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渡らせ橋

作者:真野
 不思議な体験をする人たちは、いつの時代もどこの国でも、子どもの方が多い気がします。しかも、当時はそれを何とも感じなかったにも関わらず、大人になってから「もしかして」と改めてその不可思議さに気づく。そう思うのは、私だけでしょうか。
 かくいう私自身も学生のころ、まるで夢のような体験をした覚えがあります。あれは忘れもしない、高校一年生の初夏でした。

 その頃の私は、半ば自暴自棄になっていました。つい四ヶ月ほど前に母を亡くしたのです。病気がちの母はよく入退院を繰り返していました。けれど、都内の大きくて立派な病院でしか治療ができないため、私と父が会いに行けるのは月にほんの数回でした。それでも「こんなに頻繁に来ては交通費がかかるから」という母に、しかし私はもっとたくさん、できたら毎日会いたくてたまりませんでした。父との二人生活が嫌いだったわけではありません。大好きで、大切な母という存在でなければ埋められない空洞が、私の心の中にはあったのでしょう。
 そんな母がこの世を去った日、私は卒業式の練習で学校にいました。父からの電話で学校を早退し、すぐに病院へ駆けつけました。しかし、横たわるその体はベッドのシーツと同化してしまうのではないかと心配になるほど、白で包まれていました。顔が布に覆われているのを見て、私は恐らく膝から崩れ落ちたのだと思います。父に支えてもらったような気がしますが、そのあたりはもうよく覚えていません。
 私の卒業式も、入学式も見ることなく息を引き取った母。葬式で父は「やっと楽になれて、これで良かったのかもしれない。もう薬の副作用に苦しむこともない」と涙ながらに言いました。私は「そうだね」とも反論することもできませんでした。ただ、新しい制服を見せてあげられなかったのを悲しく思い、それを誰よりも楽しみにしていた人がいなくなった現実に対し、ほんの少しだけ怒りを抱きました。
 以来、私の心は幾ばくか歪になってしまいました。街中で親子連れを見ると、目を逸らしたくなるようで凝視したくなるような奇妙な気分になるのです。友人が親の愚痴を零していると、その子を突き飛ばしたくなるのです。そんなことが日に何度もあると、私の心は虫に食われた葉のようになってしまいます。楽しい新学期のはずなのに、何かにつけて自分を惨めだと勘違いすることが、恥ずかしくて悔しくて堪りませんでした。けれど、あの頃の私にはどうしようもなかったのです。母の死への向き合い方が分からなかったのです。
 そんな鬱々とした日々の、ある夕方のこと。買い物へ出かけた私はスーパーの中で、近所に住む人たちの会話を偶然聞いてしまいました。
「うちの子どもがね、変な人に会ったらしいの」
 いけないと思いつつ、話に耳を傾けながら、私は驚いてしまいました。実はその頃、私が住んでいる地域に新しい歩道橋が完成したのですが、どうやらそこを通った幼稚園児のお子さんが「渡り終えたらおじいちゃんが現れた」と、しきりに訴えるのだそうです。
「やだ。不審者?」
「それがね、あの子アルバムを開いて、あたしのお父さんの写真を指さしたのよ。この人だったって。でも、あの子が生まれるずっと前にもう亡くなっているのよ」
 幼稚園児あたりの年齢によくある、妄想の類だと私は思いました。瞬時には信じ難かったのです。けれど、真っ先に母のことを思い浮かべました。
 さらにしばらくすると、また歩道橋の噂を耳にしました。
 あそこの歩道橋は、あの世に通じているらしい。すでに何人かの人間が死者に会っている。
 それは前回聞いたときよりも、ハッキリとした内容のものでした。死者に会ったらしい人たちは近所の子どもばかりで、パターンもほとんど同じなのです。橋を渡り終えると、いつの間にか近くにいるのだと、まるで口裏を合わせたかのようにそう言っているようでした。
 噂は一度、体験した人が現れるとしばらく鳴りを潜め、何日か経つとまた出てくるのです。はじめは面白半分で皆、歩道橋を渡っていましたが、だんだんと回数が増えていくにつれて、歩道橋に寄り付く人は減っていきました。今更ながらに気味が悪くなったのでしょう。死者をこちら側に渡らせる橋ーー『渡らせ橋』と呼ばれるようになったのはこの頃です。
 六月のある日、テスト期間中のため比較的早い時間帯に帰り道を歩いていた私は、わざと遠回りをして例の歩道橋へ向かいました。この頃にはもうすっかり、噂を信じ込んでいたのです。母に会いたい一心でまだ真新しいクリーム色の階段を登りました。渡り切るのに五分とかかりません。果たして最後の段を降りたのち、私の周りには死者どころか生者さえ一人もいませんでした。体が怒りによる熱で燃えるようでした。どうして! 皆は良くて私はダメなのか!
 堪え切れない思いを踏みつけるがごとく、家へと帰りました。すると、玄関のドアを閉めた途端、ふわりと良い匂いが鼻腔をくすぐったのです。甘辛いそれに私は覚えがありました。ローファーを乱雑に脱ぎ捨て、廊下を駆け抜け、すぐさまキッチンに飛び込むとーーいたのです。
 フライパンから立ち昇る煙。中でジュージューと音を立てるバラ肉から視線を上げて、母は私を見ると微笑みました。
『優子、おかえり』
 声はありませんでした。けれど、口の動きで何を言っているのか分かりました。私は一瞬息を止めたのち、涙が溢れないように無理やり口の両端を上げました。震えそうになる声を、真っ直ぐに正すよう必死になります。
「ただいま。ママ」
 私と母の二人暮らしがはじまりました。

