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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

トンボ君

作者: Shin

 ああ、シーチキンで思い出したわ。そういえばあの話もあった。

 あの話ってなによ。

 なにって、だから、怖い話をしてたんでしょう?ぴったりの話よ。

 どんな話?

 あるところに、いじめられっ子の男の子がいたの。友達はゼロで、もちろんいつも一人ぼっち。あだ名は、トンボ君。

 トンボ君?変なあだ名ね。なんでそんな風に呼ばれてたの?

 それが、下校の時いつも一人で歩いてて、何匹も何匹もトンボを捕まえてたところから付いたあだ名らしいんだけど。

 そんなの、男の子なら普通じゃないの?トンボの季節なら。

 それが、実はただ捕まえてたわけじゃなくて、捕まえたトンボを殺して遊んでたらしいの。それがクラスの子に見られて付けられたあだ名みたいね。

 げえ、気持ち悪い。いじめられても仕方ないかも。

 それでね、ある日トンボ君のクラスの給食の時間に、突然、先生が悲鳴を上げて、

「きゃあ、わたしのスープにトンボが入ってるわ!」

って叫んだの。先生が叫ぶなんて滅多にないことだから、教室中大パニック。自分のには入ってないか、だの、自分はサラダに入っていた、だのって。

 ああ、わかった。それでトンボ君が犯人にされちゃうわけね。

 知ってるの?まあ、その通りなんだけど。クラスの男の子が、

「トンボ君が入れるのを見ました」

って言っちゃうわけ。まったく身に覚えがないトンボ君は否定したんだけど、なにせいじめられっ子だからクラスの皆は誰も味方になってくれなかった。

 ひどい話。先生はどうしたの?

 それが、先生もパニック状態で、調べもせずにトンボ君をこっぴどく叱ったの。

 うわ、それ最低。横暴よ、そんなの。

 そうよね。それで、心に傷を負ったトンボ君は自殺をしてしまうんだけど・・・。

 幽霊になったトンボ君が復讐劇を始めるのね。

 知ってるの?まあ、ありがちなストーリーよね。真犯人は結局分からずじまいだったんだけど、トンボ君を犯人だと証言した子がトンボ君が自殺した翌日のうちに死んでるの。トンボ君を叱った担任の先生もね。二人とも変死体で発見されたわ。

 やっぱり。それからトンボ君の幽霊のうわさが学校に流れるのね。

 そうなの。ばっちり、学校の怪談に仲間入りしたわけ。それから、この話を聞いた人にはその日のうちにトンボ君がやってくる、とか、「犯人はトンボ君じゃない」って三回唱えれば助かるっていう尾ひれも付いてね。

 どこにでもありそうな怪談ね。それなら似たようなので、もっと怖いの、あたしも知ってるわ。ザリガニおじさん、っていう話なんだけど・・・。


     *


 今日の給食は最悪だった。

 それもこれも、あのうわさ好きのリョウコとフミエのせいだ。そもそも怖い話なんて好きな人間は、クラスにあの二人しかいないっていうのに、あんなに声高に。スプラッターな話を、食事中に。それに、今日の給食はシーチキンサラダにエビフライだ。嫌がらせとしか思えない。


「ねえアスカちゃん、早く帰ろう」

 キミコがおどおどした調子で呼びかけた。隣にはルリがいた。二人ともアスカが下校をともにする仲良しメンバーだ。キミコが怖がっているのは、多分わたしがそれだけ怖い顔をしていたのだろう。

「うん。今行く」

 アスカは机の上に広がった筆記用具と教科書を手早くランドセルに詰め、宿題に使うリコーダーもねじ込んだ。ずいぶん、ゆっくりと残っていたために、窓の外はすっかり夕暮れだった。もう、終業の鐘がなってから、かなりの時間が過ぎていた。


     *


 帰り道の土手はすっかり秋の景色だ。三人の背丈ほどもあるススキが、沈みかけの太陽から受ける西日でだいだい色に輝く。

 キミコが笑いながら、放課後の練習について話しだした。

「アスカちゃん、リコーダーすごく上手になったね。初めはどうなることかと思ったけど」

「キミコちゃんとルリちゃんが練習に付き合ってくれたからだよ」

 アスカは照れ臭そうに言った。実際、まったくリコーダーを吹けなかったアスカが、ある程度まで上達出来たのは二人の、特にキミコのおかげだった。

「ずるいなあ、アスカちゃんは。あたしも一緒に練習してたのに自分だけ上手になって。明日のリコーダーのテスト、ひどいことになりそう」

 ルリが憂鬱気に溜息をつく。

「いいじゃない。ルリちゃんはその次の体育でいつも一番なんだから」

 今度はキミコが溜息をついた。

 キミコは勉学・芸術ともに優秀で、典型的ながり勉だ。逆にルリはスポーツ万能、勉学はからきしだった。アスカはどちらも凡才で、どの分野でも二人に教えを乞う立場だが、不思議と三人の中ではリーダーシップを発揮していた。たぶん、人一倍気の強い性格と決断力のせいだ。ルリもどちらかと言えば気の強いタイプだが、アスカには一目置いているようだった。


