殺人狂想少女 ~或いは、エディプスコンプレックスに纏わる僕の精神的病理
その少女に初めて会ったのは、人通りの少ない道を、数十冊の格闘漫画を運びながら、一人で歩いている時の事だった。
無謀にも僕は紙袋でその大量の格闘漫画を運ぼうとしていたのだけど、案の定紙袋はその重量に耐え切れずに何度か破け、近くのコンビニで買ったガムテープで補強してあった。僕はガムテープでぐるぐる巻きになったそれを、まるで赤ん坊でも抱えるようにして歩いていた。
狭い道。平屋の民家が並んでいる。しかし、その平屋からは少しも人の気配がしない。本当に誰かが住んでいるのかと疑ってしまいたくなるほどだ。そして、夕刻になり辺りが暗くなった頃、街灯の灯りが点いた瞬間に、それは僕の前に突然現れた。
少女だ。セーラー服を着ている。
唐突に現れたように思えて少し驚いたけど、直ぐに街灯の光で照らされて姿が露わになった所為だと気が付く。きっと、彼女はもっと前からそこにいたのだろう。不意を突かれて驚いた所為か、僕は思わず、その少女をマジマジと観察してしまった。
少女は妙に身体の線が細く、特に腕の細さが印象的だった。目は前髪に隠れてほとんど見えず、口だけがはっきりと分かる。そして、その口元には薄らと笑みを浮かべているようだった。しかも、悪巧みでもしていそうな類の、凶悪そうな口の端の歪み方。その少女の肌が酷く白い事もあってか、その顔からは狂気的な雰囲気が感じ取れた。
少女は数十メートル先にいた。そして、明らかに僕を凝視している。少女は細い腕をだらりと垂らしていて、その腕はまるで鞭のように思えた。そして、その鞭のように思える両の手には、しっかりとナイフが握られている。小サイズ程度だけど、ステーキ用の肉くらいなら、簡単に切り取れそうなナイフだ。それが何かの光を反射して、僕の目に届いている。
僕はそれを見て変だな、とそう思った。この少女は何をするつもりなのだろう? 僕を凝視しているのは、恐らくは僕と似たような理由なのだろうと思うけど、どうしてナイフなんかを握っているのかが分からない。もしかしたら、僕を不審者だと警戒しているのかもしれない。考えてみれば、人気のない暗い夜道に、少女一人きりなのだから。
だけど、僕がそう少女のナイフについて説明付けをし終わるか否かのタイミングで、その少女は僕に向かって猛突進して来たのだった。治まりかけていた違和感が急激に復活し、恐怖とパニックを僕に与えた。
な?
気付くと、もう少女は目の前にまで来ていた。そして、鞭を振るうような動きで、ナイフを僕に浴びせてくる。パニックに陥った頭でも何とか僕はそれに反応し、漫画を抱えた紙袋でナイフを防いだ。ナイフは紙袋に刺さる。漫画が切られてしまった(こんな時なのに、くだらない事が気になるものだ)。僕はもう片方のナイフを警戒した。反対方向からナイフが浴びせられると思ったんだ。しかし、その予想に反して、ナイフはやって来ない。それどころか、少女の姿も消えていた。
次の瞬間に気付く。少女は僕の抱えている紙袋の影に隠れたのだ。そして、そのまま死角から僕にナイフが浴びせられた。しかも、先と同じ方向から。腕が斬られて血が出る。「フフフ」と少女は笑う。恐らくは、バックナックルに近い動きで彼女はナイフを振ったのだ。簡単に攻撃を受けてしまったのは、死角だったという事もあるかもしれないけど、その少女のナイフさばきが変則的で捉え難かった事もあると思う。ナイフ戦闘術なんて、僕は見た事も聞いた事もないけれど、それでも彼女のナイフさばきが普通ではない事だけは分かった。それは、訓練してできるような動きとは僕には思えなかった。まるで生まれた時から、彼女にはその動きが備わっているように僕には感じられた。恐らく、彼女はそういう生物なんだ。何故か分からないけど、そう思えた。
