青いヴァカンス
車を降りた僕は太田神社の鳥居から登り口を見上げて思わず溜息を洩らした。登り口の脇に建っている道南霊場という物々しい石碑も、目の前の階段には嫌なほど釣り合っている。観光雑誌の記事にはきつい階段を登る神社と書いてあったが、これはきつい階段という範囲だろうか。道路の反対側から離れて眺めると山の中腹付近まで階段が続いている様子が窺え、また登り口から仰ぐと普通の神社の倍ほど急峻な階段が連なっているのだ。
登り口に建つ大鳥居の奥にはさらに二つ鳥居があり、その先は木陰に隠れて窺うことはできない。階段の両脇に手摺り代わりに縄が張られている辺りは一応の親切心なのだろうが、むしろ逆に覚悟した奴だけ来いと言われている感じさえ受けてしまう。階段が設置されている点さえ除けば、実態はもう登山初心者大歓迎といった悪ふざけも言いたくなる。
せっかくの休日なので旅行雑誌を眺めていたところ、記事の隅に載っていたせたな町の太田神社を思い出して、足を伸ばしてみただけなのだ。途中で妙に細い道路になったので不安になったが、再び立派な道路に戻って安心し、その短い安堵も「太田より先は行き止まり」という不穏な看板に突き崩されつつ到着してみれば、この山伏御用達の階段だ。
目の前の階段を登るのが億劫になり、周囲を見回した。すると道路を挟んだ向かい側の平地にもう一つ神社らしきものが見える。僕は徒歩でその建物に向かった。寄ってみるとこれも太田神社の施設のようで、神社の成り立ちを書いた看板が建っていた。その看板によると太田神社は今こそ猿田彦を祀っているが、元々はオオタカムイというアイヌの海の神様らしい。おまけに頂上の洞窟が信仰の対象だとか普通とは一味違う神社のようだ。
足元を再確認する。夏に入って以来スポーツサンダルでばかり歩いているが、今日はランニングシューズにした。僕は改めて太田神社の鳥居を仰ぐと、リュックにペットボトルのお茶を放り込んで靴紐を締め直した。
汗を吸ったシャツがべっとりと体に張り付いて風が通らない。階段は途切れてしまい今は獣道に近い山道になっている。かなり登ったはずなのにまだ頂上は遠いようだ。生来の運動嫌いに喘息持ちも重なって、あまりに運動不足だと今頃になって反省してしまう。
地面に腰を下ろすと背中のバッグを道端に放り出し、ペットボトルのお茶を一口含む。もう中身は半分しか残っていない。先の道のりを考えると心許無い。襟口を引っ張って風を通そうとしたが、欝蒼と繁る森が邪魔になり麓からの潮風もろくに通らない。襟を何度か往復して汗の湿気を逃がすのが精一杯だ。
気合を入れて立ち上がった。と、投げ出していたバッグのバンドに左足がとられ、脇の縄に掴まって立とうとして嫌な音が足から背中へと走った。顔から大量の汗が噴き出す。背中まで冷たい汗が流れ、悲鳴にすらならない声を上げて倒れるようにうずくまった。
一分ほど経過した。ようやく激痛だけは弱まったが、見えないほど動かすだけでも激痛が走る。骨ではないだろうが酷い捻挫だ。首だけを動かして階段を見下ろす。先ほどまでは疲れるとはいえ難なく登ってきた階段が、今は遠くの急峻な崖のようにも見える。救急車を呼ぶか。そもそも携帯は通じるのか。
痛いぞ、と怒鳴ってみる。だが前後には誰もいなかったので無駄だろう。ゆっくり這ってでも降りるしかないのだろうか。頭から転落する事態を想像して背筋が寒くなる。
「怪我したのか」
唐突に背中から声が聞こえた。振り向くと黒の長髪にジーンズ姿の女性が立っていた。僕はとりあえず必死で首だけ振って自分の足を指差した。彼女は僕より下に降りると僕の靴をそっと脱がす。足首を少し捻られただけで恥も外聞もなく悲鳴を上げてしまう。
歳は二十代中頃、僕と同い年ぐらいだろうか。色の抜けたジーンズと男女どちらでも着られそうなシャツ、それに背中の登山にも耐えられそうなバッグは口調にぴったりなのだが、色白な丸顔のうえに甘く高い声で話すせいか、むしろ逆に子供っぽく見えてしまう。
彼女に足首を動かされるたび、激痛に涙を浮かべる。彼女はへえ、と呟くと背中のバッグから手拭いのような白い布を取り出した。
「固定した方がまだましだね。あと、急いで冷やさないと駄目なのだけど」
言ってすぐ立ち上がると木々の間を睨む。次いで僕に何やら妙な笑みを浮かべた。
「君、私を海に連れて行かないか」
僕は意味がわからず首を傾げる。彼女は僕の左足の腿を優しくさすりながら言った。
「漁港に行って海水で冷やせば良い。歩くのに肩も貸そう。さあ、私を連れていくか」
連れていくか、と言われてもむしろ連れて行ってもらうのは僕の方だ。もしかしたら漁港の場所をわからないということだろうか。だが少なくとも今、余計なことを言って彼女の機嫌を損ねるのはあまりに危険すぎる。
「連れていくよ、海に」
必死で答えを絞り出すと、彼女は途端に子供のような可愛らしい笑みを浮かべた。
結局、僕は彼女の肩を借りて一時間ほどかけて下まで降りた。意外に体力のある人らしく、僕が途中で力尽きかけて体重をかけてしまっても平然としていてくれた。やっとの思いで下まで降りると、彼女は車を運転できないと言う。僕は泣きそうになりながら自分で運転して漁港まで車を走らせた。怪我をしたのが左足で、おまけに車がオートマチック車で本当に助かったと思う。
船揚場に降りると、彼女は背中のバッグから桶を取り出した。この辺は温泉が多い地域だから温泉道具も背負ってきたのだろうか。彼女は桶に海水を汲むと僕の左足を取って入れる。ひんやりと痛みが鈍くなっていく。
彼女も海水に手を入れると、口調に似合わず甘い歌声で歌を口ずさみ始めた。テレビでも全く聞いたことのない響きの言葉で、高く低く波が寄せて返すような不思議な旋律が長く続く歌だった。外国の歌ですか、と訊くと彼女は鼻で笑って首を傾げる。
