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名も無き者達の幸福

天井裏からどうぞよろしく

作者: くる ひなた



  百の属国を抱える大帝国。

 その頂点たるは、三年ほど前に齢二十で即位した若き皇帝陛下である。

 彼の父である先代皇帝は、かつては自ら剣を振り回して戦に明け暮れたが、世を平定するやいなや政治に対する興味を無くし、幼き頃から神童の異名をとった息子にさっさと玉座を譲り渡してしまった。

 先代皇帝の遠征により、新たに帝国の属国となった国は三十余り。

 新皇帝はそんな国々に自治を認め、帝国の支配は表面上は平和的なものだった。

 しかし、各属国の王族にとって、帝国の動向は非常に気になるところ。

 若さ故の気まぐれで、新皇帝がおかしな政策を打ち出さないとも限らない。

 そうなった時にいち早く対策を錬るため、あるいは反旗を翻すタイミングを間違えないためにも、各国は秘かに諜報活動に力を入れていた。

 その要ともいえる場所が帝国の中枢――皇帝陛下の執務室


 ……の、天井裏であった。




 

 よく晴れた日の昼下がり。

 容赦なく襲いかかる睡魔に、ついに大欠伸を誤魔化せなかった少女は、隣に並んでいた男に「たるんでるぞっ!」と叱られた。


「油断するな、チビ! ターゲットは若造だが、先代に匹敵する武人と聞く。気を緩めれば、お前の気配などすぐに悟られてしまうぞ!」

「あ、はい。ごめんなさい、とと様」


 チビと呼ばれた少女は慌てて両目を擦ると、その場に腹這いになって下を見下ろした。

 彼女達が今居るのは、日の光の届かない場所――件の帝国皇帝執務室の天井裏である。

 高い天井に貼られた板に小さな穴を開け、その下で書類の山と格闘する若き皇帝陛下を眺めるのが仕事。

 少女を叱りつけたのはさる属国の諜報部隊の幹部で、孤児であった彼女を諜報員として育てた男だ。

 少女は(とと )様と呼ぶが、もちろん血の繋がりはない。

 男は新皇帝即位のその日から執務室の諜報任務に就いていたが、一年ほど前から少女を見習いとして一緒に天井裏に出入りさせていたのだ。

 

