『おいボウズ。何でやり返さなかった』
『――え?』
それは、遠いある日の出来事。
『オマエ、あのガキたちに殴られっぱなしだったろうが。男なら少しくらいやり返してやろうとか思わなかったのか? 悔しくねェのかよ』
『…………オジサン、だれ?』
『オジ……オレはオマエの親父さんにちょっと世話になったことがあるだけさ。名乗るほどのもんじゃねェ』
『おとうさんの知り合い?』
『まあ、知り合いっつーか、なんつーか……いやオレのことはいいんだよ。今はオレがオマエに聞いてんの』
夕暮れ時の公園で、擦り傷だらけだった俺に訪れた、ほんの些細な出来事。
『何でオマエが殴られてんのかはオレには関係ないけどな。でもオマエ、あそこまでやられてなんで何もしねェんだ? ただ突っ立ってるだけで避けもしねェ……それでいいのかよ』
『……べつに』
『本気かよ。一発ぐらい返してやろうとも思わねェのか?』
『べつに』
『そうか。変わってんなァ、オマエ』
そう。たしかにその頃の俺は、周囲とは変わった子供だった。
そのせいでよくのけ者にされたし、意味もわからず殴られるなんてことはザラだった。
そして、そんなこともわからないほどに、当時の俺はまだ幼過ぎた。
最初はどうして仲間はずれにされるのか、そんなこともわからなかったんだ。
『だって、もろいから』
『あん?』
――ただ不思議だった。
『やりかえしたら、すぐ相手がケガしちゃうんだ。だから、ボクがガマンしなきゃいけないって』
『……誰かにそう言われたのか? それで自分がケガしてりゃ世話ねェだろうよ』
懐かしい。この頃はまだ、自分のことを“ボク”と呼んでたっけ。
『ケガすると痛てェだろ? オレは痛いのは嫌だから、やられたら倍にしてやり返すぜ? つか、それ以前にやられっぱなしは癪じゃねェか』
『でも、いやだ』
『……なんでだよ』
『だって――――』
本当に懐かしい。
この後アイツに言われた言葉が、なぜか無性に胸に響いた。
だからアイツの道場に誘われた時も、俺はまんまとその言葉に騙されてしまったのだろう。
……ああでも、もしかしたら今でも騙されてしまうかもしれない。
どうやら俺は、その言葉に弱いみたいだ。
『なんだよ、オマエ格好良いじゃねェか。“紳士”だな』
▼
朝っぱらから書斎にお呼びがかかったのは俺達だけではなかった。
キャルル達やニコラス氏、おっさんまで集められて、姫様から『重大な話』とやらを聞かされた。
皆それぞれ驚きを持って話を受け止めていたが、俺としては「やはりな」という感想である。……まあ、俺も同じ事を話そうと思っていたので、その点は少し驚いたが。
しかし逆に、これでただの俺の想像も、いよいよ真実味を帯びてきたことになる。
「――では、今回の事件には“魔族”が関係している可能性が高いということか……?」
重々しい雰囲気の中、慎重に言葉を紡ぐニコラス氏。
当然だ。
俺と姫様の予想が正しければ、これは重大な外交問題にまで発展する。
俺は詳しい見識を持ってはいないが、ニコラス氏の反応から見ても“魔族”とは相当厄介な存在なのだろう。
大国であるジュノンでさえ、出方を渋る国……ここで言う『魔族』とはつまり『魔国』のことだ。
「はい、おそらくは。私達にも“闇”は扱えますが、人を――ましてやその意志を強制させるほどの強大な“闇”など、ただの人間には扱いきれるものではありません。そんなことが出来るのは――――」
「魔族か、竜族か……それに準ずる種族でなければ難しい、か」
「はい」
彼等は総称して“魔力的上位種”と呼ばれる。
人には余る力を有する、絶対的強者と呼ばれる種族。先天的に上質な魔力を持つ者達。
その認識は脅威ですらある。俺達人間には魔法を扱える者がそう多くないのに対し、彼らはほぼ全員が魔法を操る因子を持っているらしい。
国民すべてが魔法使いなら、たしかに戦争しても勝てる気はしない。
兵隊の一人一人が恐ろしい戦力を秘めているわけだ。
「それなら魔族と断定するのは早いのではないかね? 今さら彼らが我々の領土を侵すとは少々考えにくいのだが」
「もちろん、理由はあります」
考えてみれば単純な話だ。
事件の主犯は俺――勇者を狙った者達の犯行だった。
今回は運悪く、そのとばっちりで大会が混乱に見舞われてしまったわけだが。