「おまじないの歌。怪我の治るおまじない」
何だかはぐらかされたようだ。だが彼女は再び歌いながら海水を入れ替える。彼女の歌を聴いていると、海水も薬湯のような気分になってくる。三回目の入れ換えの後、彼女はバッグから朱塗りの椀を取り出して船揚場から海水を汲むと口をつけた。僕は慌てて海水だよ、と注意する。彼女はうなずいたが、椀に両手を添え、一息に飲み干して言った。
「薄くなったね」
僕は痛みを忘れて彼女の口元を見つめる。彼女は僕を見返すと溜息をついて言った。
「この海は全てが希薄過ぎるんだよ。だからこれほど青い。これは空虚な青さなんだ」
彼女は両手を広げて海に顔を向ける。僕も左足を押さえて海を眺める。そこには南海の海のように透明な青い海が広がっていた。
「こんな広い海だというのに、肝心の棲む生き物が本当に少なくなってしまっている」
彼女は悔しそうに言う。そういえばこの近辺で漁獲量が非常に下がっているという話を聞いた覚えがある。彼女は何者だろうか。そういえば農学部や水産学部の学生はフィールドワークとか言ってやたらと海や山に行く子が多かったけれど、山登りや海が好きなことを考えれば、彼女もその類かもしれない。
彼女はふっと肩の力を抜き、僕が足を入れたままの桶に目を向けた。いつの間にか随分と足の痛みが鈍くなっている。僕はなるべく動かさないようにして桶から左足を抜く。
改めてお礼の言葉を口にしかけると、彼女は言葉を遮っていきなり僕の名前と連絡先を訊いてきた。僕はどう反応すれば良いかわからず彼女の口元を見つめる。彼女は悪戯っぽく僕の顔の前で指を回しながら言った。
「女性は簡単に連絡先を教えないよ」
僕は納得して自分の電話番号や名前を手持ちのメモ帳に書くと破って渡す。彼女は満足そうに受け取り、ポケットにねじ込んだ。
「私は太田だ。そのうち連絡するよ」
彼女はまた悪戯っぽい笑みを浮かべて僕を見つめる。太田神社で会った太田さん。まあ今の時代、警戒されても当然かもしれないけれど。とはいえ恩のあるのは僕の方なので文句も言えずに黙っていると、太田さんは桶の海水を捨てて無造作にバッグに放り込み、僕を置いてさっさと歩いて行ってしまった。
僕は少しの間茫然とした後、車に乗り込んで痛みをこらえながら街に向かった。病院に行ったところ、幸い骨には異常が見つからず強めの捻挫ということで固定をしてもらい、痛み止めだけで済んだ。とはいえ、単なる捻挫の強いものだったせいか、結局は一ヶ月も当て木と補助具で固定する羽目になった。
その間、太田さんからは全く何の連絡もなく、お礼も何も出来ないままになっていた。否、単にお礼をしたいのではなく、何よりもう一度、彼女に会いたいのだった。
休みだからと浮かれてまた怪我するなよ、と帰りがけの上司に背中を叩かれた。やっと捻挫の固定が取れた週末の金曜日となれば、こんなことを言われてしまうのも仕方ない。僕は苦笑しながら会社の門をくぐった。
と、携帯が無登録者からの着信音を鳴らした。開けてみるとやはり覚えのない携帯番号だ。誰か勝手に僕の番号を取引先にでも教えたのだろうか。もしもし、と名前を名乗らず出ると、落ち着いた女性の声が聞こえた。
「そろそろ怪我は治った頃だよね」
慌てて僕は声を高くして、太田さんに先日のお礼を言う。太田さんはたいしたことではないと笑う。だが、次いで僕が以前に言ったことを確認するようにゆっくりと言った。
「君、今週末の予定は空いているかな。お礼をしたいと言っていたよね。私をどこか、少し旅行にでも連れ出してくれないかな」
いきなり旅行、と言われては僕も戸惑ってしまう。だがすぐに、近所をドライブしたい程度の話なのだろうと思い直した。
「ドライブなら別にいいですよ。多少遠くても迎えに行きますよ。家の近所まででも」
太田さんは傲慢に当然だね、と言い放つ。けれど今回の恩と、何より太田さんの悪戯な顔を思い出すと怒る気にもなれない。そして彼女はわかりきったことのように言った。
「待ち合わせ場所は、太田神社の階段で」
確かに僕たちには最もわかりやすい待ち合わせ場所だが、家まで迎えに行くと言った上で指定されるとは思いもよらない辺鄙な場所だったので、僕はしばらく声が出なかった。
「いいよね。太田神社の階段で、朝方に」
あの太田神社に、しかも早朝に行くのか。朝のうちに着くには普段の出勤時間よりも早く家を出発しないと到底間に合わない。
とはいえお礼はしたいし、何よりもう一度太田さんに会いたいという気持ちは止められなかった。とてつもない美人というわけでもなく、物言いだってこんな素っ気ないというのに。怪我で弱っていたときに助けてもらったせいだろうか。抵抗を諦めて、朝九時に迎えに行くと答えると彼女は満足そうに答えた。
「連れて行ってもらえるのは楽しみだよ」
服装に迷ったが、結局はジーンズに適当なシャツで済ますことにした。太田さんもまさか神社の前で可愛いリボンの付いたワンピース姿で待つような人でもないだろう。
先月と同様、太田神社の駐車場に車を止めて鳥居から階段を見上げた。すると長い階段を太田さんが呆れる勢いで駆け下りてきた。
「来てくれたね」
太田さんは最後の段に両足を揃えて立って満面の笑みを向けてくれる。予想のとおり、彼女も動きやすそうな服装なので安心だ。
「そんな速さで降りたら危ないでしょう」
「君のような抜けた失敗はするはずないさ」
ずいぶんな自信だが、そこは敢えて言わず僕はそのまま車に向かおうとした。すると太田さんは僕の背中に焦った声をぶつける。
「君、ずいぶん冷たいじゃないか」
