鈴
無拓ゆえに残酷な子供と、自分の好奇心に抗えない大人、そんな感じでしょうか。
擬音を使わずにどこまで音が表現できるのか、なんてことを試してみました。
隣に座っている青年のヘッドフォンから、ロックのビートが微かに漏れてくる。土台を失った薄っぺらい音は、遠くから聞こえてくる蝉の鳴き声みたいだ。
正面に突っ立っている中年男性は、夕刊の紙面を耳障りにめくっている。紙の擦れる音は思った以上に神経を逆なでする。
いかにも頭が悪そうなカップル……こういうのをバカップルと呼ぶのだろう……が大声で意味不明の会話を交わしている。
○○駅から乗り込んだ急行○○行き。お盆休みのせいか、車内はあまり混んではいない。運よく俺は座ることが出来た。
それにしても疲れた。クール・ビズの後遺症かも知れない。クーラーの効きが悪いオフィスで脱水症状寸前。涼しいのはエレベーターの中だけというのはあまりにも異常だ。だからこそ、オフィスよりも冷房が効いている帰りの電車の中では、静かにゆっくりと本でも読んで、有意義な時間を過ごせるだろう、と楽しみにしていた。
なのに……電車の中がこんなにうるさかったとは。
あまりの騒音に、俺は読書を放棄し、目を閉じて死んだふりをすることにした。自分の遺影を思い浮かべ、「俺は溺死体……俺は溺死体……」と自分に呪文をかけてみる。無駄だった、死んだふりもできない。
妙に聴覚が冴えてしまったようだ。
となりのヘッドフォン青年の聴いている曲が変わった。タイトルが思い出せそうで思い出せない。苛立ちが募る。
とにかく、静かにゆっくりと本でも読んで、有意義な時間を過ごそうという、俺のささいな願いは露と消えた。肉体は冷房によって冷やされたが、脳内温度は上昇する一方だった。
と、そこになんとも心地の良い音が響いてきた。鈴の音みたいだ。涼やかで可愛らしく、邪気を全く含んでいない響き。くすぐるように脳に伝わってきた振動は、正体を失いそうになっていた俺の脳を、ゆっくりと冷してくれる。また響いてきた。俺は音がする方向を見た。右向いの座席に、親子三人が座っている。○○駅を出発する時にはいなかったから、途中駅から乗り込んできたのだろう。
白いワンピースが似合いそうな、清楚な感じのお母さん。坊主頭で気が弱そうだけど、瞳のくりっとした愛らしい幼稚園児くらいの男の子。おかっぱ頭でおてんばそうで、これまたどうしようもなく愛くるしい小学校低学年くらいの女の子。どうやら姉弟のようだ。夏祭りの帰りだろうか。三人とも浴衣を着ている。お母さんは白地に薄紫色の紫陽花模様の柄、弟は青地に、白い団扇の間を影絵のような蜻蛉が飛び回っている柄、そしてお姉ちゃんは、目が覚めるような黄色地に、真赤な金魚が楽しそうに泳いでいる柄。そのお姉ちゃんの、小さな風鈴模様のピンク色の帯、そこに小さな鈴が二つ、紺色の紐で結ばれていた。お姉ちゃんがちょっと体を動かすたびに、あの至福の音色が響いてくる。
「はなび、やんなかったね」と弟。「ほたるもいなかったね」とお姉ちゃん。少し残念そうな表情の二人。「きょうのおまつりはちゃんとえにっきにかかないとだめだからね」とお姉ちゃん。どうやらきちんと「姉」の役割を果たそうとしているみたいだ。
「はい、これ」とお母さんが朝顔模様のバッグから棒付きキャンディを二本取り出した。お姉ちゃんが二本ともお母さんから受け取ると「よだれたらしちゃダメだからね」と弟に言い聞かせながらも、キャンディの包装紙をはがしてあげている。お姉ちゃんからキャンディを受け取ると「はぁい」という返事も疎かに早速口に運ぶ弟。右のほっぺたがキャンディの形そのままに、丸く膨れる。「いただきまぁす、は?」と叱るやいなや、お姉ちゃんは弟の坊主頭をげんこつで一発! 弟の顔が一瞬、泣き出しそうに崩れかけたが、どうやら耐えたようだ。
弟が「いたらきはぁす」とキャンディを口にしながら渋々返事をすると、お姉ちゃんもキャンディを勢い良く口に運んだ。
しばらく黙ってキャンディをなめる姉弟。
俺は「あれあれ、お姉ちゃん、げんこつなんてちょっとやり過ぎ」と思いながらも、「がんばってお姉ちゃんしているんだな」と、やはり微笑ましく思っていた。
