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不幸にしてあげる

作者: hiroliteral

 今どき月三万円以下で食事付きの下宿を探そうだなんて無茶な話だと思う。間違いなく無謀なのだが、とにかく金が無いのだ。パチンコは嫌いだし煙草は喘息を起こすし酒も大して飲まないし車に至っては自転車すら持っておらず、お陰で貢ぐ女の子もいない。それでも今の僕は絶対的に金が無い。

 とりあえず就職は出来た。否、出来たはずだった。ちょっとだけ給料支払いがのんびりの会社だと自分に言い聞かせていた。確かに就職の頃を思い返せば妙な点はあった。この不況で就職のエントリーシートを書いても公務員試験を受けても絶望全戦連敗中だった僕なのに、さっくりと書類審査を通過して面接も穏やかな感じに進むだなんて、今になって振り返るとおかしい話だったのだ。面接の待合室に僕しかいなかった時点で怪しむ余裕のなかった自分が恨めしい。あの頃は社長の夜逃げなんてネットやテレビで見るだけの他人事だとしか思っちゃいなかった。

 だが、その他人事が現実となった。僕の住んでいた社宅代わりのアパートも社長の副業だった上、会社の運転資金は危ない筋からまで借りていたらしい。豪勢に黒く輝く高級車がアパートの前に止まり、いかにも背中に日本の色鮮やかな伝統イラストを背負っていそうな黒服のお兄様方が管理人さんの部屋に向かったところでもうアウト。

 転職先は取引先のお情けでアルバイトを紹介して貰ったものの、黒服お兄様から野性的なモーニングコールをしてもらいながら出勤とか橋桁の根元の段ボールハウスで作業服着てとかどっちも冗談ではない。とりあえず今のバイト代から逆算すれば、食事代も込みで月三万円が限界だ。他のアルバイトを探そうにも今の不況とちょうど大学生のアルバイトが安定した時期で、おまけにこの中途半端な田舎街では空きなんてあるはずが無い。

 不動産屋を三軒も回ったがお茶すら出されず相手にされず、今は存在を知りつつ全力で避けていた四軒目の不動産屋の前にいる。不動不動産という、書き間違いのような語呂の不動産屋だ。だが書き間違いではない証拠に看板には不動明王の絵がこれ見よがしに描いてある。窓のサッシは錆だらけで、ガラスはろくに清掃していないらしく衝突した蛾の羽が体液で貼りついたままになっていた。

 おまけに流行にでも乗った気でいるのだろうか、ペンキが剥げかけたドアにはメイド服を着た下手くそな不動明王のイラストが描いてあって「おかえりなさいませ仏様」と書いてある。お客様は神様ですとかいう洒落を効かしたつもりだろうが、店に入ったら仏様にされそうだ。ただでさえ今も家に帰ったら社長の巻き添えで仏様にされかねないのに。

「いらっしゃい、まいどっ! みんなのアイドル不動不動産がお待ちかねっ!」

 一歩遅かったようだ。ドアがいきなり開かれ、つるっ禿げの若い男が僕に期待に満ちた熱い視線をぶつけてきた。

「色々取り揃えてますぜ旦那。一戸建てなら即入居可能な建て売り住宅、ピアノ好きなお子さんも安心のアパート。学生さんに大人気オール電化セキュリティ安心ワンルーム。今流行りの耐震避難室付きなんて物件も!」

 いきなり押せ押せの勢いにたじろぎながらも、僕は今日四度目の台詞を絞り出した。

「お金無くて、激安下宿かアパートを」

 途端、男は遠慮の無い失望した顔になり、禿げ頭を撫でながら低い声で言った。

「激安、ねえ。ま、中にどうですか?」

 僕は肩を丸めて店内に入る。店内は今までの立派な不動産屋と違い、コンクリートの壁には老朽化の割れが見える。パイプ椅子もぎしぎし鳴るし、もう一つ余ったパイプ椅子の座席はガムテープで補修してある。奥に見える事務机には神社仏閣のミニチュア食玩が並んでいて、いかにもアットホームというか公私混同な弛み具合が見て取れる。こんな店でセキュリティ安心と言われても家主のチワワが番犬代わりだとか言いだしかねない。

 だが男は僕の気も構わずへらへらと笑いながら首を傾げた。

「かなり激安じゃないとヤバい系?」

 無礼な物言いにむかついたが、僕は堪えてうなずく。男はまた首を傾げて言った。

「事情あるんでしょ。話してみて」

 男は給湯ポットを手元に引き寄せ、薄く茶渋が残ったコーヒーカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、どばどばとお湯を注ぎこんだ。僕は香りが飛んで苦いだけのインスタントコーヒーを啜りながら事情を話した。

 全てを話し終わりコーヒーが空になったところで、男は少し難しい顔をして言った。

「月の家賃が二万円、敷金礼金保証人全部不要ってアパートがあるんだわ、これが」

 まさかと笑う僕に男は真顔で続ける。

「お節介焼きのお嬢さんが管理人のアパートでね。ただこのお嬢さんが変人なんだな。面接して気に入れば入居可。ただ、この面接が曲者でさ。まあ駄目元で受けてみたら?」

 僕は話に乗りかかり、自分の服装に目を向けた。ジーンズによれたシャツ。印象最悪。

「ちょっと家に戻って着替えてきます」

「駄目駄目。間違ってもあんたみたいなのがスーツ着て行ったら玄関開けて即アウト」

 僕は首を傾げる。男は禿げ頭をつるっと撫でると溜息をついて言った。

「言ったはずだよ、変人だって」

 この話に乗るべきか迷う。だがこの物件以外にあてもない。まあ、大学時代にかなり変な先輩と付き合いがあったので変人耐性はわりとあるはずだ。僕は黙ってうなずいた。


 極楽荘。二万円と言うわりにはきちんとしたコンクリート製の建物で、遠目には各部屋のドアも錆や歪みは無いように見える。近づいて見ても階段の手すりは光っていて、酷く老朽化している感じは無かった。

「ね、良い物件なんだわこれ。大家とか諸々の問題がなければ、なんだけどね」

「『とか諸々』って、何かあるんですか」

「そこはほら、変人が選抜した変人選抜村だから色々とね。ま、強面のお兄さんはいないから安心して大丈夫」

「大丈夫って言っておいてさ、ゴミ屋敷とかカルト宗教とかじゃないよね」

「大丈夫。カルト教団なんて逆に全身お札貼って一目散に遠回りして避けちゃうほど」

 余計に不安になったが、不動産屋はへらへら笑って一番手前の部屋の前に立つ。大家だからか、この部屋だけアパートには似つかわしくない重厚な木の扉だ。不動産屋は慣れた調子で呼び鈴を押した。

「お嬢さん、お客様ですよ」

 不動産屋の声の後、細くドアが開いた。何か不動産屋は姿の見えない大家さんと小さい声で話す。続いて扉が大きく開いた。

「部屋を借りたいのは、あなた?」

 十代後半の女だ。黒いドレスに赤い逆十字をあしらった黒フリルのスカートを履き、手には薄手の白い絹手袋。頭には黒と紅の薔薇を飾ったヘッドドレスが載っており、カラーコンタクトをしているのか紅い瞳でもう、完璧なゴシックロリータの少女だ。