彼女は子供のように頬を膨らませ、階段に立ったまま僕に向かって手を伸ばしている。僕は何となく気恥ずかしくなって周囲を見回し、誰も見ていないのを確認して彼女の手を取った。太田さんは思った以上にひんやりとした細い手で僕の手を握りしめてくる。手を引っ張ると、彼女は僕の隣に跳ね降りた。
「さて、行こうか。場所は君の案内で」
何だかな、と僕は独り言を呟くと彼女を助手席に乗せて南下し始めた。
走り始めてから僕は彼女にペットボトルのお茶を勧めた。太田さんは一口飲んで苦いと文句を言う。確かに濃い茶を買っておく僕は相変わらず気が回らないかもしれない。彼女は自身のバッグから木目の水筒を出して旨そうに飲み、蓋に中身を入れて僕に渡した。
僕は道路を見ながら上の空でその飲み物を口にした。口の中に甘酸っぱい味が広がる。今まで全く飲んだことのない飲み物で、だが百パーセント果汁のジュースにありがちな、濃厚なしつこさはないものだった。
「最高に新鮮な良い水で、桑の実の汁を水で割ったもの。私の最も好きな飲み物だよ」
「最高に新鮮な水、ですか」
窓の外に視線を向けると、岩肌を流れ落ちる小さな滝が目に入ったので納得しかける。だが太田さんは違うと笑った。
「最高の水は湧水じゃないよ。雨の日に、晴れ上がる直前の最後の数滴を集めるんだ」
思わず笑うと彼女は真面目に反論する。
「普段、君が飲んでいる水だって雨水をきれいにしたものじゃないか。降り始めの雨は空と土地の埃を吸って汚れているし」
確かに、降り始めの雨を浴びた車にうっすらと雨の跡がついて落胆したことは覚えがある。太田さんは当然のような声で続けた。
「やっと君もわかったね。そんなわけで、雨の日に降り終わる最後の数滴だけを集めると最高に美味しい水になるんだよ」
僕は雨空を睨んでいた太田さんが先日の桶に必死で雨水を集める姿を想像して吹き出してしまう。太田さんも一緒に笑い出した。
笑いながらも僕は実は困っていた。これからどこに連れて行けば良いのだろう。太田さんの雰囲気だと街に行って買い物だとかお洒落な喫茶店でお茶を、とか言っても逆に不機嫌になってしまいそうな気がする。
と、太田さんは急に外を指差してこれは何だろう、と言った。指差された看板には山荘と書いてある。僕も一瞬迷ってスピードを落とし、さらに先の方に同じ山荘の看板を見つけた。そちらには温泉、と書いてある。
「温泉、どうですか。行ってみませんか」
彼女は外国人のようにオンセン、と言って少し考え込み、行ってみようと笑う。幸いこの近辺は温泉だらけだ。ただし高級大型温泉や、本州のような伝統の温泉宿があるわけではない。僕は以前に読んだ温泉の紹介記事を頭の中で広げ、太田さんを連れて行っても問題のなさそうな日帰り温泉を選んでハンドルを切る。太田さんは呑気な声で呟いた。
「熱い湯もたまには良いね」
女湯に向かう太田さんを見送ると、すぐに男湯に入ってさっさと温泉に浸かった。ぼんやりと温泉に浸かるだけで、普段の煩雑な仕事の記憶がぐずぐずと溶け流れていく。
暑くなって湯船から上がると、洗い場の椅子に座ってぼんやりと天井を仰いだ。何となく太田さんの姿を思い浮かべる。いや別に変なことを想像するわけでもないのだけど。
逆に想像しない、と意識した途端、彼女の言動が頭の中で巡り始めた。本当に変わった人だ。でも本当にそれだけだろうか。海水で足を冷やしてくれたときの不思議な歌。珍しい飲み物と雨水の話。そして何より、活発な人なのになぜ僕に連れて行ってと頼むのだろう。運転免許が無いからか。いつも愛想の無い物言いだが、実は僕に一目惚れしたとか。
いや、一目惚れは幾ら何でも思い上がりだろう。だが今日は気軽に僕の助手席に乗っている。警戒心が薄いだけなのだろうか。確かにあの神社の崖のような階段を駆け下りてくる彼女に腕力で勝てるとは到底思えない。ふと彼女が神社の妖精みたいなものだろうかと思う。だが、しっかりと僕の手を掴んだあの感触はやはり夢のようには思えなかった。
ただ、彼女の素性を陰で調べたりしたら簡単に姿を消してしまいそうな気がした。一目惚れも運転免許も妖精も全部胡散臭い理屈だが、素性を追いかけて彼女が僕の前からいなくなるようなことだけは避けたいと思う。
太田という偽名のような本名のような苗字にしても、もっと仲良くなれば下の名前と一緒に改めて説明してくれるかもしれない。考えてみれば、今日は初めて会ってからたったの二回目だ。納得できないことがあったとしても全く不思議であるはずがない。何が一目惚れされたかも、だ。一目惚れしたのは完全に僕の方じゃないか。僕は急に気恥ずかしくなり、湯船に再び戻ると深く体を沈めた。
十五分ほど湯船の中に沈んだ後、僕は風呂から上がった。休憩室に目を向けると、太田さんの姿が見えた。彼女のまだ少し湿ったままの髪を眺めていると、視線を感じたのか僕の方を振り向く。彼女はすぐ立ち上がり、上気した頬に笑みを乗せて駆け寄ってきた。
「いいね、温泉は。ここは気に入ったよ」
僕も温泉はかなり好きだと前置きして、これまでに入ったことのある変わった温泉の話をする。山の中に掘っただけの野湯や目の前を白鳥が泳ぐ温泉などの体験を話していき、今年は岩手県方面を狙っていると語った。
太田さんはあまり岩手県の想像がつかないらしくぼんやりと首を傾げた。だが次いで、そうだそうだそれが良いやはり私は賢いな、と何とも不安になる独り言を口にした。
「君、どうせまた独り旅だろ」
言い返しかけると、彼女は黙って首を傾げた。嘘をついてもわかるんだぞ、と言いたげな顔で僕をじっと見つめてくる。それでも僕が返答を言い淀んでいると、太田さんは顔を近づけて最後の駄目押しをかけてきた。
「今日の旅行でわかった最も大切なことはだね、君と歩くのは楽しいってことだよね」
