六章 風下の一輪花
何が起こっても、日常は変わることなどなかった。
たった一人の存在で、世界なんて変わるわけがない。
そんなことは解り切っていた。
夜が終われば朝が来る。
人は起きだし動き出す。
学生は学校へ、サラリーマンは会社へ。
それぞれ行く場所へ行って、やることをやって。
当たり前だと思っていた。
いや、これは当たり前なんだ。
それなのに、当たり前が不自然に感じた。
自分の周りだけが変わっていくことに、ただならぬ不安を感じた。
それでもやっぱり日常は変わらなくて。
急に不安になって。
でも何の足しにもならなくて……。
置いて行かれたような不安感が、止め処なく襲いかかってくる。
今この瞬間も。
次に待つ、その瞬間も。
ずっと、ずっと。
1
久々に行った学校は、随分と変わっていた。
四月の間に友達関係はすっかりできあがっていたようで、教室に入った瞬間は本当に居心地が悪かったのだ。ちょっと取り残されたような、微妙な雰囲気が漂っていた。
だがそれも最初のうちだけだった。
和気藹々としたクラスだったためか、放課後になる頃にはもう多くのクラスメイトと岳は打ち解けあっていた。最初の居心地の悪さも不安も、とうに吹き飛ばされていたのだ。
部活も部活で、再度手荒い歓迎をされては以前と変わらぬ練習をして。
確かにここには岳の居場所があったのだ。
そしてここが、岳の居場所だったのだ。
何の変化もない、この場所が。
ただその中で一つだけ、変わったことがあった。
それは帰り際に寄る、柚莉の病室。
約束したとおり、岳は柚莉のお見舞いに行っていたのだ。たまに部活が遅くなっていけないこともあったけど。その日以外は、毎日毎日。
柚莉の笑顔が見たくて。
柚莉の声が聞きたくて。
柚莉に会いたくて、岳は病室に足を運び続けていた。
変わったといっても、それは岳にとってとても幸せなことだったから。
外は青空に包み込まれていた。
春の陽気は穏やかで、吹き抜ける風も温かい。
太陽が天高く昇る中、学校では一日で最も活気の溢れる時間へと突入していた。いろんな所からお弁当のにおいが、生徒の話し声が、漂ってくる。
そんな学校の階段を一段、また一段と彼らはのぼっていった。
照らす陽光が一際近く感じられる。
岳たちは誰もいない屋上を、堂々と占拠していた。
「さーて、今日のおかずは何でしょう!」
などと勝手にハイテンションなのは、クラスのムードメーカーで部活仲間の青山陽太である。共にいた勇一と綾子も、つられて何だろう何だろうと言い出した。
だが調理が当番制なのが上岡家。岳は今週運悪く朝食当番だったため、何だろうと言わずとも中身は知れている。この話に乗れないのが、ちょっとばかり残念に感じてしまった。
「おおーぅ。岳のいいなー、卵焼き。一個ちょうだいな」
「嫌だね」
ひょこっと覗き込んできた陽太に、岳は構わず否定した。
「ケチんぼ! いいじゃん一個くらいさー」
「お前の弁当にも入っているだろう。卵焼きはさぁ」
言いながら、岳は陽太の弁当箱にちまっと居座っている、黄色い卵焼きを指差した。
見目にはそれほど大差はない。いたって普通の卵焼きだった。……が、
「俺の冷食だもん。岳の手作りだろ」
くわっと陽太は喰いかからんばかりの勢いで、意義あり! と叫んだ。
正面で、勇一と綾子が苦笑している。
「味なんて変わんねぇよ」
「いいや、変わるね! 卵焼きと肉じゃがは、家庭それぞれの味が出るんだ!」
「知らねぇよ、んなこと」
「うわー、知らねぇのかよ。バーカバーカ!」
「馬鹿さ加減はお前と大差ねぇしー。それに馬鹿って言ったほうが馬鹿なんだよ、バーカ!」
「お前が馬鹿って言ったんだろ、バーカ!」
岳と陽太はバーカバーカと言い合った。
青い空に、二人の声が響き続ける。
バーカバーカ……
五十歩百歩。
どんぐりの背比べ。
馬鹿って言ったほうが馬鹿なら、二人とも言っているのだ。
理屈的には、どちらも馬鹿だ。
