SECT.22 リュシフェル
神殿からもう一度お城に戻って、王様に今回の事を報告した。
訳がわからないままただあったことを羅列しただけだったが、王様は何かを汲み取ってくれたようだった。
「お疲れ様、ラック。でも次はこんな事件にならないよう気をつけるんだよ」
「わかったよ。ごめんなさい」
自分ももうあんな喪失感を経験するのは嫌だった。
本当ならコインを取られた事に対する罰はこんなものじゃ済まないんだろう。毒気による精神不安定でコインを盗んだメリルと、実際加担していないルークにも謹慎が言い渡された。
過失でコインを盗られた自分に課されるものはもっと重いはずだ。
それでも口頭での注意に留める王様は、きっと自分を信頼してくれているんだ。
「さて、ライディーン=シンのことなのだが」
「何か問題があるの?」
「いや、悪魔耐性も精神力も基礎戦闘力も問題ない。ありがとう、ラック。今この時代にレメゲトンの可能性が広がるのはとても心強い」
「ライディーンがやりたいって言ったんだよ。おれは何もしてない」
本当にそうだ。
あれは全部ライディーンの希望だ。
「ラック、君はもう少し自分の力を信じてもいい」
王様は優しく微笑んだ。
「彼が契約から無事に帰ることを祈ろう。君の時も、クロウリー伯爵の時もそうして来た。だから君も祈って欲しい」
「うん、祈るよ。心の底から祈るよ」
ライディーンが無事に帰ってくるように。
そして、また一緒に稽古する日が来るように。
その晩も夢を見た。
背に激しい痛みがある。激痛で手足ががくがくと震えた。目がかすむ。両手両足を拘束する鎖は絶望的に頑丈だった――動けない。
最後の視界に光が溢れた。
銀色の柔らかな光だ。
「黄金獅子の末裔」
聞き覚えのある呼び名で自分を呼ぶのは一体誰だ。
深く悲しいテノールの響き。
この声は知っている気がする。
「リュシフェル様!」
「ああ、リュシフェル様!」
周囲の大人がいっせいに跪いた。
ふわりと温かい風が揺れて、背の痛みが薄れた。
「確かに末裔の血」
同時に耳に響く甲高い音を立てて拘束していた鎖がはじけとんだ。轡も崩れるように無に帰し、自分の体は自由になった。
その体でふと立ち上がると、足元がぬるりとしていた。
――ふと見下ろしたそれは、真っ赤な液体だった。
「リュシフェル……?」
目を開けた。
かすかに逆十字の傷が痛む。
初めて聞く名前に、魂が震えた。
「おはよう、ラック。さあ、朝食だ」
ヴィッキーが明るい声をかけてくれた。白髪赤目のシアも既に着替え終わっている――というか、この二人は既に早朝稽古を終えてきたのだろう。
少し待って、と言ってから手早く着替えながらふと聞いた。
「ねえ、ヴィッキー。『リュシフェル』って、誰……?」
「リュシフェル、とは、お前それを本気で聞いているのか?」
「うん」
こくりと頷くと、ヴィッキーは信じられないといった表情でこちらを見た。
「リュシフェルは魔界で頂点に立つという堕天の悪魔だ。見た者はいないし存在自体も伝承にしか残っていないが、魔界を建造したのはそのリュシフェルだといわれている。この国で最も信仰されている悪魔なのだぞ」
「堕天の……悪魔? 頂点?」
そういえばいつだったかライディーンがその名を口にした気がする。
夢の中で自分を呼んだ声の主はそのリュシフェルと言う悪魔なのか?あの魔方陣はリュシフェルを呼び出すために……?
「もっともリュシフェルと言うのはセフィロトの古代の発音なんだ。もと天使だから仕方がないといえば仕方がないのだが……グリモワールの古代語読みに直せば、ルシファだな」
「ルシファ?!」
その名には嫌と言うほど聞き覚えがあった。
呆然とした自分の前にひらひらと手をかざして、ヴィッキーは眉を寄せた。
「大丈夫か? 何をそんなに驚いているんだ?」
「いや、だって……」
言おうとして、シアがいることに気づく。
「なんでもない」
「そうか?」
ヴィッキーは首を傾げたが、それ以上追求はしなかった。
ルシファ、と言うのは一般的にリュシフェルと呼ばれる堕天の悪魔らしい。それも魔界の頂点に立つといわれる超強力な悪魔だ。
あの悲しくも深いテノールの声はそのリュシフェルの声なのだろうか。
すると、いつも俺の中から天使ミカエルに呼びかけるあの声の主は――
「気を抜くな、ラック!」
はっとするとヴィッキーの切っ先が自分の喉下に突きつけられていた。
「戦場では命取りだぞ!」
「はい!」
返事をしてまた試合に集中する。
ライディーンがレメゲトンになって騎士団を脱退した頃から、訓練はさらに激しさを増していた。漆黒星騎士団の何人かが戦地へ送られるのは時間の問題だという噂も鴉内では流れている。
本当か嘘か分からないが、志願兵の数が倍増したことだけは確かだった。
夜中、一人で屋上に出た。
紅の髪を思い出しながら静寂の中でつぶやく。
「アガレスさん」
盲目の老紳士が空に姿を現し、それを追うように金目の鷹が舞い降りてくる。
「学友の姿がないな」
「うん。ライディーンもレメゲトンになった。契約で魔界に行ってるはずだよ」
「そうか」
アガレスさんは唇の端に高貴な笑みを湛えた。
「相手は誰だ?」
「えと、確かレラージュって」
その瞬間、老紳士の表情が変わった。
こんなアガレスさんは初めてだった。
「用心せよ 幼き娘」
そして霞むように消えてしまった。
「あっ! もう、アガレスさんはいつも突然消えちゃうんだから!」
それでも、用心せよ、と言ったときの表情は頭の中に引っかかっていた。
それから何日間か千里眼の稽古を休んだ。
昼の訓練が厳しく、体力的な余裕がなくなってきていたからだ。
そしてちょうど10日目の昼、午前の稽古を終えた時だった。
今日の夕方にはメリルとルークが謹慎を終えて独房から出てくる。そうしたらまた話したいと思っていた矢先だ。
いつも笑顔のクラウドさんが血相を変えて馬を駆って鴉の宿舎にやってきた。
「ラック! すぐに来てくれ!」
完全に鴉部隊の仲間に取り囲まれている時だったのだが、クラウドさんはお構いなしだった。
これは緊急事態だ。
とても嫌な予感がした。
やっとこなせるようになった馬術で馬を駆り、ますます人気のなくなった城下町のメインストリートを駆け抜けてパラディソ・ゲートへと急いだ。
クラウドさんの口から飛び出したのは信じられない言葉だったから。
「ライディーンを……止めてくれ」 |