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おみくじのキーホルダー
作:タカヤ


 ポケットの中でケータイが震えていることに気づいた僕は、ポケットからケータイを取り出した。手に取って開くと平山から着信だった。デジタル時計を見ると約束の時間まではまだ5分残っていた。
「ただいま到着しました」
 通話のボタンを押してケータイを耳に当てると、平山の弾んだ声が耳の中に残った。僕はただ、単純にうれしくなって「うん」と返事を返した。
 校内から出てきた男子生徒数人が、校門の一端に寄りかかっている僕を不審そうな目をして睨んできた。あいまいに微笑んで見せると、彼らはいぶかしそうに僕から目を逸らしたけど、彼らの後ろに一人控えめにちょこんと立っていた小柄な女子生徒は、僕と目が合うと遠慮がちに会釈を返してくれた。
 やがて、目の前を交差する車やトラックが同じタイミングで立ち止まると、歩行者専用の信号が青へと変わった。男子生徒たちは僕には目もくれずおしゃべりに興じながら横断歩道を渡り、小柄な女子生徒はもう一度僕に会釈をしてから横断歩道を渡っていった。僕が会釈を返すと、小柄な女子生徒は「どうも」と口ごもった。
 横断歩道の向こう側で、ケータイを耳に当てて立っている女性に小柄な女子生徒が僕にしたように会釈をした。女性は僕がしたように女子生徒にあいまいに微笑んで見せて会釈を返すと、視線をこちらのほうへ這わせた。僕はしっかりと彼女の視線を受け止めた。
「久しぶりだね」
 電話越しに聞こえてくる声と同調して、彼女が微笑んでみせる。さっきの女の子に向けたものと同種のあいまいな微笑み。きっと、僕もあいまいな微笑を彼女に向けているのだろうと思った。
「うん。久しぶりだね」
「こうして会うのは三年ぶりだっけ」
「うん。三年ぶり」
 横断歩道をはさんで決まりきった会話を交わす僕たちの間を、校内から出てきた生徒たちがわらわらと通り過ぎていった。まだあどけなさを残した顔をした生徒もいれば、僕なんかよりよっぽど大人びた顔をした生徒もいた。ときどき、手をつないでいるカップルもいたし、その後姿につばを吐きかけている生徒もいた。
「やっぱり、三年経ってもちっとも変わりないね、井上君は」
「そうかな」
「そうだよ」
「平山さんは変わったね。三年前はそんなに髪は伸びてなかった。眼鏡もしてたし」
「うん。周りからこっちのほうが似合うって言われ続けてきたからね」
「そう」
「君はどう思う?」
「さあ。この距離からじゃなんとも言えない」
「もっと近づいてみないと?」
「うん。もっと近づいてみないと」
「分かった」
 通話が切れると同時に、せかすように青信号が点滅しだした。平山が横断歩道をこちらに向かって歩いてくる。僕はその姿を背景にして遠くに目を向けた。
 思ったより空が遠くにあった。深く息を吸い込んでみると、少しだけ空が近づいた気がした。
「やあ」
 すぐ近くで、平山の声が聞こえた。歩行者用の信号が赤に変わって、停止していた車が慌しく排気ガスを吐き出した。
 背中まで髪を伸ばして、眼鏡を外した平山が僕の目の前に立っていた。


               *****


 平山はショートカットと眼鏡がよく似合う、少し不思議な女の子だった。勉強が苦手だと公言しているのに、授業中おしゃべりに興じている友人の輪の中に入ることはせずに、一人黙々とノートを取っていたし、走ることが苦手だと公言しているのに、体力測定の際には夢中で五十メートルを駆け抜けて、パートナーに僅差で敗れたときには本気で悔しそうにがっくりと肩を落としていた。学級委員とかそういうのは苦手だから無理! と言っていたのに、その一週間後にはきっちりと仕事をこなしている平山が「いよっ! 学級委員!」とはやし立てられる姿がそこにはあって、平山はまんざらでもなさそうに「からかわないでよ!」とはやし立てるクラスメイトを追い回していた。
 苦手と公言することに果敢に挑戦する平山の姿は、ときにクラスに勇気を、そしてときに笑いをもたらした。
 高校生として初めての夏を迎える頃には、平山はクラスにはなくてはならない存在になっていた。そして、同時にその頃には僕もクラスではまったく必要のない存在になっていて、僕が初めて平山と言葉を交わしたのも、ちょうどそんなときだった。


               *****


「やあ」
 平山が軽く手を上げて僕に手のひらを見せていたので、僕もそれを真似して軽く手を上げて平山に手のひらを向けた。それを見て、平山は白い歯をのぞかせて小さく笑った。
「やっぱり、変わってないね、井上君」
「そうかな。でも、三年もあれば充分人は変わると思うけどな」
「そう。だったら、私と君の目線は多分ぜんぜん違うところにあるんだね」
「目線?」
「そう。私が見てるのは、髪形とか、服装とか、体型とか、そういうことじゃないんだ。もっといってみれば、目をつぶってたって君が変わってないのは分かるよ」
 そういえば、と僕は思った。高校時代の平山は僕の思いもかけないことを言って、僕を驚かせることが何度もあった。その度、僕はどうしていいか分からず、戸惑いながら平山の反応をうかがうことしかできなかった。今、そうしているみたいに。
「声だよ」
 まるで、今の平山はどうしても分からないなぞなぞの答えをねだっている子供に答えを与えているみたいだった。口ずさむように流れる平山の言葉の先を求めて、僕は平山をじっと見つめた。
「声の感じが、あの頃とちっとも変わってない」
 僕はなるほど、と思った。確かにそれならシンプルで分かりやすい。いつだって人は思い出を振り返る時、目を瞑って胸に手を当てるものなのだから。
「だったら、平山さんも変わってないみたいだ」
 果たして、それがほめ言葉になりうるかどうかは分からないけど、平山は僕の言葉に満足そうにうなずいた。平山も今の僕と同じ気持ちを感じているのだろうか。
「じゃあ、少し歩こうか」
「そうだね」
 僕たちは、信号が青に変わるのを待ってから横断歩道を渡った。真夏の空の下、アスファルトに僕たちの影がくっきりと映っていた。


                *****


 昼休み、担任の野沢先生に呼び出されて僕は職員室に続く渡り廊下を歩いていた。職員室をノックして中に入ると、野沢先生は「おお、井上。よく来てくれたな」と、まるで自宅に招き入れるような親近さで僕に笑いかけ、自分のデスクの椅子に僕を座らせた。
僕は「どうも」と口ごもり、一方、野沢先生はというと空いた椅子を引っ張り出してきて僕の正面にでんと腰を据えた。
 昼休みともあって、職員室の中には教員たちが勢ぞろいしていた。そのくせ、生徒はというと、昼休みを返上してまで勉学に励む模範的な男子学生が一人いるだけで、彼は複数の教員たちにひるむ様子もなく、見事に職員室の風景に溶け込んでいた。
 動物園の檻の中に閉じ込められてしまったような閉塞感に、僕はできるだけ体を縮込ませた。いくら待ってみても僕が面白い芸などできるはずもないのに、周りの教員は興味深げに僕たちのほうを観察していた。冷房から流れてくるキンキンに冷えた風が、汗を吸って肌に張り付いたカッターシャツに染み込んだ。これまで体感したことのない、向かうところ敵なしの居心地の悪さに、僕は吐き気を催した。
「突然呼び出したりして悪かったな、井上」
 校内放送で自分の名前が学校中に響いたとき、僕の心臓は飛び出しそうになった。それを笑いながら悪かったな、の一言で済ますあたり、野沢先生が僕の人間性を完全に把握していることはなさそうだった。
「いえ……。ところでなにか僕に用ですか?」
「いや、用ってほどのことじゃないんだ。ただ、最近少しお前の様子が気になってな」
「はあ」
「最近元気がないじゃないか。一人でいるところをよく目にするし、何か悩み事でもあるんじゃないのか?」
「いえ、別に……」
「そうか? 遠慮せずに先生に話してもいいんだぞ。誰かに話せばすっきりすることもあるわな」
「いや、ほんと悩みとかないですから……」
 気の利かない熱血漢、もとい、野沢先生は僕の返事に残念そうに「そうか」と呟いて短髪の角刈り頭をがりがりとかいた。そんな野沢先生を見ていると、本当に僕のことを心配してくれているのが手に取るように分かるので、僕も少しだけ申し訳ない気持ちになってしまう。おそらく、ここが動物園の檻の中ではなくて、個室や誰もいない教室だったなら、僕も素直に悩みを吐露していたかもしれない。気が利かないという最大の欠点を克服さえすれば、彼は文句なく最高の英語教師になりえるはずだった。もちろん、最高の英語教師になった暁には、授業の初めにかますお決まりのアメリカンジョークも撤廃されることだろう。
「そうか。うん。まあ、わざわざ呼び出したりして悪かったな。でも、何か悩みがあるなら先生いつでも相談に乗るからな」
「どうも……」
 野沢先生に会釈をして僕は職員室を出た。外に出ると体感温度が5℃ほどずれていて、蒸し暑さが少し息苦しかった。来た道を引き返して渡り廊下に差し掛かったところで、この日二度目の校内放送が学校中に響き渡った。少し気取った野沢先生の声と、夏の日差し。僕の気分は少しだけ重くなった。