「ところでさ」

 キミコがおそるおそる話しだした。

「お昼のリョウコちゃんたちの話、怖かったねえ」

「ああ、あの悪趣味な怪談?」ルリがまた溜息をつく。「よくある話でつまらなかったし、なにより、よく食事中にあんな話が出来ると思って呆れちゃったよ」

「そうそう」

 アスカもルリに同感だった。

 するとキミコは、今度は少し恥ずかしそうに尋ねる。

「それでね、ちょっと聞きたいんだけど。なんでリョウコちゃんはシーチキンであの話を思い出したの?全然わからなくて、ずっと悩んでたの」

 キミコは顔を赤くした。

 アスカやルリと違い、キミコは一人っ子で、普段はあまり外で遊ぶこともなく塾やお稽古事に通っている。対して他の二人には上に兄がいて、外で遊ぶのはもちろん、男の子の遊びまでしっかり仕込まれているのだ。


「ああ、あれはね。」

 ルリがちょっと得意気に話し出した。グロテスクなものが嫌いなアスカは、これから何をルリが話すのか予想がつくだけに気が滅入った。

「トンボを、こう、両手で開くように持つでしょう。そしてちょっと力を入れて両方に引っ張るの。そうすると、トンボは胴体ごと半分に千切れちゃうのよ。それで外に出たトンボの肉が、シーチキンに似てるってわけ」

 それを聞いたキミコは「ええっ」と少し驚いた声を上げると、

「そんなのってトンボが可哀そうじゃない」

と、思いがけない発言をして、ルリとアスカはまさにキツネに抓まれたような顔になった。

 考えてみれば、アスカは今までその光景をグロテスクなものだとは思っても、一度たりともトンボを可哀そうなどと思ったことはなかった。おそらく、兄に毒されていたのだろう。それはルリにとっても同じだったようで、高らかに笑いだすとキミコをからかうように言った。

「アハハ、キミコちゃんは純粋すぎるよ。今時、大自然に囲まれて『生き物は友達』感覚で育つような農家の人間だって、殺虫剤でいっぺんに何千何万って虫を殺しちゃうんだよ。それに比べたらあたしらのなんて、可愛いもんじゃない。それに、ほら」

 ルリが前方を指差した。

「あんな小さい子だってトンボ捕まえてるじゃない。ひょっとしたらシーチキンにしてるのかもよ」

 ルリがいたずらっぽく笑った。


 前方には男の子がいた。黄色の帽子をかぶって、ランドセルに交通安全のカバーをかけているところを見ると、まだ一年生ぐらいだろうか。手には虫取り網を持っている。どうやら一人で下校しているようで、夕日の下に歩いている様子は寂しそうに見えた。

「ねえ、ちょっと一人ぼっちで可哀そうじゃない。ボク、お姉ちゃんたちと一緒に帰ろうよ」

 キミコは少年に声をかけた。親切で面倒見のいいキミコらしい。

 男の子はうつむいた顔を上げた。

 見た途端に、アスカの全身に悪寒が走った。男の子は、両の手のひらいっぱいにトンボの死体を持っていたのだ。あるものは頭が無く、あるものは共食いを強いられ、そしてあるものはシーチキンをはみ出させていた。


     *


 キミコがふと我に帰ると、ルリとアスカがいなくなっていた。

 なんだろう。ぼう、っとしていて、わたしだけ取り残されたのかな。でも夕日の高さを見ても、先ほどと何か変わったような節はない。


 男の子が、キミコのスカートの端を握りしめているのに気付いた。おや、やっぱり寂しかったのかな、それとも日が暮れてきて怖がっているのかしら。もともと年下の面倒を見るのが好きなキミコは、か弱い男の子に、何か使命感を感じた。