ナイフの斬撃がまた来る。僕はそう察すると切られた腕に構わず、紙袋を盾にしてそのまま少女を突き飛ばした。ナイフで切られていた所為か、紙袋は分解して漫画が地面に散乱する。少女にしてみれば予想外の攻撃だったのだろう。地面に尻もちをついていた。ナイフも落としている。僕はそのチャンスを逃すまいと、少女の腹を思い切り蹴った。「グッ」という声を上げて、少女は地面に転がった。それから僕は急いで彼女の両腕を抑えつけた。
か細い腕だから、流石に男の腕力には敵わない(それでも、予想よりも強かったけど)。それで彼女の動きは封じられた。それから、近くに紙袋に入れてあったガムテープが転がっているのを見つけると、僕は彼女の片腕を足で抑えて自分の片手を自由にし、それで彼女の両腕を縛った。ガムテープできつく固定すると、もう彼女の手は動かなかった。
少女が「何をするのよ!」と怒鳴って、それから叫び声を上げようとしたので、僕はガムテープで彼女の口も封じた。そうすると、彼女はやっと大人しくなった。観念したのかもしれない。ただ、今のこの状態、事情を知らない人が見たら、僕が彼女を襲って縛り上げているように見えるだろう。
少女が逃げないように腕を強く掴むと、僕は冷静に辺りを見渡した。拘束された少女と二十代の男を中心に、漫画が散乱している。しかも男は腕から血を流している(幸い腕は軽傷だった)。異様な光景だ。それを確認した後で、僕はこれからどうしようかと考えた。普通なら警察に連絡するべきところだろうけど、生憎僕は携帯電話を持っていない。近くの民家に頼むにしても、どうこの状況を説明すれば良いのかが分からなかった。
「突然、道で見も知らぬ少女にナイフで切りつけられたので、腕を縛って口を封じました」
そんな話を、信じてもらえるだろうか? ちょっと自信がない。下手すれば、僕が犯人だと思われるだろう。少女が嘘をつくかもしれないし。
それで僕は、一先ず、少女を連れて家に帰る事にした。それから警察に連絡すれば良い。家にも電話はないから、歩いて行く事になるけど、流石に少女暴行犯が自分から警察に(しかも、少女を拘束したままで)行くとは思われないだろうから、きっと僕が犯人ではないと信じれくれるだろう。切られた腕の傷を見せても良い。
アパートに辿り着くと、僕は少女の足もガムテープで縛った。やはり少女は抵抗をしなかった。直ぐに警察に行こうかと考えたけど、そこでふと先の格闘漫画が気になった。路上に散乱したままだ。実はあの格闘漫画は、卒業論文の重要な資料なんだ。携帯電話を持っていなくて、家にも電話がないとくれば、僕が貧乏だと簡単に分かってくれるだろうけど、実は僕はまだ学生で、教育学部に所属している。大量の格闘漫画は、その貧乏学生の僕が、わずかな金を工面して何とか手に入れたものだった。断っておくけど、格闘漫画がそんなに好きって訳でもないし、格闘漫画自体を研究対象にする訳でもない。格闘漫画に表れるエディプスコンプレックスを、僕は卒業論文のテーマに選んでいて、その為に格闘漫画が必要になっただけだ。
僕はもう一つ紙袋を用意すると、路上に散乱した格闘漫画を回収しに出かけた。幸いにも、一冊も欠けていなかった。切られたと思ったナイフの跡も、それほど酷くない。これなら、なんとか読めるだろう。充分に資料としての役割を果たしてくれそうだった。ついでに、先に少女が落としたナイフも証拠として拾おうと思ったのだけど、何故か見つからなかった。誰かに拾われたのか、溝の深い所にでも落ちてしまったのかもしれない。
格闘漫画を抱えてアパートに戻ると、僕の姿を見て、縛られた少女は、酷く怯えた表情を見せた。僕はその態度と先ほどの彼女の狂気的な行動とのギャップに戸惑いを覚える。なんだろう?この差は。
それで、口のガムテープを剥がすと、「どうして、あんな事をやったんだ?」と、そう尋ねた。さっきまでの彼女とは違って、今の彼女なら話が通じると思ったからだ。
すると、それを聞いた少女は信じられないといった表情で、「むしろ、それを聞きたいのは、あたしの方です」と、そう言ったのだ。そしてこう続ける。