では何故、俺達が狙われたのか。
どんな理由があって、勇者が狙われなくてはいけないのか。
「これは極秘の情報にして頂きたいのですが――――」
その答えは、アルメキスの村の伝承にはっきりと記されている。
遥か昔に勇者に敗れた魔王の話。
唯一勇者に恨みを持っている者であり、闇の力を統べる強大な王。
少し安直すぎる気もしないでもないが、これほどわかりやすい動機を持った者は他にはいない。
「でもさ、それってずっと昔のことなんだよな?」
「今からざっと四百年前の出来事じゃな」
「それがなんで今さら? まさかそれまでずっと勇者を探してたわけじゃないんだろ?」
雅樹も同様の疑問はあるようだったが……。
「――例えば、『いつ勇者が現れるのか分かっていた』とするならどうじゃ?」
「……そんなことって、分かるもんなの……?」
ディズに異論はないらしい。
こいつは俺が昨日その考えを話した時も、ただ淡々と聞いているだけだった。
今の様子にしても、なにか確信めいたものを感じる。……まあ、なんとなくだが。
一応俺もディズの言葉には興味を惹かれたが、その前に姫様がディズの意見を補足してくれた。
「アルメキスの遺跡で見られた魔力異常……あれは、“龍脈”を伝って流れ込んだ大量のマナが原因だったと考えられます」
この星を包み込んでいるマナが、何もない場所から湯水のように溢れ出してくる……なんてことは普通考えられない。
ならばアルメキスの遺跡で起きた魔力異常は、何処からかマナが大量に流れ込んでいたと考えるのが妥当な判断。
加えて、触媒もなしに世界を隔てた俺達を召喚できるほどの莫大な魔力量だ。十中八九、自然現象に違いないだろう。
ということは、アルメキスの魔力が増大したのなら、何処か違う地域ではその分魔力が減少していたことになる。
そういった大地の魔力の流れを属に『龍脈』という。
山から山へ、そうして大地は広がり、世界は繋がる。
地下水の流れとなる地脈のように、血流は隅々まで広がることで世界を循環させる。
姫様が調べた結果によると、俺の予想通りアルメキスと魔国の龍脈は深い部分で繋がっていた。
これは偶然か必然か。勇者と一番因縁のある魔族だけが、アルメキスに起きた異変を知ることが出来たのだ。
あの日、俺達が召喚されてすぐに追手に襲われたわけもこれで説明できる。
――繋がった。
勇者と魔王とアルメキス。
繋がらなかった点と点が、一直線に綺麗に交わる。
今もなお、魔国では四百年前に現れた勇者の情報が生きているのだ。
だから俺達が狙われた。
奴等は、俺達の知らない事も何か知っているのかもしれない。
「だが、仮にそれが全て真実であるとしても“証拠”がない。魔族が裏で糸を引いているという確証がなければ、犯行を断定することは難しいだろう」
「……たしかに、現状では推測の域を出ないのは事実です。可能性は低いですが、他の線がないとも言いきれません」
それも、魔国へ行けばわかることだ。
どの道最初から候補には挙がってた。俺が行って確かめれば話は早い。
ただ最悪は――――死。
奴等は俺と雅樹の命を狙っている。
そこへ飛び込んでいくのだから、無事で済む保障はない。
それでも、もう終わらせなければならない。
「もし見当が違っていれば……いや、当たっていたとしても白を切られれば、我々に対する不信感を諸外国に与えてしまう。それは、私の望む所ではない」
……まったく、こうまで歯止めが効かなくなるとは思わなかった。
これから危険に身を置こうというのに、怖いとも思わない。
やべぇな……勘が麻痺しちまってるのかもしれない。
――まあ、今さら引き返そうとも思わないが。
「心配ない。俺が魔国へ行って確かめてくるから」
「なっ――!!?」
俺がそう言った途端、場が凍りついた。
周りの誰もが息をのんで俺を注視する。
一瞬の静寂の後、最初に時を動かしたのはキャルルだった。
「アキヒト、何を言っていますの。相手は国なのよ? そんな簡単な問題ではないわ」
「簡単じゃないかもしれないが、単純な問題だ。それに俺はこの国とは無関係だからな。俺が行った方がそっちにとっても都合はいいだろ?」
ニコラス氏はどうもこの件には及び腰だ。
魔族とはそこまで警戒するべき相手なのか……俺にはどうでもいいことだが。