「それじゃあ、お姉ちゃんと一緒に帰ろう。それからスカートじゃなくて、手を繋いで帰ろうか」

 キミコは男の子に手を差し出した。

 男の子は少し躊躇ったようだが、ほどなくしてキミコの手を握りしめた。


 ぐちゃっ。


 手の中で、何かが潰れたような感覚がした。なんだろう?キミコは繋いでいた手を開いて見た。

トンボだ。破裂した腹から内臓を露出させ、複眼はべこべこに凹み、折り曲がった羽を力なく動かす何匹ものトンボが手の中にいた。


「いやああああああああああああ」

 キミコは思わず悲鳴を上げて、手をバタバタと振り、トンボの死体をまき散らして、そしてそのまま地べたにへたり込んだ。男の子はニタリ、と笑ってキミコを見下ろす。ちょうど男の子の影の中にキミコが座った状態になる。


 あれ?男の子が、さっきよりも大きくなった気がする。

 そういえば影も道路も、道端の雑草も、さっきより大きい。

 いや、ひょっとして、大きくなってる?


 今も?

 それとも、わたしが小さくなっているの?


 男の子は、今や巨人のように大きくなって、相変わらずニタニタといやらしく笑った。そしてぬっ、とその巨大な手のひらで無造作にキミコを鷲づかみにした。

 痛いっ。

 首が変な方向に曲がった。お尻も逆さに丸まってる。腕が何本がちぎれた。

 でも、生きてる。首が百八十度回転してるのに。それにお尻の感覚が長い。腕が何本もあるのだって、変だ。

 キミコはパニックになったが、もう自分の力では体のどこも動かせなかった。

 視界の両端で巨大な手が、等間隔に何度か揺れた。

 痛い痛い痛い痛い!

 背筋を強烈に引っ張られて、背中が割れるような感覚がした。ゴムがはち切れるような音と痛覚に直接吹きかけるような風で、頭がくらくらする。でも男の子はキミコの体をつかんでいるわけではない。そんな感覚はしない。キミコは力なく目だけで確認する。透明な、紙よりも薄い何かが、わたしの背中につながっている。あれはもしかして。

 羽?

 男の子が手に力をこめるのがわかった。眼下ではすでにぱっくり背中が割れて脊柱が露出していた。

 やめて、死んじゃう。わたしもう死んじゃう。

 キミコの声が聞こえたのか、男の子は明るく微笑み、両手を一気に引いた。


 あ。


「うわあ、シーチキンだ」

 男の子は笑った。


     *


 辺りを見渡すと、キミコとアスカの姿はなく、広い土手のアスファルトにルリと男の子だけがポツン、と立っていた。

 あれ?おかしいな。ひょっとして今日も、早く歩きすぎて二人を置き去りにしてしまったのだろうか。

 たまに起こることだった。キミコもアスカも足は自分より遅い。二人が夢中に話している間に自分だけ歩き続けて、取り残されたように一人になってしまうのだ。実際に取り残されているのはむこうなのだけれど。


 不思議なことには、いなくなったのは二人だけで、先ほど出会った小さな男の子はぴったりと後ろに付いてきていた。男の子は小さな手で、ルリのティーシャツの裾を握り締めている。

 薄気味悪いガキ。男のくせにもじもじして、見てるだけでいらつく。

「放せよっ。気持ち悪い」


 ルリは男の子の手を払って駆け出した。キミコとアスカがいないのなら、家まで走ったほうがよかった。土手からなら距離もたいした事ないし、所属する陸上クラブのトレーニングにもなる。今日は秋風が気持ちよくて、絶好のランニング日和だ。それに、あんな子供の面倒を見るのはまっぴらだ。

 平面のアスファルトを登るように蹴る。歩幅も呼吸も出来るだけ一定に、なおかつ出来るだけ早く走る。折り合いを付けた先の限界を見つけることが、長距離走における勝利のカギだ。だんだん体も温まって、漕ぐように振り切る手で感じる風圧が心地よい。こうなると、舗装したての道路でもテレビの砂嵐のように見える。

 それにしても今日はとくに調子がいい。体が物凄く軽く感じる。まるで羽が生えたみたい。スピードも、普段の何倍も出ている気がする。


 ほら、さっきのガキだってあんなに遠く・・・。


 えっ。


 男の子が真後ろについていた。汗をだらだらと垂らしながら、いやらしい笑顔で走っている。手に持った虫取り網をぶんぶんと振り回してこちらに向かってくる。

 おかしい。体で感じる風圧や熱の帯び具合から言って、ルリはいつもの何倍もスピードを出しているつもりだった。それが、真後ろにあんな小さな子供が着いてきているなんて。

「うわっ」

 突然、強い追い風が吹き、ルリの体が大きく傾く。あまりの勢いに、体勢を保つことが出来ない。

 なんで?こんな風ぐらいで、ふらふらになるわけがないじゃない。だって、わたしの足は地に着いているんだから。

 でも、そういえばさっきから地面を蹴る感触がない。手を振る感覚もない。それにさっきから走っているというより、滑ってるみたいに体が上下していない。もっとおかしいのは、さっき振り返ったとき、あの子供がとてつもなく巨大に見えた。