口を尖がらせて怒っていた時のお姉ちゃんの顔も、泣き出しそうでなんとか持ちこたえた弟の顔も、どちらもたまらなく可愛かった。それに、キャンディの美味しさに全神経を集中させて、ときおりその美味しさに破顔している幼い姉弟。そのなんとも無邪気な表情。
陳腐な言い方だが「天使」って言葉が浮かんでくる。
「おいしいね、おねえちゃん」「うんうん、あまいね」
鈴の音がまたひとつ、心地よく響いてきた。
「なぁなぁ、夏至ってなんだ?」
「『夏至』? なにそれぇ? デパートで買えるの?」
気持ち良く姉弟を見ていた俺の耳に、再びバカップルの脳を震撼させるような会話が聞こえてきた。思わず失笑してしまう。
正面の中年男性が夕刊を騒々しくめくった。この騒々しさに本人は気が付いていないのだろうな、と諦めつつも思わず新聞の文面に目がいってしまう。
となりのヘッドフォン青年がさっき聴いていた曲のタイトルをやっと思い出した。「ピンク・フロイド」の「コンフォータブリィ・ナム」だ。今は「クィーン」の曲が漏れてきている。再びタイトルを失念するが、もはや苛立つことはなかった。
俺の脳は少しずつ落ち着きを取り戻してきたようだ。
微笑ましい姉弟の姿に出会えたからだろうか。それとも、鈴の音の効果だろうか。
その鈴の音がまた聞こえてきた。お姉ちゃんの方は、既にキャンディを食べ終わり、「あまいの、のこってるかなぁ……ああん、のこってないや……うーん……でももういっかい」といった具合にキャンディが消え去った棒を口に入れたり、出してじっと見つめたり、また口に入れたりを繰り返している。
ふいに、気の早い鈴虫が鳴いているような音が聞こえてきた。等間隔で鳴いたり鳴きやんだりを繰り返している。何だろうと思っていると、お姉ちゃんの隣に座っていたお母さんが、朝顔模様のバッグから携帯電話を取り出し、話し始めた。
「もしもし……今、電車の中だから大きな声出せないの……ええ、もうすぐ帰れると思うわ……」
回りに気を配った囁くような声でも、やはり内容は所々聞こえてくる。どうやら旦那さん、つまり姉弟のお父さんと話しているみたいだ。時々口元がゆるみ、眼尻に何本かの笑いじわが寄る。そんなお母さんの表情を見ていると、幸せそうな四人家族の夕食風景が浮かんでくる。
「あ、こら! よだれ!」お姉ちゃんが急に大声で弟を叱ったかと思うと、再び坊主頭をげんこつで一発! 弟の浴衣を見ると、右膝のあたり、白い団扇と影絵のような蜻蛉の間にくっきりとよだれの後がある。赤いキャンディをなめていたから、もともとの浴衣の色には存在しなかった赤がそこだけくっきりと浮かんでいる。シミになりそうだな、と思っていると「もう。いけないこ!」とお姉ちゃんがまたもやげんこつで一発。その拍子に弟のキャンディは口から離れ、床に落ちてしまった。
今度こそ泣いてしまうかな? と思って見ていると、くりっとした瞳に涙を貯めながらも、お姉ちゃんをにらみ始めた。どうやら、反抗の意思を示しているようだ。気が弱そうに見えたのに、なかなかやるな、と俺は弟の意外な表情を見ていた。お姉ちゃんにしても、それは意外だったらしく、一瞬怯んだように見えた。もしかしたら、弟にそんな目でにらまれるのが初めてだったのかも知れない。
「なによ、そんなめはいけないんだよ!」とまたもやげんこつ。弟はますます怖い目でお姉ちゃんをにらみつける。
「そんなめはいけないんだよっていったでしょ!」というと、お姉ちゃんはいきなり弟の顔に手を伸ばし、左手の人差し指で上まぶたを、親指で下まぶたを押さえると、思いきり上下に広げた。白目の面積が大きくなる弟の左目。黒眼が真ん中にしっかりと収まっている。弟は両手を握りしめて、お姉ちゃんをにらみ続けている。
「まだやめないのね。いけないこ。おねえちゃんがなおしてあげます」お姉ちゃんは広がった弟の左目を覗き見ると、右手につかんでいたキャンディが消え去った棒を、まるでアイスピックで氷を砕く時のように持ちかえた。弟はじっと我慢している。白と黒がはっきりした左目は、もう乾燥してまぶたを閉じたいはず。でもお姉ちゃんの人差し指と親指がそれを邪魔している。