「だからって、何もアキヒトが行かなくても……! 貴方は今、命を狙われているのよ!?」
「俺には俺の都合がある。俺の事情は知ってるだろ? 魔国に行けば手掛かりが見つかるかもしれないんだ」
「で、でもっ、それならまずは使節を送ってから……!」
「そいつ等が帰って来なかったら、責任は取れるのか?」
「っそれは……」
言葉が乱れ気味なキャルルを半ば無理やり説き伏せる。
すると俺の意志は固いと見てとったのか、今度はニコラス氏が俺に提案を持ちかけてきた。
「アキヒト君、私も君の意見には賛成しがたい……が、私は君を止めるつもりもない。見た所、引く気もないようだからね」
「! お父様ッ!?」
「戦力的に見ても、君には目を見張るものがある。私個人としては君を止めるべきかもしれないが、国の代表として、君に助力できることは幾らかあるだろう」
「……協力してくれるんですか?」
「なに、互いに益があるのなら、ビジネスの話ができるというだけだ」
それは俺を傭兵として雇うということだろうか?
まあ、それも一つの外交の手段なのかもしれないが……少し意外だ。
自分で言っておいてなんだが、そこまで信用してもらえているとは思わなかった。
てっきり無茶な要求をしてくるものだと思っていた。
「――ということで、少し対策を練る時間をもらえるかな」
そう言ってにやりと笑うニコラス氏は、頼りがいのある大人の顔に見えた。
・
・
・
で、「部外者はご遠慮願う」とかで一人書斎を追い出されたキャルル。(なんか可哀想だ)
当事者である俺とディズは残っていたのだが、ニコラス氏はリーファさんと軽い打ち合わせに入っているので今は待機中だ。
姫様もそれに耳を傾けている。おっさんは目を閉じて居眠り中(モロバレ)だ。その横でクゥが、俺と雅樹を交互に見ながら頭を悩ませていた。
ところで、先程からずっと雅樹が俺を睨んでいる。
普通なら「言いたいことがあるなら言えよ」と突っ込む所だが、目は口ほどに物を言うってのは本当らしい。
雅樹が今なにを言わんとしているのか、手に取るようにわかった。
……どうやら、もう一波乱ありそうだ。
「おいアキヒト!」
ビシッと声が響いて、注目の的になる雅樹。
漸く来たか。ホント、どんだけ溜めてんだよお前は。
「当然、俺も行くからな!」
うんうん、まさにそう言いた気な顔をしてたもんね。
「ふふ、そう言うと思っていました。では私もご一緒させてもらいますね」
するとどうだろう。ちゃっかり雅樹に乗っかって、姫様がこちらへ顔を向ける。
「ダメです!!!」
それを、おっさんが目を見開いて渋い声で一喝した。(絶対いま起きたろ)
「ア、アタシも行くからな!」
その後、負けじとクゥが挙手する。
しーーーん。
おい、あとは誰だ? ディズ、おまえじゃねーのか?
「絶対にダメですよ、姫様!!」
その中で一際自己主張の激しいおっさんが、やはり面白かった。
☆
あれから、自室に戻り寛いでいた。
話し合いも一先ず終わり、あとは準備を待つだけとなった夕暮れ時。
久々に晩飯をたらふく頂戴して部屋の中でごろごろしていると、ふと今朝見た夢が脳裏を掠めた。
――懐かしい夢を見た。
あの頃、まだ何も知らなかった幼少時代。
力があるなら手加減くらい覚えろということで、言葉巧みにアイツの道場に誘われた俺。
一応そこで空手やらボクシングやらムエタイやら、様々な格闘術などの手ほどきをされたが、結局何一つ身に付かなかった。
……基本は抑えてるのに、その先が全部中途半端ってどうよ?(ただの喧嘩技じゃね?)って話だ。
というか、誘った本人が見よう見まねって詐欺じゃないだろうか。
型とか戦法とか色々と混ざっててメチャクチャなのに、実力と態度だけは一級品ってのも怪奇だ。
結局、何年かを経て、苦心の末にアイツを負かすことはできたのだが……そこで漸く俺は自分が何をしているのかに気付いた。
『オマエの才能なら世界を狙えるぞ』
目から鱗とはまさにこのこと。
いつの間にか目的と手段が入れ替わっていた。
俺は“手加減”さえできるようになれば、それで良かったのに。
『本気かよ。もったいねェなァ』
当時から何人かいた門下生も揃って頷いたが、残念ながら俺にその気はなかった。
そもそもどんな競技で世界を狙うつもりだったのだろう?