*****


「突然会いたいなんて言い出されて、すごく驚いたでしょう」
 住宅地の間を抜けて高校のグラウンドが見えるところまで来たところで、平山がそんなことを言った。振り返って僕を見た平山は、どうやら僕が気をつけて平山とちょうど2歩分の距離を置いてついて歩いていたことに気づいていたみたいだった。急に平山が立ち止まったものだから、一歩オーバーしてしまった足を不自然に自分のほうへ引き寄せた僕を見て、平山は「やっぱり、迷惑だったかな」と声を出した。そんなことを言いながら、ぜんぜん悪びれた様子を見せないところは、平山の長所の一つだった。
「別にそんなことないよ」
「うそ。そんな顔でいってもぜんぜん説得力ないよ」
 平山はそう言って笑いながら、グラウンドを囲うフェンスに寄りかかった。僕は困惑しながらも、平静を装ったつもりでいながら、その実迷子になった子供のような顔をしている自分の顔を想像した。
「ごめん」と謝るしかなかった。
「でも、別に平山さんと会うのが嫌だとかそういうことじゃないんだ。ただ、今まで電話越しでしか話してこなかったから、いざじかに会ってとなると正直、やりづらいってだけで」
「さっき、私のこと変わってないって言ったのに?」
「僕は平山さんほどくだけた性格してないからね」
「なるほど」
 平山は納得したようにうなづくと、くるりと向きを変えてフェンスと向かい合った。グラウンドの中では、体操着に身を包んだ運動部員が跳んだり跳ねたりしていた。規則正しい掛け声が聞こえている中で、時々馬鹿笑いしている声が聞こえてきた。
「だったら、井上君がくだけてくれるまで少し昔話でもしようかな」
「昔話?」
「そう。どうしても君に知っていてほしいんだ」


               *****


 その頃から、僕は人のいない空間というものを好んでいた。それを基準に考えると、教員と生徒で埋め尽くされた学校という空間は僕にとっては過ごしにくい場所以外のなにものでもなかったけど、決して僕は不登校をしたりはしなかった。
 放課後の教室、放課後の廊下、放課後のトイレ、放課後の屋上、放課後の図書館、放課後のetc……。どんなに過ごしにくい場所にも、探してみれば必ず快適な一面は見つけ出せるものだった。他の生徒が家路に着いたり、部活動に励んでいる間に僕は教室の中に一人残り、教員たちが職員室にこもったり、部活動の様子を見に顔を出したりしたときに、僕はその様子を窓から覗いてみたり、専らは本を読んだりしていた。いってみれば、僕は人付き合いが苦手な、究極の恥ずかしがり屋だった。
 そんな風につつましく日々を過ごしていた僕に、その異変は突然降りかかってきた。その日昼休みに野沢先生に校内放送で呼び出されたことが、すでにその異変の予兆だったのだけど、僕がそのことに気づいたのは彼女と会話を交わしてからだった。とりあえず、誰もいないはずの教室に人影を見つけたとき、僕は驚きのあまり言葉を失って呆気にとられるしかなかった。
 えーと……。
混乱する意識の中で僕は必死に考えをめぐらした。ほんの数分前までは確かに教室の中には僕しかいなかった。尿意を催して教室を出たのがそのすぐ後だったから、教室の中に誰かが入り込んだのは、ちょうど僕が用を足してすっきりしている間ということになる。  
どうやら、教室の中に居るのは女の子らしい。肩の辺りで切りそろえられたショートカットの髪型と、ふとももの半分ほどまで切り上げられたスカートは、僕をうろたえさせるには充分の攻撃力を備えていた。後姿だけで僕をうろたえさせる力を持っている人物と相対することは、僕にしてみれば自殺行為に等しかった。しかし、女の子は僕の席のすぐそばに立って、なにやらガサゴソとしていた。机の上には僕の鞄が置いてあって、それは彼女の後姿が塞いでいる。
 ガサゴソ。ガサゴソ。彼女の上半身の揺れに合わせて、僕の鞄は規則正しい音を立てた。ガサゴソ。ガサゴソ。とうとう、彼女が前かがみの姿勢になり、本格的に臨戦態勢に入った。ガサゴソ。ガサゴソ。ガサゴソ。ガサゴソ。
 選択の岐路に立たされながらも、僕は自分の立っている場所が本当に自分の教室の前であるのかをまず確認するところから始めた。僕のクラスは確か1−Bのはずだ。もしかしたら、僕はうっかりして隣の教室に入ろうとしていたのかもしれない。見上げると、教室の標識は1−Bと記されていた。
 ガサゴソ。ガサゴソ。そのうち、カンカン、と何かを机にぶつける音までが聞こえてくるようになった。その一心不乱な後姿に、僕は自分の身の危険を感じた。僕は、普段誰かに恨みを買うようなことをしているだろうか? しかし、僕が学校でしていることといえば、黒板に書かれたことをノートに写すか、弁当を食べるか、本を読むかの三つぐらいしかない。どれも人に恨みを買うようなこととは思えなかった。
 触らぬ神にたたりなし。そんなことわざを頭に浮かべ、その場から離れようとしたとき、突然「よお、井上!」と横から声が降ってきた。驚いて横を向くと、すぐそばに半そでのシャツに、スウェットパンツという軽快ないでたちをした野沢先生が立っていた。二カッとさわやかな笑顔を向けてくる割には、口から覗く歯は黄ばんでいた。彼女がこちらを振り返る。状況をまるで理解していない野沢先生はその笑顔を教室の中にいる彼女にも向けた。僕は気まずさのあまり慌てて顔を伏せた。
「おお、平山もいたのか。って、もしかしてお邪魔だったか? がっはっは」
 女の子の反応を待たずに、野沢先生は僕の肩をバンっと叩くとさっさと廊下を歩いていってしまった。
ふざけるな、クソオヤジ! 
僕は初めて野沢先生を心の中でののしった。もちろん、野沢先生に僕の気持ちが届くわけはない。僕にどうしろというのだ。
「いつから、そこにいたの?」
 やがて、永遠に続くのではないかと思われた沈黙を破ったのはやっぱり彼女のほうだった。僕は「ええと」と口ごもりながら、バカみたいにぽりぽりと頭をかいた。
「ちょっと前から……」
「じゃあ、もしかして見てた?」
 返事の変わりに僕は顔を上げた。いつの間にかすぐそばまで彼女が詰め寄ってきていて、僕は身動きがとれずそのまま瞬きを繰り返した。女の子にこれだけ近づかれたのは、思春期以前を除外すれば生まれて初めてのことだった。ショートカットと眼鏡のよく似合う学級委員は、挑むように僕を見つめていた目を逸らすと、いきなり、はにかんだように笑った。
「ごめんね。勝手にキーホルダーいじったりして」
「え? キーホルダーって……」
「ほら、見て。井上君、私とおんなじキーホルダー鞄につけてるんだ」
 そう言って、平山は背伸びをして肩にかけている自分の鞄をぐっと僕のほうに引き寄せた。僕は、躊躇なく自分のエリアに踏み込んでくる平山におののきながら、視界に割り込んできた平山の鞄に注目した。見ると、五センチほどの高さの六角柱が、かばんのチャックにつるされていた。どうやら、平山の言うとおりそれは僕と同じキーホルダーらしかった。表面に「おみくじ」と刻まれた文字や、銀製であること、さらに僕のものと同じ具合に銀が黒く変色しているところまで類似している。不思議と僕も少しうれしくなった。そんな僕を見て、平山はにっと笑った。
「ね、すごい偶然でしょ。なんかうれしくなっちゃって、勝手にいじっちゃったんだけど、なかなか大吉が出てこなくてさ」
「そう……」
「おみくじ」という文字が記したとおり、このキーホルダーからは、六角柱の頭に小さな穴がついていて、そこから「大吉」「中吉」「小吉」「吉」「凶」「大凶」と記された小さな棒が出てくるようになっている。それにしても、そんなことは今の僕にはどうでもよかった。野沢先生がさわやかな笑顔とともに残していった言葉と、平山。言い換えるなら、気の利かない熱血漢と、ショートカットと眼鏡のよく似合う学級委員。どう考えてもいい予感はしなかった。
「それより、平山さん……。帰ったんじゃなかったの?」
 ようやく僕から離れてくれた平山に、慎重に声をかける。こうして平山と一対一で向かい合うのは、同じクラスになって以来初めてのことだった。しかし、平山に気負った様子は微塵も見られない。僕と平山では異性に対する免疫力が天と地ほど違っていた。
「あれ? 井上君、昼休みに野沢先生に呼び出されてたでしょ。もしかして、聞いてないの?」
「え……なにを?」
「なにをって。私、野沢先生に井上君のこと頼まれたんだけど」
「え……?」
 平山の言っている言葉の意味がよく分からず、僕は口をあけたままぽかんと平山に目を留めた。そんな僕を見て状況を察したのか、平山は少し言いずらそうに「あのね」と苦笑いした。
「井上君、なんだかクラスに溶け込めてないっていうか、クラスで浮いてるみたいだから、野沢先生が私に君の話し相手になってやってくれないかって。ほら、私学級委員だし」
 そういえば、昼休み二度目の校内放送は野沢先生の声だった。よく思い返してみれば、平山を呼び出していたような気もする。それにしたって、どう考えてもこれはやりすぎじゃないのか。あのさわやかな笑顔は「サプライズ」のつもりか。
 ふざけるな、クソオヤジ!
 僕は恥ずかしさで死にそうになりながら、うつむいた。平山も僕にかけるべき言葉がないみたいだった。気詰まりな沈黙の間を、少し生暖かな風が通り過ぎていった。教室の中は昼間の蒸し暑さがうそのように、ひんやりとしていた。グラウンドはキラキラと夕日に照らされている。
「あの、気を悪くしたんなら、ごめんね」
 やがて、平山がそう言ったので僕は顔を上げた。
「でも、確かに井上君って、周りと距離を置いてるよね。なんていうか、こっちが近づけば近づいた分、同じだけ引いていくって感じ。なんでかな」
「え……」
「私だったら、そういう生き方すごく疲れると思うんだ。井上君はどう?」
「どうって言われても、僕はそういう性分だから……」
「じゃあ、君は他人とかかわることに苦痛を感じたりする?」
「いや、そんなことないよ……」
「よかった。じゃあ、今この瞬間君は苦痛は感じてないわけだ」
 そう言って、平山は鞄のファスナーにつけたキーホルダーに触れた。おみくじ、の下の口に結わえ付けられた小さな鈴が、リリンと涼しげな音を鳴らした。
「だったら、もう少し私の話相手になってくれるかな」
 僕の顔を覗き込んでいる平山と目が合った。声がうまく出せそうになかったので、僕は小さくうなずいた。
「ありがとう」
 うれしそうに平山は笑った。