「どうして、あなたは、あんな事をやったのですか? それに、どうしてあたしが蹴られた上に縛られて、こんな所に監禁されなくちゃいけなんです? あなたの目的は、一体、何なのですか?」
僕はそれを聞いて首を傾げた。この少女が何を言っているのかさっぱり分からない。やはり、話が通じないのだろうか。
「何を言っているんだ? 君が突然、僕にナイフで切りかかって来たんじゃないか。だから仕方なしに僕は君を縛って…」
それに少女はこう返す。
「どうしてあたしが、あなたを襲わなくちゃいけないのですか? それは、あなたの妄想です。
あたしは、あなたが突然に、カッターナイフで紙袋や自分の腕を切り始めたので、それを止めようとしただけです。そうしたら、あなたはあたしを突き飛ばして、蹴って、それからガムテープで縛り上げたんです。あたしは怖くて、途中からはされるがままにしました。抵抗したら、もっと酷い目に遭わせられると思ったからです」
僕はその言葉に愕然となる。確かに、この少女は途中から抵抗しなくなったけど。
「いや、ちょっと待て。そんな話、信じられるはずないだろう? だとすれば、僕は気が狂っているじゃないか」
そう僕が返すと、少女はこう言った。
「なら、あたしがあなたを襲うのに使ったというナイフを見せてください。あたしはそんな物は持っていません。もし、あなたの言う事の方が正しいのなら、そのナイフがあるはずじゃありませんか」
そう言われて僕は困った。
「いや、ナイフは何故か見つからなくて…」
「どうしてです? おかしくないですか? そんな重要な証拠品がないなんて。なんで、もっと探そうとしなかったのですか」
確かにおかしかった。頭を抱える。ナイフが見つからなかった事がおかしいのじゃない。重要なはずの証拠のナイフを見つけるのを、簡単に諦めてしまった僕自身がおかしいのだ。ナイフがなければ、僕が警察から疑われる可能性だって大いにあるのに。
或いは僕は、無意識の内に、ナイフを探すのを避けていたのかもしれない。それが、そもそも存在しないから。
僕はその時、持ち帰ったばかりでまだ紙袋に入ったままの格闘漫画を、後ろに意識していた。如実に、エディプスコンプレックスが表れたそれを……
……エディプスコンプレックス。
これは、精神分析学で提示された概念で、母親に対する愛情と、その裏返しとしての父親に対する憎悪が生む葛藤状態を指す。父親に対して憎悪すると同時に、男児は父親からの罰に怯え、同時に憧れ(同一化願望)を抱く、とされる。
この葛藤を乗り越える事で、男児は成長をする訳だけど、それは逆を言えば、この葛藤を乗り越えられなければ、何かしらの問題を抱える、という事でもある訳だ。
この説明で既に分かってくれていると思うけど、精神分析学は、人間の成長を扱った心理学でもある。だから、教育学部に所属している僕もそれを学んでいる。もっとも、実は精神分析学は“既に終わった学問”と言われる事もあり、その科学性には大きな疑問を持たれているのだけど。だからなのか、精神分析学は哲学に分類される事もあるし、酷い場合には芸術に過ぎないと言われる事すらもある(多くの文学作品に影響を与えてきた点を考えるのなら、それでも重要な価値があるとするべきかもしれない)。これは、精神分析学の創始者、ジークムント・フロイトにとって屈辱的な扱いだろう。彼は精神分析学が科学である事に、頑ななまでに固執していたから。
精神分析学が非科学的だという主張には、大きく分けて二つある。
一つは、帰納主義の観点から。帰納主義とは、情報を集めてそこから論を導こうとする考えなのだけど、精神分析学は本来、目視できない心の中を観察対象とする為、情報を正確には集められない。当然、そこから導かれる結論も信用できるはずがない、という事になる(因みに、このような心理学に対する批判から、飽くまで人間の観察できる“行動”に注目して理論を作るべきだという考えが生まれ、それが行動主義心理学という分野を確立していった)。