太田さんは正面から僕を見つめながら、平然と気恥ずかしくなるようなことを告げる。完全に太田さんの手の中で踊らされている。僕は降参するように両手を挙げて言った。
「じゃ、次の旅行は太田さんを誘うよ」
太田さんは満足げにうなずいた。
次の旅行に誘うと言ったとはいえ、泊まりがけの岩手県旅行に女性の太田さんを誘うというのはかなり乱暴な話だ。僕は初め、旅行経路をネットで調べては予定をパソコンに打ち込んでみた。大まかに考えるのなら簡単に楽しめそうな予定なのだが、気が付くと二人一部屋なら安上がりだなとか、さすがに太田さんと一部屋はあり得ないだろうとか色々と一人で悩んでは消す作業を繰り返していた。
携帯電話を取り出して太田さんの番号を探す。かかってきた番号を登録しておいたはずだ。見つけた番号を押そうとし、だがパソコンの画面に目を向けると躊躇して携帯を閉じようとする。その途端、後ろで覗いていたかのように太田さんの番号で携帯が鳴った。
「そろそろ私のために旅行の予定を考えてくれているのかなと思ってかけたんだけど」
いきなり可愛い声でひどく図々しいことを言う。間違いなく太田さんだ。僕は観念して画面上の資料を辿りながら岩手県旅行の計画を説明すると、太田さんはあっさりと岩手県なんてよくわからないと答える。僕は宮澤賢治記念館や盛岡冷麺など、手元の旅行雑誌に載っている観光スポットや特産料理を一通り紹介した。そして最後に、今回計画した旅行の大目的である鉛温泉について説明した。
鉛温泉は一軒宿で、開業から二百年以上も経つのだという。昔に大物作家が宿泊して有名な心中物を書き上げたとか、くり抜いた岩の中に立ったまま入浴する白猿の湯が有名だとか、色々と紹介記事の内容を話した。
「君はもしかして、猿関係が好きなのか」
説明を一通り聞いた太田さんが発した最初の言葉がこれだ。僕は意味が分からず黙り込んだ。すると彼女は笑って言った。
「君と会った神社は猿田彦とかいう神様がいることになっているじゃないか。で、白猿の湯がお薦めだなんて言うものだから」
僕は少し呆れてそんなことはないと笑う。と、ふと太田さんの物言いが気になった。猿田彦が「いることになっている」とは何となく奇妙な変な言い方だと太田さんに言う。
「だって私は、山の中でも頂上でも猿田彦に会ったことは一度もないよ。会ったこともないのにいるかどうかなんてわからないよ」
いや、だって相手は神様でしょ。僕の疑問に太田さんは、神様でも挨拶ぐらいするはずだよ、とさらに無茶を言って笑いだした。
太田さんの笑いが止まるのを見計らって旅館と予算について説明する。太田さんは全て君に任せるよ、とあっさり丸投げしてくる。僕は了解してから、女性の太田さんと一緒に宿泊旅行に行くことがどうか迷っていることを、なるべく慎重な言い方で話そうとした。だが太田さんは叩き斬る勢いで遮った。
「男女で旅行するからと言ってわざわざ意味を与える必要があるかい。私は君と旅行することが楽しい。それだけじゃ、駄目かな」
いつもの突き放す言い方が影を潜め、静かな声でゆっくりと問いかけてくる。僕は太田さんの言葉をゆっくりと噛み締める。
僕と旅行するのが楽しい。今は、今はそれだけで充分かもしれない。僕は何を焦っているのだろう。考えてみれば、まだ会ったのは二回だけだ。まだ太田さんの家だってどこにあるのかさえも聞いていないというのに。
それでいいよね、と僕が答えると太田さんは安心した溜息を発した。次いで太田さんは全く予想もしていないことを言った。
「じゃあ、また太田神社で待ち合わせね」
また神社か。まず僕が迎えに行くだけで面倒だ。僕はせめて近くの駅まで来るよう告げた。すると太田さんは一転して不機嫌な声で太田神社でなければ絶対に駄目だと言う。
「少しは太田さんも融通してよ。必ず神社で待ち合わせだなんて神様でもあるまいし」
「だって私、神様だもの」
太田さんはいつもより一際甲高い声で言った。だが、口を尖らせてむくれた太田さんの顔が思い浮かんでしまい、僕は思わず吹き出してしまった。笑ってしまってから僕の負けかなと思う。ここは負けておきたいと思う。
「お迎えに行きますよ、神様お姫様」
僕の言葉に太田さんはやっと恥ずかしそうに笑う。女の子という生き物はずいぶんと得なものだ。こうやって結局は負けて甘やかして逆に喜んでいる僕も僕なのだけれど。
岩手への旅だというのに、太田さんは前回と同じ大きさのバッグだけを背負って石段に立っていた。着替えは大丈夫なのか訊いても心配はないとバッグを叩き、また石段に立ったままで片手だけを僕に差し出してくる。
前回と同じく太田さんの手を引っ張ると、何か引き戻されるような感触がした。力を緩めそうになると太田さんはひどく不機嫌な顔になったので慌ててまた力を込める。
太田さんは前回と同じように僕の隣に跳ね降りると、満面の笑みで勝手に助手席のドアを開けて乗り込んだ。僕は一緒に運転席に乗ってから、手を引っ張ったときに何か引っかかったような気がしたことを話した。すると太田さんは、背中の辺りに枝がかなり伸びていた、と何でもないことのように答える。確かに、枝が伸びていたのは本当だけれど、でも僕は妙に気になった。とはいえ何も原因が思い浮かびはしないうえ、何より愛想の悪い太田さんが今日はかなりのご機嫌なのだ。わざわざ水を差すほど僕も馬鹿ではない。
僕たちは前回と同じ道筋を通り、さらに南下すると北海道から本州への玄関口、木古内駅までやってきた。実は他にも近い駅があるのだが、太田さんと二人きりになれるドライブを長めに取りたい気持ちがあったのだ。
木古内駅は青函トンネルを通る各種列車が北海道側で最後に停まる駅なので、鉄道好きなら必ず知っている有名な駅だ。とはいえ多くの乗客は終着駅の函館で乗降するせいか、駅周辺と駅舎の外観は特急など通過してしまうようにも見えるほど小さな駅だった。