とはいえ勿論、二人ともそれにはまったく気付いていない。
バーカバーカ……
平和なのか、それとも単に馬鹿なのか。
勇一と綾子は、呆れながらも笑っていた。
バーカバーカ……
バーカバーカ……
二人の声は、どこまでもどこまでも響き続けている。
これが確かに、岳の日常だった。
何の変哲もない、これが。
2
「ごめん、遅れた」
ひらひらと手を振りながら、岳は柚莉の病室に足を踏み入れた。
今は部活も終わって、家路をたどる途中。岳からは達成感に似たものがきらきらと滲み出ていた。
「お疲れさま」
柚莉はそう言うと読んでいた本を閉じ。小鳥のようにぴょこぴょこと、岳のほうへと近づいていく。
身体に障るぞと苦笑しながら、でも嬉しそうに岳は言った。解ってるよと、柚莉も嬉しそうに言った。
「今日も部活、大変だったんだね」
「まあ、甲子園の予選も近づいてきたしね」
「ほっぺに泥ついてるよ」
「え……。うそ」
「ほんと」
気付かなかったの? と柚莉は笑顔のままに言ってきた。
全然気がつかなかったー。岳はそう言いながら頬をこすった。確かにちょっと、ざらざらとした土の感触がある。強くこすったら、そこがひりひりと痛んだ。
柚莉はえへへと嬉しそうに顔をほころばせながら、岳を見ていた。
「ベースに飛び込んだの?」
「んー……。そういえば飛び込んだ、かも」
「きっとその時だね。ついちゃったの」
柚莉はいつの間にか、野球のことを覚えていた。
最初はやっぱり女の子だから、野球のことなんてこれっぽっちも知らなかった。けれど話していくうちに、会っていくうちに。だんだんと話せるようになっていったのだ。
最近では柚莉のほうから、岳に野球のことを話しかけてくるくらいだった。
落ちた? と岳は柚莉に頬を見せた。
赤くなってるけどね。と柚莉は答えた。
「どうしよう、みっともないかも」
「そんなことないよ。大丈夫」
「えー。でもさあ……」
「気になっちゃう?」
「うーん……。どうにも気になる」
岳は頬をちょんと触った。こすった箇所は、微かに熱を帯びている。
何だか最近、岳は柚莉の前だとどうしても、些細なことまで気になってしまうのだった。
例えば身だしなみは平気かなとか。変な表情になってないかなとか。ちゃんと男らしくいられてるかなとか――。
ちょっとでも変だと、どうしても恥ずかしくなる。
今までそんなことは一度もなかったのに。どうしてもどうしても恥ずかしくって。
なんか変だな。
でも何が変なんだ?
自分の変化なのに何も解らなくて、岳は頭を悩ませていた。
ちょっとした柚莉の言葉でころころと変わる心情も。
それに合わせて変わる、表情も。
ちょっとしたことで気になって。
ちょっとしたことで嬉しくって。
何でこんなに変わってしまうんだろう?
何で柚莉といるだけで、こんなに楽しいんだろう?
この時だけは本当に柚莉のことしか考えられなくなるんだ。
学校のこととか部活のこととか。死神になるっていうことだってあるのに。
そんなことなど、もうどうでもよくなってくるんだ。
ちっぽけに思えてくるんだ。
「大丈夫。岳くんオトコ前だよ」
目の前で、柚莉はそう言ってくれる。
「え。ホント?」
「ほんとほんと。すっごいオトコ前」
はしゃいだ岳に、柚莉は何度も「オトコ前」と言ってくれた。
お世辞だと解っていても、岳にはその言葉が嬉しくって。
身体の底から、火照ってくるみたいだった。
嬉しくて嬉しくて、心臓は聞こえそうになるくらい高鳴る。
えへへと照れくさそうに、岳は笑った。
柚莉も楽しそうに、えへへと笑った。
もう柚莉といられればそれだけでよかった。
そう思って仕方がなかった。
窓の外は夕焼けに染まっている。
岳は喜びの絶頂の中、思わず頭を二・三掻いた。
春の陽気よりも、そこは暖かかった。
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