もう一つは、反証主義の観点から。反証主義とは簡単に言うのなら、“反証できる理論を科学と呼ぼう”、というものだ。精神分析学は懐疑的な態度を拒絶し、反論や誤った点があるとそれを無理矢理に回避してきた。だから、反証主義の立場からは、非科学的な理論という事になる。
また、実用面からも、それほどの効果は得られないと批判されていて、精神分析学は、臨床心理の現場で、既に限定的にしか用いられてはいない。
以上のように、精神分析学には様々な問題点があって最早過去のものと言っても過言ではないかもしれない(少なくとも、心理学研究の最前線にはない)。その概念の一つである“エディプスコンプレックス”だって、例え正しかったとしても、人間の心理に普遍的にあるものなのか、ある文化に特徴的に現れるものなのかは分からない。文化によっては、全く異なった心理の成長過程が正常という事もあるかもしれない。
ただし、だからといって、馬鹿にしたものでもないと僕は考えている。確かに、既に終わった学問の古典的な有名すぎる概念を、今更研究する価値なんかあるのか、と思いたくなる気持ちも分かるし、その批判はある程度は的を得ていると思う。だけど、実際にそれが如実に表れているものを目にしてしまったのなら、全否定はできないと思う。
それを僕は、よく立ち読みしているある格闘漫画で見つけた。その格闘漫画は、暑苦しいほどマッチョな、ボディビルダーのような体型の男達が、何かのジョークに思えるくらいの格闘シーンを繰り広げるもので(実際に、いくつかのシーンは笑える)、ストーリー性は極めて幼稚であるにもかかわらず、奇妙な魅力を放つ作品だ。実際に人気もかなり高い。この漫画での最大のライバルは、なんと自分の父親で、父親を倒す為に主人公は、様々な努力をし続けて強くなろうとする。しかも、話の途中で、自分の母親が父親から殺害されるというエピソードまであるオマケつき(話の髄所に、マザーコンプレックスと思われる点が見られるのも興味深い)。
憎悪すべき敵としての父親。その父親に勝つために、訓練して強くなる過程は、父親への憧れと同一化を思い起こさせる。しかも話の終盤に差し掛かって、父親へ対する憎悪がいつの間にかなくなり、愛情を示す要素まで出てくる。これは、穿った見方をするのなら、エディプスコンプレックスを乗り越えた、という事になるのかもしれない。
つまり、これでもかと言わんばかりに、この作品には、エディプスコンプレックスが表れている訳だ。
これに気付いてから、僕は他の僕が読んでいる格闘漫画も思い出した。そして、その多くに父親が関わり、エディプスコンプレックスが観られる事に気が付いたのだった。
育ての父親が偉大な存在として、息子を導き、ストーリーの進行と共に、自分の本当の父親が明らかになっていくもの(しかも、その過程で、憎悪すべき対象としての父親のような存在も現れる)。その他にも、死んだ父親の魂が、息子に乗り移り、格闘を繰り広げるモノもあった(これは、父親への同一化を意味するように思える)。
面白い事に、エディプスコンプレックスが素直に表れているものほど、ストーリーが単純で筋肉描写を重視していた。逆に、父親の存在が軽いものは、ストーリー性が優れていたり、或いはギャグ要素が強かったりした。これらの点が、単なる偶然であるようには僕には思えなかった。それで、卒業論文のテーマとして扱ってみることにしたのだ。
ただ、そう決めてから、僕は少しだけ不安な思いを抱えた。エディプスコンプレックスを提示したジークムント・フロイト自身には、実はエディプスコンプレックスが強くあったと言われている。つまり、フロイトは自身の心理を観察して、エディプスコンプレックスの存在を見出したんだ。ならば、それに興味を惹かれた僕自身にも、もしかしたら、エディプスコンプレックスがあるのかもしれない。
ならば。
……もし、それが存在し、表れるとするのなら、一体、どんな形をとって、表れるのだろう?