僕は車を駅の駐車場に停めると、予め買っておいた往復切符を太田さんに渡した。太田さんは切符を裏返して眺めたり指で弾いたりしながら、やたらと機嫌良さそうに笑う。
僕たちは早めに改札をくぐり、停車位置に向かった。プラットホーム内には幾つも鉢植えの花が置いてあり、パンジーらしき花が咲いていた。太田さんはしゃがみ込んで花をじっと見つめると、眉をひそめて言った。
「こんな狭い場所だと花は窮屈だろうね」
確かに隙なく並べられていて窮屈かもしれない。太田さんは僕の顔を見上げて言う。
「山で好き勝手に咲いている花が一番だね。岩の隙間から無理矢理咲いているのもあるけれど、あれはあれで頑張って周りに敵無しで咲いているから良いものだと思うよ」
僕もどちらかと言えば山や野原で咲いている方が好きだ。そしてそれを持ってきて植える人の気がしれない。僕が黙ったままうなずくと、太田さんは遠くを眺めながら今度は全く逆に近いことを呟くように言った。
「でも結局、生えた場所からは一生動けないんだよね。自分の生まれた場所から、ずっとずっと、永遠に離れられないのだよ」
僕が首を傾げると、太田さんは小さい声を上げて自分の頬を叩いた。次いで活発な声で函館方面を指差すと僕の袖を引いた。
「ねえ君。私たちはあれに乗るんだね」
八戸行きの特急が近付いていた。
列車に乗ってからは桑の実ジュースを飲んだり弁当を食べたり太田さんの寝顔を眺めたりと、それなりに長く乗っているわりには楽しい時間を過ごした。ここだけの話だが、太田さんは意外に穏やかな可愛い寝顔なのだ。時折何やら口をもごもごと動かしてふにゅふにゅと言うのは面白いというか可愛いというか。とはいえ携帯で写真でも撮った日には当然に変態と呼ばれてしまいそうので、さすがにそんな暴挙はさすがにしなかったが。
八戸駅で降りると新幹線に乗り換え、そのまま僕たちは新花巻駅に着いた。列車を乗り継いだせいで気づかなかったが、北海道と異なり、肌に粘りつくはるかに濃密な暑さだった。太田さんは憂鬱そうに空を見上げた。
「雨が欲しい。雨が降れば涼しくなるよ」
僕は首筋に溜まった汗を手で拭きながら、湿気で余計に蒸すだけだと反論する。太田さんは返事もせず虚ろな目でペットボトルを逆立ちさせ、水を一息に飲み干す。僕もお茶を数口飲んで暑い太陽を恨みがましく仰いだ。
そうやって二人で暑さに負けかかった頃、ようやく宿へのバスが到着した。僕たちは急いで乗り込むと車内の冷房で一息つく。太田さんは襟を人差し指で引っ張りかけてから、僕の方を見てにやついた笑みを浮かべた。
「危ないな。君は私の寝顔を嬉しそうに眺める変態くんだということが今日わかった」
僕は背もたれに預けきっていた体を慌てて起こした。太田さんは僕の顔を覗き込むと、歳の離れた姉貴分のように悪戯っぽく笑う。
「変態くんは冗談。だがお灸はいるよね」
相変わらず太田さんは笑顔のままだ。どこまでが本心なのか、男としては笑っている方が逆に怖い。そんな僕の気持ちを見透かしたのか、太田さんは僕の頬を優しくつついた。
「帰りの列車は私が起こしてあげるから安心して良いよ。君の可愛い寝顔が楽しみだ」
今回の旅では、しばらくこの話題で玩具にされることが決まったようだ。
花巻駅から遠ざかるにつれ、周辺が水田地帯に変わってきた。広い水田の中に小さな林がぽつぽつとあり、その林の中に住宅が建っている。来る前に調べた話では、この地方の農家は防風林を家の周りに配するそうだ。
「狭いところにずいぶんといるものだね」
太田さんの疑問に、水田と防風林を合わせれば充分広いだろうと答えると、彼女は家ではなく神社を指差した。確かに農家の防風林より少し大規模な林が幾つもあり、それらの林の隙間からは小さな神社の姿が窺えた。
「ほら、ここにも神社があった。太田神社なんてぽつんとして寂しいものだけれど」
「ぽつんというより完全に山の頂上だろ」
「そのぶん海がよく見通せる。良い山だよ」
何とも理不尽な太田理論が展開される。僕は苦笑して窓から外を眺めた。北海道より温暖な気候であるせいか、植物は全体に穏やかな雰囲気に見える。瓦屋根の家が多く見られる点も本州にいるのだと実感させられる。
「やはり北海道は気象が厳しいようだね」
僕の呟きに太田さんはまた反論した。
「そんな北海道でもあれしか神社がないよ。穏やかな場所に沢山の神はいらないよ」
太田さんはまだ神社の数にこだわりがあるらしい。続けて太田さんは物覚えの悪い生徒に説明する先生のような口調で言った。
「神なんてものはね、自然を上手く循環させていれば充分なものだと思うよ。人間だって自然の一部だから、そんなほんの一部だけ特別扱いするなんておかしいじゃないか」
「だけど、神様に祈るのは人間だけだろ」
「祈られたから働くなんて、まるで商人じゃないか。神は商売で動くものではないよ」
僕はでも、と言って言葉を続けられなくなる。太田さんの言っている方が筋は通っている感じがする。というか僕は無宗教に近い人間なのだからこんな論争に大して興味はないけれど、この言い負けた感じは嫌だと思う。だからちょっと意地悪なことを言った。
「でも世界は神様が作ったとか言うだろ。僕はそんなことを信じていないけど、でも神様が作って人間がこれだけ繁栄しているなら、えこひいきだってしていそうじゃないか」
太田さんは今までにない冷たい視線を僕に向け、呆れた声で言った。
「この世界を作った神なんて壮大な馬鹿がいるなら私は会いたくないね。他の生き物を殺して食わないと生きていけない。そのくせ死ぬときは苦しいとくる。そんな世界を作って喜ぶような神は悪趣味な奴に違いないさ」