 この手の服はどうもちぐはぐな子が多いのだが、古屋敷さんはかなりの色白で目鼻立ちのはっきりした顔立ちをしており、珍しいことに普通に似合っている。男たちが殺到するのが邪魔だから奇抜な服装をしている、と言われても納得してしまうかもしれない。

 茫然とした僕を彼女は手招きして、少し棘のある高音の声で言った。

「じゃあ、駄目元で面接してみよっか」


 部屋の中はやはり黒と赤を中心とした装飾が中心で、異様にステッチを強調したピンクのウサギや北欧神話の置物が置いてある。パソコンの壁紙はヴィジュアル系のライブ映像だ。机の脇に湖の写真が飾ってあるが、これも何かそういう類の場所なのだろう。

「私は大家の古屋敷です。花の高校二年生なので余計な気を起こす男はお断りです」

 女子高生ってこんな単刀直入な物言いをしていただろうか。いやこんなもんだろゴスロリとか今時きっと沢山いるんだこの子は普通の人ですよ、と自分に言い聞かせる。古屋敷さんは首を傾げると僕に顔を近づけた。

「まあ、むっとしたり怒ったりしない辺り、とりあえず一次試験クリアみたいな?」

 なかなか良い性格をしている。不動産屋は僕の背中で声を殺して笑っていた。舐めんな女子高生と腹の中で思っても、口に出さない辺り僕も大人だ。僕も成長しましたよ。

「まあ、段ボールハウスがかかっているとなればやっぱり大人しくなっちゃうわよね」

「あの、ですね。僕もさすがに」

 流石に僕も少し声を大きくする。古屋敷さんは肩を竦めて口の端を小さく吊り上げた。

「からかい過ぎたかな。でもうちの住人は一癖あるから耐性無いと駄目なの。あとね」

 古屋敷さんは目を細める。何故か視線が遥かに年上のように思える。本当にこの赤い瞳はカラーコンタクトなのだろうか。彼女は僕の目をじっと覗き込んで言った。

「みんな、色々と事情があるの。だから細かい事情は無視。とにかく仲良くして」

 僕は黙ってうなずく。すると彼女は僕の額に人差し指を当てて少し考えてから言った。

「あなた、まだその黒服とかと縁は切れないけど、困ったら周りに相談すると良いよ」

 首を傾げると、彼女は吹き出した。

「だからね、周りの住人に相談すれば良いってこと。うちに棲みつくんだから」

 彼女の言った意味が咄嗟には理解できず、僕はただ彼女の顔を黙って見つめた。彼女は少し頬を赤らめ、じれったそうに叫んだ。

「だ、か、ら、合格なの、あんたは!」

 言って古屋敷さんは僕の背中を乱暴に叩いた。僕は立ち上がって礼を言い不動産屋を振り向いた。すると不動産屋は僕の肩を叩くと今までになく真面目な顔で言った。

「強く、生きろよ」

 また何か不安になってきた。


 僕の部屋は一階の三号室に決まり、すぐに古屋敷さんは二号室のドアを乱暴に叩いた。

「ねえ七尾ちゃん、手伝って!」

 ドアがゆっくりと開き、面長のひょろりとした男が姿を現した。古屋敷さんと対照的に平凡なチェック柄のシャツとジーンズ、髪型もナチュラル系で、少し年上のお兄さんという風情だ。第一印象は良いけれど、入社後三日間は名前なんだっけ、と訊かれそうな印象を受ける。だがぼんやりした雰囲気は今の僕には何だか安心できた。

「古屋敷ちゃん、どしたの」

「七尾さんの隣の部屋、この人を入居させたから。荷物運び手伝ってあげて」

 七尾さんはぼんやりと僕を見る。僕は慌てて頭を下げて挨拶する。

「山花浩太です。よろしくお願いします」

「浩太さん、ですか。何歳なの」

「二十三歳ですけど」

 七尾さんは驚いたように首を傾げると古屋敷さんに向き直った。

「こんな子供なのに、ここに来たの?」

 いきなり古屋敷さんの表情が険しくなり、人差し指を口元に立てる。次いで古屋敷さんはへらへら笑った。

「あのね、七尾さんって割と若造りなの。あとほら困った人ばっかり入れるでしょ、うちのアパート。だから」

 何だろうこの焦り。やっぱり怪しい気がする。だが七尾さんもまた呑気な顔で笑った。

「私もぼんやりさんだからさ。変なこと言ってごめんね。お近づきの印にお昼ご飯でも一緒にどうかな。一人で食べるのも寂しいし」

 七尾さんは意外に強い力で僕の手首を掴んで部屋の中に引きずり込んだ。部屋の中はやはり古屋敷さんと違って平凡な部屋で少し安心する。奥にある小さい古ぼけた神棚は似つかわしくないが、ゴスロリ部屋を見た後ではむしろ懐かしいような気分にもなる。

 七尾さんは台所からお盆に幾つか皿を載せ、お椀に味噌汁を汲んできた。

「大してお構い出来なくて恥ずかしいけど」

 出されたものはまず、お稲荷さん。続いて菜の花と油揚のおひたし、それから蕗と巾着餅のおでん、最後に油揚の味噌汁。

「また油揚げばっか食べてるの?」

「だって、好きなんだし」

 古屋敷さんの文句に七尾さんはまたぼんやりとした答えを返す。なるほど、やっぱり少し変わった人なのかもしれない。一方、古屋敷さんはポケットから薬ケースを取り出し、中から一粒取り出すと口に含む。すると僕の方まで仄かに薔薇の香りが漂った。

「私はロリータさんなので、お食事には薔薇の蜜を食べるのです」

 古屋敷さんは言ってまた一粒、口に含む。カプセル薬を模したキャンディのようだ。

「油揚げはタンパク質が豊富だよ。古屋敷ちゃんはロリータって歳じゃないでしょう」

 ぎろり、と音が鳴りそうな勢いで古屋敷さんが七尾さんを睨みつけた。途端、七尾さんがへたり、と壁に背中をつけて座り込む。

「七尾さん、私は誰だっけ?」

「古屋敷ちゃんは、ロリータな生き方を貫徹する素敵系の乙女な大家さんです」

 凄い力関係が見えた気がした。古屋敷さんは僕を振り向くと、小さな子供に言い聞かせるような口調で告げた。

「私はロリータな生き方を貫徹する乙女なのです。断じて怖い大家さんとか、古屋敷の代わりに朽ちかけた扉とか古びた廃村とか、そういうものでは断じてありません」

 はあ、と僕は背筋を伸ばして答える。古屋敷さんは目を細めて更に言った。

「うちのアパートは割と好き勝手を許していますけれど、もし私に先ほどのようなことを言うと凄いことになります」

「凄いことって?」

「ヤクザ屋さんも赤ちゃん並みに泣いて土下座しちゃうかもしれません。乙女ですから」

 乙女だからか。乙女だと何でヤクザ屋さんが泣いてしまうんだ。でも古屋敷さんの不敵な笑みを見て、僕はこのことを深くは訊くまいと心に決めた。そして、心に決めたことの多くを大体は後悔してきたという事実は、このときも思い至らなかった。