目潰しも金蹴りもありのルールなんて、俺は知らないぞ?
『ち、それなら仕方ねェ――――』
……ただ、恩を感じていたのは確かだ。
だから、その筋ではかなり有名らしい師範の『一番弟子』という称号を、俺は泣く泣く頂くことにした。(義理で)
だがそのおかげか、業界では俺の名前も少しだけ有名になってしまったらしい。
何度か(本当にあった)道場破りの相手もしたこともある。
道場なんて偶にいく程度なのに、なぜ態々俺を指名するのか……まあ、たぶんアイツの入れ知恵だったのだろうが。
『オレとやる前に、まずはオレの一番弟子を倒してみな』
そんな感じのことを言ったに違いない。
自分がまだ現役だろうに、面倒なことは平気で他人に熨斗をつけて押し付けるヤツだ。
特に俺には理不尽な無理難題をよく吹っ掛けてくる……そんな憎たらしい男だった。
俺がいなくなったことで、アイツは困っているだろうか。
想像は……できない。
第一、アイツが俺以外に負けた所を見たことがない。仮に負けたとしても笑っていそうな性格だ。
ここ数年は道場から足も遠のいていたし、案外アイツは、まだ俺の不在に気付いていないのではないかと思えたりもする。
(……ま、アイツに関しては心配はいらないか)
久々に夢に見て、少しセンチメンタルな余韻に当てられたようだ。余計なことを考えてしまっている。
『なに人様の心配してんだ。オレはどんな時でもうろたえねェよ』
それがアイツの紳士道だったっけ。
――コン、コン。
俺が物思いに耽っていると、扉をノックする音がした。
「――キャルルじゃな」
「え?」
返事を返す前に、いきなりディズが訪ね人を示唆する。
なのでなんとなく外れろと念じながら、俺は扉の向こうに「どうぞ」と返した。
その掛け声の後に部屋へ入って来た人物は、予想を裏切らない金髪ツインドリルの女性だった。
「失礼しますわ。今、お時間はよろしくて?」
「……マジか」
「?」
「あーいや、時間なら大丈夫だ」
まさか、ディズにこんな能力があったとは……!
「――で、どうしたんだ?」
なんで分かったのか不思議で仕方なかったが、表情には出さずにキャルルに答えた。
そういえばキャルルが俺の部屋を訪ねてくるなど珍しい。
大体、リーファさんか他のメイドさんが来ていたからな。
「……ええと、……その」
そして入って来たら来たらで、視線を足元に落としたり、かと思えば俺を力強く睨んでみたりと不審な行動をするキャルル。
さらに俺が驚いたのは、その隙にディズが気を利かせて、部屋の中からそろりと出て行こうとしていたことだ。
キャルルはまだ逡巡を繰り返しているので、傍を通り過ぎる白猫の存在に気付いてすらいない。
……最近、ディズが空気を読み過ぎて怖い。
いつの間にそんないい子になってしまったんだ、ディズさん。(戻ってきてくれっ)
などと思ってる間に音も無く扉が閉まり、同時に意を決したキャルルが声を発した。
「単刀直入に言いますわ。魔国に行く件、考え直すことはできませんの?」
「――。それは……もう決定事項だからな。何度も何度も考え直して、それで決めたんだ」
「っ……どうして――――?」
――そんなの聞いてない。
張り詰めた空気が、普通なら聞き逃していたはずの呟きも耳に入れた。
……どうしてかって? そんなの決まってる。俺が地球に帰るためさ。
「そこまでしなければ、いけないことなの!?」
次いでキャルルから出てきた声はとても切実な響きを含んでいて、俺は思わず口を噤んでいた。
「アキヒトが故郷に帰りたいと思う気持ちは、私も当然だと思ってた。きっとアキヒトを待っている人がいるからって、大切な人達がいるから仕方ないって――そう思ってた。でもっ……!」
彼女の語調には飾りがなくなっているのは、それはつまり、今の彼女が素の表情ということで。
「命を危険に冒してまで、そこへ行く価値はあるの? どうしてそこまでして、アキヒトは帰ろうとするの!?」
赤くなった顔に、瞳いっぱいの涙を溜めていた。
「……せめてもう少しだけ、待ってはくれないの……?」
最後は震える声で、縋りつくような滲んだ眼差しで、俺を見る。
――何を言ってやればいいだろう?