               *****


「私ね、実の父親の顔を知らないんだ」
「実の父親?」
「そう。今私の父親をしてるのは義理の父親。でも、そんなことはどうでもいいんだ。君に聞いて欲しいのは、ここから先の話」
 そう言ってから、平山は話しだした。
 小学五年生の夏にこの町から遠い土地へ引っ越したこと。その後すぐに母親が再婚をしたこと。見知らぬ男がその日から自分の父親になったこと。それを拒むことが自分には許されなかったこと。ちょうど、その日が11歳の誕生日だったこと。見知らぬ男に「おめでとう」と言われたこと。「ありがとう」が言えなくて、その夜母親に折檻されたこと。見知らぬ男が見かねて母親を止めてくれたこと。悲しいのに、なぜか涙が出てこなかったこと。自分が失ってしまったもの。そして、その中に含まれる鮮明な感情。
「不思議な感じなの。もちろん、ずっと前のことだから記憶はあいまいになってるんだけど、そのときの想いだけははっきりと残ってる。まるで、そのときの感情が胸の中に今も根付いてる、そんな感じ」
 平山はそう言うと、まるで大切なものをしまいこむように、両手をそっと胸に当てた。平山のそのしぐさが、三年前の平山の姿と重なって、胸の中が少しだけうずいたような気がした。
「分かるかな」と首を傾けて僕を見る平山に、僕は「なんとなく」と言ってうなずいた。
「私がいくら嫌だって言っても、無駄なことは分かってたんだ。私にとっては初対面の人を連れてきて、いきなりこの人と結婚するから、なんて言い出す母親だもん。でも、やっぱり、住み慣れた場所や友達と離れるのはどうしても嫌だった。だから、その日私は逃げ出したんだ」
 転校する二日前、当時10歳だった平山は、学校が終わっても家には帰らなかった。当てもなく、家とは逆方向の道を歩き続けて、そのうちに日が落ちていた。疲れ果てて、もう歩く気力もなかった平山の目に、ふと小さな公園が映った。人影の見当たらないその公園は、暗がりの中人目を避けるようにひっそりと佇んでいた。公園の中ほどに、一つだけぽつんと立った外灯の脇に、小さなベンチがぽつんと浮かんでいた。遊具はちゃちな造りの滑り台が一台だけで、完全にそこは公園の機能を果たしていなかった。
 日が落ちてから少し冷たくなった風は、汗に濡れた平山の肌をひどく震わせた。疲れ果てたそのときの平山には、侘しさしか感じさせないその公園ぐらいしか、行く当てが思いつかなかった。
 公園の中に入ると、暗がりの中ポツリと浮かぶ小さなベンチの端っこに平山は腰を下ろした。背負っていたランドセルを肩から外すと、それだけで張り詰めていた気持ちがふっと緩んでいた。それまで積み重ねてきた不安や、不満。何より、今こうして見知らぬ土地の見知らぬ公園の見知らぬベンチに一人で座り込んでいることが何よりも悲しくてしかたなかった。
 どうせ誰もいないのだから、ここで思いっきり泣いておきたかった。それなのに、感情と涙が切り離されてしまったように、涙は流れてこなかった。胸に溜まった悲しみは今までにないぐらい深く胸の奥に入り込んでいるのに、決して感情を高ぶらせたりはせず、不安定に、不規則に胸の中を泳いでいた。涙に直結しない感情を持て余しながら、平山はどうしようもなく、ただそこに座っていた。
どれぐらい、そこに座り込んでいただろう。時間が知りたくて、公園の中に時計を探そうとして顔を上げたとき、平山は初めてベンチの脇に遠慮がちに立っている男の子に気がついた。
「その男の子、同じ学校の同級生でクラスメイトだったの。私と目が合うと、その子バツが悪そうに私から目を逸らして、ベンチの端っこにちょこんと座ってさ。それから、何か声をかけてくるのかと思ったら、何にも言わないの。何にも言わないで、ただ、何もない空間を、怖い顔してじっと睨んでた。そうやって、黙って、ずっとそばに居てくれたんだ」
 僕はフェンスに寄りかかって、遠くを見つめる平山の横顔を見つめた。平山の見ている方向を同じように辿ると、ずっと向こうに小さな雲が散り散りになって浮かんでいた。
「そんなぶっきらぼうな男の子の横顔を見たとき、心底思ったんだ。今この瞬間、時間が止まってしまえばいいのにって。そしたら、不思議と涙があふれてきてさ。嬉し涙なのか、悲し涙なのか、自分でもよく分からなかったな」
 遠くに向けていた視線を平山に戻すと、平山が僕のほうを見ていた。平山は僕と目が合うと、あいまいに微笑んで言った。
「そこに居てくれるだけでよかったんだ。あのときの私には、どうしようもなくて、ただ逃げ出すことしかできなかったありのままの自分を知っていてくれる人が必要だった。涙を流せる居場所が私にはどうしても必要だったんだ」
「そう」
「うん。結局、公園の前を通りがかった人に声をかけられて、最後は二人して親にこっぴどく怒られたんだけどね」
 そう言って平山はクスッと笑った。
「それが、私の初恋の思い出」
「え……それが、初恋?」
「そうだよ。変かな」
「いや、変って言うか……」
 僕が言葉を濁すと、平山は僕の言いたいことを理解しているらしく、僕が言いたかった言葉の先を紡いだ。
「確かに、それまでその男の子と仲がよかったわけでもなかったし、特別な感情を抱いてるわけでもなかった。優しい言葉だってかけてもらったわけじゃない。私はただ一人で泣いてて、男の子はただベンチの端っこに座ってただけ。でも、きっとそのときの私は、その男の子に恋をしたんだと思う」
 だってさ。そう言って、平山はにっと笑った。
「いつだって、この想いの真ん中に居るのは、ぶっきらぼうな男の子の横顔だから」
 そう言ってから、平山はグラウンドのフェンスに向き直った。僕は、すぐに逸らされてしまった平山の笑顔の意味することを考えた。10歳の少女がそのとき感じた想い。時間が経っても、胸の中に今も根付いている感情。そして、今平山が僕にそれを語っている真意。そのどれもが、何かにつながっていることは分かっていても、それがなんなのかを明確にする勇気を僕は持ち合わせていなかった。
 きっと、その何かは、今僕が感じている気持ちにつながっているものなのだろう。そして、それはゆっくりと確かに僕と平山に近づいている気がした。
 僕は胸の中でうずく喪失の予感に目をつぶりながら、平山の横顔を見つめた。そこにいるのは、眼鏡とショートカットが似合う平山じゃなくて、三年の月日の中で大人へと成長した平山だった。
「ねえ」
 やがて、平山はフェンスから離れると声を出した。
「もう少し、歩こうか」
「そうだね」
 僕たちは同じ方向を向いて、歩き出した。