どの宗派だろうが、宗教が好きな人が聞いたら怒りそうなことを平然と言い放つ。いつも神社を待ち合わせ場所にしているくせに。いや、ここまで言い放ってしまう人だからこそ神社を気軽に目印にするのかもしれない。
と、いつの間にか僕たちの後ろの席に乗っていた年配の男が話に割り込んできた。
「中には人間に肩入れする神がいて構わないと思うがね。建物の神や薬の神、道路の神など神なんて世の中に沢山いるだろうが」
男は結婚式の帰りなのだろうか、羽織袴姿で、酒臭くはないがかなりの赤ら顔だ。太田さんは傲慢な笑みを浮かべ、男が視線を向けていた道路工事現場を指指して言った。
「道路、道路ね。人間の作った道だね。獣道より人間の道路が大好きな神もいるね」
男は工事現場からは目を離さず、高い鼻を掻きながら不機嫌な声で言い返した。
「自然に根ざした神が古い神だからと言って偉いとも思わないがね。だいたいその神々も自然を守りきれていないではないかね」
神様論争が妙な方向に進み始めたと思う。だが何故か僕は口を挟めなかった。さらに男は僕を指差して太田さんに言った。
「例えば彼が自然を循環するのに邪魔になるということでこの辺のどこかの神が彼を襲ったら、あなたはその神を許せるのかね」
太田さんが拳を強く握りしめる。僕は慌てて太田さんの手を掴んで男を睨みつけ、なるべく感情を抑えて低い声で訊く。
「なぜ私たちにそうやって絡むのですか」
男は窓の外を眺める。空に浮かんだ雨雲に顔をしかめ、再び太田さんに視線を向けた。太田さんは表情を緩めながらも男を再び睨みつける。男は溜息をついて肩を竦めた。
「興味があったからだろうが。だからあなたたちの後ろに来て話しかけたのさ」
話のためにわざわざ席まで移ってきたというのか。ずいぶんと面倒な酔っ払いだ。だが男は妙に澄んだ視線で僕に話しかけた。
「君には難しいよ、彼女は。本当に難しい。君は彼女のことをどれほど知っている。儂との話にすら割り込めなかった君に、果たして彼女の思いを理解できる自信はあるかね」
太田さんは僕の肩を押して前を向くように促す。僕もこれ以上この男とは話したくなくて二人で前を向いた。運良く下車する停留所が次だったので、ほんの数分後に僕たちは男には挨拶もせずにそそくさと下車した。下車した後にすぐバスの中を覗いたが、男は腰でも曲げているのか、その姿は見えなかった。
下車した場所は農村の田舎の風景で、真向かいには例によって小さな神社が、少し先には鉛温泉の立看板が見えた。道路を横断すると、太田さんは神社に走って行って鳥居の前で片手を上げて会釈する。僕が何をしたのか訊くと、太田さんは当然のように答えた。
「挨拶だよ、ただの」
さっきの仕草はどう見ても友達か後輩に挨拶しているような態度だ。黙って通り過ぎた方がまだ罰が当たらないで済みそうだと思う。無宗教のつもりが、太田さんといると逆に神様とかを意識してしまうのは何だか悔しい気がする。でもそんな太田さんの態度は不思議と自然で、魅力的に感じてしまうのもまた事実なのだ。太田さんは僕の戸惑いを構わず、むしろすっきりした様子で僕をせかすと先頭に立って温泉宿への道を降りて行った。
一人一室という条件では旅館部は宿泊出来ないため湯治部で予約していたのだが、案内された部屋は予想していた以上に老朽化していた。畳も何だか少し柔らかいし出入り口の建てつけも悪い。廊下の床も古めの学校か役所の廊下のような雰囲気の造りとくる。
だが太田さんはさっさと浴衣に着替えると僕の部屋に上がり込んできて言った。
「思ったより女々しいね、君は。自分で言っていたじゃないか、北海道に湯治型の温泉は少ないから、古くても良い機会だって」
太田さんは明るく笑って窓を開けた。窓の下には大きい川が轟々と鳴っていた。天然の川石が敷き詰められた河川敷を勇壮に流れる大量の川水は透明で、雨雲の隙間から洩れる夕日を浴びた、川面に覆い被る木々は暗緑色の影を淀みの奥へ落としていた。
太田さんは水面を下流から上流に向けて指で辿り、ぼんやりした調子で言った。
「山は好きだけどね、水がないと落ち着かないんだよ。大量の生きた水が身近にないと、私は耐えられないほど寂しくなるんだ」
「寂しく、なる」
訊き返すと、太田さんは口を尖らせた。
「面倒な奴だと思っているかもしれないし、手間のかかる場所でしか会わないけれど、これでも意外に私はかなり寂しがり屋だよ」
太田さんは頬を赤くして、卓袱台に置いた僕の腕時計を慌てるように掴んで見た。
「名物の湯が女子専用の時間だ。行く」
ぶっきらぼうに背を向けると、太田さんは湯へ走って行った。その背中はかすかに、いつもより小さく見えたような気がした。
太田さんは僕の部屋に戻るとすぐに部屋の畳に転がった。眠るわけではなく、だが黙ったまま両目を閉じている。僕も何となく声を掛け難くて何も話しかけられずにいた。
バスの中での会話を思い返す。僕はどれほど太田さんを理解しているのか。そもそもまだ会って三回目なのだから、そんなに何もかもを理解できるはずはない。とはいえ、彼女が時折発する奇妙な発言には僕も戸惑うことが多過ぎるような気もした。非常識の多い彼女と一緒にやっていけるのだろうか。バスの中で繰り広げた神様論争のとき、何かの宗教の信者よりも遙かに遠い人に思えた。ほんの少しだけ、妙な怖さすら感じてしまった。
だが太田さんの沈黙した顔を眺めているとまた不安が小さくなっていく。彼女は非常識なところはあるけれど、他人に迷惑をかけるわけではない。むしろさっきの男の方が酷いと思う。そうだ、きっと嫉妬されたのだ。
僕は何だか穏やかな気持ちになってそっと声をかける。太田さんは片目を開け、いい湯だったよ、と小さな声で答える。僕はまた理由のわからない不安が大きくなって、太田さんに体を寄せる。太田さんはようやく起き上がると窓の向こうに目を向けて言った。