目の前には少女がいた。前髪で隠れていたはずの目が見えていて、その目は真面目そうで理知的に思えた。そして、僕の事を敵視しながら、同時に心配しているようでもあった。間違っても、ナイフなんかで人を襲う少女には思えない。
ナイフ。
精神分析学でなら、恐らくそれは、男根の象徴として解釈される。それを二つ持った少女が、僕に襲いかかってくる。これが、僕の狂想なのだとすれば、一体、どんな意味を持つのだろう?
――僕の父親は、アルコール依存症だ。
意味の分からない理由で、酔っぱらった父親から殴られたのを覚えている。幼い頃、僕にとって父親は恐怖の対象だった。父親は「馬鹿だ、馬鹿だ」と僕を罵りながら、僕の事を何度も何度も叩いたのだ。まだ、ほとんど何も抵抗のできない幼い僕を。
多くの格闘漫画では、父親は憧れの対象としてあるのだけど、僕にとってその要素はほとんどない。彼は醜く愚かだった。同一化? 冗談じゃない。
そこまでを考えて、僕は自分自身を分析するのを止めた。何か、深みに嵌ってしまいそうな気がしたからだ。それから少女を見てみた。彼女は、考え込んでいる僕を、不安そうに見つめている。
彼女は僕が狂っていると思っているはずだから、それで怯えているのだろう。
ため息をつく。
……やれやれ、どうしてこんな事になってしまったのだろう?
もし仮に、あの体験が僕の妄想でないのだとしても、もうナイフはないのだから、この少女を開放しても大きな危険はないはずだ。僕も一応男だから、武器も何も持たない少女に負けたりはしない。
それで僕は少女を開放する事にした。
「すまない。まだ、僕には何が現実なのか確信が持てないでいるのだけど、少なくとも、今の君には何の危険もなさそうだ」
そう言いながら、ガムテープを切って、それを剥がす。きつく貼られたガムテープは、彼女の柔な肌を赤く傷つけていた。彼女はまだ怯えているようだったけど、その僕の行動と言葉に多少は安心したようだった。手足が開放されると、僕の傍から離れる。
僕は部屋のドアを指差して、「悪かった。鍵は開いてるから、普通に出られるよ」と、そう言った。僕がドアを開けても良かったけど、僕がいると怖がって、出て行き難いかと思ったんだ。
彼女はそれから、後退りしながら無言でドアへと向かった。僕に背を向けないようにしている。そのままドアを開ける。僕は一応、玄関で見送る事にした。やっぱり、普通の少女のようだ。一体、どうして僕は、あんな幻体験をしたのだろう?
