第一章 昔語り
プロローグ
聖肉祭は相変わらずの賑わいを見せていた。アレクサンドリア領内外から多数の人種が入り乱れ、屋台の店主たちは今こそが書き入れ時と冬季だというのに額にじんわりと汗を浮かべながら腕を振るっている。そんなメインストリートから一本伸びる路地への入り口に彼は腰かけていた。
賑わいに混じろうと駆ける子供たちと同じ高さで片膝を立ててじっと待つボロ切れに包まれた風体はとても厳しい冬を乗り切れるものではない。聖肉祭が催されていることを指し示すペナントは空を乾いた風に乗って泳いでいる。そのペナントよりも彼の唯一の防寒具であるマントは激しくそよいで見せた。彼は待っているのだ。冬を乗り切るための銅貨五枚を落としてくれる客、ひいては話し相手を。
「おじいちゃんってなにやさん?」
深く被ったテンガロンハットのつばが占める彼の視界に一人の子供が割って入る。彼女の瞳はカシオペヤの様に澄み切っていた。穢れを知らぬ純真無垢の象徴。
「お爺ちゃんは傷つくなぁ。おじちゃんは吟遊詩人だよ」
「ぎんゆー? なにそれ?」
戦争が終結してから産業は勢いを増した。鉄砲水の様に吹き上がるアイデアと情熱によりアレクサンドリアは過去以上の栄華を気付きあげている最中だ。蒸気を用いた発明が増え、電気と呼ばれる物質により人工の光が生まれた。かつては人を殺す道具でしかなかったものが大衆化され死の地に芽吹きを与えている。
増加する技術屋の陰に隠れて、昔ながらの吟遊詩人は減少の一途を辿っているのだ。こんな幼子が知らなくても無理はない。
「歌ったりお話をしてお金をもらう人のことさ。お嬢ちゃん、お母さんとはぐれたのかい?」
彼が尋ねると少女は吟遊詩人の隣へと腰を下ろし、口を尖らせて薄汚れたスカートのポケットから何かを取り出した。小さな掌に銅貨が五枚並んでいる。
「ママはあっちのお店でおさけ飲んでるの。このお金で遊んできなさいって」
五歳、いや六歳だろうか。最近仰々しく建設された学校と呼ばれる施設――教育を受けるための施設の様だが――の初等部に所属するかしないかといった具合の容姿、親がついて危険を排除する時代は終わったのだろうか。
「だからひまなの。おはなし聞かせて?」
そのあくまで買い物を楽しむ大人を振る舞った口調に彼は目元に刻まれた深い、深いしわを折り曲げてその手から一枚だけ銅貨を摘まむ。
「今はタイムセール中でね。一枚だけもらうよ」
「そうなの?」
「お嬢ちゃん買い物上手だ」
昔母親が八百屋にそう褒められて嬉しそうにしているところをふと思い出した。少女も口をにんまりと広げている。
「じゃあ……そうだな。魔女の昔話をしよう」
「魔女?」
少女が首をかしげる。吟遊詩人は隣に置いていたリュートを携えて目を閉じる。
「あぁ。魔女さ。"むかしむかしあるところに……"」
どろりと音を立てそうな泥濘の意識を冷たい風が鋭く揺り起こした。太陽が届かぬほど深い森の中でテントの隙間からやってくるそれに前髪が視界の端を揺らぐ。アリアは自らが預けていた布団を静かに畳むと雑魚寝している仲間の投げ出された腕や足をするすると跨ぎ、外へと足を踏み出した。朝露や木々を吹き抜ける乾いた風に混じって煮込まれた温かな香りが鼻腔を刺激する。ほのかに牛乳と芋をごった煮にした、慣れ親しんだ香りだった。嗅覚が刺激されたせいかそれに連動して腹の虫がぐうと鳴き声を上げる。気の弱さから普段なら赤面してしまう事態も早朝という時間のお陰でアリアの内に住む住人の声は誰の鼓膜も揺らすことはなかった。
寝ぼけ眼はまだぼんやりと一枚フィルターを隔てたような世界をアリアに見せている。革製のサンダルは外気の影響かひんやりと足元を包み、外気と結託して彼女の意識をいち早く覚まさねばと急いているようだ。ピントが合わない視界の先、匂いの元は自身よりも頭一つ背の高いグリフのものだった。
「おはようグリフちゃん」
「おはよう。もう少し寝ていてもよかったのに」
焚火にかけた鍋を絶え間なく混ぜながらグリッドフィールドがそう呟く。視線は鍋に落としたままだ。口調は少し意地悪な、それでいて寝坊した彼女を心なしか責めるような言葉だったが口元は上がっており、それを覗き見たアリアは日ごろ可愛がってくれる彼女得意の冗談だと察した。手櫛ですら一つのひっかかりもない美しいミディアムの髪を羊製の革紐で結い、それと同じようにスラリと伸びた四肢。時に冷たげな印象を与えてしまう整った目元からは想像できないほど彼女はお茶目なのだ。
年上ではあるがこの集落にグリッドフィールドがやってきた時、既にアリアは古株で、その教育係の様なものを彼女は受け持ったのだが、当時の殻に籠ったような彼女はどこへやら。今の様な冗談を口吹くようになってきたのはいつからだったろうと右上に視線を飛ばしながらアリアは記憶を冷え切った手で掘り起こしていた。
「そんなこと出来ないよ。私も食事当番なんだから」
「ならもっと早く起きないとね。もうスープが出来るから皿を用意してくれるかい?」
