第三十三話 帰宅
朝の八時。
繁華街は、まだ眠っている。
路地を掃除する食べ物屋の従業員や、静けさを破り走り回る清掃車、それに急ぎ足でオフィスへ向かう通勤の人達とすれ違いながら、私は真っ直ぐに元町駅にやって来た。
次の三宮駅に比べたら、古くて小さいこの駅も、繁華街が目覚める頃には大勢の昇降客でごった返す。
でも、まだ眠ったままのこの街に人通りは少ない。ぼんやり歩くには丁度良い。
切符を買ってホームに上がる。
ここだけは、人いきれで苦しいほどに混んでいる。
滑り込んでくる快速電車は、きりきりとブレーキを掛けながら、私の目の前で止まった。
何も考えられなかった。ただ、人の波に押され開いたドアから中へ流された。
電車は、直ぐに扉を閉めて、いつもの慣習に従い走り始める。流れるアナウンスもこの車両に乗っている人も、窓に飛び去る風景も、毎日何も変わらないのだろう。そんないつもの日常の中に、場違いな私がいる。暗い表情をして……。
会えなかったことが、心を潰してしまったんじゃない。
そんなことは、今までの歩を思い出せば、耐えられるし諦めがつく。
それよりあの部屋は、私と彼だけの空間じゃなかった……。それが、辛くて悲しかった。
もちろん、桐原さんとは何も無いかも知れないし、くだらない邪推だと笑われるかも知れない。
それでも、彼のプライベートな場所に入ってこれる人に違いない……。
三十分後、快速は垂水駅に着き、私はホームへ降りた。
駅の出口に続くドームを歩くと、私の好きなヒールの音がよく響いた。
その音は、いつもの男勝りな自分に戻れと言っている様な気がした。男になんか振り回されるなと叫んでるような気がした。
歩を愛して、恋に戸惑う少女のように幼い自分を思う。些細な事で涙を流し、くだらない事に胸を熱くする。
「もう、大人の自分に戻らなくちゃあ。三十路女なんだから!」
恋の魔法から目覚める。私は大きく深呼吸した!
「どうですか?肩につく長さで軽いウエーブ掛けて、前髪も下ろして…。この方が似合ってますよ」
「うん。そうする」
駅前の喫茶店でコーヒーを飲んで、ぶらぶら海の見える遊歩道を歩いて、私は帰り道にある行き着けのカットハウスへ立ち寄った。
気分を変えるというよりも、少しでもイメージを変えて自信を持ちたかった。
いつもカットしてくれる先生が、色々と嬉しい言葉を投げてくれる。
「ほら!鼻筋の通った美人なんだから、少し髪に柔らかいウエーブがあると色気が出たでしょ」
「女らしくなった?」
「はい。ストレートのショートよりずっと似合ってると思いますよ!」
鏡の中の私は、少し笑ってる。長年、頓着なく同じ髪型だったから、不規則な流れるようなウエーブの髪は、別人みたいに見えた。
「前髪も目にかかる長さで下ろして…。ちゃんと化粧もしなさいよ。暗い顔は、ダメですよ」
「え?」
「青白い顔ではいってくるから、幽霊かと思った。いつも、明るい人なのに…」
「ははは……、幽霊はひどい」
「OK!ちょっと待って。ついでにメイクしちゃお!よっちゃん、メイクのセットとって!」
まだ、他の客がいないせいか、暗い私を見かねてか、どんどんイメージを変えていってくれる。
美容院って、不思議な場所だと思う。扉を開けたときと、帰るときの気分がガラリと変わる。
「ありがとう!」
すっかり、違う私になったような気がして、明るく扉を閉めた。
空は、もう夏の色をしている。
こうして浜風に吹かれていても、強くなった陽射しに露出した肌は汗ばんでくる。
少し遠回りをして、海沿いの遊歩道を帰ることにした。
しかし、この美しい朝の海はどうだろう!
藍色に深くって、風に煽られ立つ波の白さ。遠い島々が水平線に形を現し青く霞んで、とても静かだ。
海は、澄んだ空の上に油絵の具で描かれた絵画のように濃い藍を重ねて波打っている。
潮の流れが速い明石海峡は、走る船が曳く波も荒々しい。
その風景の全てに夏の陽射しが溢れている。
私は自分の部屋で一日を過ごした。
髪型のお蔭で、少し気分は変えられたが、心に住み着いた不信と戦うような元気はない。ただ、無意味で無駄な時間を過ごすことしか出来なかった。
その夜、七時を回った頃だった。
『ピンポ〜ン』
突然、玄関のチャイムが鳴った。
ドキリと心臓が鼓動を止めてしまいそうになる。
(まさか!歩!)