 ルリはちらり、と足元を確認した。


 ない。


 いつも元気よく地面を駆けていく両足がない。

 ルリは驚愕して悲鳴を上げた。かつてのような人の手足はもはやなく、毛髪のように細いものが代わりに着けられていた。体も人間のものではなく、まるっきりトンボの様相だった。足の代わりに前進させているのは醜くも背中に生えている二枚の羽で、さらに不気味なことに、全身を確認するためにもたげたルリの頭は首の骨を何の障害ともせずにぐるぐると回った。

「きゃああああああああ」

 立ち止まった瞬間、ルリは勢いよく地面に叩きつけられた。羽を休めたために、真っ逆さまに落下したのだ。打ちどころが悪かったのか、激痛とともに猛烈な吐き気に襲われる。げろり、と口から出たものは給食で食べたものではない。

「何これ・・・蝿?」

 複眼にはいくつも穴が開き、足は一つも残っておらず、羽は唾液にまみれていたが、黒い体とうごめく様子は蝿以外の何者でもない。ルリは理解して、また大きく嘔吐した。出てくる出てくる、あちこち形の変わった虫の山。ルリはまた悲鳴を上げた。

 どうして、どうしたの?いったいわたし、どうなっちゃったの?

 急に周囲がかげった。先ほどの男の子がルリを見下ろしていた。相変わらずにやにやと不気味に笑っている。


 こいつだ。こいつが犯人だ。わたしの体をこんな風にしたんだ。

 早く逃げないと。きっと、殺される。

 ルリは体に力をこめた。足は動かない。

 違う!そうじゃない、今は足じゃなくて羽に力をこめないと。

 でもどうやって動かせばいいの?今の今までなかった器官よ。さっきまでは知らぬ間に飛んでいたけど、落ちてみると飛び方なんて全然分からない。

 ああ!だめっ。まだ来ちゃだめっ。今逃げるところなんだからっ。今飛び立つところなんだからっ。

 男の子が手を伸ばした。

 そうよ、背中よ!きっと今まで背中の筋肉で羽を動かして飛んでたのよ。それ、動いてっ。動きなさい。早くしないと、あいつに捕まっちゃうのよ。ああっ。

 巨大な手がルリに覆いかぶさった。


 飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ!


 間一髪、指の隙間からルリの体は宙へ飛び立った。ふらふらとぎこちない様子だがこの場を離れるには十分なはずだ。ルリは安堵の溜息を漏らした。辛くも、巨大な手のひらを這い出てきた様子はまさに九死に一生だった。


 ふいに周囲が灰色になった。


 ネットだった。細かい目のネットがルリの周りを余すところなく包んでいる。網目の先には、今まさに虫取り網を振り下ろした男の子が喜びの声を上げていた。

「おとなしくしろよ~」

 男の子がルリの羽をつまみ上げた。逃げようと手足をばたつかせてもまったく意味がない。ましてや尻尾など動かしてみても、前後にむなしく動くだけだった。

 いちかばちか、噛み付いた隙に逃げてみよう。

 ルリはいつもの三倍は大きく開いたあごにめいっぱい力を入れて、男の子に噛み付いた。

「痛っ。おお痛えっ。こいつ、ぼくの指に噛み付いたっ」

 失敗だった。少々の血が出たが、男の子はヒステリックに叫んだだけだった。羽をつまんだ指の力は弱まることはなく、むしろ噛まれた痛みに反応してより強くなった。驚いて力を入れすぎたのか、ルリの羽はすでにぼろぼろで、よしんば手を逃れたとしてもすでに飛べるような状態ではなかった。

「この頭がいけないんだっ。この頭がっ」

 男の子は憤慨して、ルリの目の前で中指を、親指に引っ掛けるようにして丸めた。


 自分がこれから何をされるのか、ルリにはすぐにわかった。なぜならいつも兄と遊ぶとき、自分はそうやってトンボを殺していたからだ。ルリはもがき叫ぼうとしたが、指を噛んだ際にあごが外れて思うように声が出せない。男の子の血が混ざった唾液を飛ばしただけだった。