 何だかんだ言いつつ、結局は七尾さんのお陰で昼飯にありついた。不動不動産の人も案外と良い人で、軽トラックで荷物を運んでくれたお陰で引っ越し荷物もすぐに運び込み、何とか僕は極楽荘の住人になった。ありがとう極楽荘。さらば黒服軍団のお兄様方。

 申し訳なかったが、七尾さんは気にするなと言って荷物運びを手伝ってくれた。以前は力仕事もしていたそうで僕よりも体力があったかもしれない。とはいえ細かい整理まで頼むわけにもいかず小物や本、旅行の記念品をまとめてゴミ袋に放り込んだ。今はそんなものに拘っている暇はない。それ以上に記憶の匂いが強いものは今、ひたすら捨ててしまいたかった。あの会社にいた嫌な記憶ごと、ゴミ袋に詰め込んで追い出したかったのだ。

 大物の荷物を据え付け、後は段ボールに詰めた本や食器を並べ直すだけとなったとき、七尾さんはおずおずと小さな声で言った。

「ご両親は、どうしたのかな」

 僕は肩を竦めて窓の外に目を向ける。すると七尾さんは慌てて頭を下げた。

「お聞きして悪いこと言ったんだったら、ごめんね。うち難しい人、多いんだった」

 僕は慌てて七尾さんに向き直った。少しだけ迷い、僕は正直に話すことにした。

「実は僕、親と喧嘩して都会に来たんです」

 七尾さんは首を傾げる。僕はもう少し話すことにした。

 高校時代、僕の成績では地元の私立大学しか入学できなかったのだが、そこではレベルが低過ぎて就職出来そうも無かった。当時先輩から聞いた話だと、毎週のように東京へ面接に出かけ、面接費用だけで数百万円もかかるという話だったのだ。だがうちは両親ともバブル世代で、おまけに地方の会社にいるせいか現実なんて見えてなかった。そこで地元から通う場合と同額の援助を上限とする代わりに東京の大学に進学したわけだ。

 でも、結局は何か凄い資格を取れたわけでもないしスポーツ推薦で大学入学する奴らのような実績も当然無い。一応はサークル活動を探したが、テニスサークルだのサッカー部なんてマネージャーの輝く笑顔がむしろ怖くて逃げ出して、そうかと言って演劇部は上演場所を争って大学当局と戦うぞとか時代遅れの物騒なことを喚いているし、文芸部に行ってみたらプルーストのフーコー的解釈だの村上春樹のテクスト論的分析だのと宇宙人の言葉を喋るばかりでどうにもならず、結局は履歴書に書きたくもない超自然同好会で遊びつつ部屋でごろごろしていただけだ。

 結果としてはこんな有り様だ。格好悪くて親になんて話したくない。会社を代わったことすらまだ、打ち明けていない。窓の外に目を向けると飛行機が見えた。あれに乗って実家に帰りたい。だが帰って本当の話をする気には未だならない。

 七尾さんは僕の話を黙って聞いてくれ、最後に目を細めて静かに言った。

「もし話しにくいなら、そのうち一緒に行ってあげても良いよ」

 意外な申し出に僕は言葉を失った。会ったばかりでこんなことを言われても流石に嬉しいとまでは言えない。だが、妙に静かな七尾さんの視線を受けていると迷惑とも思えないのだ。あの女子高生大家に好きなようにされている人の好さは、今の僕には心地良い。

 ここまで思って、僕は奇妙なことに気付いた。古屋敷さんの一人暮らしだ。

「古屋敷さんは大家って言っていますけど、それこそ親御さんはどちらにいるんですか」

 七尾さんは僕から目を逸らし、かなり困ったような表情で答えた。

「それは秘密なんだ。とにかく、アパートの大家を娘にさせられるような人ってことで」

 考えてみれば古屋敷さんの部屋に転がっていた山ほどのグッズの中には、単なるゴスロリ趣味のレプリカには見えないものもあった。きっと親が資産家か何かなのだろう。

 ふと昼食のことを思い出した。ロリータだからと言ってキャンディで食事を終わらせる古屋敷さん。今時の女子高生と言ってしまえばそれまでだが、思い返すと不健康という以上に何か妙な薄寒いものを感じた。

 七尾さんは正面からじっと僕を見つめる。相手は男性だというのに、何故か色素の薄い瞳が妙に魅力的に映る。七尾さんは仮定の話だと断った上で妙なことを尋ねてきた。

「もし古屋敷ちゃんが、この世界に絶望していたとしたら助けてあげたい?」

 この世界。ずいぶんと大きく出たものだ。ただ自分の高校時代を思い返せば、そんな大仰なことを思った時期もあった。何か思い切り恥ずかしいことを思い出しそうになり、浮き上がりかけた記憶に慌てて踵落としを食らわせて再び記憶の底に沈めてやる。

 無表情を通したつもりだったが、七尾さんは気付いたらしく薄ら笑いを頬に貼りつけていた。僕は気づかないふりをして答える。

「せっかくのアパートを追い出されたらたまりませんし、一応はこれでも大人なんで」

 七尾さんは喉で笑い、僕の背中を叩いた。


 引っ越しがようやく完了し改めて古屋敷さんの部屋を訪ねると、古屋敷さんは相変わらずロリータ服のまま僕を迎え入れた。

「このアパート、他にもう二人住人がいて、一人は不動産屋の不動さんです」

 最初から教えれば良いのに、やっぱりあの不動産屋は変な奴だ。僕が不満な顔を露わにしても古屋敷さんは無視して続けた。

「もう一人が最も厄介な人です。私のような常識人には困ったものです」

 変な奴ばかり集めていると不動産屋は言っていたのだが。自分で常識人を堂々と名乗る人間の中でまともな奴に会ったことがない。そもそもゴスロリ女子高生なんて珍獣を世間では常識人と呼ばなかったはずだ。そういえば夜逃げした社長も社会常識だの社会人の常識だのとよく怒鳴っていた。僕は慌てて頭を掻いて嫌な記憶を削り落とす。