「捕えられたスパイの末路は悲惨だぞ。だいたいお前は……」


 養い子可愛さに、なおも懇々と説教を続けようとした男だったが、その隣から「まあまあ」と彼を宥める声があった。


「そうカリカリしなさんなって。こう毎日平和では、欠伸の一つも出るってもんですわ」

「おや、これはどうも。今日は重役出勤ですな」

「いやあ、最近どうにも腰が痛くてねえ。わしもそろそろ引退ですかな」

「いやいや、まだまだ、お若い」


 彼らは相手の名前をけして呼ぼうとしない。

 そもそも最初から互いに自己紹介することもなく、この場に集うのは諜報員ばかり。

 肩を叩き合う男が、どこの国の者かも知らない。

 薄暗い天井裏、ましてや覆面で隠しているので顔も分からない。

 互いに目だけ出し、布で覆われた口から聞こえるのはくぐもった声。

 帝国皇帝陛下の執務室の天井裏では、様々な国から派遣された諜報員達がひしめき合い——


 実に平和的な交流を深めていた。


「どうです? 一杯やりませんか」


 また別の諜報員が、小振りのボトルを抱えてやってきた。

 それを皮切りに、各所からも覆面の連中がわらわらと集まってくる。


「あ、いや、さすがに勤務時間中にビールは……」

「ご心配なく。ノンアルコールですから」

「おお、それならばお相伴にあずかりますよ。いやぁ、いいものができましたなぁ」

「まったくですなぁ」


 わっはっはと、声を潜めて笑い合うおやじ諜報員達。

 紅一点で一番年下の少女は、天井裏ではマスコット的存在だ。

 盛り上がり始めたおやじ達の輪ににじり寄り、彼女もノンアルコールビールのボトルを掴もうとした。

 ところが、すんでのところでボトルは別の手に奪われて、彼女の掌は虚しく宙を切る。


「おっと、おチビちゃんはいかんぜよ。これは大人の飲み物だ」

「どうしてですか! ノンアルコールだったら、未成年でもオッケーじゃないですか!」

「味はビールのまんまだからな。若ぇうちからこの味を覚えちゃなんねえ」

「おチビちゃんは、こっちな。早く大きくなれよぅ」


 おやじ達はそう言って、むくれる少女に別の飲み物を手渡した。

 牛のお乳から作られた、白くて甘い乳酸菌飲料。

 彼女は口を尖らせたまま、覆面の脇からストローでちゅーとそれを吸った。

 そんな少女の姿に、ヒソヒソ声で盛り上がるという器用な芸当をして見せたおやじ諜報員達だったが、天井の下で動きがあったのに気づいて、一斉にそれぞれの覗き穴に片目を押し当てた。

 少女も慌ててそれに倣う。

 すると、誰かがぷっと小さく噴き出して言った。


「おっ、ターゲットもやさぐれてんぞ」


 その言葉通り、皇帝陛下はたった今宰相閣下が執務机の端に置いて行った冊子の束を叩き落とした。

 そして、「くそっ……!」と麗しき見た目に似合わぬ悪態をつくと、椅子から立ち上がって床に散らばった冊子を睨み付けている様子だった。

 

「ああ、最近多いな。そろそろあの方もいい年だ。宰相閣下が皇妃を娶れと口煩くなってきているな」

「おい、見ろ。あの姿絵の山。……大変だなぁ、大帝国の皇帝様も」


 皇帝陛下が床に叩き落としたのは、妙齢の女性の姿絵――いわゆる見合い写真のようなもの――ばかり。

 大国を率いる若き皇帝陛下はいまだ独身で、国内外を問わず多くの女性の憧れの的だ。

 属国の王は、王女や自国の娘を差し出して、何とか帝国に取り入りたいと躍起になっている。

 あわよくば、次の皇帝の後見人になろうと目論んでいるのだ。

 そんな下心丸見えの相手ばかりを押し付けられる皇帝陛下もお気の毒だなと、天井裏では諜報員達の同情が集っていた。


「おっ、ターゲットがどこかへ行くぞ」


 散らばった姿絵を拾うこともなく、皇帝陛下は執務机を離れてどこかへ歩いて行った。

 彼は、執務室の奥の小部屋――天井裏からは死角になる場所へと姿を消した。 

 そこは、いわゆるお手洗いである。


「トイレタイムか」

「しばらく休憩だな~」


 トイレは暗黙の了解で不可侵条約が結ばれている。

 そのため、諜報員達は絶対に覗かない。


「ハバカリの時くらい気を抜かしてやんねえと、皇帝様も参ってしまうものなあ」

「そうそう、プライバシーって大事だよな」

「じゃあ、ターゲットが戻るまで一局やりますか」

「いいねぇ~」


 誰かが囲碁セットを持ち出してきて誘うと、誰かがそれにのった。

 あとの者は、再びボトルに口をつけて、話に花を咲かせ始めた。

 なぜなら、皇帝陛下はトイレが長いのだ。

 一時間ほどこもっている時だってある。

 大国を背負う重圧に、ストレスがたまってお通じに苦労しているのだろうかと、少女も彼への同情を禁じ得なかった。



「――よう」

「あ、こんにちは」


 そうこうしていると、新たな人物が天井裏組に加わった。

 ここに集う他の連中と同じように、覆面で顔を隠して名乗らないので、どこの国の者かは分からない。

 だが、布越しに聞こえる声は若々しく、少女を除けば諜報員の中では一番若いだろう。

 一年前に少女が見習いとしてやってきた時には、既に彼も天井裏連中の中にいた。

 男は頬杖をついて下を眺めていた少女に目を細め、その頭をぽんぽんと撫でた。

 そんな彼にボトルを持ったおやじ諜報員が陽気な声をかける。


「おお、いいところに来たなぁ。お前さんも一杯どうでぇ?」

「天井裏で酒盛りとは豪儀だな」

「いや、これノンアルコール。最近売り出された、酒税をかいくぐるための逸品よ。なかなかいけるぜ」

「へえ……いただくよ」


 男はボトルを受け取ると、覆面の隙間から飲み口を突っ込んでぐいっとあおり、喉を鳴らしてそれを飲んだ。


「おっ、うまい」

「だろぅ?」

「これなら、仕事をしながら飲んでも文句を言われないな」

「おうよ」


 がははと笑うおやじ諜報員に礼を言うと、男は覆面の下でストローをくわえている少女に向き直った。


「――で、お前は何を飲んでいるんだ?」

 