お姉ちゃんは、突き刺しやすいように持ちかえたキャンディの棒が握られた右腕をゆっくりと振り上げると、きちんと目標に突き刺さるように、何度かその腕を前後に振り始めた。目標は、お姉ちゃんの人差し指と親指の間にある、白と黒の、乾燥した、突き刺さると名前も知らない液体が噴き出してくるだろう、丸い物体。準備体操のように前後に振る腕に呼応するかのように、鈴の音が無気味に鳴り響いている。
お母さんは電話に夢中で、二人のやりとりに気がつかない。バカップルは馬鹿話に夢中で、やはり気がつかない。正面の中年男性は夕刊に夢中で気がつかない。他の乗客も、寝ているか、おしゃべりをしているか、あるいは本を読んでいるかして、誰も気がついていない。ヘッドフォン青年は目をつぶって音楽を聴いている。
「さあ、いくよ。なおしてあげるからね」お姉ちゃんは満面の笑みを浮かべると、右手を大きく後ろに振りかぶり、目標の白と黒の丸い物体に向かってその右手を振りおろす態勢に入った。
止めるべきだ。
声を掛けるべきだ。
小学校低学年くらいの女の子が、幼稚園児くらいの男の子の左目を突き刺そうとしている。そんなことを黙って見ていられるはずがない。
だが、まるで全ての言葉を忘却してしまったように、声が出ない。座席に体がめり込んでしまったように、身動きがとれない。何かが俺を邪魔している。
……好奇心?
男の子の目、女の子の棒、何が起こったかに気がつき、狂ったように泣き叫ぶお母さん、真っ青になって立ち尽くすしかない他の乗客たち。俺だけが、これから何が起きるのかに気がついていた。だが、どういう結果になるかまでは、知りようがなかった。
どういうことになるんだろう……いやいや、ダメだ。そんなことは間違っている。止めるべきだ。判りきっている。でも、何の行動も出来ない。何故だ……。
お姉ちゃんの右腕が、勢いよく振りおろされようとしていた。
「こら! なにやっているの!」
電車内の全ての物を振動させるような叫び声。それと同時にお母さんの右手が、あと少しで弟の左目を突き刺そうとしていたお姉ちゃんの右腕を止めた。
乗客の全ての視線がその叫び声に向けられた。バカップルも、正面に立つ中年男性も、唖然とした顔でお母さんを見つめた。ヘッドフォン青年ですら、ロックのサウンドの中を逆流してくる叫び声に驚き、目を開け、呆けた顔でお母さんを見つめている。
その叫び声は全ての音を消し去った。
何も聞こえない。何の音も俺の耳には届かない。
無音。
あんなにうるさかった車内に、今は何の音も存在しない。線路上を走っているはずの電車の車輪の音すら、そこにはない。
無音。
いや、違う。
俺の、自分の、心臓の音だけは、俺の耳元で響いている。規則正しく、何も乱れもなく、いつもより早く、鼓動を続けている。それだけだ。
そんな無音を切り裂くように、鈴の音が聞こえた。同時にお姉ちゃんの泣き叫ぶ声が聞こえてきた。そして全ての音が元の鞘に収まり、俺の心臓の音だけが遠く彼方に消え去った。
「わぁぁん。ごめんなさい、ごめんなさい!」お母さんの胸の中に顔を埋めて泣き続けるお姉ちゃん。きょとんとした顔をしている弟。
中年男性が「うるせえなぁ」という顔をして、再び夕刊に視線を落とし始める。バカップルも、再び意味不明な馬鹿話に戻った。ヘッドフォン青年は再び目を閉じ、ヘッドフォンから流れてくる音に神経を集中し始めた。
それはありふれた光景だった。お姉ちゃんを叱るお母さん。泣いて謝るお姉ちゃん。きょとんとしている弟。どうせ姉弟喧嘩でもって、叱られたんだろう。よくあることだ。
しかし、俺にとって、その光景はありふれたものではなかった。
俺は始まりから終わりを見ていた。
女の子を見ていた。
男の子を見ていた。
そして俺自身の深みを覗いてしまったような気がした。
俺は、一体、何を、見ようとしたんだろう。
お母さんの胸に埋もれて泣いていたお姉ちゃんの顔が、息苦しいといった感じでその埋まりから現れ、弟の方を向いた。お姉ちゃんは弟を見ると、笑いかけた。弟も何もなかったかのように、その笑顔に答えるように笑った。お母さんはお姉ちゃんのおかっぱ頭をなで「もう、あんなことやっちゃだめよ」と優しく言い聞かせている。俺はそんな三人の姿から、目を逸らすことが出来なかった。
俺の視線に気がついたのか、お姉ちゃんが俺を見た。