「私のような常識人には困ったものです」

 古屋敷さんが苛立った調子で繰り返した。僕は慌てて大嘘つきの頷きを返す。ようやく古屋敷さんは納得した様子で微笑んだ。

「その厄介な人がそろそろ帰宅してきます。貧乏暇なしで休日も働いているんです」

 よほど嫌いなのか、単にゴスロリ大家の口が悪いのか。古屋敷さんに睨まれると厄介なので、僕はとりあえず愛想笑いを浮かべた。

「そう、帰ってくるわけです」

 さっきから回りくどい。少し苛立ったところで、彼女は嫌な笑みで僕の手を取った。細い指先は意外にマニキュアをしておらず、幼児の手のように暖かかった。

「ということで滞納金回収がてら、あなたを紹介してあげようと思います」

「いきなり印象悪いじゃないですか!」

 俺は慌てて反駁する。だが彼女は俺の手をがっちりと握り込んで放さずに続ける。

「初日から借金回収に来る新入り。最高に第一印象がしっかりついて私も圧迫しやすくて一石二鳥の素晴らしい計画です」

「僕にとって最低です」

「私にとって最高なら良いんです」

 これか、不動不動産の頑張れという言葉の意味は。俺は紅い古屋敷さんの瞳をじっと見返した。ふとまた、この鮮やかな紅が本当にカラーコンタクトなのか不安になる。

 彼女は目を細め、子供をあやすような調子で僕の手を上下に振った。僕も結局は投げ遣りな気持ちで彼女にうなずいた。


 古屋敷さんに手を引かれ、一番奥の部屋に到着する。中から何やらお経のような声が聞こえてきた。今までならこれでもう逃げるところだが、流石に不動明王、ゴスロリ女子高生とくればお経の小部屋なんてジャズの流れる小洒落た喫茶店ぐらい気軽なものだ。

「もう馴染んできましたね、この人間」

 ぼそりと呟き、古屋敷さんはドアをノックした。慌てた声が聞こえ、次いで転んだような音が響く。少し経ってようやくドアが細く開けられた。すると古屋敷さんは爪先を黒服のお兄さん並みの速さで差し入れた。

「家賃二ヶ月分。せっかく新入りの紹介に来たんだから、少しは良いとこ見せてごらん」

 僕に古屋敷さんの根性があったら良い営業マンとして転職できる。絶対に無理だけど。僕の存在を無視して二人の押し問答が続き、遂に先方が折れたようだ。

 部屋の主が奥に向かう気配があり、次いでドアが大きく開かれる。そこには手に一万円札を四枚握りしめた、かつての超自然同好会で一緒だった幸先輩がいた。

「何、してるんっすか」

「君こそ、普通の社会人になれたものと」

 僕たちが見つめ合っている隙に、古屋敷さんは一万円札を回収して百円ショップで売っている領収書に金額を書き込んでいく。

 古屋敷さんは書き上がった領収書を一万円札の代わりに幸先輩の手に押し込んだ。

「何だ、駄目人間同士で知り合いなの」

 僕はやっと頭の回路が繋がる。穏やかな微笑みを浮かべ、さらさらの長髪とジーンズが似合う、色白で小柄な。

 男性の先輩。はっきり言って存在自体が詐欺だと思う。そして学生時代と変わらぬ懐かしい調子で口から怪電波を垂れ流した。

「良かった。私と一緒に駄目人間街道を歩んでくれる人が見つかってとても心強いな」

「僕は今、凄く古屋敷さんの味方です」

 先輩は直前に口走った台詞とは全く似合わない温かな笑い声を上げた。このおかげで第一印象では人を惹きつけるのだから本当に性質が悪い。僕が一方的に先輩を睨みつけていると、背中から七尾さんの声が聞こえた。

「幸くん、就職は決まったの?」

 幸先輩は外面の良い声で、見習い試験に合格したのだという。七尾さんは感心したような悲しいような表情でうなずいた。古屋敷さんはさっきのお金を財布へ乱雑に押し込みながら冷たい視線を向けつつ言った。

「じゃ、再来月から通常家賃取りますから。払い込まないと乙女の怖い目に遭わせます」

 幸先輩が素直にうなずく。学生時代には見たことの無い姿だ。再び古屋敷さんが何者なのか気になるが、幸先輩が絡んだ時点でもう詮索はしたくない。というか関わりになりたくない。だが厄介事の種は真っ直ぐ僕の肩に手を置いて真剣な眼差しで僕を見つめた。

「本当に君と会えて良かった。だから君のこと、絶対に絶対にだよ」

 幸先輩は濡れた瞳で真剣に見つめると、僕の手をぎゅっと握った。

「絶対、不幸にしてあげる」

 僕はうなずきかけ、慌てて先輩を見つめ直した。あの今ですね何て言いました。だが先輩は恥ずかしそうに首を振り、僕の頬をつんつんしながら繰り返した。

「出来る限り何でもしてあげるよ。だから君のこと、絶対に不幸にしてあげる」

 僕は恐る恐る言葉を返した。

「幸先輩、僕に何か、恨みでも」

「無いよ。私のことを忘れないでいてくれた君のことだからね。で、私に出来る限りのことをしてあげようと思ったんだ」

 先輩は腕組みをして偉そうにうなずき、すぐに自分の頬を平手で打った。

「そうか。別れてからの話とか今の仕事とか全然教えてなかったんだったね」

 先輩は慌てた調子でジーンズのポケットから真新しい黒革の名刺入れを取り出した。先輩はぎこちない仕草で僕に差しだした。

「今の私の仕事だ。よろしく」

 横書きの名刺で、周りは黒く縁取りされていた。真ん中には当然、北林幸の名前。左上の会社名は株式会社奈落召喚と胡散臭い。更に先輩の肩書は、三級疫病神補。

「私は疫病神の見習いなんだ。神様だよ」

 遂に先輩が壊れた。超自然同好会だから、軽いところではコックリさん、大げさなところではUFO召喚の儀式だの色々やっていたけれど、ここまでくると最早妄想の域だ。僕は先輩の手を再び握り直した。きっと色々ときついことがあったのだろう。だが僕の表情に先輩は不機嫌な顔になった。

「あのね、これでも一応は神様見習いだよ。畏れる人も敬う人もいないからお賽銭も無くてコンビニバイト週三回入れないと食費がつらいとか思い切って派遣に切り替えた方がアパート代踏み倒した上で綺麗な部屋に逃げ出せるかもなどと考えるけれど」

 古屋敷さんがヒールで幸先輩の脛を蹴ったが、表情を変えずに僕をじっと見つめる。僕は握っていた手を離して一歩退いた。先輩は一歩だけ僕に詰め寄る。僕は改めて二歩下がる。先輩はまた一歩だけ詰め寄り、怪しい笑みを浮かべた。

