第四十四話 サプライズ
まだ夜の元町駅は、流石に金曜日の夜らしく、8時を回っても昇降客で込み合っている。
肩を抱かれたカップルやほろ酔いのスーツ姿の一団、賑やかなブランド尽くめのOL達と肩を擦れ合いながら、ホームから改札口へ出てきた。
ふうっと一つ息を吐いて、興奮している自分に冷静さを取り戻す。
そして、彼のマンションへ小走りに向かう。ゆったりと流れる帰路につく人の波を独り掻き分けて、急ぐこの時間まで楽しんでいる自分に微笑む。
すぐ近くに歩の存在を感じるだけで幸せになる。心は本当に、ヒールの音と同じように弾んでいた。
五分足らずで、彼のマンションの玄関に着く。
息を切らしオートロックを外して、エレベーターに乗り込んだ。そして、サプライズの立役者となる部屋の合鍵をバッグから取り出した。
「帰ってたら、もっと嬉しいけど」
ドキドキする胸を押さえて、鍵を差込み、静かにドアを開ける。
部屋の中は、まだ真っ暗で、人の気配などない。
私は急いで鍵を掛け直して、自分の靴を玄関脇のクロークへ仕舞い込んだ。
驚くだろうと思うと顔が綻ぶ。何か、大変ないたずらをしているようで、小悪魔みたいな気分になってにたにたと独り笑っている。部屋の暗闇など、気持ち悪いとも感じないで、手探りで寝室のドアのL字型のノブを掴んだ。
寝室に飛び込んで、ドアを数センチ残してそっと閉める。
リビングが見えるのを確認しながら、「今夜はどう料理してやろう」と歩の顔を思い浮かべた。
「Hなあいつのことだから、絶対私を見たら押し倒してくるだろうから、そこはまず拒否して…。夜の街の散歩をねだる!ずっと海まで腕を組んで歩くのも素敵!」
頭の中は、どんどんと期待が膨らんで、想像力はフル回転で彼の驚く姿から幸せな一瞬まで映像に換えてゆく。
そして、ほんの十五分後。玄関ドアの『カチッ』と鍵の外れる音がして、『ガチャッ』とドアの開く音、続いてパッと暗い部屋に明りが灯された。
「帰ってきた!」
私の心臓の鼓動は大きくなるが、まるで猫のように静かに息を潜める。
「どうぞ、送るから入って」
聞きたかった歩の声の後ろから、ヒールの音がした。
「今回は疲れたね」
「えっ?」思わず声を出しそうになった。
私の体はドアの隙間をのぞいたままで、凍りついた。
「大丈夫ですか?元気なかったけど。ビールでも飲みます?」
「うん、ありがとう。貰う」
歩はスーツケースをソファに投げ出し、キッチンの冷蔵庫を開けている。
目の前のソファに桐原さんの腰を下ろす姿が、私の目に飛び込んできた。
歩は彼女に缶ビールを手渡すと、爽やかなグレイ色のスーツの上着を脱いで、傍の椅子に掛けた。
そして、傍らに立って、ため息を吐く彼女を見下ろしている。
「本当に、自分が嫌になるわ。私、このままやっていけると思う?」
そう言って、桐原さんはビールを口に流し込んだ。
「何言ってんです!貴女がいないと進まない事だらけじゃないですか!」
「でも、新店の事をこんなにゴタゴタさせているのは、全て私の力不足が原因よ。責任を全う出来ないばかりか、歩君にも迷惑掛けて……。本当に現場に行く度に自信がなくなってゆく……」
「迷惑だなんて……。俺は貴女の力になれることが本当に嬉しいんですよ」
歩の言葉に桐原さんは、缶をおいて、両手で顔を覆った。肩が震えている…。
辛そうな嗚咽がリビングに流れている。
「桐原さん…」
歩が彼女の肩に手を置こうとした時、彼女は立ち上がり長い髪をサワッと揺らして、彼の胸に飛び込んだ。
その瞬間、鳥肌が立つようなショックが体中に降ってきて、私は息が止まった。
歩は驚いていた。でも彼の下がった両手がゆっくりと縋りつく彼女の背中を登ってくる。そして、確かに力を入れて抱きしめた。
「突き放して!お願い!」
私の直ぐ目の前の光景に心が叫んだ。が、同時にこの状況を冷静に傍観している別枠の心も存在している。
歩を信じているからだろうか…。
桐原さんはとても美しかった……。長い黒髪が歩の腕の中で乱れて、震えるか細い肩と締まった腰がたおやかに彼の体に包まれている。
彼女の背中に置かれた歩の手は、安らぎを与えるに充分な包容力で咽び泣く背中を受け止めている。
「歩君…。一越のために貴方を我慢している私を褒めて!」
桐原さんは、言葉の後、歩の首に腕を回して唇を合わせた。
歩は…、拒まなかった……。
ここに来たことを私は心から後悔した……。こんな事があるなんて、余程彼と私は恋する運命では無いのかも知れない。
今まで私のモノだった歩の体の全てが、今は彼女のためにある。
嫉妬で震える前に二人の姿が美しいと思った。おかしな感情だったが、私にはここで見る歩は自分を愛してくれた彼ではない気がして仕方なかった。
「桐原さん…。ダメですよ。自棄になっちゃあ…。貴女にはいつも俺がついてるじゃあないですか!頑張って」
優しさが溢れた言葉と微笑が彼女に送られた。
「さ、送ります。出ましょう」
暫くして、部屋の明りが消され、ドアの閉まる音がした。
私は寝室から出て、リビングに明りを点けた。
そして、二人が抱き合っていた場所を見つめた……。
やっと涙が溢れてきた。
嫉妬心が体を引き裂いた。そして、歩の裏切りに心が壊れそうなほど痛んだ。
でも、私の中にあっさりと引いてしまう変な理性が巣食っている。
それは、ここが私の知らない一越の歩の部屋で、私のいるべき場所じゃない感じがしてたから……。
桐原さんはきっと私の知らない彼をずっと支えてきたのだろう。それにあの美しさ……。
ここでは、私は絶対彼女に勝てない。
「一越のために貴方を我慢している」
桐原さんの激しい言葉が私を砕いた。
歩は言葉の通り、桐原さんを支えて行くだろうし、いつか彼女の心を受け取るかも知れない。
私はバッグからキーホルダーを取り出した。
この部屋の鍵を外して、リビングテーブルの上に置いた。
彼が私を必要だったのは、きっと一越から離れて違う自分と向き合っていたからだ。
今の彼にはきっと必要のない女なんだ。
部屋を飛び出した私は、まだ煌々と輝く夜の元町を宛てもなく歩いた。
どうしたらいいのか解らない。
ただ、私のサプライズが悲しい結果に終わった事は確かだった。 |