「立ち湯はかなり気持ちよかったよ。くり抜いた岩の中にね、ぼんやりと立ったまま湯に包まれているとなかなか安らぐものだ」
でもね、と言葉を切り、バッグから取り出した桑の実ジュースを一口飲んで続ける。
「身長ぐらい深くて底まで全て岩なんだよ。その上透明な湯だ。だから湯が青くてね」
湯が、青い。太田さんの言葉を僕は鸚鵡返しに呟く。太田さんは再び両目を閉じた。
「磯場の浅海のように湯が青すぎるんだ。海藻の枯れてしまった、麓の海のように」
どこの山の麓だろうと一瞬思い、すぐに太田神社の真下の海のことだと気がつく。僕はあの南海の海のように真っ青な日本海と、太田神社に繁る緑の対比を頭に浮かべた。
太田さんは僕にタオルを投げると再び卓袱台の僕の時計を見て、もう男湯の時間だよと告げる。たぶんその湯に入ってこいと言いたいのだろう。部屋を出ようとすると、太田さんは僕の背中に向けて小さく声をかけた。
「君なら、私をわかってくれるのかな」
僕は返事が出来ないまま湯へと向かった。
扉を開けると急な階段があり、吹き抜けの底に小判型の湯船が見下ろせた。湯船を含めた床は少し青みがかった灰色の石床で、体を洗う蛇口の類は一つも付いてない。湯船には中年の先客が二人、黙ったまま入っていた。
僕は小判型の湯船から桶で湯を汲んで何度か湯をかぶると、そっと湯の中に降りた。湯船の縁は少し浅くなっていて座るのに都合が良い。中心はさらに一段下がっていて立ったままでちょうど肩までの深さがある。それほど熱くはないのだが、段を降りて中心に向かうと水圧のせいか胸の辺りにほのかな圧迫を感じる。だがその圧迫感が逆に心地良い。
しばらく中心に立っていたが、湯あたりしそうなので湯からあがると、足だけを入れたまま湯船の縁に腰かけた。座る位置を変えただけで入口から見下ろしていたときと全く別な風景に見えるのだから不思議なものだ。
床とほぼ同じ高さの水面の向こうに、掘り残した石の塊が光の加減で妙に白っぽく見える。湯を手にすくってみるとほぼ透明で、再び湯を湯船の中に返してやる。再び湯をすくいかけ、太田さんの言葉を思い出した。たしかに石風呂の中で湯をすくっていると、夏に岩場の海で遊んでいるような雰囲気だ。
顔を上げ、浴槽をぼんやりと眺めた。窓から漏れる光を吸った湯は淀みない海のように水色の輝きを返しているのだ。だが、それは沢山の生物が棲む磯場ではなく、ただひたすらに青いだけの閑散とした岩場の海だった。太田さんを放置してはいけないと閃いた。
僕はすぐに浴槽から上がると浴衣を着込んで部屋に真っ直ぐ戻る。太田さんは雨の降り始めた窓の外をぼんやりと眺めていた。背中にそっと声をかけると、太田さんはゆっくり振り向いて、わかったかな、と呟くように訊いてくる。僕は黙ってうなずいた。太田さんは少しだけ緩んだ表情を浮かべて言った。
「昔はあんな何もない透明な青じゃなかったんだよ。全て枯れてしまった。なのに私は、ぼんやりと青い湯の中に立っていたんだ」
太田さんの言うことはわかる。悲しい気持ちもわからないでもない。でも太田さんがそんなに悲しむ理由がわからない。だが僕が慰めの言葉を考える前に、太田さんは諦めたような表情になって、大雨が降っているというのに窓を完全に開け放って言い捨てた。
「人間の君には、わかるはずがないよね」
一粒の雨も部屋の中に入って来なかった。いや、入って来ないのではなく。太田さんが後ろに広げた手の平を中心に雨が跳ね返されているのだ。次いで太田さんは窓の外に右手を突き出すと何かを掴むような仕草をした。何度か雪玉を握るような仕草を繰り返しているうちに、彼女の手の中で何かが部屋の明かりを反射した。そして部屋に戻した右手の中には透明な水晶の玉のようなものがあった。
太田さんは茶櫃からグラスを取り出し、その水晶玉を入れる。そしてグラスの縁を指先で弾くと、水晶玉は破裂して透明な水で満たされた。太田さんは黙ったままグラスを僕の口元に持ってくる。僕はこわごわ中身を飲んでみる。それは本当に鮮烈な名水だった。
「オオタカムイは、海を見下ろす山に鎮座する海の守護神だ。大海の神だから当然、こうやって全ての水を簡単に支配できる」
太田さんは言って僕の頭を優しく撫でる。オオタカムイ。麓の看板にあった、太田神社が創建される以前の土着の神様。だから。だから毎回僕に神社まで迎えに来るように言うし態度もずいぶんと尊大だし、それに。
「神は自由に土地を離れるわけにはいかないのだよ。誰かが連れ出してくれるまでは」
だから僕に腕を引かせたのか。だから今回の旅は太田神社から遠く離れた場所だから、引っ張るのに力が必要だったのか。
「やはり君もそんな目で見るのだね。悔しいが、あの厭味な道路神の勝ちなのかな。論争に負けたことよりずっと悔しいよ、私は」
何も答えられず言葉に迷っていると、彼女は僕の方を向いたまま窓枠に右足をかけた。
「これまで本当に楽しかった。でも私は海と山を守りに帰った方が良さそうだと思う」
なぜ、と僕は問いかける。彼女はゆっくりと雨で増水した足下の激流を指差した。
「この川にも川の神がいて、川に住む生き物を守っている。今も沢山の生命があるのは私にもわかる。でも私は、あれほど私の海から生物を減らしてしまったんだ」
「環境が変わったのだし、僕たち人間も」
オオタカムイは恐ろしいほど冷たい視線を向けつつ、諭すような静かな声を発した。
「人間が悪いのなら早いうちに退治するべきだった。でも私は、私の役割を果たしていない。人間を追い払おうとしなかった」
何にも縛られず、自由に動ける人間に生まれた僕自身が唐突に恥ずかしく、そして孤独に思えて僕は再び沈黙した。オオタカムイは僕から視線を逸らして唇を噛む。それでも僕は敢えて目の前まで歩み寄って反論した。