               *****


 いくら学級委員として担任の頼みを断れなかったにしても、さすがにそれが一週間も続けば僕も疑問を口に出さずにはいられなかった。 
その日も、教室の掃除当番のクラスメイトから戸締りを引き受け、誰もいない教室に残っていると、平山が「やあ」と僕に笑いかけて教室の中に入ってきた。僕はそれまで読んでいた文庫本を閉じて、平山にあいまいな微笑を向けた。その後に時計に目をやると、時計の針はきっちりと4時30分を指していた。さすがにこのやり取りにも慣れはしたけど、日を重ねるごとに僕の疑念は募る一方だった。平山は今日もここにいるのが当然という顔をして、僕に何の躊躇もなく話しかけてくるのだけど。
「あの、平山さん」
 野沢先生のアメリカンジョーク撤廃について僕に同意を求めてくる平山にうなずいた後、ようやく話が途切れたので僕は平山に声をかけた。ここ一週間の短い付き合いで、平山が放っておけば何時間でも延々とどうでもいい話題で時間を潰せる特技を持っていることを僕は知っていた。僕から平山に話しかけるのは、おそらくこれが初めてだ。しかし、平山本人はそのことに少しも気づいていないみたいだった。
「なに?」
 躊躇や値踏みのない目と眼鏡越しに対峙して、やはり、これは口に出すべきようなことではないような気がした。でも、他の話題に瞬時に切り替えられるような巧みな話術を持っていない僕が、いまさらうまく軌道修正などできるはずもなかった。結局、口ごもる僕を平山がせかすという形で、僕は仕方なく溜まっていた疑問を口に出した。
「その、なんていうかさ」
「うん」
「別に、無理して僕に付き合う必要はないっていうか」
「うん?」
 少しアクセントのついた「うん」の後、平山は慎重な面持ちで僕の顔を覗き込んだ。確かに、ここ一週間の平山の様子を見ている限り、別に無理をして僕に付き合っている様子はなかった。僕のその台詞が答えに直結しないのなら、やはり平山は別に無理はしていないのだろう。しかし、無理をしているという以外の理由で、平山がわざわざ放課後残ってまで僕とこうしていることにつながる理由なんてものは、僕には想像もつかなかった。
「それって、どういうことかな」
「だから、先生に頼まれたからって、無理して毎日放課後残らなくてもいいよ。ってことなんだけど」
 僕がそう言うと、平山は一旦僕から目を逸らして、数歩僕から距離をとった。いつも、平山は僕と会話を交わすとき、手を伸ばせば届く無防備な距離に身を置いていた。
「もしかして、私がいて窮屈だった?」
「いや、そういうことじゃなくて」
 かみ合わない会話に少しだけ憂鬱になりながら、僕は言った。
「てっきり、僕はこういうことはあれっきりだと思い込んでたから」
「あれっきり?」
「こんな風に毎日平山さんがわざわざ放課後残るなんて思ってなかったんだ」
「そう。それでつまるところそれは私がいて迷惑だったってこと?」
「いや、だからそうじゃなくて」
 僕はため息をついた。平山は首をかしげた。
「無理して僕に付き合う必要なんてないって言いたいんだ」
「それは、もう来ないでくれってこと?」
「いや、だから――」
「だから?」
 気がつくと、平山は含み笑いをしながら僕を見ていた。ようやくからかわれていることに気づいて、僕は口を閉じた。
「やっぱり、引いてるね」
「え?」
「井上君。こっちが近づけば近づいた分、引いていくって感じ」
 含み笑いの消えた平山の顔を直視できずに、僕は黙り込んだ。以前同じことを言った時のようにおどけてくれたなら、あいまいに微笑んだりもできるのに、それさえもできない。平山は何かを確かめでもするように真剣な眼差しで僕をじっと見つめていた。
「ねえ、井上君」
 やがて、答えの出ない沈黙を破ったのは平山だった。
「一つ、質問してもいいかな」
「うん……」
「時間が止まって欲しいって思ったことある?」
「え?」
「時間が止まって欲しいって思ったこと。誰にでも、一度ぐらいそういう時ってあるでしょ?」
 僕は返事をする代わりに、質問の答えを思案した。確かに何度もそういうときはあったけど、質問の答えとしてはそのどれもが陳腐だったので、とても口に出す気にはなれなかった。しばらく考え込んでいると、先に平山が声を出した。
「私はあるよ。時間が止まって欲しいって思ったこと」
 そう言って、平山は両手で包み込むようにそっと胸に手を置いた。何かに思いを馳せるように、そっと目を閉じて微笑む平山を見て、僕は考えることを止めた。僕が考えなければいけないのは、質問の答えではなくて、真意だった。平山は、初めから僕の答えを求めていたのではなくて、僕に何かを伝えようとしていた。でも、その伝えようとしている何かは、平山の胸の中にしまわれていて、大事そうに両手で包み込まれている。いくら、注意深く観察したところで、目の前にいる女の子の胸の中に潜む気持ちなんて、僕に感じ取れるはずもなかった。
 やがて、目を開けた平山が僕の顔を見て吹き出した。
「なんて顔してるの」と言われて、僕は「いや、別に……」と言ってそっぽを向いた。
 窓を開けると、グラウンドから威勢のいい喚声が聞こえてきた。夕日が遠くに顔を出していて、空をオレンジ色に染めていた。僕と平山の影が、教室の中に間延びして浮かんでいた。僕は、その影に目を落として言った。
「あの……聞いていいかな。平山さんが、時間が止まって欲しいって思ったこと」
 僕は影から視線をなぞって平山に目を留めた。平山は僕と目が合うと、いたずらっぽく、にっと笑った。
「秘密」
 それからすぐに「じゃあ、また明日ね」と言い残して、平山は教室を出て行った。
 静けさを取り戻した教室の中で、僕は窓際から見える外の景色に目を向けた。昇降口から出てきた平山がこっちに向けて手を振っていた。僕は軽く手を上げて見せてから、校門を出て行く平山の姿を見送った。
 平山が僕に伝えようとしていたこと。そのくせ「秘密」と言って、伝えようとはしなかったこと。
 やっぱり、いくら考えてみても答えは出てきそうになかった。
 