「では奇跡を起こして見せます。君を今すぐ不幸にしてあげます!」

 先輩は両手を振り上げると風を送るように腕を振り下げた。僕は身を硬くする。二秒、三秒、四秒。何も起こらない。僕は溜息をついて先輩に歩み寄ろうとした。

 と、古屋敷さんの装飾だらけの鞄に膝がぶつかりよろめいて転んでしまう。

「これが神の力だよ」

 僕は憮然とした表情で先輩を睨みつける。何が神の力だ。完全にただの偶然だ。もし偶然ではないとしても、これでは街角の八卦よりも低レベルだ。

 すると先輩は表情を曇らせてうなずいた。

「やはり、君もそういう目で見るんだ。良いさ、そのうち君もわかる」

 幸先輩はうなだれたまま部屋に入ると、そのままドアを閉じて冷たく鍵を下ろした。


 幸先輩と別れると、古屋敷さんは僕の部屋に付いてきた。まだ散らかったままの部屋に堂々と入り、断りも無く堂々とベッドに腰を下ろす。僕は諦めて丸椅子に座った。

「厄介なのね、幸さんは」

「何かのカルト宗教ですか」

 古屋敷さんは冷たい笑みを浮かべて力なく首を振り、天井を仰いだ。

「カルト宗教なら、救出のNPOがある」

「では、いわゆる」

「病気なら病院で治療すれば良い」

 古屋敷さんは正面から僕を見つめた。それは今までのどこか小馬鹿にした生意気な女子高生でもゴスロリの変人でもなく、どこか僕より年上の女性のように思えた。

「一人宗教というか一人芝居というか一人遊びというか、そんなの」

「君のゴスロリだって」

「私は生活を犠牲にしていません。大家としてもきちんと務めています。むしろ、あなたより遥かに地道な生活をしています」

 かなり腹が立ったが、手の中にある先輩の名刺に目を落とすと感情が冷めていく。もう僕たちはとっくに学生なんかじゃない。遊ぶ時間は終わったはずだ。

「幸さんはバイトで生活しています。でも、この極楽荘に現れたとき、既に疫病神に就職すると語っていました」

 だから入居させたのだという。ただ、その言動は日に日に進んでいるのだという。

「幸さんは何処へ向かっているのでしょう。そもそも、幸なんて名前で疫病神とか」

 しばらく僕たちの間に沈黙が降りた。大学入学のときに母から貰った置時計が静かに時間を刻む。古屋敷さんはそれこそフランス人形のように微動だにしない。

 遂に僕は口を開こうとした。だが古屋敷さんは僕の言葉を塞いだ。

「私は、あの人をあなたが背負う必要なんて全く無いと考えています」

 今までとは全く相容れない流れに僕は面食らった。古屋敷さんは目を細めて続ける。

「極楽荘は、色々なものを抱えた人が多いのです。その人に望みがあるなら、それを邪魔立てすることはおかしいと思います」

 古屋敷さんの影が何故か、大きくなった気がした。僕は操られたように呟く。

「幸先輩が、希望しているなら、良いと」

 古屋敷さんは微笑んで僕の言葉を繰り返す。

「幸さんが、希望を抱いているなら良い」

 うなずきかけ、何か僕は引っ掛かった。ほんの小さな言葉遊びに近いけれど。それは僕には全く違うことに思える。古屋敷さんは大人びた笑みを向けた。

「幸さんが何か、希望を抱いている?」

 僕は幸先輩のことを思い返した。学生時代と変わらぬ声色、変わらない服装、変わらぬ穏やかさ。本当に何一つ変わっていない。

「変わっているはずです。絶対に」

 古屋敷さんは僕の気持ちを読むように僕の目をじっと覗き込んだ。表情の曖昧な紅い瞳が僕の気持ちを波立たせ、喉がやけに渇いてくる。僕は慌てて視線を天井に逸らした。

 確かに、正確には変わった。だがそれは変化というより悪化としか言えないだろう。そんなものを変化とは呼びたくない。

「本当に全てが悪化したのでしょうか」

「僕たちはもう社会人ですよ。あんなの悪化以外の何物でもないでしょう。あなただって困った人だと言っているでしょう。現実から逃げても仕方ないですよ」

「私にとって困った人であることと、本人にとって悪いことが一致するとは限らない」

 僕は溜息をつく。所詮はゴスロリ高校生、屁理屈で年上を捩じ伏せたいお年頃だ。だが彼女は穏やかな声で続けた。

「それに現実を事細かに見つめることが良いことだなんて思えない」

 僕は声を荒げかけ、際どい所で抑え込む。彼女はベッドから立ち上がって言った。

「あなたはここに来る前、社会的にまともな人間だったのですか。胸を張れますか」

「それは社長が逃げたせいで!」

「社長が逃げるような会社にしか就職出来なかったのは、あなたの責任でしょう。そして会社が怪しくなっても住む場所すら早めに手を打つこともせず、極楽荘に夜逃げ同然に転がり込んだ。まず、これがあなたの社会的な現実。あとはどんな現実を見つめたいの」

 思わず手が出そうになる。だが急に七尾さんの「古屋敷さんがこの世界に絶望していたら」という言葉を思い出した。大げさで思わせぶりな台詞が今は僕の頭を冷静にさせた。

 確かに僕だって本来なら問題児なのだ。家賃の支払いだって客観的に見れば危ない部類だろうし、保証人すら不要で入居できた。でも古屋敷さんは、高校生の癖に僕を受け入れている。そして僕から切り出すまで、この辺りの事情はほとんど触れずにいた。触れられないことを良いことに説明を避けていた。

「あなたは社会人です。でも、まだ子供」

 また子供だ。七尾さんも僕が入居する際に言っていた。古屋敷さんは僕の膝にスカートが触れるぎりぎりまで近寄って言った。

「あなたは、あなた自身が幸せなら良いの」

 それだけ言って古屋敷さんはドアを静かに開けるとゆっくりと出ていった。彼女の座ったベッドのへこみには、ほんのりと薔薇の甘い香りが漂っていた。


 一つ。いきなり先輩に直接突撃して訊く。二つ、大学時代の他の先輩方を経由して情報を集める。三つ、先輩の行動を調査する。

 とりあえず考えられる選択肢を紙に列記してみた。楽しいというのは言い過ぎだが、何とかしてあげようという悲壮感よりは前向きになった気がする。三つのうち、前二つはあまり意味が無いように思えた。むしろ下手に先輩に話を聞いたら、逆に僕が丸めこまれて一緒に疫病神を目指してしまいそうな気もする。古屋敷さんとの話が胃の辺りに残っていて、どことなく自分に自信が保てない。そうかと言って行動調査だの尾行だのというのも厄介だ。だいたい僕は明日からまた勤務が始まるのだ。いつまでも遊んでいられない。

 僕は吹き出しそうになった。先輩を助けようと思っていたはずなのに、遊んでいられないとは不謹慎だ。社長が行方不明になり黒服軍団が現れて以来、久々に笑った気がする。だがきっと、この不謹慎さが僕なのだ。

 ふと、僕は疫病神という言葉の意味が根本的に気になり、携帯で検索してみた。世の中に病気をもたらす悪神。本来は抽象的な不幸や迷惑の元という神様ではなく、あくまで病魔的な、ウイルス的なものだ。この辺の詰めの甘さはやはり幸先輩らしい。逆に先輩らしさが観て取れ、変な団体とは関係ないという自信が持て安心な気もする。

 僕はとりあえず先輩の部屋に向かった。直接訊く気はないが部屋の近くまで行けば何か手段の閃きは得られるかもしれない。

 平凡な扉、表札の無い部屋。僕の部屋と何も変わらない。むしろ高屋敷さんの方が妙に立派な扉にしているぶん怪しい感じだ。

「山花、どうしたの」

 いきなり背中からの声に飛び上がりそうになった。幸先輩が背後で微笑んでいる。

「ま、上がっていけば良いよ」

 仕方なく僕は先輩の部屋に上がり込んだ。玄関は埃も無く綺麗に清掃されており、間取りは全く同じだ。部屋の中は奥まで綺麗にしており、ベッドもきちんと整理されている。一回寝たらシーツの乱れも落ちた枕も次に寝るまで放置している僕より遥かにきちんとしているぐらいだ。本棚には最近流行りの漫画と先日の本屋大賞で入賞したとかいう小説、その他パソコンの雑貨が置いてあった。