ところが、彼女が靴を履いて、外へ一歩踏み出すタイミングで僕は気付いたのだ。いつの間にか、彼女の目がまた前髪で隠れている事に。
何か光るものが、僕の顔の横をかすった。ナイフだ。また、少女は手にナイフを持っている。
「家は、知ったぞ……、バカ」
そして少女は、そう捨て台詞を残すと、そのまま駆けて行ってしまったのだった。残された僕は呆然とそこに立ち尽くした。
その出来事があってから、僕は不安を抱えて過ごした。あの捨て台詞は、明らかにこれから僕を付け狙うと宣言したものだろう。どこにナイフを隠し持っていたのかは分からないけど、あの体験はやはり僕の妄想の産物なんかじゃなかったんだ。少女は本当に殺人鬼だったんだ。
警察に相談しようかとも思ったけど、とてもじゃないけど信じてもらえる内容じゃない。だけど、いつ殺されるとも分からない暮らしに、僕は耐え切れそうにもなかった。
ならば、後残された行動は一つだろう。
少女が僕を狙う前に、僕が彼女を見つけ出して、なんとか止めさせるんだ。もし、襲ってきたら、今度こそ警察に行けばいい。
幸い、少女が着ていた服には見覚えがあった。近くの高校の制服だ。僕は下校時間辺りにその高校の校門の前で、隠れて出てくる高校生達を見張った。特徴的な体型の少女だったから、一目見れば直ぐに分かるはずだ。
不審に思われないかと不安になったけど、身を隠していたお蔭で、誰からも何も言われなかった。やがて、夕刻に差し掛かった頃に、あの少女が現れた。驚くくらいの細い体。間違いない、彼女だ。
僕は彼女を尾行した。人通りが少なくなったら話しかけて、どうするつもりなのか問い詰めようと僕は考えていた。やがて少女は、廃れた商店街の中へと入って行った。そこで、客のいない喫茶店を僕は見つける。話を聞くのには、適していると思って、僕はそこで彼女に話しかけた。
「ちょっと、君」
少女は振り返る。もし、前髪で目が隠れていたらどうしようかと、そしてナイフを持っていたらどうしようかと思ったけど、幸い彼女の目はちゃんと見えていた。僕を見て、誰なのか悟ると、彼女は恐怖に引きつった表情を見せた。
「何の用ですか?」
「何の用も何も、君が去り際にあんな事を言ったものだから、僕は殺されないかと不安になってしまって…」
「まだ、あなたはそんな事を言っているのですか? どうして、あたしがあなたを殺さないといけないのです?」
どうやら、まともな時の少女は、殺人鬼になった時の自分を覚えていないらしい。僕は近くの喫茶店を指差すと、「ちょっと待って。あそこで少し話さないか? 店員がいるから、君だって安心だろう?」と、そう彼女を誘った。すると彼女は少し迷った後で、無言のまま頷いた。
「――そんな事は、あたしは言っていません」
去り際に彼女が言った台詞を言うと、彼女はそう返して来た。
「でも、確かに…」
僕がそう言いかけると、「あたしは、家は知ったから、もしこれから何かあったら、今度こそ、警察に通報する、と言ったんです」と、そう返して来た。
「本当は、直ぐに警察に連絡しても良かったのだけど、どうもあなたは精神を病まれているようなので、止めておいたんです。いい人のようだし…」
僕はそれに目を丸くした。
「でも、ナイフが…」
と、僕が言うと、彼女はこう応えた。
「そもそも、そのナイフがおかしいでしょう? あの時、どうしてあたしにナイフが用意できたんです?」
少女は更に続ける。少し怒っているようだ。
「あたしがナイフを持っていたという時点で、あなたは自身の幻覚を疑うべきだったんです!」
それを聞くと僕はハッとなった。確かにそうかもしれない。ナイフ。精神分析学なら、男根の象徴。それが現れている時点で、僕の幻覚…
それから少し穏やかな口調になると、少女は言った。
「あの、精神を患っている人の刑が軽くなるというのがあるでしょう? その話、あたし、納得ができないでいたんです。どうして、そんな不公平が許されるのだろう?って。
でも、あなたに会って、少しだけ分かったような気がします。それが適切な場合もあるのかもしれないって。あなたに必要なのは、刑務所じゃなくて病院です。それに、あなたはまだそれほど大きな罪を犯した訳でもないし……」