「お仕置きだ」

 男の子が中指を勢いよく弾いた。

 でこぴんだ。


 ルリの頭は一瞬で胴体を離れ、近くの茂みに潜った。目の前には空のペットボトルやお菓子の包みが散らかっていた。

 痛みはなかった。ただ、胴体をなくしても意識は残っていた。ルリは唯一動くあごをぴくぴくと痙攣させ、もはや原型をとどめていない複眼で男の子を見た。

 男の子は、頭をなくしてもなお、もがき続けるトンボを、追い風とともに放してやった。


     *


 アスカが一瞬、砂ぼこりに目をつむった、と思った次の瞬間、目を開けるとキミコとルリが消えていた。前後左右を見渡しても二人の姿どころか、ひとっこ一人いない。いつもうるさいトラックの音もしない。アスカの他に唯一いたのは先ほどの男の子だけだった。


 おかしい。わたしたちは確かに遅くまで居残りをしていたが、この時間なら中学生や高校生の下校時間と被るはずだから、土手を抜けた向こうの街までまっすぐに見通せるなんてことはありえないはずだ。土手の下の芝生にも散歩をしている人の影はひとつもない。

 疑問を浮かべたアスカのスカートの裾を男の子が引っ張った。


 アスカは男の子を凝視して、昼間のうわさ話を思い出した。そして目をつむる前、男の子の手の中がトンボの死骸でいっぱいだったことを思い出した。

 ひょっとして、この子供が「トンボ君」なの?

 そう考えるとすべて合点がいった。トンボ君は話を聞いた者のところへ、その日のうちに必ずやって来る。そして昼間は聞かなかったが、トンボ君はその人をひとりひとり別々に殺してしまうこともアスカは知っていた。アスカは今日の昼にリョウコとフミエが口にする前からトンボ君の話を知っていたのだ。図書館の本にまったく同じ話が載っていたのだ。ただ、音声として耳から聞くのは今日がはじめてだった。

 アスカは男の子から目を離さずに一瞬考えた。


 もしもこの子がトンボ君なら、このままじゃわたしは殺される。

 もしかしたら、他の二人はもう殺されてるかもしれない。だって、わたしの他に誰もいないってことはわたしは標的の一人として選ばれてるってことで、他の二人だって同様のはずだ。

逃げるにはどうしたらいいの?助けを求められる相手はどこにもいない。

 走って逃げればなんとかなるかしら?駄目、わたし足は遅いし。そんな手が通用するとは思えない。仮にもお化けなんだから。

 黄色い帽子で影になって男の子の顔は見えない。しかしアスカは、自分と男の子の間にかなりの身長差があることに気づいた。考えてみれば高学年と小学年なのだ。もじもじとスカートをつかむ男の子は非常に弱そうに見える。


 そしてアスカは名案を思いついた。

 そうだ!逆にわたしがこの子を殺してしまえばいいんだ。

 思うが早いが、アスカはランドセルからリコーダーを引き抜くと男の子の頭めがけて勢いよく振りぬいた。突然の衝撃に男の子は昏倒して、頭をアスファルトにしたたかに打った。アスカはチャンスとばかりに男の子にまたがり、そのまま何度も何度も男の子の頭を狂ったように打ち続ける。男の子は頭を抑えてうずくまったが、アスカはお構いなしだ。

 なにせ、こちらがやらなければ殺される。まさに死活問題なのだ。人違いかも知れないが、アスカはその可能性を知りつつ殴り続けた。万が一、本当にお化けで自分が殺されてしまうことと比べれば、見ず知らずの少年を殺してしまうことなど許容範囲内だった。死んでしまえばすべて終わりなのだから。


 アスカが気づいたときには、男の子の帽子は黄色から赤に変わっていた。組み立て式のリコーダーはバラバラに分解され、アスカの手にあるのは口元のパーツのみだった。男の子はもはや痛みにのた打ち回ることも出来ず、たまにびくっ、と痙攣するだけだ。

「これだけ殴れば十分ね」

 アスカが男の子を見下ろして言った。どうやら「男の子トンボ君説」は外れだったようで、アスカは安堵の溜息をつく。少しだが動いているところを見るに男の子も生きているようで、懸案事項は解消された。後は警察を呼ぶなり救急車を呼ぶなりするしかないが、自分は小学生だから罪には問われないし、暴行の理由は「痴漢だと思った」とでも言えばいい。実際にわたしのスカートをつかんでいるわけだし、指紋が検出されれば証言を裏付けることが出来る。


 それにしても、少し殴りすぎたかもしれない。アスカは息を切らしながら、目の前の惨状に少しだけ後悔した。男の子は帽子どころか、ランドセルの交通安全カバーまで真っ赤に染まり、地の色である黄色はまばらに見える程度だ。


 あれ?