 そう問うたかと思うと、すぐに面白そうな声で続ける。


「ああ……ミルクか。お子様だからな」

「違いますっ! お腹に優しいビフィズス菌入り乳酸菌飲料です! コラーゲンたっぷりでお肌ツルツルになるんですうっ!」


 からかわれてぷんすかする少女に、男はくつくつと笑ってもう一度頭を撫でた。

 彼はこうして、よく少女をかまう。

 一番年下で一番新米な彼女のことを、随分と可愛がっているようだ。

 珍しいお菓子や本を差し入れてくれることもあった。

 彼女の親代わりの諜報員は最初、「無闇にこいつの物欲を育てるなよ」と難色を示したが、男が与えるのがけして高価なものではなかったからか、そのうちあまり口を挟まなくなった。


「じゃあ、そんな別嬪にふさわしいものをやろう」

「わっ、何ですか? 髪飾り?」


 そんな男がこの日少女にプレゼントしたのは、綺麗な石のついた髪飾り。

 おそらく、今までもらった品と比べれば、随分高価な代物だろう。

 少女は本当にもらってもいいものだろうかと迷ったが、彼女だって年頃の女の子である。

 綺麗なものや可愛いものには弱いのだ。

 彼女は親代わりの諜報員が囲碁に夢中になっているのを確認すると、こっそり男の手から髪飾りを受け取って礼を言った。


「ありがとうございます。こんな綺麗なもの、私初めてです」

「できることなら、それを髪に飾った姿を見たいものだが……」

「あ、えっと……」

「ああ、いいんだ。独り言だから、聞き流してくれ」


 他国の諜報員同士が明るい場所で相見えることは、まあない。

 せっかくもらった髪飾り。

 それをつけた姿を日の光の下で彼に見せられないのが、少女はひどく残念に思った。





 皇帝陛下のトイレタイムはまだ続いている。

 執務室にターゲットの姿がないことを確認した誰かが、「そういえば」と口を開いた。


「この前、寝室担当の奴と飲んだんだがなぁ……」


 皇帝陛下の寝室の天井裏に詰める諜報員が言うには、以前はあまり使われていなかったベッドに、ここ数ヶ月は毎晩主がやってくるようになったとか。

 つまり、これまで毎晩別のベッド――何人かいる側妃のベッドで休んでいた皇帝陛下が、自室で独り寝をするようになったと言うのだ。

 すると、また別の諜報員が口を開いた。


「それよか、俺は後宮に出入りする奴と一杯やったんだが、どうやら側妃達が暇を出されて実家に帰されたらしいぞ」

「おいおい、どうしちまったんだよ皇帝様は。枯れちまったのか? まだ若ぇのによ」

「だから余計に、宰相閣下が嫁取りに躍起になってんだな」


 皇帝陛下も大変だなぁと、おやじ諜報員一同改めてターゲットに同情した。

 そんな中、“嫁取り”の言葉に反応し、意を決したように口を開いた者がいた。

 あの少女諜報員だ。

 