 勧められるまま卓袱台の前に座ると、先輩は紅茶のティーバッグとティーカップを用意した。不動産屋で飲んだコーヒーを思い出し、やはり先輩の方がまともだと思う。

 僕は先輩の淹れてくれた紅茶をゆっくりと口に含む。香りが胸に広がる。僕がコーヒーや紅茶の香りに気付くようになったのも、幸先輩が学生時代に教えてくれた紅茶のおかげだった。先輩は完璧に健全だと思う。先ほどまでの気負いが緩み気だるくなってくる。

 先輩は学生時代の思い出を語った。所々で彼らの近況を情報交換し、近所の美味しい店や安売りの店を教えあう。だが先輩自身の近況は語ってくれず、更に僕自身も訊かれたくないので切り出しにくくなる。

 結局は他愛の無い話だけを二時間ほど続けてから立ち上がり、部屋の中をぼんやりと眺めた。何故か無性に違和感を抱き、慌てて僕は部屋の中を見回した。だがやはり奇妙なものは何一つない。何が違和感を与えたのだろう。唇を噛んで考えたが答えは出ない。僕は大人しく先輩の部屋を後にした。


 部屋に戻る途中、七尾さんに出会った。七尾さんは頭に白い狐のお面を斜めに被り、藤色の折り畳み傘を持って空を眺めていた。

「そろそろ、雨が降りますよ」

 首を傾げると七尾さんは薄笑いを浮かべながら携帯を取り出し、天気予報のサイトを僕に示した。天気雨、にわか雨に注意とある。

「部屋に戻らないんですか」

「天気雨は狐の嫁入りがありますから」

 それで狐のお面か。最初はまともかと思っていたが、この人も極楽荘の変人面接を通過しただけはある。そう言えば昼食もずいぶん油揚げばかり食べていた気がする。僕が静かに部屋に戻ろうとすると、七尾さんは狐のお面を被ってケン、と狐の鳴き真似をした。

「たまには素顔を被らないと疲れますよ」

 素顔は被るものじゃないでしょう、と反論すると七尾さんはお面を被ったまま、険のある陰に籠った笑い声で言った。

「素顔は被るものですよ。最近は女性の間でも流行っていますよ、ナチュラルメイク」

 僕は少しずつ後ずさる。七尾さんは再び小さく笑って続けた。

「古屋敷ちゃんは私を村から連れ出してくれました。だから素顔を剥いでお面にしました。だから、たまには素顔を被るのです」

 村、と訊き返したが七尾さんはゆらゆらと首を振るだけで何も答えない。あり得ないのに、狐の面が不機嫌な表情を浮かべたような気がして背筋が寒くなる。

「私の素顔は狐です。山花さんの素顔は何ですかね。帰省の際は何を被りますかね」

 ふざけた話なのに喉が妙に渇く。帰省の際に何を被るのかだと。怒鳴り返したいのに、むしろ不安が湧きたってくる。今は帰省できない。帰省するとしたら僕は。僕はどんな顔で親元に立って境遇を打ち明けるのか。そのとき僕は、今の僕ではなく偉ぶった何かを演じるのかもしれない。最初に言われた、子供という台詞が耳に刺さる。

 雨が降り始めた。七尾さんは腕だけを動かして藤色の傘を静かに広げてくるりと回転させる。霧雨の中でアパートが希薄な淡色に変わっていき、七尾さんの姿だけが妙にアパートの前で浮き上がって見えた。

 僕は挨拶も抜きに七尾さんに背を向け、自分の部屋へと駆け込んだ。


 僕は部屋に戻るとすぐ、引っ越しの段ボールを開けて卒業アルバムを手にした。学生時代の顔ぶれを眺める。彼らには今の僕の惨状は見せたくないと思う。

 ばらばら捲っていくうちに、超自然同好会の写真を見つけた。当時と比べると、少し幸先輩は痩せただろうか。それにしても雑多なものに溢れた小汚い部室だ。幸先輩は綺麗好きだから一応片付けてはいたけれど、山ほどの変なグッズは絶対に捨てなかった。

 僕は思わず立ち上がった。何なのだあの部屋は。普通に紅茶が似合うまともな部屋は。清潔で整頓されていてどんなに紅茶が美味しくても結局は変な部屋、それこそが幸先輩の部屋だ。あんな健全な部屋にいる幸先輩なんて不健全だ。

 無茶苦茶を言っていると思う。だがそうなのだ。無菌室に疫病神が棲んでいるのだ。あの部屋はもっと精神的に汚染された、偏執的な部屋であるべきなのだ。

 僕は改めて部屋の中を見回した。数々の段ボールが並んでいるが、このほとんどは生活必需品で満たされている。趣味の道具も怪しげなグッズも、今回の夜逃げ同然の引っ越しでは箱に詰める余裕もなくひたすらゴミ袋に詰めてしまった。今、ここに残った生活必需品を誰かにこっそり違う商品と交換されたとしても大して気にしないだろう。これではホテル住まいと何も変わらない。

 僕は僕だけの捨て損なった記憶を抱えて部屋の隅にうずくまる。前の会社の記憶と一緒に僕は何を捨てたのだろう。何を捨てたのかさえ思い出せない。僕はもう僕の家には帰れない。ここは僕の体臭が無い無菌室だ。

 僕は部屋の真ん中に大の字に寝そべった。天井を眺めているうち、不幸にしてあげるという幸先輩の言葉が胸に火を灯す。こんな無臭の部屋より厄病神が纏わりついた思い出のある部屋の方が遥かに魅力的だ。ふと、幸先輩の中で起きた何かが見えた気がした。

 僕はゆっくりと起き上がると再び部屋を出て古屋敷さんの部屋に向かった。既に雨は止み、七尾さんの姿は無かった。今は幸先輩のことより、僕自身の不安に突き動かされていた。外聞も無視して年下の生意気な大家さんに頼りたくなっていた。

 豪勢な扉の前に立った途端、扉が小さく開いて隙間から紅い瞳が僕を見つめた。僕は構わずゆっくりと扉の前に近寄る。古屋敷さんは扉を開いて姿を現すと僕を見上げた。

「僕は、思い出や趣味のものを全部捨ててきました。ろくな目に遭わなかったあのアパートも好きだったかもしれません」

 古屋敷さんは何もかもわかったような表情で分厚い扉を優しく撫でた。

「それなら今から自分の部屋を造り上げたら良いでしょう、私たちと」

「ここの、無茶苦茶な人たちと?」

「あなたも含めた無茶苦茶な人たちで。それとも私の個性では思い出に足りないかな。私を忘れてしまうかな」

 古屋敷さんは自分の体を抱きしめ、爪を二の腕に食い込ませながら真剣な眼差しで僕を紅い瞳で見つめてくる。この人こそが本物の疫病神なのかもしれない。七尾さんが狐だというのも本当のような気がしてくる。もしそうなら黒服だって撃退できるはずだ。