 アスカはもう一度男の子を注視した。

 このランドセルカバー、おかしい。

 ランドセルカバー、黄色の?ううん、それが普通のはずよ。

 でも・・・。

 不審に思ったアスカは再度覗きこんだ。血の臭いがぷうん、と鼻につく。こころなしか空気が生ぬるく感じられる。アスカはハンカチで口と鼻を覆った。

 カバーに何か付いてる。

 毛?

 アスカがそっと手を伸ばすと、ランドセルがビクビクと動きだした。

「きゃあっ」

 アスカは小さく悲鳴を上げる。思わず後ずさったアスカの足が何かを踏みつけた。


 振り返ると、それは無数のトンボの死骸から出来上がった山だった。中にはまだ生きているトンボもいるが、力なく手足や尻尾を動かすだけだ。アスカが足を動かすたびに、ぷちぷちと音を立ててトンボの死体が潰れていく。足の踏み場が見つからない。

「なによ、これ。なにがどうなってんの?」

 アスカがヒステリックな金切り声を上げた。すでにパニック状態だ。アスカが地団駄を踏むごとに足元では無数のトンボが潰れ、アスカのスニーカーの裏にさえおびただしい数がくっついている。

 物音にアスカが前を向きなおすと、男の子の姿はなかった。

 しかし、今まで男の子が横たわっていた場所には、黄色い背中の巨大なオニヤンマが苦しみ喘いでいた。黄色い胴体部だけが鼓動し、羽や尻尾は千切れ、頭さえ動かすことはしない。口からはオニヤンマが吐きだしたのであろうハエ等の虫が見事に粉砕されて、それでも生きているのか粘液の中でもがいている。


「お姉ちゃん」

 男の子はいつの間にかアスカの背後に立っていた。アスカが驚いて振り向くと、男の子はにた、と笑って「もう逃がさないよ」と言った。その手にはアスカのスカートがぎゅっ、と握られている。

「はなせ!化け物!」

 アスカは男の子の顔を思い切り殴った。しかし今度は、男の子は微動だにせず帽子だけが飛ばされて行った。もちろんスカートさえ手放すことはない。


 アスカは仰天し、恐怖に顔が引きつるのがわかった。

 男の子の顔が、アスカの拳の形に陥没していたのだ。眼窩まで折れているのだろう、目玉が飛びでて、その奥から紐のような器官で繋がれているのが見える。ところが男の子は痛がる様子も見せず、相変わらずのうすら笑いを浮かべている。

「痛いなあ。ただでさえ、あんなに殴られた後だっていうのに」

 そう言うと男の子は、両手を口元に持っていって、人差し指で左右に思い切り引き裂いた。男の子の口は大きく開かれ、口裂け女そのものだ。

 次に男の子は、血の滴る唇を勢いよく引き抜いた。歯ぐきがむき出しになり、黄色く、ところどころ抜け落ちた歯も現れる。前歯だけが大きく前に反り出して、昆虫の様な形相だ。あまりの様子に口元を押さえたアスカとは対照的に、男の子は開かれた口をさらに大きく開けて笑った。あごが外れているかと思う程に大きく開かれた口から、雑に剥ぎ取られた唇の脂肪やあごの筋肉が覗いている。その口に、男の子は手をねじ込んで中から凹んだ顔を直し始めた。何度か崩れそうになりながらも、どうやら頬骨が元の箇所にはまったようで顔は一応人間の形を取り戻した。そしてまだ飛び出たままの片目を手に取り、もう一方の目でしげしげと眺めてから、男の子はそれを眼窩に入れ直した。


「気違いよ」アスカが震えながら、それでも弱さを見せぬように罵る。「そんな無意味なことして、どうかしてる」

 男の子は、もう笑っているとはとても認識出来ない表情で、それでも声だけは高らかに響かせた。アスカは必死になって辺りを見渡したが、武器になるようなものはなかった。

「この顔を見るとみんなそんなことを言うね」男の子は楽しそうに言う。「この顔はぼくが死んだときの顔なんだよ。ほら、トンボみたいでしょ。いつも殺して遊んでいたトンボだけど、ぼくと遊んでくれたのはトンボだけだったから、最後にはトンボになりたいと思って」