僕はその少女の言葉に、軽いショックを受けた。僕よりも、明らかに彼女の方が真っ当に思える。理屈も何もかも。僕はそれから彼女に謝ると、二人分の代金を出して、喫茶店を出た。
何なのだろう? あの幻覚は…
それから僕は歩きながら、再度、自分の精神の分析をし始めた。あの時は、止めてしまった、自分の心の深淵を覗く行為。プロって訳じゃないが、やり方なら、ある程度は僕だって知っている。
自由連想。
象徴化や、転移に気を付けて、自分の拒絶反応を掻い潜りながら、それらを見つけていけばいいんだ。
少女。細い腕。ナイフ。男根。
僕は父親を軽蔑している。それは、或いは、男性的な全てのものに対する侮蔑を意味しているのかもしれない。
か細い腕の少女は明らかに弱々しそうで、まさに男性的なものの対極にある。ナイフだって男根の象徴とするには、あまりに小さい。矮小な男性器。その反男性的なものから、僕は傷つけられて殺されそうになる訳だ。その意味するところは、もちろん、男性的なものの否定……
恐らくは、あの少女は僕自身だ。僕の反男性的なものが具現化された姿だ。そして、その反男性的な僕が殺そうとしているのは、男性的な僕だ。
僕は父親との同一化を拒絶している。彼のような人間にだけはなりたくないと、強烈に思っている。しかし、成長すればするほど、僕は彼に近付いていく。
だから。
きっと僕は、そんな僕を殺したかったのだろう。
男性的な自分を、壊したかったのだろう。
心からの憎しみを込めて。
それは僕でもあり、同時に父親でもあるのかもしれない。
そこまでを思って僕はこう想像した。
もしも、僕の前にあの少女がまた現れたなら、どうしよう?
そして僕は、少女を想像した。
少女は、人通りの少ない商店街に、一人立っている。両手にはナイフを握って。恐らく、僕を殺すつもりだ。例によって、前髪で隠れて目は見えない。白い肌。口元が歪んだ形で笑っている。僕を殺すつもりだ。それは次の瞬間には、現実の光景に繋がった。実際に、彼女が目の間に立っている。いや、やはり僕の幻覚かもしれない。僕を殺そうとしている少女が、僕の目の前に立っている。
なら、殺されてやろう。
それが僕の望みならば、そのまま彼女の凶刃を受け入れよう。どうせ、妄想だ。否、仮に妄想でなくても……
…少女が猛突進して来た。
鞭のような動きの腕。きっと、僕の首元を狙っている。
彼女が迫ってくる。
目の前。
後、三歩、二歩、一歩。届く。
斬撃が来た。
その瞬間、目の前が真っ赤になった。意識が飛ぶのが分かった。あ、死ぬ。でも、いいんだ。これが僕の望みだから。そして、全てがなくなった。
「大丈夫ですか?」
そう話しかけれて、気が付く。僕は商店街に倒れていて、見ると少女が僕を心配そうに覗き込んでいた。
「あれ? どうして?」
と、僕がそう言うと少女はこう説明した。
「喫茶店から出て行くあなたの様子が、あまりにおかしかったから、心配になって後を追ってみたんです。そうしたら、ここであなたが倒れていて… ビックリしました」
それから彼女は、思い切りため息を漏らすと、「本当に、病院に行った方が良いですよ」と、そう続けた。
「すまない。ありがとう」
僕はそうそれに返すと、ゆっくりと起き上がった。少女はそれを聞くと、おかしそうに少しだけ笑うと、「気を付けて、帰ってくださいね」と、続けた。
僕はそれからもう一度、少女に「ありがとう」とお礼を言うと、自分のアパートに向かって歩き始めた。確かに、病院に行った方が良いかもしれない、とそう思いながら。少女は僕とは反対方向に歩いて行く。僕は顔を前に向けた。
しかし。
「抵抗がないと、“狩り”がつまらないから、見逃してやったんだよ」
そこで、突然に、耳元にそんな声が。
驚いて振り向くと、そこには少女が駆けて行く後ろ姿があった。その少女の目が、前髪で隠れているのかどうかは、そこからでは分からない。
僕はどうしたら良いのかと途方に暮れ、そこにしばらく立ったままでいたけど、やはり結論は出ず、仕方なしにゆっくりと歩き出した。
これは、これから先、僕が一生抱えて行かなければいけないものなのかもしれない。
エディプスコンプレックスが表れている格闘漫画って多いな
って、思っていたので、使ってみました。