               *****


 フェンス伝いに高校の外周を一周して、隣にある運動公園の中に入った頃には、我が物顔でのさばっていた太陽も、少しだけ大人しくなっていた。遊歩道の途中に設置されたベンチを見つけた僕たちは、そこで少しだけ休むことにした。
「何か飲み物買ってくるけど、リクエストは?」
「いいよ、気を遣わなくても」
 そう言いながら、平山は額に浮かんだ汗を手の甲でぬぐった。身に着けた純白のワンピースに溶け込むような平山の白い肌に、病的な要素を感じ取っていた僕の予感は、どうやら気のせいではなかったらしい。ベンチに腰を下ろした平山は、かすかに乱れた息を整えるように何度か深呼吸をした後、落ち着いたことを確認するように胸に手を置いた。
「少し疲れただけだから、平気」
「いや、僕ものどかわいたからさ」
「じゃあ、コーラで」
「疲れてるときに炭酸飲料は体に毒だと思うけど」
「十分気を遣ってるじゃん」
 そう言って笑った後に、平山は「井上君と同じのでいいよ」と言った。僕は平山を残して公園の中に設置された自動販売機を探しにかかった。
 確か、野球場のあたりに自動販売機があったことを思い出して、僕は遊歩道を野球場の方角を目指して進んだ。運動公園というだけあって、公園の中は野球場にテニス場、サッカー場と、運動をするには事欠かない施設が充実していた。もちろん、その気になれば遊歩道も立派なマラソンコースに早変わりするので、普段運動に無頓着な僕にはいい迷惑だった。結局、記憶の入れ違いで、野球場とテニス場とサッカー場を経由して、公園の出口に自動販売機を見つけた頃には、僕はマラソンコースの大方半分を走破(走ってはいないけど)していた。スポーツ飲料を両手に持って、ベンチのあった場所に戻った頃には、すでに冷えていた缶は僕の体温で程よく温められていた。それだけでも十分マヌケな話なのに、ベンチに座っているはずの人物と入れ違ったように、見知らぬカップルがそこに並んで座っている光景を前にした僕の顔は、かなり間抜けていたに違いない。
「あの」
 状況がうまく飲み込めないまま、僕はベンチに寄り添うようにして座る二人に声をかけた。見たところ二人は高校生のようだったけど、どちらも僕なんかよりよほど大人びた雰囲気を身にまとっていた。なにを語るわけでもなく黙って寄り添っている二人の姿は、この暑い中、唯一涼しげに公園の風景に溶け込んでいた。
「ここに、ワンピースを着た女の人がいなかったかな」
 缶ジュースを両手に持った僕をしばらく不思議そうに眺めていた二人は、僕の言葉を聞くとお互い顔を見合わせて、示し合わせたように微笑んだ。
「はい。さっきまでここに座ってたんですけど、私たちに席を譲ってくれたみたいで」
「そう。えっと……どこにいったか分かるかな」
「向こうの広場のほうへ行ったみたいです」
 そう言って、男の子は公園の入り口のほうを指差した。
「ありがとう」
 そう言って微笑むと、二人は並んで僕に会釈を返した。その場から離れて振り返ると、二人はもう一度肩を寄せ合って寄り添っていた。
 遊歩道をしばらく歩いていると、やがて、遊具の設置された広場を横切るように敷かれた遊歩道の脇に立っている平山を見つけた。平山はじっと動かずに遊歩道の脇から、広場のほうを見つめていた。数歩分だけ置いた距離まで近づいても、平山は僕に気づかなかった。その距離を保ったまま、僕は平山の背後に立ってみた。それでも、やっぱり平山は僕に気づかず、じっと同じ場所を見つめている。
 近くで見ると、平山の背中は思ったよりもずっと華奢だった。両肩はまるで線で描いたように頼りなく細くて、ワンピースがかたどる平山の後姿は、繊細というよりどこか儚かった。その儚さは、僕にベンチで寄り添っていた二人の微笑を連想させた。この先もずっとそうして寄り添っていられることを信じて疑わない二人の微笑み。そして、それを儚く連想させる平山の背中。僕は、どちらに対してこの悲しみを抱いているのだろうか。  
あの微笑みは、この先の未来に変わらずそこにあるだろうか。僕は平山の背中を見つめながら、そうであって欲しいと強く願った。
「平山さん」
 僕の声に反応して平山の肩がピクリと揺れた。振り返るまでに生じたタイムラグの間に、僕はへたくそな微笑を作って見せた。
 振り返った平山も、困ったように微笑んでいた。
「ずいぶん、遅かったね。待ちくたびれちゃった」
「ごめん。なかなか自販機が見つからなくて」
 そう言って缶ジュースを手渡すと、平山は「ぬるまったスポーツ飲料も体に悪そうだね」と言って笑った。僕はあいまいに微笑んでから、平山の隣に立った。
 広場に目を向けると、出来損ないのような遊具が申し訳程度に添えられたそこには、誰もいなかった。平山がそこに見ていたものを想像しながら、僕は缶ジュースのタブを空けた。平山は、缶ジュースを両手で持ったまま、また広場の中に目を留めていた。
「昔さ」
「え?」
「小さかった頃、一度だけここで母親に遊んでもらった記憶があるんだ。でも、どんな顔して母親が私の相手をしてたのかがどうしても思い出せなくてさ。記憶の中で笑ってるのは、私一人だけなんだ」
「うん」
「何かすごく大切なことのような気がするんだ。でも、駄目。やっぱり、どうしても思い出せないや」
 僕は缶ジュースを一口飲んだ。ぬるい甘さがのどの奥に広がって、気持ち悪い後味が口の中に残った。
「ねえ、井上君」
 平山はまだ広場をまっすぐ見つめたまま、僕の名前を呼んだ。
「私、変わっちゃったんだ。君は私のこと変わってないって言ってくれたけど、私……変わっちゃった」
 抑揚のない平山の声が、ゆっくりと僕の中に流れ込んできた。僕は、それが無意味だと知りながらも、平山に言った。
「だとしても、平山さんは平山さんだろ?」
「ううん。私はもう、君の知ってる私じゃないんだ」
「そんなこと――」
「高校を出て、この町を出ても、一人でやっていけるって思ってた。親の力なんか借りなくても、夢に向かってまっすぐ進んでる自分しか想像できなかった。でも、現実は違ったの。高校出たての、世間知らずな私が一人で生きていくためには、体を売るしかなかった。見ず知らずの好きでもない男の相手をして、それで稼いだお金を学費に当てて、夢のためだって、割り切った。でも、客に病気移されて、結局夢もなにも消えてなくなっちゃった」
 平山はゆっくり僕のほうを向いた。表情のなかった平山の顔に、一筋の感情があふれ出した。それが悲しみなのか、寂しさなのか、それともそれ以外の何かなのか、僕には分からなかった。今にも泣き出しそうな表情を浮かべながら、それでも平山の目から涙はこぼれてこなかった。
「馬鹿みたいでしょ。結局残ったのは、病気と汚れた体だけだよ」

(そこに居てくれるだけでよかったんだ)

平山の言葉が、僕の中で鮮明に浮かび上がった。

(あのときの私には、どうしようもなくて、ただ逃げ出すことしかできなかったありのままの自分を知っていてくれる人が必要だった。涙を流せる居場所が私にはどうしても必要だったんだ)

あの時、十歳の少女の泣き顔と重なって僕の中に根付いた喪失感が、もう一度、僕の中で目を覚ました。離れていくことを知りながら、それでもどうすることもできなかった僕があの夏の日に失ったものは、なんだったろうか。
「それが今の私なんだ」
 そう言って、平山は僕に笑いかけた。笑顔になりきらないその表情は、泣き顔のように悲しげだった。
「軽蔑、した?」
 かすれた平山の声が、近くから響いてきた子供のかん高い声にかき消された。
何かをつかもうとして緩めた僕の右手から、缶ジュースが零れ落ちた。
今手を伸ばせば、僕はあの日失ったものを取り戻せるのだろうか。これから失おうとしているものを、離さずにすむのだろうか。
動かした右手は、それでもなすすべもなく宙をさ迷って、結局平山に届くことはなかった。僕は何もつかめないまま右腕を下ろした。そんな僕を見て、平山は目を閉じて呟いた。
「やっぱり、変わってないね、井上君は」
 その後、小さく呟いた平山の「さよなら」は、やっぱり、子供の甲高い歓声にかき消されて聞き取れなかった。あの頃と同じように、離れていく平山の背中を僕は立ち尽くしながら、見えなくなるまで見守った。
 いつの間にか、広場の中には小さな子供と母親が二人で遊んでいた。母親が転がすサッカーボールを夢中で蹴り返すたびに、母親は手を叩いて喜んで、小さな女の子ははしゃぎながら笑っていた。
 平山がそこに見ていたものを想像しながら、僕は広場の中を見つめた。小さな女の子を見つめる母親の眼差しはとても優しくて、平山の記憶の中にあるものもそうであって欲しいと思った。それが救いになるとは思えないけど、そうじゃなければ哀しすぎる。
 広場に二人の姿がなくなってからも、僕はバカみたいにそこに立ち尽くしていた。