「だったら、トンボと遊んでなさいよっ。わたしたちは関係ないでしょ?あんたに濡れ衣を着せたクラスメイトやあんたを見捨てた先生に復讐して満足でしょ?わたしたちまで巻き込まないでよっ」

 アスカがまくし立てる。相手は子供だから、論破してしまえばこの場を逃れられると思ったのだ。しかしアスカのあては外れ、男の子はなおも楽しそうに語った。

「違うよ。ぼくは誰も殺したいなんて思ってなかったんだ。ただ、トンボじゃない人間とも一緒に遊びたいと思ってただけなんだよ。でもぼくが仲良くなれるのはトンボだけだ。だから、みんなをトンボにするしかなかったんだよ。今お姉ちゃんが言った二人も、こんな顔で死んでったよ」

 男の子は自分の顔を指差して言った。

「でも、だったらあんたは何で、自分を名指しした子だけを殺したの?クラスには他にもいくらだって生徒はいるんだから、その子だけを道連れにするのはつじつまが合わないじゃない。だって作ろうと思えば、もっと友達を作ることは出来るんだから。あんたがいくら屁理屈を言っても、そこは覆らない事実よ」

 しばらく沈黙した。アスカはまさに論破したと思った。男の子はもう声を出さず、もう閉じない口からダラダラ、と血液や唾液が流れるだけだった。あとは、自分とキミコ、ルリが呪いから解放されるだけだ。


 すると男の子は恨めしそうな視線を向けて言った。

「いいから、お前もこっちに来いよ」

 やばい。完璧に怒らせてしまった。

 殺される。今にも殺される。

 それは困る。

 この場だけでもしのげれば・・・。

 アスカは少し考えて男の子に尋ねた。

「キミコちゃんとルリちゃんはどうしたの?もう殺したの?」

「一緒にいた二人なら、先にトンボになってもらったよ」

 男の子は笑顔に目を平らにして、アスカのほうを見た。その視線を不気味に思う間もなく、アスカは手の中に、紙と豆を一緒に握りつぶしたような妙な感触を覚えた。

恐る恐る手を開くと、その中にはキミコとルリの顔をした二匹のトンボがくしゃくしゃに丸まっていた。アスカは悲鳴を上げ、反射的にそれらを放り投げた。手のひらから全身まで、腕の神経を伝ったかのように一瞬で汗をかいたのがわかる。

 男の子はけらけらと声を上げて「お姉ちゃん、友達を放り投げちゃだめだよ」と意地悪く言った。

アスカが投げた先でキミコとルリの死体は途端に人間の姿に戻った。キミコは背中を縦に真っ二つの状態で内臓はすでになかった。ルリは頭が体から外れてアスファルトに置かれ、体だけがばたばたともがき苦しんでいた。

 アスカは昼食を戻しそうになるのを堪えて、また尋ねた。

「他のクラスメイトはどうしたの?話を聞いたのはわたしたちだけじゃないはずよ。うわさをしていたリョウコとフミエだってそうだし、先生だって聞いてたわ」

 すぐにアスカは手のひらを開いた。また自分の手から死体を出されるのはゴメンだからだ。しかし、男の子は笑って、アスカに後ろを見るようにうながした。

 アスカは隙を見せぬよう、ちらちらと男の子を確認しながら後ろを向いた。

 アスカの真下、土手を降りたところには山のようにおびただしい数の死体があった。リョウコもフミエも先生も、ケイコもタカミもカナコも皆、スプラッターな出で立ちで倒れていた。アスカはすぐに見るのを止めた。振り返ると、男の子は腹を抱えて笑っていた。

「今日は、いっぱい遊べて楽しかったよ。こんなに友達が出来たのは生まれて初めて。ぼくのうわさをしてくれた人には後でお礼を言わなくちゃ」

 男の子が死体の山を眺めて言った。

「狂ってる。あんた、あんだけ人を殺しておいてよくもそんなふざけたことが言えるわね。こんなひどいこと、もう終わりにしなさい!」

 アスカが言い放つと、男の子は悪びれもせずに言った。

「うん。もう終わりにするね」男の子は飛鳥のほうへ近づく。「お姉ちゃんで最後だから」

 アスカは恐怖で足がすくむのがわかった。道路のわずかな凹凸でさえ、つまずいて倒れこみそうだった。


 何か逃げる方法はないの?


 アスカは脳みそをフル回転させて思案した。自分が読んだ怪談、昼間のうわさ、トンボやいじめに対する知識。それらを総動員して考えた。男の子はもう目の前まで来ている。周りがどんどん大きくなり、自分がトンボになっていくのがわかる。焦りで口の中が渇く。

 そして、ついに思い出した言葉に全希望を託して叫んだ。


「犯人はトンボ君じゃない!