最初に俺が思ったのは、そんな頼りないことだった。
彼女は俺を本気で心配してくれて、そして俺のことを本気で考えてくれている。
そんな彼女に、何を言ってやればいいのか見当がつかない。どうすれば泣き止んでくれるのか、わからない。
だって俺は、そこまでしても魔国へ行くつもりなのだから。
何を言っても、泣かせてしまいそうな気がして――――。
『いいか秋人。女子供――特に女――には優しく接するのが、“紳士”の嗜みってもんだ』
突然頭の中に浮かんできたその声に、癇癪を起しそうになった。
…………こんな時に、出てくんな。
『でもな、女を泣かせないヤツが“紳士”ってわけじゃねェのよ』
やめろよ、そういうの。
『泣きたいときには、泣かせてやれ』
余計なお節介なんだよ。
『でもって、最後には安心させてやれ。その時、優しく涙を拭ってやるのがコツだ』
……だから、うるせぇって。
『それが、“紳士”の努めだぜ?』
(それが、“紳士”の努めだろ?)
俺の声を重ねてアイツの面影を振り払う。
いつもいつも……肝心な時に余計な事ばかり言いやがる。
わかってるよ、それくらい。だからアンタは、もう余計な心配すんな。
「俺は――」
「ここに居てもいいからっ」
「――っ!?」
その時、俺の言葉と彼女が行動を起こしたのは同時だった。
だから、別に彼女は俺の答えを遮ったわけじゃない。
ずっと俺が黙っていたせいで、不安になった彼女が泣きついてきただけだ。
「ずっとここで暮らしてもいい。この屋敷にいてくれていいからっ。それで、時が来たら、また帰る方法を探せばいい……!」
頭を俺の胸に押し付けて、とんでもない事を言ってくる。
力の籠もったその両手は、必死に俺を捕えて離さない。
あまりの直向きさに、思わず抱き返してやりたくなる。
「だから、無茶な真似はもう、やめてよっ……!」
ここまで感情を露わにするキャルルを、俺は今まで一度も見た事がない。
彼女は俺がもう二度と戻ってこないと思っているのだろうか。
だからこんなに必死になって、俺を止めようとしているのか。
……否定できないのが情けない。
正直言うと、少しだけ迷ってた。
この二つの腕を存分に使って、全力で目の前の彼女を抱き締めてやれたら、彼女はどれだけ喜ぶだろう。
彼女の言う通り、このままずっとこの世界で暮らしていけば、俺はどんな幸せをこの手に掴めるだろう。
思い描いた理想の世界は、決して手の届かない未来じゃなかった。むしろ手を伸ばせばすぐにでも掴めそうな、今目の前にある幸せ。
「俺は――――」
その、ありえたかも知れない大切な未来の一つを、俺は両手で優しく包んだ。
「ぁ……」
震える彼女の両肩を、ゆっくりと離していく。
「……ぐすっ……」
落ちた涙は、宝物のように輝いた。
泣き腫らしても見惚れそうな彼女の顔を見て、微笑みが零れる。
胸いっぱいの名残惜しさを感じながらも、その宝石のような涙をそっと指で拭った。
「――ごめん」
「っ……!」
見る見るうちに涙が溢れ出してくる。
やっぱりなと思う傍ら、惜しいことをしたなと少しだけ後悔した。
結局泣かせてしまったけれど、溢れ出す涙の分だけ、彼女を大切にしたい気持ちは強くなる。
「俺にはさ、『姉さん』がいるんだ――――」
泣いてくれた彼女の瞳に、そう答えた。
一度堰を切った想いはもう止まらない。
「親父は医者でさ、子供の頃から転勤ばっかりで、家にはほとんど帰って来なくて。お袋は親父が大好きだから、子供もほったらかしで親父の後ばっかり追っててさ。……参っちまうよな、親の顔もろくに覚えてねーなんて」
この話をするのはこれで二度目だ。……三度目は、もうないかもしれない。
「だから物心付いた頃から、年の離れた姉さんが俺の親代わりをしてくれてた」
六歳離れてる。俺が今十七歳だから、姉さんは二十三歳。
「小さい時の俺は今よりもっとやんちゃでさ。しょっちゅう誰かを泣かせては、姉さんに怒られてるような子供で」