               *****


 それから、僕が平山に惹かれるのにそう時間はかからなかった。言葉を交わすとき無意識に手を伸ばせば届く距離まで近づいてくる平山の距離感や、誰とでもすぐ仲良くなれる快活さ、放課後に誰もいなくなる時間を見計らって決まった時間に顔を出してくれたのは、周りの目を気にする僕に気を遣ってくれていたのだろう。探し出せば、いくらでも平山は人に好かれる要素を兼ね備えていた。
 そんな平山が僕のような人間と親しくするのは、やはり、はたから見ても奇妙な光景だったのだろう。僕自身、どうして平山が僕に親しくしてくれるのか疑問に思っていたほどだから、それは無理もないことだった。
 放課後に僕と平山が一緒にいるところを偶然クラスメイトに見られてから、それが噂になるのにそう時間はかからなかった。平山はそんなこと気にしないといってくれたけど、結局僕が気にすることを気にして、僕たちが放課後に共有する時間は、始まって二ヶ月で終わることとなった。
 それでも、平山は学校が終わって昇降口から出てきたときには、必ず自分のクラスの教室に向けて手を振ってくれたし、年が明けて、別々のクラスになってからも僕を見つけると必ず声をかけてくれた。そんな平山に僕が惹かれていくのは当然のような気がしたけど、やっぱり、平山が僕に親しくしてくれる疑問はいつまで経っても晴れることはなかった。
 僕の中にあった疑問は、いつもあの放課後の日の平山の「秘密」という言葉につながっていた。大事そうに両手に包まれて平山の胸の中に潜むそれは、結局高校を卒業した後も分からずじまいだった。
 高校を卒業して、僕は地元の中小企業に就職して、平山は県外に出て一人暮らしをしながら、理容の専門学校に通うこととなった。それでも、卒業の日にケータイの番号を交換して別れた僕たちの関係は、特に発展することもなかったけど、途切れるようなこともなかった。
 高校を卒業してから二ヶ月。新しい環境とせわしない日々に慣れ始めた、春の終わり頃、初めて平山から僕のケータイに電話がかかってきた。
 そのとき、僕は恋愛小説のような題名の推理小説を読みふけっていた。本の帯を見ずに題名だけで直感的に買ってしまったので、この本が恋愛小説ではなくて推理小説だなと気づいたのは、登場人物が主人公の手によって無残に二人殺された後だった。それにしても、主人公が犯人という趣向は面白かったし、物語には恋愛の要素も充分含まれていたので特に気にすることもなく、僕は物語を読み進めていった。そんな時、マナーモードにしていたケータイが震えていることに気づいて僕は本から顔を上げた。
 時計に目をやると、いつの間にか時刻は夜中の3時を回っていた。こんな時間の着信など今までになかったことなので、僕は不審に思いながらもケータイを手に取った。平山からの着信だと分かった瞬間、僕の心臓はドキリと高鳴った。その後、平山から着信が五件も残っていたことに気づいた僕は、躊躇することもできずに、慌てて通話のボタンを押して、ケータイを耳に押し当てた。
「もしもし」
「あ……井上君?」
 電話越しのせいか、平山の声はくぐもっていた。それでも、僕が「うん」と返事をして
「ごめんね、こんな時間に」
「いや、どうせ起きてたから平気だよ。あ、ごめん。本読んでて着信に気づかなかったんだ。マナーモードにしてて、ほんとにごめん」
 とせわしなく謝ると、おかしそうに笑って、平山の声は少しだけ元気を取り戻した。それでも、深夜にケータイ越しに聞こえる平山の声は、耳を澄ましていないとうまく聞き取れなかった。
「ほんとにごめんね。せっかく、久しぶりなのに、こんな時間に」
「うん」
「ほんとに、ごめん」
「いや、どうせ起きてたし……」
「そっか」
「うん。その……なにか、用だった?」
 平山が僕の質問に答えなかったので、僕たちの間にしばらく重苦しい沈黙が流れた。僕は卓上スタンドだけに照らされた薄暗い部屋の片隅で、ほのかに光る卓上スタンドの明かりの一端にじっと目を留めた。流れる沈黙の中で、平山も僕と同じように暗い部屋の中でひざを抱えているような気がした。
 やがて「ちょっとさ」と平山の声が聞こえたので、僕は「うん」と声を返した。
「ちょっと、へこむことがありまして」
「うん」
「なんとなく、井上君と話したくなったんだ。もう一回コールして出てくれなかったら、あきらめようと思ってたんだけど」
「そう」
「うん」
 いつだって、平山と僕の会話は平山から始まった。会話を途切らせるのはいつも決まって僕からで、それを繋ぎ止めるのはいつも平山だった。
 僕は会話をつなぎとめるために、声を出した。
「あの、平山さん。僕でよかったら、話聞くけど」
「ありがとう。でもいいんだ。ただ、井上君の声が聞きたかっただけだから」
「え?」
「また、電話してもいいかな」
「あ、うん。それは、いいけど。平山さんは、大丈夫なの」
「大丈夫。少し、元気でたから」
「そう……」
「じゃあ、おやすみ、井上君」
「うん。おやすみ」


 それから、平山は不定期に僕に電話をかけてくるようになった。一週間、毎日電話をかけてきたかと思うと、急に二週間音信不通になったり、一日に何度も電話をかけてきたかと思うと、また一週間音信不通になったりもした。かけてくる時間帯も朝昼晩ばらばらだったので、平山からの着信に気づいた後に僕からかけなおすことはしばしばだった。それでも平山が電話に出られないときは、かけなおしのリレーを僕たちは何度も繰り返した。
 電話でやり取りをかわしながら、僕たちは一度も会うことはしなかった。それは初めての電話の後、何度目かのやりとりで平山のほうから持ちかけてきたことだった。
「できれば、会ったりすることはせずに、今はこのままでいたいんだ」
 その平山の申し出を、僕は「いい友達でいましょう」と受け取った。断れば、平山とのつながりがなくなってしまう気がして、僕は快くその申し出を承諾した。電話越しに「よかった」と平山の声は弾んでいた。
 それから、僕たちは電波だけの交信を幾度となく繰り返した。そんな日々の繰り返しの中で、平山が突然「会いたい」と言い出したのは、本当に急なことだった。