途端にお姉ちゃんの顔から笑顔が消えた。
笑顔だけじゃなかった。その表情から、何もかもが一瞬にして消え去った。何で見ているんだろうといった疑問、何を見ているんだろうといった好奇心、何でそんなに見ているのといった怒り、そういった全ての感情が表情から消えていた。
本当に俺を見ているのだろうか。一瞬、俺は自分が透明人間になってしまったように感じた。でも、それは違った。俺には判る。
女の子は間違いなく俺を認識している。
それなのに、どうして、そんなに、表情がないんだ? 死んでいるのか? いや、ちゃんと生きている顔だ。何の感情も見えないだけなのだ。そして、ただ、俺をじっと見ているだけなのだ。悪意でも、嫌悪でも、憎悪でも、何でもいいから、感情を俺に向けて欲しい。そんな顔は……耐えられない。俺は顔を背けようとした。だが、俺の意に反して、俺の目は、何も語らないその表情から、逃れることは出来なかった。
再び音が消えた。
いや、違う。
俺の心臓の音が、他の全ての音に覆いを被せているのだ。それしか、聞こえない。それはさっきよりも強く、さっきよりも早く、よりはっきりと俺の頭の中に鳴り響いてくる。俺の頭が、俺の心臓の鼓動に合わせて、伸縮している。
女の子の顔も、俺の心臓の鼓動に合わせて、伸縮している。その、何の感情も表わさない、まるで微動だにしない女の子の顔が、俺の目の前で、大きくなったり、小さくなったりしている。
俺は両方の手を握りしめた。親指を手の平に隠し、残りの四本の指で、その親指を抱き抱えるようにして握りしめた。そうすれば、耐えられるように思えたのだ。そうしなければ、耐えられないと思ったのだ。
間違いだった。
俺の親指は、俺の心臓の鼓動に合わせて、俺の手の平の中で、伸縮を始めた。同じ鼓動で伸縮している女の子の顔が、その手の平の中で、実態を持ちはじめる。俺の手の平は、女の子の顔の丸みを感じ始める。重さを感じ始める。硬さを、柔らかさを感じ始める。
俺の聴覚を奪い去った俺の心臓の鼓動は、何も表現しない女の子を顔を、俺の手の平の中に、確かな実態を持って存在させた。俺は女の子の顔を、握りしめている。
俺は、女の子を捕まえてしまったのだろうか。
俺は、女の子に捕まってしまったのだろうか。
自分の意思では、もう手の平を開くことが出来なくなっていた。
もうすぐ○○駅に到着するとの車内放送が、俺の呪縛を解き放ってくれた。
心臓の音は、あるべき左胸に帰り、汗まみれでもがいていた、両方の親指は、残りの四本の指から解放された。
お母さんの「さあ、もうすぐ降りるわよ」という言葉を聞くと、女の子は俺からお母さんに視線を移し、お母さんの胸から離れると、「これ、ゴミ」とキャンディの棒をお母さんに渡した。そして弟の方に顔を向けた。笑顔が戻っている。
握るものを失い、自由になった右の手の平で、弟の坊主頭を撫で「さあ、降りるわよ」とお母さんの口調を真似る。弟が面白そうに笑った。
弟が落としたキャンディは、そのまま床に残っている。誰も拾おうとはしない。
俺はまだ、女の子から、目を逸らすことが出来なかった。
俺は、一体、何を、見られていたのだろう。
電車が速度をゆっくりと落とし始めた。
「さあ、降りるわよ。お父さんが待ってるわ」
お母さんは右手でお姉ちゃん、左手で弟の手をつなぎ、席を立つと、扉に向かった。
扉に向かう間、女の子の鈴が鳴リ続けていた。それは、まるで狙いを定めたかのように、重く、正確に、俺の心の奥に蓄積されていった。そして、その音は、もはや掻き出すことすら不可能なまでの飽和状態に達しようとしていた。
扉の前で一旦止まり、扉が開くのを待つ間、鈴の音は止んだ。一瞬、静寂が訪れ、すぐに後を引き継ぐかのように、俺の心臓の音が再び俺の耳元で響き始めた。
○○駅のホームに到着した。電車が静かに動きを止める。完全に停止した後、すこしの間を取り、扉が音を立てて開く。下車する三人。
三人がホームに降り立つと、ふいに女の子が振り向き、再び俺を見た。
振りむくと同時に聞こえてきた鈴の音が、俺の心臓の音を完膚無きまでに消し去った。
扉が完全に閉じられる直前、その狭い扉の間から、女の子は、俺に、笑いかけた。
その笑顔は、子供のそれには、見えなかった。