 あり得ないことを思いながらも、それを完全に否定する気にもならなかった。それ以上に、今はこの絶望していると七尾さんが言う古屋敷さんと過ごしたいと思った。

 疫病神になりたい先輩は駄目人間だけど、でも古屋敷さんよりもずっと大丈夫だ。僕たちと一緒にいれば、そのうち自分の部屋に戻れる。戻れないとしたら、僕もまた疫病神になるしかないのだ。僕は目の前に立つ、きっと本当は平凡な古屋敷さんに声を掛けた。

「ゴスロリなんて止めてもっと普通の服装でも、僕たちは古屋敷さんを忘れませんよ」

「私は変な服装なんてしていません。私は常識人の若々しい乙女なのです」

 古屋敷さんが頬を膨らませながら笑って扉に背中を預けると、薔薇の香りが古びた建物全体から漂った気がした。


 色々考えた末、先輩は放置ということにした。つまらない結論だが、つまらないことを決断するのが大人なのだ。そう思わないと、僕が耐えられない。そんなわけでなるべく顔を合わせないようにしていたのだが、一週間が過ぎて幸先輩が鍋を抱えて現れた。

 部屋に招き入れると先輩は靴をきちんと揃え、静かに座布団に腰を下ろした。先輩は鍋を開け、僕の食器に中身を分けていく。銀杏切りの大根と秋鮭の身が透明な汁に浮かび、塩気を含んだ鮭の香りが部屋に漂い始めた。

「実家から鮭が送られてきたものでね。君と食べようと思ったんだ」

 礼を言うと幸先輩は穏やかな笑みを浮かべ、僕の鼻先に人差し指を向けた。

「君、笑みが荒んだようだね」

 また、いきなりの言葉だ。だがこのアパートに来て以来、無茶を言う人には僕もかなり慣れてきたつもりだ。僕はさらっと、そうですかと流して器を受け取った。幸先輩はその先を何も言わず、普通に食べ始める。僕も余計なことを言ってしまいそうで話題を振ることも出来ず、ひたすら石狩鍋を平らげる。少し塩分が強い気もするが、鮭の脂と大根から出たほんのりとした甘みでご飯がよく進む。

 茶碗三杯目に行くか迷ったところで、幸先輩は箸を置くと正座して言った。

「私は立派な疫病神になれそうもない」

 僕も箸を置き、先輩に合わせて身を正す。先輩は足を崩すように言いながらも、自分は正座したままで話を続けた。

「私は君の幸せそうに食べる姿が好きだ。古屋敷さんが新作のボンネットを被ってにやにやしている瞬間が好きだ。七尾さんが油揚げを袋いっぱいに詰めてスーパーから帰ってくる姿が好きだ。不動さんが契約書を片手に焼酎ボトルを提げてくる日が好きだ」

 僕は先輩の言葉に黙ってうなずく。このまま先輩が疫病神という妄想を捨ててくれることを祈りながら続きの言葉を待った。だが、続いた言葉は全く異なるものだった。

「だから私は立派な疫病神になりたい」

 論理の飛躍に僕は危うく石狩鍋をひっくり返しそうになる。だがやはり、僕は古屋敷さんの話を思い出して言葉を飲み込んだ。

「私はね、私を助けてくれた女の子を助けるため疫病神になる必要があるんだ」

「それって、恋愛ですか」

「私とは歳の離れた女の子だよ。恋愛ではない。恋愛であってはならない。それに私との恋愛に身を焦がすような愚かな人ではない。君より賢いぐらいだ」

 急な比較に嫌味を言いかけ思い至る。紅い瞳が僕の貧弱な脳を見透かしていた。古屋敷さんには確かに僕は完敗したままだ。

「その賢い人が、奇抜な服装をして他人と合わせることも無く全部を敵に回している。だから僕は疫病神を目指したらどんな末路なのか、教える必要がある」

 二人とも何故下らないことをしているのか。どうして正面から話さないのだろう。

「下らないと言われただけで引き下がるかい。私たちの超自然同好会は周りからそう言われても続いていたのではなかったかな」

 喉が激しく渇くがお茶は手元に無く、残っていた石狩鍋の汁を喉に流し込む。塩分が強いと思ったはずなのに、今は何も感じない。先輩は淡々と静かに話を閉じた。

「彼女にとって人生の悪いサンプルが必要なんだ。だから私は疫病神であり続ける」

 僕は先輩の話を否定しようとした。先輩と古屋敷さんの過去を訊こうと思い、だがそれを知って否定できる何かを掴める自信が僕には全く無いことに気付いた。それでも僕は何かをしなければならない。

 だがいきなり、部屋の扉を激しく叩く音が考えを中断した。狐の面を頭に被った険しい表情の七尾さんが飛び込んでくる。

「古屋敷ちゃんが、消えたの」

 古屋敷さんの部屋に行くと、例の重厚な扉に大きな傷が付けられていた。七尾さんは狐の面を顔に被り、何事か独り言を呟いている。不動さんも駆けつけてきて扉の状態を確認して陰鬱な表情で足元を見つめていた。幸先輩はすぐにどこかへ駆けだそうとしたが、七尾さんに片手で押さえつけられてしまった。

 少し経って不動さんが顔を上げ、入居したときには想像もつかない低い声音で言った。

「山花さん、幸さんはお嬢さんを追って下さい。俺と七尾さんは敵討ちしてくる」

 前のアパートに来ていた黒服たちが目の前に現れた気がして僕は深く訊かないことにした。七尾さんは更に別な次元で危険な感じがして、話しかけることすら怖い気がする。不動さんは車の鍵と懐中電灯を僕に放り、顎で玄関の錆びた軽自動車を指した。七尾さんは一言、ケンと狐の鳴き声を上げる。

 僕と幸先輩は小走りで軽自動車に乗り込むと、幸先輩が指示する方向へ走りだした。


 真っ暗な細い道を走り続ける。学生時代、北斗七星とプレヤデス流星群で精霊と交信出来るという怪しげな話を幸先輩が仕入れて来て夜中に走り回ったことがあったが、今日の幸先輩の焦りは比べ物にならない。僕は急かす先輩をなだめながら必死に車を進める。

 アスファルト舗装が途切れて砂利道に入った。サスペンションがおかしいのか喋られないほど車が揺れるが、それも構わず出来る限りスピードを上げる。夜中の興奮と揺れが脳をおかしくしているのか、意味不明の笑いが込み上げてくる。鉄鋼製の吊り橋を渡ると何か看板が見えたが、目を向ける余裕も無く走り続けた。更に道が狭くなり、対向車が来たときを思い背中に冷や汗が流れる。