 犯人はトンボ君じゃない!

 犯人はトンボ君じゃない!」


 男の子の足が止まった。アスカのトンボ化も止まり、元の状態に戻った。

 アスカはそのまま男の子の次の行動を待った。恐怖と緊張から足が震えていた。遅刻ぎりぎりで校門をすり抜けた日に似ていると思った。

 すると男の子も震えだした。

「じゃあ、いったい誰がやったんだよ。誰がぼくのせいにしたんだよおおおおおお」

 男の子が泣き喚く。怒りからか悲しみからか、わからないような声を上げている。

 そんなこと、わたしだって知らないわよっ。それにこの後はどうしたらいいの?あの言葉を唱えれば助かるんじゃないの?うわさは嘘だったの?

 アスカが悩んでいる暇もなく、男の子は猛烈な勢いで飛び掛ってきた。

 だめ、もう手がない!逃げるしかない!

 アスカはひたすら走った。キミコとルリの死体を飛び越え、その先に転がる無数のトンボを潰しながら。男の子も、年齢からは考えられないようなスピードとスタミナで追いかけてくる。しかし、泣き叫びながら走っているためか、アスカのほうが若干速い。


 ふいに、目の前に黒塗りの高級車が止まった。助手席のドアが勢いよく開く。中から初老の男が手を伸ばした。

「乗りなさい!早く!」

 アスカは車に飛び乗ると、ドアを思い切り閉めた。男はすばやくギアをチェンジさせて、車はすぐに走り出した。

 アスカはすぐに後ろを確認した。

 ひょっとしたら、車の後ろや上にしがみ付いているかもしれない。


 しかしアスカの予想は外れた。男の子はまったく追ってくる様子を見せず、長い一本の土手道に一人、ぽつんと立っている。アスカは目を凝らして男の子の顔を見た。怒りの表情だった。獲物を取り逃がした悔しさと殺意を視線に込めて、この車に送っているように思えた。

 幽霊の超現実的な力で追いかけてくるかもしれないと、アスカは少々不安に思ったが、もう車は安全圏だった。いくら異常に体力のある子供でも、人間との徒競走に速さで負けるぐらいだから、車に太刀打ちできるわけがないのだ。アスカたちと男の子の距離はどんどん離れて、もう米粒にしか見えないほどだ。


 やった。わたし、幽霊に勝った。トンボ君に勝った!

 アスカは安堵の溜息を、緊張で持ち上がった肩を下ろしながら吐き出した。生命の安全が保障されると、徐々に頭が働くようになった。

 リコーダー、テストの前なのに壊れちゃった。まあ、いいか。どうせクラスメイトは全員いないからテストもないし。

 クラスメイトどころか、先生もいないじゃない。

 ああ、わたしだけクラス替えになるのね。仲良しだったキミコとルリが死んじゃって寂しいけど、新しい友達が出来るならそれも悪くないかも。

 アスカは窓の外を眺めた。

 車は土手を抜けて、いつの間にか近くの高速に入っていた。

 あれ?この車、どこに向かっているの?そういえば、わたしはこの人に行き先を伝えてない。家は近所なんだから、高速なんて乗ったら遠ざかる一方だ。

 アスカは隣で運転する男を見つめた。

「おじさん、助けてくれてありがとう。もう大丈夫みたい。それでね、わたしの家、この辺だから、そろそろ降ろしてほしいの」

「おお、そうかいそうかい。いやあ、大変だったねえ」

 男は車を止めた。

 ちょっと待って。ここ、高速道路の真ん中よ?何で停車出来るの?そういうエリアなのかしら。

 いぶかしがりながら、アスカはドアに手をかけた。

 開かない。ドアにロックがかかっているのだ。アスカは男に抗議の視線を向けた。男は笑いをこらえきれない、といった風に音を殺して笑った。

 何この人。おかしい。

 アスカがドアを無理やり開けようとすると、窓の向こうに追い払ったはずの男の子が立っていた。相変わらず敵意の視線をこちらに向けている。しかし、よくよく視線の先をたどれば、その目はアスカではなく運転席の男を見据えているのがわかる。

 アスカが恐る恐る、男のほうへ振り返ると、男はしわだらけの顔をさらにぐしゃぐしゃにして笑顔を作った。

 男はアスカに右手を差し出した。手には何かが握られている。そしてアスカはハッとして、視線を男の顔に向けた。


「お嬢ちゃん、ザリガニは好きかい?」


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