 
               *****


 公園を出た頃には、すっかり日が暮れていた。出口に向かう途中、遊歩道の脇に設置されたベンチの前を通りがかったとき、そこに二人の姿はもうなかった。僕は、あてもなく夕暮れの町を歩いた。
 古びたたこ焼き屋を通り過ぎ、古びた理髪店を通り過ぎ、古びた商店街の中を通り過ぎた頃、僕は何気なく足を止めた。街路脇に密集した店頭から放たれる人工的な光が辺りをこれでもかというほど照らしていた。空を見上げてみて初めて、夕陽が沈んでいたことに気づいた。星一つ浮かんでいない夜空は、ぽっかりと穴の開いた空洞みたいだった。僕の周りを、せわしなくサラリーマンや学生が通り過ぎていった。見るもの、感じるもの、すべてが僕によそよそしかった。
 やがて、歩き続けていくと、人工的な明かりが遠のいて、人通りも徐々にまばらになっていった。誰ともすれ違わなくなる頃には、閑散とした風景の中にたどり着いていた。
 もう何年も使い古されたような外灯は、チカチカと点滅しながら僕の足元をオレンジ色に照らしていた。外灯のそばには電信柱が一本立っていて、横断歩道の向こう側は薄暗くてよく見えなかった。歩道に沿って備え付けられたガードレールは、いつの間にか真新しいものに付け替えられていて、時間が風化したような場所で、そこだけがひどく浮いて見えた。
 考えても答えは出ないことは分かっていたけど、僕はどうして自分がここに来たのかを自問した。ここにいる理由めいたものは分かっていたけど、なにか考えるふりをしないと、正体不明の感情に飲み込まれてしまいそうだった。それも、哀しみからくる感情だということは理解していた。ただ、哀しい時にどうすればいいのか、僕にはよく分からなかった。
「なんだか、ここだけ時間が止まってるみたいだね」
 不意に背後から声がして、僕は驚いて振り返った。見ると、僕の背後にいつの間にか飯島が立っていた。飯島は、顔を強ばらせて振り返った僕を見てから、夜道に他人の背後に立っていきなり声をかけるという行動があまりにも不躾だったことに気づいたらしい。僕と目が合うと、飯島は「ごめん」と言って、苦笑いを浮かべた。
「脅かすつもりはなかったんだけど」
「飯島……」
 どうして、と尋ねる前に僕はそういえば飯島の家は確かこの近辺にあるということを、中学時代、親しくなった後、彼の口から聞かされたことを思い出した。ここで起きた事故のことを打ち明けた時、当時から僕が飯島の家へ遊びにいくことを頑なに断っていたことを、彼は黙って納得してくれた。それから、同じ高校を卒業してから、飯島は地元の大学へ進学して、この近辺に近づこうとしない僕と彼の関係は自然と疎遠になっていった。確か、こうして飯島と顔をあわせるのは、およそ二年ぶりだった。
「本屋を出て、帰ろうとしたら、井上のこと見かけてさ」
 そう言って人のいい笑顔を浮かべる飯島は、かさばった袋を左手に持っていた。おそらく、その中身は彼の好きな作家の新作だろう。大学という場所は僕にしてみれば縁遠い場所でしかなかったけど、人のいい笑顔も、読書が趣味なところも、飯島は何一つ変わっていなかった。
「ほんとに井上かどうか自信なかったから、なかなか声かけられなかったんだけど」
「そう」
 この場所に立つ僕の後姿を見て、飯島は僕が僕であることを確信したのだろう。しかし、そんなことをいちいち突っ込むほど僕は無神経な人間でもなかったし、飯島も根っから思いやりのある人間だった。
 飯島はなにを言うでもなく、僕の横に立つと、目を閉じて少しの間電信柱に向けて手を合わした。ここで命を落とした見ず知らずの少女のために手を合わせながら、飯島はなにを思っているのだろう。興味はあったけど、とても聞く気にはなれなかった。
 やがて、黙祷を終えた飯島と、僕は駅までの道を肩を並べて歩いた。お互いの二年間の近況を伝え終えた後、なんともなしに飯島が放った「なにかあったの?」という言葉は、まるで台本の中にあらかじめ用意されでもした台詞のように聞こえて、なにかおかしかった。
 僕も、まるで台本に用意された台詞をなぞるように「今日さ、平山さんに会ったんだ」と言葉を発していた。もしかしたら、僕と飯島があそこでああして偶然再会することも、台本に用意されていたのだろうか。そう思うと、幾分か気分が楽になってやっぱり、おかしかった。
 飯島はこちらをうかがいもせずに、俯きがちに僕の横を歩いていた。僕は、飯島に習って俯いて歩きながら、道端に落ちていた石ころを蹴飛ばした。石ころは、何度も道路にリバウンドして、ボチャンと、マヌケな音とともに、溝の中に落っこちた。
「なんか、思い出したんだよな」
 唐突な僕の台詞に、それでも飯島は何も言ってこなかった。
「小学校6年生の夏に、クラスメイトの女の子が引っ越して転校していったこととか、その子が転校する前日に、クラスメイトみんなにおみくじのキーホルダー配ってたこととか、その日、女の子が校門を出ていつもとは違う方向に歩いていくのを見て、その後をついていったこととか、その頃の自分がずっとキーホルダーを大事にとっておいたこととか全部」
 僕は小さく息を吐いてから、前方に見える外灯の明かりを睨んだ。
「今日、平山さんに会って、全部思い出したんだ」
 それだけ言って、僕は口を閉じた。前方に見える外灯の明かりを通り過ぎたとき、飯島が言葉を選ぶように慎重に口を開いた。
「そのとき別れた二人が、高校生になって、偶然再会したんだね」
 飯島の声を聞いて、僕は思わず飯島に顔を向けた。飯島はそんな僕の反応を予期していたみたいに、あらかじめ僕のほうを見ていた。
「平山さんに聞いたんだ」
 僕と目が合うと、飯島はそう言って、そっと僕から目を逸らした。
「当時、君の友達は僕ぐらいだったからね。平山さんが、相談を持ちかける相手も僕しかいなかった」
「相談?」
「思春期の女の子の悩みなんて、言うまでもないだろ?」
 そう言って飯島は僕に笑いかけた。それから、またうつむいて歩き出した。
「平山さんは、君のことが好きだったんだよ。多分、今でもずっと君のことを想ってるんじゃないかな」
 諭すような飯島の声は、やがて、一人の女の子の思いを語りだした。
「同じクラスに君の名前を見つけたときから、平山さんは君の事に気づいてたんだ。そして、君の鞄についてるキーホルダーを見て、君が初恋の男の子だと確信した。
すごくうれしかったって言ってたよ。君が、いまだにキーホルダーを持っていてくれたことがさ。でも、君は平山さんのことを覚えていなかった。平山という姓は、母親の再婚後、引っ越してから変わったものだから、旧姓の野沢瑞希しか知らなかった君が、彼女に気づけなかったことはしょうがなかったんだ。それに、当時の君たちはそんなに仲がよかったというわけでもなかったらしいし、平山さんも、その辺は納得してたよ」
 道の向こうから、オートバイが僕たちの横を通り過ぎていった。耳障りなエンジンの音が、耳鳴りのように僕の耳に残って、やがて消えていった。
「それから、放課後いつも君が一人でいることを知って、彼女は君と知り合う口実作りに学級委員の立場と、担任の先生を利用した。実は、担任の先生に君の事頼まれたってのは真っ赤な嘘だったんだってさ。君のことだから、わざわざ直接先生に文句つけにはいかないだろ? さすがに、口実がないと照れくさかったからって、彼女笑ってたよ」
 飯島はそう言って苦笑した。
「それから、平山さんは君と接しているうちに、感じたんだ。君がある程度他人と距離を置いて付き合うのは、ただ、そういう性分とかいうんじゃなくて、君がなにかに縛られてるからなんじゃないのかって。それで……」
「話したの?」
 僕は飯島が言葉を濁した先を促した。それは、紛れもない飯島の思いやりから来るためらいだった。
「勝手なことして、ごめん」と飯島が言ったので、僕は「いいよ」と言った。
「平山さん、言ってたよ。だったら、自分から君になにかを求めることはできないって」
「そう……」
「こんなこと、僕がとやかく言うことじゃないかもしれないけど」
「うん」
「あの事故に関して、君が責任を感じることはないんじゃないかな」
「うん」
 あの時、妹は当時六歳で、僕は当時八歳だった。その日は夕方から雨が降りだして、僕と妹は、傘を持たずに仕事に出た母親のために駅まで傘を届けにいった。妹は雨がっぱをつけて、どしゃぶりの雨に浮かれていた。僕は、左手に傘を、右手に妹の手を握っていた。交差点に差し掛かったところで、向こうから、どしゃ降りの雨の中をこっちに向かって母親が走ってきているのが妹の目には映っていた。僕は、傘をさしていたのでそのことに気づかなかった。
 横断歩道の向こうに見える歩行者専用の赤信号を僕はぼんやりと眺めていた。
 雨のせいで妹の手は濡れていた。僕がぼんやりしていて、ちゃんと妹の手を握っていなかった。青信号で侵入してきた車のドライバーが、雨のせいで急に飛び出してきた妹に気づくのが少し遅れた。その瞬間、さまざまな偶然がありえないぐらい息を合わせて、妹を容赦なく飲み込んだ。
 妹の小さな手が、僕の手の中からすり抜けていったあの感触を、僕は多分一生忘れることはないだろう。
「それでもさ」
 まるで、僕の心を読み取ったように、飯島の声がそっと僕の耳に流れ込んできた。
「それでも、君がこのままずっと過去を引きずっていくのは、無意味なことだと思うんだ」
「うん」
「平山さんが言ってた。あの夏の日に、今この瞬間、時間が止まってしまえばいいのにって思ったって。でも、僕は思うんだ。平山さんの中で、そのときから時間は止まったままなんじゃないかって」
 飯島が足を止めて僕に目を留めた。暗がりの中、真剣な飯島の眼差しを受け止めて、僕は、ああ、そうか、と思った。
「きっと、その時間を動かせるのは君だけなんだと思う」
 それから、僕たちは無言で駅まで歩いて「じゃあ」と言い合って別れた。離れていく飯島の後姿を見つめながら、僕は決して届くことのないその想いを、彼は今も胸の中に秘めているのかを考えた。
 多分、その答えを僕が知ることはこの先ずっとないだろう。


               *****


「え?」
「だから、今、実家に帰ってきてるの。だから、今日会えないかなと思って」
「うん。でも……」
「どうしても、君に会って伝えたいことがあるんだ」
「伝えたいこと?」
「そう。駄目かな」
「いや、駄目なことはないけど」
「よかった。じゃあ、午後三時、場所は……私たちの母校前」
「うん」
「うん」


               *****


 それから少しして、平山が自殺したことを、僕は人づてに聞いて知った。踏み切りの中に飛び込んだ平山を、電車は避ける間もなくひいた。即死だったらしい。
 それを知ってからも、僕の生活はよどみなく流れていった。仕事に行って、ご飯を食べて、寝て、空いた時間に本を読んで、仕事に行って。そんなことを、僕は意味もなく繰り返していた。そんなある日、飯島が僕の家にやってきた。偶然、仕事が休みで自分の部屋で本を読んでいた僕は「少し話したいんだけど、いいかな」という飯島の申し出にうなずき、彼を家に招き入れた。
 飯島が僕の家に上がることなど、高校時代以来のことだった。突然の飯島の来訪に、僕の母親は大げさな声を上げて飯島の名前を呼びながら「久しぶりねえ」とか「変わらないわねえ」とか言って、一人ではしゃいでいた。そういえば、飯島が初めて家に遊びに来たときも、母親は舞い上がって飯島に質問攻めをしていた。おそらく、僕の母親は今でも飯島のことを僕の親友だと思っているのだろう。僕も飯島も、しばらく母親の質問や世間話に付き合ってから、僕の部屋に入った。
「ごめん」
 キッチンの冷蔵庫から取ってきた缶ジュースを一本飯島に渡してから、僕はそう言った。初めて飯島が僕の部屋に入ったときも、開口一番彼に謝ったことを思い出して、僕は苦笑した。飯島も、同じことを思い出したらしく、何も言わず僕に苦笑を返した。
「とりあえず座ったら」
 そう言って、僕は部屋の隅に転がっていた座布団を軽くはたいてから、床にそれを置いた。飯島は「うん」と言いながらも、部屋の入り口に立ったまま、動こうとしなかった。僕は、飯島の様子をうかがいながら、ベッドの上に座った。
「泣いた?」
 飯島はそう言って僕に目を向けた。何のことかと聞き返すのはあまりにも白々しかったので、僕は少しの間飯島に目を留めてから「いや」と答えた。
「僕も」
 そう言って、飯島は笑った。
「いきなり、死んだって言われても、実感湧かないよな。泣くに泣けないって言うか。でも、それを知った時、あまり驚かなかったんだ。嫌な予感はしてたから」
「そう」
「僕たちさ、いつもクラスの端っこのほうにいたよな」
「うん」
「目立たなくて、女の子ともうまく話せないような僕たちの前に、平山さんは何の前触れもなく現れてさ。彼女が君の事好きだって事は知ってたし、僕はそれでもよかったんだ。ただ、彼女にはなんていうか、幸せになってもらいたかったよ」
 そう言って、飯島は僕を見つめた。その目には、僕を責めるような感情は微塵もうかがえなかった。ただ、どうしようもなく飯島は平山の死を悼んでいた。
「最後に一つ、君にどうしても聞いておきたいことがあるんだ」
 飯島は、パソコンラックの前に立って、そこに倒して置かれた写真立てを手に取った。写真を見つめる飯島の背中を、僕は黙って見守った。
「平山さんは、止まった時間を動かすことはできたのかな……」
 僕は、何も答えることはできなかった。