「オオタカムイは、捻挫をした僕を放っておけないほど優しすぎる神様だから。でも、そんな優しさが僕は好きだよ」
オオタカムイは俯いたまま何事か呟くと、残していた左足も窓枠にかけ、身を空中に躍らせた。僕は慌てて窓に飛び付き、そのまま何も考えずに窓の縁に両足を掛けた。と、雨で足が滑る。真下は岩だらけの川だ。僕は。
「君は馬鹿だ! 本物の大馬鹿者だ!」
目を開けると僕は雨雲に支えられて宙に浮いていた。雲を作りたての綿飴のように引き寄せてオオタカムイは言った。
「君は、君は下らない過ちで私に二回も私の主義を曲げさせたね。親しくしたとか、少し気になるからなんてつまらないことで私は特別扱いなんてする神では、そんな神では」
オオタカムイは涙を溜めて僕を睨む。バスの中の神様論争を思い返した。僕はよくわからない話とだけ受け取っていたけれど、彼女は大切な譲れない主義を主張していたのか。
僕は黙ったままの彼女を見つめる。彼女は僕を部屋の中に戻そうとした。でも彼女の零れた涙と震える指先はあまりに寂しげで、そして僕にとっては神様であるより前に可愛い太田さんで。僕は必死で身を乗り出した。
「危ないと何度も言っているのに!」
僕は雲から身を乗り出したまま叫んだ。
「君が凄い神様で構わないし、主義を曲げてくれて助かったし、それにやっぱり君と」
思い切って言おうとした言葉を一瞬だけ飲み込んでしまう。それでもやはり言った。
「君ともっと旅に出たい。一緒にいたい」
彼女は頬を膨らませ、真っ赤な目をしていつもの太田さんの口調に戻って言った。
「本当に馬鹿だよ。忘れられないほどね」
それでも僕はそのまま部屋の中に戻され、太田さんはそのままうっすらと雨に溶け込むようにして姿を消した。
オオタカムイ、いや太田さんは朝になっても戻らず、僕は二人分の料金を払って宿を後にした。人のいない場所で太田さん、と声を出しても太田さんは戻ることはなかった。
結局、僕はその後の日程を中止して北海道に帰った。携帯電話を調べても太田さんの番号は消えてしまっており、パソコン内のバックアップにも全く何も残っていなかった。
太田さんの寂しさを知りたいと思い、だがもう手が届くはずもないと諦める、そんな後ろ向きの毎日を過ごしているうちに九月の連休が近付いていた。でも今は一人旅を楽しむ気にはなれなかった。それでも連休間近の休日、結局は旅行雑誌に目が向いてしまった。
東北地方や岩手県を避け、他の地域を適当に手に取る。そこにあったのは一泊の道内小旅行の企画だ。札幌から函館まで沿岸を走り続けるドライブコースが案内されていた。
途中に太田神社があるな、と思った途端、呼吸が苦しくなる。それと同時に僕は決心して雑誌をレジに持っていく。そのまま自宅に戻ると服装を着替えた。虫除けスプレーやペットボトル、岩を歩ける靴と軍手を揃え、僕はすぐに太田神社に向けて車を走らせた。
太田神社の麓は少し秋めいただけだった。僕は太田さんが待っていた石段に足をかけ、太田さん、と叫んでみる。何も反応はない。僕は構わず準備した身支度を整えて石段を登り始めた。今度は怪我なんてしない。もう太田さんには主義を曲げさせたりしない。
階段を登りきると次は山道だ。山道の途中に生える木々が風で騒がしいほどに揺れる。太田さんが木々に監視させているのではないかなどと妄想しながらさらに歩き進む。
捻挫をした場所ははるか後方になり、小さな祠の前も通り過ぎ、ようやく本殿の鳥居が見えた。ネットの案内によれば、この先は橋と鎖を登って祠に繋がるのだという。僕は前回通り持参したお茶を飲んで気合を入れる。
雨が降り始めた。僕は曇り空を見上げて逡巡する。それでも僕は鳥居をくぐった。さらに雨足が強くなってくる。雨具を被り木陰に身を寄せる。冷たい雨に体温を奪われる。
人影はなく鳥の声も聞こえず、ただ草と雨具を叩く雨音だけが聞こえる。この静けさの中で太田さんはどれほどの時間を過ごしてきたのだろうか。僕たちの先祖が広がっていく姿をこの頂上から眺めていたのだろうか。
僕は太田さんの何を知っているのだろう。僕自身の自由さを当然だと思い込んでいた僕には、やはり太田さんの寂しさを理解できるはずがない。それは僕が自由な人間にすぎないから。だからこそ僕は身勝手に叫んだ。
「オオタカムイ! 太田さん!」
僕は両方の名で呼びかけると、鳥居に腰掛けて背負ってきた旅行雑誌を取り出した。
「九月はまた連休があるんだ。道内なら日帰りも一泊もある。でも道内の知らない場所を走るなら、一人だと道に迷うかもしれないだろ。ほら、僕は間が抜けているから」
奇妙に強い風が耳元で吹き始めた。だが誰も僕に言葉を返す者はいない。それでも僕は諦めずに雑誌をめくりながら続けた。
「カーナビって知ってる? 道順はわかりやすいけど、あれ積むと高いんだよね。とくに先日の岩手の旅費、二人分払ったからさ」
背中に当たっている鳥居が少し熱を持った気がする。僕はさらに一人芝居を続ける。
「長距離運転だと居眠りが怖いんだよ。飲み物を差し出してくれる人が一緒にいてくれると安心だけど、肝心の相手がいないし」
と、水の入った木の器が差し出された。
「まずこの山で怪我をしない方が先だね」
振り返ろうとすると、僕は宙に浮き上げられて背中が本殿に向いた。次いでその背中に暖かくて細い背中が当たった。
「君のような男に飲み物を差し出してくれる人間なんてそういるわけがないじゃないか。君もずいぶん妄想が酷くなっているね」
太田さんは言葉を切り、隣に回り込んだ。
「神なら、いるかもしれないが」
僕は彼女の手に掌を重ねて言う。
「じゃあ、また麓の階段で」
寂しがり屋の神様が小さく吹き出した。