺が見守ってやろう。未知が俺に心を打ち明けられないのは、一方的な俺の態度のせいだ。
俺は壇上から、精一杯の想いを微笑に乗せて未知に返した。
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