たしか師範に出会う少し前、俺が小学校に入ったばかりの頃だった――――。
「ある日家に帰るとさ、玄関先で姉さんが誰かに謝ってるんだよ。何だろうって思ったら、俺がバカしたせいで、姉さんが知らない大人に頭下げててさ」
頃合いを見て恐る恐る家の中に入ったら、姉さんは「おかえり」と言って笑っていた。
怒られもしない。なにも聞かれない。今日は楽しかったかと聞かれて、俺は「うん」と答えただけだ。
俺のせいで怒られたにも関らず、そんなことを一切おくびにも出さずに、その日もいつも通り夕食を作ってくれた。
あれほどバツの悪い事はない。
無邪気だった俺の子供心にも、相当きついものがあった。
俺がバカやるといつも叱ってくれる姉さんが、知らない所で俺のために頭を下げている。
しかもその時、姉さんはまだ中学生だ。
――以来、俺は姉さんに頭が上がらない。
「で、俺はそれから無闇に暴力は奮わないって誓ったんだけど。今度は殴られても殴り返せないから、生傷ばっかり増やしてさ。結局それが原因で姉さんに心配を掛けさせる嵌めになって……」
俺がやり返さないことがわかったら、今までのお返しと言わんばかりにいじめはエスカレートしていった。
でも俺がやり返すと、なぜか決まって向こうがケガをする。そのしわ寄せは全部姉さんにいくわけで……。
手は出せないわ、傷は絶えないわ、友達はいないわ……ホント、あの頃は悲惨な生活を送っていたようだ。
そんな時に出逢ったのが、師範だった。
「そいつの道場に入った後は、いじめも減って、友達も出来始めてさ――――」
「そう」
昔話をしているうちに、いつしかキャルルは泣き止んでいた。
まだ少し泣きそうだったけど、幾分か落ち着いた感じで。
そしてそのまま、最後まで俺の話を聞いてくれた。
「俺が帰らないと姉さんは絶対悲しむと思うんだ」
「……心配なのね」
「まあ、俺は姉さん迷惑しか掛けてこなかったからさ……正直俺のことはいいから、姉さんには幸せになって欲しいんだよ」
だから、早く帰って姉さんを安心させてやりたい。
俺が地球に帰りたい理由は、言ってしまえばそれだけだった。
親父やお袋は元から違う世界の人間だし、師範は心配するだけ損だしな。
「……ん、わかった」
泣いちゃってごめんねと、キャルルが自分の指で目の端を拭った。
まだ完全に納得してもらえたとは思わないが、俺の思いは受け取ってくれたようだ。
……本当はもっと安全な方法を取れればいいのだろうけど、シアを思うと後に引く道は選べない。
せめて彼女が笑えるようになるまでは、できるなら見守ってやりたいと思った。
俺は彼女の想いには応えられないが、許されるのならそうしたい。
また死ねない理由が増えたなと、心の中で独りごちる。
(……だな。取り敢えずは――――)
「涙、乾いちゃう前に洗った方がいいんじゃないか?」
「……そうね」
今のキャルルの顔を見られたら、この部屋で何があったかとまたリーファさんに疑われてしまいそうだった。
そんなことになってはまずいので、部屋に備え付けられている洗面所にキャルルを向かわせた。
そしてボケーッとしたまま水の音を聞いていると、かなり時間が経過していることに気付いた。
これはやばい。誰かに見つかれば大問題になるかもしれん。
……つか、ディズはどこまで行ったんだろう?(今夜は戻ってこないつもりなのか?)
「それにしても……」
と、そこへ顔をゆすいで少しすっきりした顔つきになったキャルルが戻ってきた。
まだ薄らと赤い目元を気にしながら、徐に近づいて来る。
そして、俺を一瞥して一言。
「アキヒトって、シスコンだったのね」
「………………それ、流行ってんの?」
ディズにも言われたんだが。
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