 写真立てに収められた写真の中で、平山が笑っていた。それは、確か高校の修学旅行で、北海道に行った時の写真だったけど、アップで映った平山の顔が、背景をすべて塞いでそこにはただ、無防備に笑う平山の笑顔だけがくっきりと映し出されていた。
 寒さに頬を赤くさせ、Vサインをしてみせるその頃の平山に、失うものは何もなかった。
 僕は飯島が立てていったそれをただじっと見つめた。
 平山と別れた日、駅まで帰る道のりの途中、飯島は「過去を引きずっていくのは、無意味なことだ」と僕に言った。そして「平山の中で止まった時間を動かせるのは僕だけだ」とも言った。でも、それは僕だけじゃなくて、平山だってそうだった。平山も、僕と同じように過去にとらわれていた。それだって、無意味なことなんじゃないのか。
 過去にとらわれていなければ、きっと平山は死なずに済んだ。平山が死んだのは、変わってしまった自分に対して、僕に負い目を感じたからだ。それは、無意味なことなんじゃないのか。何より、平山が死んだのは、僕のせいなんじゃないのか。
 実感の伴わない悲しみが、僕の胸の中をよぎって、やがてそれは僕に何も残さないまま消えていく。この先も、僕はそんな日々を無意味に繰り返していくのだろう。


               *****


「あの、私のこと覚えていますか」
 夏が終わろうとしていた。その日、僕は仕事帰りに立ち寄った公園で、見ず知らずの女の子に唐突に声をかけられた。陽の沈んだ公園の景色の中、遊歩道ですれ違ったその女の子は、すれ違ってから数秒後に、背後から僕に声をかけてきた。
 制服に身を包んだその女の子を、僕はどこかで見た覚えがあった。でも、それ以上のことは思い出せず、僕は「えっと……」と言葉を濁した。自信なさげに僕をうかがっていた彼女は、僕の反応を予期していたように微笑んだ。
「いつか、公園で会いましたよね。そのとき、私ベンチに座ってたんですけど」
 僕は彼女をじっと見ながら、あの日の記憶を辿った。あの日、遊歩道のベンチに寄り添って座っていたカップルのことを思い出して、僕は「ああ」と声を出した。あのときの二人の微笑みは、まだ僕の記憶の中に残っていた。
「あのときの」
 僕がそう言うと、女の子も「はい。あのときの」と言った。微笑みあった僕たちは、やがて、遊歩道に備え付けられたベンチに並んで腰を下ろした。
「あの、実は私、伝言を頼まれてたんです」
 軽い挨拶を交わした後、女の子はそう言って肩にかけていた鞄をひざの上に置いた。
「伝言?」
「はい。多分、近いうちにあなたがここに来るだろうから、もし会ったら伝えて欲しいって。それと、これ……」
 そう言って、女の子は鞄の中を探って、古びたキーホルダーを取り出した。
「あなたに、返しておいて欲しいって」
「え……」
 僕は彼女からところどころ黒く変色した「おみくじ」のキーホルダーを受け取った。しばらく手のひらに載せたそれに目を落としてから、僕は彼女に視線を戻した。
「これ……」
「私たち、いつも学校帰りにこの公園に座って時間を潰すんです」
「え?」
「あの日も、そうしようと思ったら先客がいて。席があくまで何度も遊歩道を行ったりきたりしてたら、その人に声をかけられて、席を譲ってもらいました。そのときに、思いついたように女の人が私たちに聞いてきました。あなたたち、いつもこの公園に来るのかって」
 彼女は僕から目を逸らして、足元に視線を移した。僕も同じように彼女の足元に目を落とした。
「はいってうなずいたら、その人、私たちにお願いがあるって言いました」
「お願い?」
「はい。もう少ししたら、缶ジュースを二つ持った男の人がここに来ると思うから、私が向こうのほうへ行ったって伝えて欲しいって。それと、そのキーホルダーを私たちに預かっていて欲しいって。それで、次にこの公園であなたを見かけることがあったら、これをあなたに返しておいて欲しいって、言ってました」
「そう……」
「それで……ごめんなさい」
「え?」
「そのキーホルダー、中からくじが引けますよね。それで、見ちゃったんです」
「見た?」
「はい。大吉の裏側」
「大吉の裏側?」
 申し訳なさそうに顔を伏せる彼女を、僕は目を丸くして見つめた。やがて、僕の様子に気づいた彼女が「もしかして」と言って、意外そうな顔をして僕を見てから、くすっと笑った。
「なに?」
「いえ。とりあえず、大吉を出せば分かると思います」
 彼女がなにを言っているのかよく分からなかったけど、大吉を出せば分かるというので、僕はその指示に従いおみくじのキーホルダーを何度かひっくり返した。
 一発目から「大凶」を引き当てた僕を見て、隣で彼女が小さく笑った。幸先の悪い運試しは、やはり「大吉」を引き当てるまでかなりの時間を要することになった。
「あ、大吉」
 何十回目かの繰り返しの後に引き当てた大吉を見て、彼女が弾んだ声を出した。そして、彼女は僕の手のひらに乗った小さな棒を裏返してから「ほら」と言った。
 その声と同時に、棒の裏に書き込まれた文字が僕の目に入った。

(大好き! あなたの未来のお嫁さんより)

 幼さの残った、少し不細工で、にじんだその文字を目の当たりにした瞬間、僕の中になにかが入り込んできた。それは、唐突に僕の中に舞い降りてきて、やがて、せき止められていた僕の中のなにかを優しく通り過ぎていった。
 あの日の放課後、初めて平山と言葉を交わしたとき、平山は僕のキーホルダーをいじっていた。そのとき、幼かった頃の自分の願いが照れくさくなった平山は、自分のものと僕のものを取り替えたのだろうか。そして、そこに残されたもう叶うことのない願いを、平山はずっと変わらずに胸の中にしまいこんでいたのかもしれない。

(どうしても、君に会って伝えたいことがあるんだ)

それがもう叶わないと知った時、平山は「さよなら」と僕に言った。でも、あの日平山が本当に僕に伝えたかったことは、そこに刻まれた、なんでもない願いだったんじゃなかったのか。
 僕の中に何も残さなかった平山の死が、言いようのない悲しみと一緒に僕の中であふれ出した。今ここに平山がいないこと。そして、叶わなかった平山の想いが、ただどうしようもなく、切なくて、悲しかった。
「え……」
 涙を流す僕を見て、女の子が声を漏らした。それでも、涙はとめどなくあふれて僕のほほを伝っていった。
「ごめん……」
 そう言って、僕は失くしてしまったものを握り締めて、自分の拳を見つめた。
「あの……」
 女の子は遠慮がちに、それでも僕の心情を汲むように、そっと僕に声をかけた。
「あなたにって、伝言があります。伝言というより、質問なんですけど」
「うん」
 僕は顔を上げて女の子に目を向けた。滲む視界の中で、女の子の表情が悲しそうに揺らいで見えたのは、僕の涙のせいだろうか。やがて、女の子は口を開いた。
「あなたは、私のことを好きでしたか?」
 そのとき、僕は気づいた。僕はまだ、平山にこの想いを伝えてはいなかったことを。伝えるべきことを、何一つ伝えてはいなかったことを。
 もし、あの頃僕がこの気持ちを伝えることができたなら、僕たちは違った未来を歩むことができたのだろうか。平山の思い描いていた未来を、僕たちは失わずに済んだのだろうか。
「うん……」
 僕は小さくうなずいてから、伝えられなかった気持ちを言葉に変えた。それはもう、決して平山には届かない、僕が抱き続けていた想いだった。
「好きだよ……」








                                了


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