恐る恐る扉の前に……。
「森野さん!僕、僕!」
「え!三原?」
慌ててドアを開けると、三原がふくれっつらで立っていた。
「どうしたの?」
「どうしたんじゃあないでしょ!携帯切ったままじゃん!みてよ!」
何か、不愉快そうに語気を強めて言った。
「え?まあ、とにかく入って」
三原は、ぶすっとしたまま、ソファにドンと掛けた。
私は、バッグの携帯を取り出して、
「ごめん!充電切れだ。昨日してなかったし…」
三原は、ふうっと息を吐いて、
「クレームがあったんですよ!誕生日に買ったプレゼントが壊れていて、子供が泣いてる。どーしてくれるんだって、すごい剣幕!」
「ああ、良くあるよ、それ。で?」
「ちょうど、在庫の無い色目で、メーカー取り寄せを言ったら、すぐ持って来いって言われて」
「わあ、ひどいなあ」
「東大阪店まで、商品借りに行って届けました」
「きゃあん!三原ちゃん、かわいそう!」
思わず膨れっ面の彼を抱きしめてしまった。
三原は、いつもの柔らかい笑顔に戻り、照れ臭そうにしている。
私は、彼がここにいることが何故かすごくうれしかった……。
始めてこの部屋に来たのに、私には緊張感もないし警戒心も無い。
「解決はしたんだけど……。なんか、ミッチの声が聞きたくって、ずっと電話してたのに」
「うん…本当にゴメン!携帯見たくなかったんだ、じつは……」
「どうかしたの?まさか、会えなかった?」
彼の言葉の響きは優しい。心配そうに顔を覗きこんでくる。
「うん。どこか、遠くに行ってんのかも」
「そうか……。ごめんね、ミッチ。僕が余計な事を言ったばかりに……。つらかっただろう」
三原から、優しさが溢れてくる。涙が胸を突いてこぼれそうになる。
慌てて、彼の傍を離れた。このまま、近くに居たら泣き出してしまいそうだった。
「三原!おなかすいてない?昨日のお礼に何か作ってあげる!これでも、結構旨いんだよ、料理!」
「うわ!最高!食べたい食べたい」
本当に、少年のような無邪気な笑顔。可愛い年下の同僚を私は心から歓迎している。
「ミッチ……。実は驚いた」
「なにが?」
三原は突然に、笑顔を取り去り、じっと私を見た。
「そのヘアスタイル、すごく似合ってる。何か、どっきりした」
「でしょう!見直した?私の美貌!」
「うん……」
今日の悲しい一日が、すっと体の中から消え去るような気がした。
三原の優しい笑顔と気さくな会話は、淋しい心を十分に満たしてくれる!
「意外だなあ!揚げ出し豆腐旨い!おかわり」
「はあい!有り合せだから悪いけど、いっぱい食べてね」
「なんか、子供に言うみたいな言い方だな」
「え?子供じゃん。五つも年下」
「ちぇ!」
美味しそうに食べてる三原と歩が重なる……。私の夢のひとときと……。
「何があったの?」
三原が料理を箸で突きながら訊いた。
「何もないよ。何も無いけど……。桐原さんって知ってる?」
「ああ、もちろん!秘書課から、抜擢されて企画室へ入ったヒト。すごい美人」
「……」
「何だ?大矢さんと?まさか!」
「馬鹿みたい?」
三原は箸を持つ手を止めて、微笑ながら、
「馬鹿だな。大矢さんはミッチしか見てないよ。考えすぎだ」
「うん……」
彼に桐原さんの名前を聞かしたことで、気持ちがすっと軽くなった。
本当に、馬鹿な事を心配していたのかも知れない。
三原と向かい合って、話をしていると何故か私は素直になる。
気心の知れた良い友達という感覚だ。
「ご馳走様!ホント旨かった!」
三原と笑いあったその時、突然、リビングのドアが開け放たれた。
「えっ!!」
目を疑った!
そこにスーツ姿の歩が、立っていた……。
「あ…歩……!」
「何なんだ…これは……」
立ち尽くす歩を、三原と二人で言葉もなく見つめた。 |