ミルク色の濃霧が私の体を包み込む。それをかき分けながら、私はゆっくりと歩いているのだ。
いったいここは何処なのか? 見当をつけることすらできない。辺り一面霧、霧、霧……何も見えない。何も聞こえない。
延々と歩き続けるうちに体は疲弊し、心が弱ってくる。不意に沸き上がる恐怖。私はそれに耐えきれず、駆け出す。
まとわりつく霧から逃れたくて、私は無心で走り続ける。一度走り出すと止まれない。立ち止まると、何か恐ろしいことが起こるように思えて。
何の為に走っているのか、それすら分からなくなった頃、ようやく霧は晴れていく。すると私は自分を取り戻し、立ち止まり、大きく空気を吸うのだ。
霧はあっという間に晴れていく、ミルク色の面影はかけらほども残らない。
視界が開けれとると一人の女性が私を見つめているのに気づく。背は高くなく、低くもない。黒い髪は少し長めで艶やかだ。黒いワンピースを纏った彼女はじっと私を見つめ続ける。
たった数十メートルの距離なのに、不思議と近づこうという気は起きない。私もじっと彼女を見つめ返すだけだ。
彼女の目は恐怖すら覚えるほどに黒い。この世のすべてを呑み込むような透き通った黒。それが彼女の整った顔によく似合う。彼女は微笑みもしない、怒りもしない、哀しみもしない。瞬きすらせずじいっと、無表情で私を見るのだ。
やがて何の前触れもなく、彼女は私に背を向ける。こつ、こつ、と靴音を響かせて私から遠ざかる。
私は慌てて声を掛ける。
「おやすみ、リサ」
どうやらそれが、彼女の名前らしい。
そしていつもそこで目が覚める。
いつからこの夢を見るようになったのか、正直なところよく覚えていない。彼女……リサはいったい何者なのか、昼の間ずっとそれを自問する。過去に知り合った誰かなのかもしれない。だが私が記憶している限りでは「リサ」という女性は知らない。
そして気がつくと、夜が楽しみになっていた。
その日私は大学の友人達に、半ば無理矢理あるパーティーに連れられた。髭面の神様の誕生日とかで、お祈りなどしたこともない連中が浮かれていた。
私は呑めないシャンペンをちびりちびりと舐めながら友人達に振り回された。普段出不精で使いの悪い私に気を利かせているつもりなのか、彼らの知り合いだという女性をことある毎に私の前へ連れてきた。私は儀礼的に挨拶を交わしただけで、またシャンペンを舐め続けた。
「松山里沙です」
私はぴくりと眉を動かした。顔を上げると、にやけた友人の隣に彼女が立っていた。あの黒い瞳で私を見つめた。
パーティーが終わった後、私は彼女を部屋に誘った。
彼女はよく話した。友人のこと、大学のこと、将来のこと。そして時々私に微笑みシャンペンを呑む。心の底から楽しそうに。
私は、失望した。
「どうしたの? 気分でも悪いの?」
彼女は心配そうに私を覗き込む。あの黒い目がまた私をじっと見つめた。大丈夫だ、と私が云うと、彼女はもう一度心配そうな表情を見せてからシャンペンを呑み、微笑んだ。そしてまた楽しそうに話し出す。
私はそれにもう耐えられない。
「止してくれ」
「え?」
彼女は驚き、きょとんと私を見る。
「いったいどうしたの?」
「もう話さないでくれ」
彼女は一瞬呆気にとられていてが、やがて顔にさっと色が浮かぶ。不意に訪れる恐怖の色。
「ねぇ、何云ってるの? ああ酔っぱらっちゃたのね。水を淹れるわ」
彼女はまた笑ってみせる。
「君に声は要らない、表情もだ。君は無表情でなければいけないんだ。もう君は笑っちゃだめだ。ただその目で見てくれればいい」
私は彼女に詰め寄った。ゆっくりと、手を首に伸ばしながら。生きてさえいなければ、彼女が話すことも、笑うこともない。
「おやすみ、リサ」
無表情のまま私は云った。
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