 三十分ほど走っただろうか、急に道が開けダムの看板が現れた。車を停止させると、先輩は懐中電灯を点けて車から降り、真っ直ぐに歩を進める。僕は先輩の後に黙って続いた。懐中電灯で照らした範囲しか見えないものの、ダムの展望台に向かっているようだ。

 先輩は歩みを止め懐中電灯を消した。道の向こうに小さく赤い光が見える。脇に立つ先輩の浅く速い呼吸が緊張を強いてくる。先輩は僕の手を取ると暗闇の奥へ進んだ。

 赤い光がゆっくりと立ち上がった。先輩も合わせたように懐中電灯を点灯する。光の向こうに赤い瞳が浮かび上がった。だが、瞳以外は初めて見るジャージ姿で頭にはキャップを被っており、視線には全く覇気が無い。

「古屋敷さん、帰りましょう」

 嫌、と古屋敷さんは短く答え交通整理用の棒を振り回す。ゴスロリの古屋敷さんと今の古屋敷さんが頭の中でつながらない。

「私の大切な扉が傷つけられた。村に帰る」

「帰る村は、今はもうありませんよ」

「沈んでいても、私の村に帰るの」

 古屋敷さんは叫んで赤い棒を指した。棒の先は何も見えない暗闇だが、上がってくる冷気と小さな波音からダムの水面だとわかる。何も見えないというのに、空中の闇よりも濃厚な闇が沈んでいるように思えた。先輩は絞り出すように低い声で呼びかけた。

「あなたの、今の家は極楽荘です」

 古屋敷さんは僕たちへぼんやりとした視線を投げかけながら答えた。

「あなた方は何かを捨てて極楽荘へ逃げてきたのかもしれない。私は水に沈んだ村を片時も忘れないように扉も写真も持っています」

 古屋敷さんの机にあった湖の写真だろうか。だが確かめる間もなく先輩が反駁した。

「私も山花との学生時代の思い出までは捨てていません。でも学生には戻りませんよ」

 古屋敷さんは視線を逸らし、暗闇へとゆっくり歩き始める。先輩は右手を伸ばし、だが足を踏み出せずにいた。僕は叫んだ。

「一緒に、僕の部屋を造ろうって言ってくれたじゃないですか!」

 古屋敷さんの足が止まり、僕に軽蔑の視線を突き刺してきた。それでも僕は古屋敷さんの迫力を恐れずに続ける。

「僕は入居して一週間しか経っていない。君のこともわからない。僕は君の言うとおり、胸を張れるような生き方をしていたとも思わない。それでも君を忘れたりしないし、これから極楽荘で、僕は僕の部屋を造っていくのに、大家さんの君は欠かせないんだ」

 大家さんなんて、と呟き僕を睨みつける。先輩の照らす懐中電灯のせいで古屋敷さんが何か恐ろしい存在のように見えてくる。だが急に古屋敷さんは肩の力を抜いて呟いた。

「この疫病神どもが」

 僕と先輩は顔を見合わせる。古屋敷さんは初めて会ったときの笑みを浮かべ、僕たちの方へ突っ込むように寄ってきた。

「極楽荘の出鱈目な思い出に私を組み入れたいなんて、あんたたちは本物の疫病神だ。みんなみんな、常識なんて通じないんだ」

 先輩は唇を噛んで言葉を返した。

「村に帰るとかロリータでいようとか、それも非常識だろう」

 古屋敷さんは鼻で笑うと僕と幸先輩を交互に見比べ、幸先輩の脛を蹴り上げる。

「ロリータな乙女の私だから、あの極楽荘の大家が出来るの。あんたたちのような疫病神を飼っておけるのは私だけでしょう。だから村には今、帰るわけにいかないわ」

 先輩が変な笑い声を上げた。古屋敷さんは僕に交通整理用の棒の電源を切って僕に押し付けると、先輩の懐中電灯を空に向けさせた。

「こんな格好で帰られないから、回れ右!」

 慌てて後ろを向くと、古屋敷さんがジャージのファスナーを下げる音が聞こえた。


 帰りは以前の調子と服装を取り戻した古屋敷さんが、後部座席にふんぞり返ってドレスに落ち葉が絡んだとかネット限定ライブ映像を早く観たいとか、むしろダムの中に置いて帰りたくなるようなことを言い続けていた。幸先輩は疫病神を続ける必要が無くなったはずだが、古屋敷さんに疫病神認定を貰ったせいで、まだ疫病神を続けるようだ。

 先輩と古屋敷さんの過去については先輩が話を逸らすので結局あまりよくわからなかったが、村で超常現象を調査していた際に、ダム反対運動をしていた古屋敷さんと知り合ったようで極楽荘も補償金辺りと関係があるらしい。だが、そんな過去は他人が知る必要の無い話だ。僕だって転職をまだ親に打ち明けられずにいるのだ。とにかくゴスロリの魔女様と僕たち魔女の疫病神は真っ暗な夜道を行きと同じ速度で極楽荘へと戻っていった。

 極楽荘に着くと見慣れてしまった黒服が四人整列して玄関に立っており、背広を背中に掛けた不動さんが咥え煙草で立っていた。

「お嬢さん、お待ちしていましたよ」

「煙なら上品な香りだけにして。臭いわ」

 情け容赦ない言葉だが、不動さんは表情を変えることなく整列した黒服軍団に視線を向けた。途端、黒服の背筋がぴんと伸びた。

「お嬢さんの扉は弁償できないし、ダムの底へ代わりの何か探しに行かせましょうか」

 不動さんの物騒な台詞を無視して、古屋敷さんは目を見開いて黒服全員を見つめた。

「私の村に廃棄物を捨てられては迷惑です」

 黒服が一瞬表情を変えたが、不動さんの一睨みで黒服は元の怯えた表情に戻った。僕は何が起きているのか理解を拒否して集団から視線を逸らす。不動さんは古屋敷さんにうなずいて、散れ、と叫んで車の鍵を塀の外へ投げた。途端、黒服たちは車の鍵を拾い、どこかへと走り去って行った。

 不動さんはだらしなく緩めたネクタイをいじりながら極楽荘を親指で指差して背を向けた。ワイシャツの背中から不動明王の彫物が見えた気がしたが、古屋敷さんがピンヒールで僕の向う脛を思い切り蹴ったので記憶が飛んだことにする。アパートの空き地には、学生時代に幸先輩が勉強していた呪術よりも遥かに複雑な模様が描いてあり、その中心には狐の面が立てられていて暴風が吹いたような跡があったが、これも古屋敷さんが僕の頭を叩いたので忘れたことにした。

「お疲れさま。稲荷寿司と油揚げの味噌汁を用意していますよ」

 屋根に登った七尾さんが手を振って笑っている。古屋敷さんは扉の傷を指でなぞると静かな笑みを浮かべ、ただいま、と叫んだ。


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[良い点] 不況の煽りをくらった主人公がとても個性的な大家さんを始めとする極楽荘の住人達との出逢いから始まる物語。 不動屋さんは最初だけであとは空気扱いかと思っていたら最後までしっかり仕事していたので…
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