SECT.25 破壊の終結
喉の奥から微かな呻きが漏れた。
これは自分の声が、それとも別のヒトの声なのか。
「……シ……ファ」
何も見えない。何も感じない。
その闇の中で、はっきりと自分の声がした。
「ルシファ」
その瞬間、世界に光が満ちた。
全身の感覚が戻ってくる。あれほど痛めつけられて動かなくなったはずだった手足がいとも容易く稼動した。
目を開けると、翡翠の瞳が近くにあった。
「クラウドさん」
「ラック!」
蒼白な顔の漆黒星騎士団長は一瞬だけ安心した顔をした。
が、その騎士の右腕は完全に白く変色していた。
一気に現実に戻ってきた。
自分の足で立ち上がる。動く手で、白くなったクラウドさんの右手に触れた――とても冷たい。
「ごめん、クラウドさん……痛い?」
「そんなことより君こそ」
クラウドさんがその言葉をいい終わる前に額がとても熱くなった。
同時に握ったクラウドさんの右手が光を帯びた。
光に溶けるように、白く変色していた右手が少しずつ温かくなってきた。これでだいじょうぶだ。何故かは分からなかったが、自分の中に芽生えた力を何となく理解していた。
「ラック、これは……」
「待ってて。今度は負けない!」
まだ何か言いたそうな騎士団長のテノールを分断して、紅の髪の剣士へと向き直った。
頭上にレラージュさんが浮かんでいる。彼の藍色の瞳に光は灯っていなかった。
「獅子の末裔 貴様 何者」
驚愕したようなレラージュさんの言葉を完全に無視して左手を前に構えた。膝を軽く曲げ、肩幅に開いて右足を後ろに下げる。
クラウドさんからじきじきに習った、『空手』と呼ばれる古体術の構えだ。
アガレスさんのときとは少し違う加護が全身に満ちていた。
この感覚は初めてだというのに不自然なほど自然に自分になじんでいた。フラウロスさんのときのように内側のエネルギーが暴れだす感覚も、アガレスさんのときのように躍動する感覚もない。まして全く自由のきかなかったラースの支配とも全く違う。
ただ、自分の手足が思い通りに動かせる。
まるで最初からこうやって自分の体を支配していたかのように。
「おれがレラージュさんをライディーンから引き剥がすよ。だから……」
小さくそう呟いて、地を蹴った。
地面をすべるように相手との距離をつめる。
顔の横に剣をひいたライディーンは鋭い剣先を突き出した。
下がるわけに行かない。最小限の動きで一歩踏み出して刃を避けた。頬に軽い痛みが走る。
そこへ凍てつく空気をまとった矢が迫る。
「フラウロスさん!」
とっさに叫んで加護を両手に集中させ、左手で矢を弾き飛ばした。
右手は剣を握るライディーンの両手に押し付ける。
じりり、と肉のこげる音がした。痛みを感じないのか悲鳴も上げず、ライディーンは両手から剣を取り落とした。
もう一度両手に炎を纏う。
固まったように動かないライディーンの手を踏み台に飛び上がった。
「レラージュさん、ライディーンを返してもらうよ」
目の前に迫った緑色フードの悪魔の両肩に炎に包まれた両手を押し当て、ライディーンの肩に足をついて反対側に蹴り進んだ。
「クラウドさん!」
叫びながら、レラージュさんの両肩に全体重をかけた。
ずるり、と空間から悪魔の全身が飛び出てくる。
二人重なるようにそのまま地面へと向かって落下していった。
しかし、地面に接触する直前でレラージュさんの姿が掻き消えた。
バランスを失って頭から地面に落ちてしまい、そのまま自分は意識を失ってしまったのだった。
目の前が真っ赤に染まっている。
口の中がキモチワルイ。既に大量の血を飲み込んでしまったようだ。
酷使した手足は動かず、精神は完全に破壊されていた。
伏せた床が冷たい。絨毯だというのに真っ赤な液体を吸い込んでいるからだ。手も足も頬も髪もすべてが血の色に染まっている。
霞む視界の中映るのは、吹き抜けのホールに作られた全面の窓と長い階段――
「愛しき子 全て忘れなさい」
優しく悲しいテノールが響いた。
ふと顔を上げると銀髪の天使が微笑んでいた。
6枚の翼が闇に浮かびあがり、彫刻のように整った顔立ちからは深い悲しみが感じられた。
「忘れなさい」
白く細い指が額に伸びる。
触れた途端に額が焼けるように熱くなり、全身を雷撃が貫いたような感覚が襲った。
「ルシ……ファ……」
最後の呟きは闇の中吸い込まれるように消えていった。
ゆっくり眠りに落ちる感覚をそのまま逆になぞるように意識が浮上してきた。
眠っている意識はないのに全身の感覚がない。目を開けようとしたのに開かない。音は……かろうじて鼓膜を揺らす波が感知出来た。
「生きているのですか?」
「大丈夫だよ、ヴィッキー。でも、とても深刻な状態らしい」
「……一体何があったのですか、クラウド団長」
「それは私にも分からないのだ」
言葉は認識される事のないまま右から左へと流れていく。
「ライディーンは?」
その名前だけ微かに認識した。
少しずつ戻ってくる感覚は痛みと吐き気以外の何者も伝えない。
もう一度意識を手放しそうになりつつ、すんでのところでこらえた。体が重い。鉛のようだとかそんな月並みなものでは表現できないくらい動く気配がない。
自分が横になっているのかたっているのか、何かの上にいるのか包まれているのか、そんな感覚もなかった。
「彼も何とか無事だ。ラックが命を懸けて守ったからね」
「そうですか」
安堵したような声に、とにかく自分の無事を伝えたいと思った。
それなのに、痛みと重圧に支配された体は動いてくれない。唯一、あんなに毛嫌いしていた左手だけがピクリと動いた。
「ラック?」
それに気づいたクラウドさんが近寄ってきた気配がある。
だいじょうぶだよ、そういいたいのに喉すらも自分の思い通りにならないのか。
肘から先、ちょうどラースがくれた部分だけがかろうじて動いた。それと視覚以外の感覚を頼りにクラウドさんを探し当てる。
温かいその手をぎゅっと握り締めた。
「ああ、よかった。大丈夫なんだね。そう言いたいんだね」
うん、そうなんだ。
「でも今はゆっくりおやすみ。ライディーンは無事だ。安心するといい」
優しく握り返してくれた手から温かい心が流れ込んできた。
全身が満たされていく。
痛みが少し和らいだような気がした。
「おやすみ、愛しい子……」
どこかで聞いた言葉を聞きながらもう一度、今度は温かな気持ちで眠りについた。
もう夢の続きは見なかった。 |