「あ、あの……」

「おう、どうしたおチビちゃん」


 彼女は今日、ここに集う連中に伝えなければならないことがあったのだ。


「実は……私、今日を限りに移動になるんです」

「――えええっ!!?」


 おやじ諜報員達は一斉に驚きの声を上げ、最後に加わった若い男が少し声を硬くして問うた。


「移動って……どの部屋に?」

「いえ、あの……城での諜報活動から外れ、とあるご貴族様の愛人になることに決まりました」

「――何だと!?」


 男は鋭くそう口にした。

 もちろん、他の諜報員連中も両目を見開いて驚いている。

 少女は気まずそうな顔をしながらも、さらに続けた。


「私、来月でようやく成人を迎えるんです。それが済んだら床の技術を学んで、半月後をめどに新しい職場に派遣されます」

「と、床っ……!?」

「房中術を学ぶってことか? お、おチビちゃんがっ……!?」


 おやじ諜報員がそう言ってどよめき立つと、少女を育てた男が吠えた。


「おおう、くそうっ!!」


 少女が嫁ぐ貴族は帝国の権力者だが、愛人を既に幾人も抱えている好色爺。

 確かに、女の諜報員が潜入するには愛人に紛れるのが最も手っ取り早く、閨で油断させれば有力な情報を得ることもできるだろう。

 しかし、手塩にかけて育てた養い子をそんな相手に嫁入りさせなければならない男の心中は、当然穏やかではなかった。


「よりにもよって、あんな脂ぎったじじいにチビをやることになるなんてっ……! うちのボスは、鬼だ! 人でなしだ!」

「とと様、だめですよ。ボスは地獄耳だから聞こえちゃいますよ」

「うるせぇ! 聞こえたってかまやしねぇ! そもそも、あのじじい相手に成人前のお前の姿絵送りつける時点で、ボスの頭ン中は腐ってる!」

「でも、目にとまっちゃったんだから仕方がないですよ。大丈夫、愛人いっぱいいますから、そう頻繁に夜のお相手することもないだろうって、ボス言ってましたし……」


 少女が無邪気にそう言うと、親代わりの男はわああっと顔を覆って泣き伏した。

 そんな彼の肩を抱き、諜報員仲間達はそろってもらい泣きした。


「辛ぇなあ、おやっさん……」

「飲みねえ、飲みねえ! 飲んで、パーっとおチビちゃんの門出を祝ってやりましょうや」

「ノンアルコールだけどね」


 湿っぽくなった天井裏で、少女は一年をともに過ごしたおやじ達にペコリと頭を下げた。



「皆さん、短い間でしたがお世話になりました」



 諜報員仲間達は、「寂しくなるなあ」「元気でな」と涙ぐむ。

 そんな中、たった一人若い男だけが覆面の下で口を引き結び、鋭い目をして宙を睨んでいた。







 翌日、育ての親である諜報員に国境まで送ってもらい、少女は辞令を受け取りに国に向かった。

 乗り合い馬車で三日の旅はなかなか快適。

 そもそも、彼女は周囲が嘆くほど自分の未来を悲観してはいなかった。

 確かに、嫁ぐ相手が自分の祖父ほどの年齢で、ライバルの愛人がたくさんいるというのは嬉しくないが、大きなお屋敷の中に部屋を与えられた上に、三食昼寝付き。

 こんなおいしい話は、この先そうそうないだろう。

 夜のおつとめに関しては、いかんせん少女は未経験の身ゆえよくは分からないが、プロの姉さんの手解きを半年も受ければ何とかなるだろうと、楽観視している。

 鼻歌混じりに馬車に揺られる少女は、頑張れば二日で帰れたところを、さんざん寄り道してお土産を物色するくらいに余裕があった。


 少女の祖国は、先の戦乱で帝国に敗北してその傘下に入った。

 属国としては、いわば新参者である。

 当然帝国に対する発言権は弱い。

 だからこそ、諜報員を遣わせて帝国皇帝陛下の動向に目を光らせ、少しでも自分達の国に有利になる情報を集めたいのだ。


 諜報員のボスは、軍司令官である第二王子。

 少女が彼の執務室を訪ねると、もともとあまり血色の良くない顔が、いつにも増して青かった。

 そういえば、少女の父親のような諜報員が王子を恨み、連日連夜わら人形に五寸釘を打ち付けて呪っていたのを思い出した。

 もしかして、それが効いて腹でも下しているのだろうか。

 そう首を傾げた彼女に、王子は優れぬ顔色のまま驚くべきことを告げた。


「――え? 嫁ぎ先変更……ですか?」

「そうだ。しかも、時期も急遽早まった」

「ええ? 半年後ではなくてですか?」

「今すぐ、だ。……実は、あちら様からは既にお迎えが来ている」


 突然のことに、さすがに楽観主義の少女も戸惑った。

 そもそも、技術も会得せぬまま自分がターゲットに嫁いだところで、ベッドの上で充分な仕事ができる自信がない。