グリフは今度こそ視線を投げかけて先程の口調の様ににやりと笑った。彼女の一つに束ねた髪が風にそよぐ。一年前に迎えた誕生日にアリアが送ったエプロンを付けている姿を見るたび胸のあたりに熱がこもる。そんなグリフの視線に少しだけ頬を赤らめながら、私も少し髪を伸ばしてみようかと寝癖の残る襟足をつまみ、アリアは指示の通り人数分の皿を用意するのであった。
「では、命に感謝を。命に祈りを。いたただきます」
エリンの言葉の後、それぞれが朝食当番の作ったスープを口に運ぶ。晴れた日はこうして外にテーブルを展開し、全員で食事を取るのだ。木々のない開けた空間で取る食事に釣られてやってくる森の住人も少なくない。
しかし冬季も中頃を迎えたアレクサンドリア領に吹く風は勢いを増し、濡れた髪のまま外へ出ようものなら容赦なくその束を凍らせる程。それを見越し作られたグリフの朝食はアリアの嗅覚通り芋を煮込み、乳性の油と塩で味付けされており簡素ながら体を芯から温めた。
「今日はかわいいかわいい妹の朝飯だからなぁ! いやぁ美味い美味い!」
ガツガツとまるで米をかっ食らうようにスープを飲み干したのは集落一のトラブルメーカーであるタイラー。アリアの同室――"室"と言ってもテントだが――でもあり、彼女の面倒をよく見る姉肌な一面も併せ持つ。
この寒空の下、ショートパンツにブラウス一枚と信じられない格好に最初は誰しも驚き心配の声を上げたものである。しかし今ではバカは風邪を引かないという諺のもと集落の日常の一部となっていた。
決して豪勢ではない朝食をフルコースの様に全身で表現しながら食すタイラーこそいつもの風景なのだがアリアの心は不安で波立っていた。それは本日の朝食は勤勉なグリフの手によってほとんど作られたということだ。アリアがやったことといえばテーブルを展開し、人数分の皿を用意したくらいなのだから。
「あ、た、タイラーちゃん。それ私……」
黙っていればバレはしないのであろう。しかし気弱なアリアの心がそれを許さない。なるべく傷は浅く軽傷に済ませたいタイプの人間だった。
というのも同じテントで生活を共にしてもう十年近くになるが彼女はこう見えて責任を重んじるタイプの人間だったのだ。こういってはなんだが責任などすっぽかして遊び呆ける快楽主義者に最初は思えたのだがそれは見当違い。以前アリアがタイラーに頼まれた仕事をすっぽかした時などは頭の上に今食している芋よりも大きなたんこぶが出来た。
それを少しでも軽減しようと意を決して真実を告げるべく口を開いたのだが、それに向かいのグリフが割って入る。早朝の様に口角が上がっていた。
「朝食は全て私が作ったよタイラー」
あぁ言ってしまった。なんと意地悪なのだろうか。温かいスープで芯から温まっていた体が一気に冷え、ガツガツとスープをかっ喰らっていたタイラーの手がピタリと止まる。
以前エリンに施された食事中は静かに、席を立たないことという教育は守れそうになさそうだ。腰を浮かせて逃げる準備をアリアは整える。
「あぁ? おいアリア。お前今日当番だろ」
隣に座っていたタイラーは勢いよくアリアの首根っこを掴んだ。猫はこうやってつかむと動かなくて運びやすいと言っていたのは誰だったろうか。分かっている。分かっているのだが、恐る恐る振り返ると褐色の眉間に刻まれたしわは大陸一のスマ大渓谷のように深かった。
こうなってしまってはどうにも止まらない。いくら弁解しようと無駄なのだ。短絡的と言ってしまえばそれまでだが事実確認の前に怒りが通りこしてしまうのもので、彼女がトラブルメーカーと揶揄される一因でもある。まぁ事実確認をしたところで今回の件についてはアリアに非があり弁明の余地はない。
グリフに負けず劣らない長身に加えて程よく筋肉が付き引き締まった肉体から逃れる術はアリアに残されていないはずだった。しかし寒さの影響で朝から防寒具を身に着けていたことが幸いとなる。首元まですっぽりと小柄なアリアの体を包むそれは内側は羊毛、外側は革で出来ており風をシャットアウトする。背に腹は代えられない。アリアは今しかないというタイミングでその防寒具を脱皮し、外気が体を凍らせぬ内に端で静かに食事をとるエリンへと泣きついた。
必死で駆ける背後から待てと聞けもしない命令が飛んでくる。
「食事中だよ。静かになさい」
右肩へ縋り付く。エリンはアリアに眼帯越しの視線を投げた後、振り返りもせずにそう言い放った。年長であり、集落の長でもある彼女にタイラーは「だってよ」と小さな反論を試みたが、説き伏せられることはタイラー自身が一番良くわかっていた。
「エリンさん。ありがとう」
「構わないよ。しかししっかり当番の役目は果たしてほしいかな」
エリンはそう言うと今度は顔を正面に据え、健常な左目も用いてアリアを捉えた。眉は困ったように八の字を描いているが、その瞳はグリフが作ったスープのように暖かかい。
「ご、ごめんなさい……」
「なぁに。次気を付ければいいさ」