「床のお勉強がまだです」


 少女が心底困ったようにそう訴えると、王子とは別の声がそれに答えた。


「心配するな。閨でのことなら私が教えてやる」

「――え……?」


 どこかで、聞き覚えのある声だった。

 少女が慌てて辺りを見回すと、奥の扉が開いて一人の若い男が現れた。

 彼の姿にも、見覚えがある。

 それもそのはず。

 男はここ一年、少女が天井裏からこっそり眺め続けた相手――帝国皇帝陛下、その人だったのだ。


「あ、あわわわわっ、ボ、ボスっ!?」

「……お前が嫁入りするのは、この方の元だ」

「え、えええええっ――!!?」


 思ってもみない展開に腰を抜かしかけた少女を、大股で歩み寄ってきた皇帝陛下がさっと支えた。

 さすがは文武両道とたたえられる男。

 小柄とはいえもうすぐ成人を迎える少女を、彼はそのまま片腕一本で軽々と抱き上げてしまった。

 そして、今まで上から見下ろしてばかりだった美貌が、少女のすぐ近くで柔らかく綻んだ。


「成人の祝いが済んだら、ビールだって飲ませてやる」

「え?」

「もちろん、ノンアルコールではないやつだ」

「――っ!?」

「もうすぐ、ミルクで乾杯してふてくされる必要もなくなるな」

「ど、どうしてそれを……?」


 まるで、三日前の天井裏での出来事を知っているかのような言葉に、少女はひどくおののいた。

 しかし、まっすぐに見つめてくる皇帝陛下の目を見て、彼女はその時はたと気づいた。


「あ、あなたは……まさか……」


 切れ長の鋭い目元に、けれど優しく注がれる視線には覚えがあった。


 大きな手が伸びてきて、少女の髪を束ねていた飾りにそっと触れる。

 それは、三日前のあの日、若い諜報員の男が少女にプレゼントしてくれた髪飾り。

 皇帝陛下はさらに眦を緩めると「よく似合っている」と甘い声で囁いた。



「あの……この髪飾りを下さった方は……陛下?」



 戸惑う少女の言葉に彼は何も答えなかったが、口の端を持ち上げてにやりと笑った。







 少女が乗り合い馬車にのんびり揺られている頃。

 帝国皇帝陛下はたった一人の護衛だけを連れて、自ら馬を駆って属国に先回りしていた。

 慌てて出迎えた老王は真っ青な顔で狼狽えるばかりで話にならず、皇帝陛下は直接少女のボスである第二王子に面会してこう言った。


「私の執務室の天井裏に、貴様が放ったネズミがいるらしい」

「なんのことだか、わたくしにはさっぱり……」


 シラを切ろうとする王子ににやりと鋭い笑みを向け、皇帝陛下はこう続けた。


「二匹のうち、子ネズミの方を私に寄越すならば、この度のことは不問といたす」

「……」

「その子ネズミ、年老いた狸のベッドにやるには惜しいとは思わんか?」


 彼が全てお見通しだと知った王子は、すぐさま観念した。

 そのかわり、少女という駒を、今度はできるだけ自国に有利に進められないものかと思案し始めた。

 しかし、そんな彼の思惑を嘲笑うように、若き皇帝陛下は両目を細めて告げた。


「親ネズミの方は、そのまま天井裏に放っておくがいい。ただし、私に向けられるものが視線から刃に変われば、その時はこの国を一瞬で焼け野原にしてくれる」

「……」


 属国の諜報員の存在など、皇帝陛下はすべて承知の上なのだ。

 それでいて、好きにさせている。

 覗き見られた情報くらいで、帝国はぴくりとも揺るがないと、彼は示唆しているのだ。

 王子は口を噤み、皇帝陛下の要求に従うしかなかった。






 ある日突然、大帝国の皇帝陛下は、どこからか可愛らしい妃を連れ帰った。

 いずこかの属国の王女ではとの噂はあるが、その出自は定かではない。

 

 

 そうして皇妃となった少女が、実は属国の諜報部隊上がりであったと知っているのは、今も天井裏に詰める各国の諜報員達だけ。

 彼らは、その情報を祖国にさえ伝えることなく、一生それぞれの胸に仕舞ったままであった。 






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― 新着の感想 ―
[良い点] 設定の使い方が上手だと思いました。ラストは早い段階で読めましたが、結果が分かっていながらも楽しく読めました。
2019/06/21 20:51 退会済み
管理
[一言] タイトルにセンスを感じました。中身もそれを裏切らずとても良かったです
[一言] 何度読んでもこのくだりがすきです。 今度小説の方も読み直そうかなと思いました。
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