 父が長期の地方出張へ出ていたため、私は文字通り母を独り占めすることができました。一緒に料理をしたり、テレビを見たり、生前と何ら変わりのない時間がこれほどまでに愛おしかった経験はありませんでした。
 学校へ行って、家に帰ってくるのが楽しみで仕方なかったのも、友人に「優子ちゃんってそんなに元気な性格だったっけ?」と聞かれるのも、すべてが私にとてつもないエネルギーを与えてくれたのです。以前までの鬱々とした気分はもう脱ぎ捨てたも同然でした。
 ずっと続けばいいと、そう思いました。
 ところがある日、私はあの歩道橋の近くで中学時代の同級生を見つけたのです。ぼんやりと歩道橋を見上げる彼女に声をかけると、私を見るなりその子は泣き出してしまいました。
「誰よ。あの世に繋がってるなんて嘘ついたの。全然会えないじゃない」
 聞くところによると彼女は先日、大好きな愛犬を亡くしてしまったそうです。もう一度だけでいいから会いたくて、ほとんど毎日この渡らせ橋を通っていたらしいのですが、一向に叶わず、悲しみばかりが積もっていくのだと言いました。私は咄嗟に母のことを話そうとしました。嘘ではないと証明したかったのです。けれど、そのとき私は気づいてしまったのです。渡らせ橋がまだ噂だった頃、死者に会った人が一人でも現れると、しばらくの間は絶対に同じ体験をした人の話は聞きませんでした。連続して起きたことはただの一度もなかったのです。
 つまり渡らせ橋の向こうからこちら側へ、死者はたった一人しか来られないのです。
 私が母と暮らしている間、彼女はどんなに愛犬に会いたくとも、歩道橋を何度往復しようと、決してその願いは叶わないのです。
 どうしよう、と焦りながら彼女と別れ、家路を急ぎました。足を一歩踏み出すごとに、罪悪感が募るようでした。今、私がこうして幸せな生活を送っている間に、大切な思い出との別れに悲しみ、苦しんでいる人が果たして何人いるのでしょう。何も私だけではないのです。死を目の前にして、心を蝕まれない人などいるはずもないのです。
 そのとき私は自分が世界で一番ズルイ人間だと思いました。
 相も変わらず母は家にいました。いつものように夕飯を食べ終えたあと、私は意を決して胸の内を明かしました。
「ママ、私、ママが大好き。これからもずっとずっと一緒にいたいわ。でも、きっとそれじゃあダメなのよね。いつまでも引きずっていちゃ、いけないのよ。私ようやく分かったの」
 母はゆっくりと頷きました。優しい笑顔でしたが、瞳は少し潤んでいるようにも見えました。
「ここに呼んだりして、ごめんなさい。でもママに会えて本当に嬉しかった。私とパパもあと何年かしたら、そっちに行くわ。だからそれまで待っていて」
 母は私を抱きしめてくれました。体温も服の感触だって、もちろんあるはずもありません。ですが、紛れもなく母だと私は思ったのです。
「ありがとう、ママ」
 私の目を見て、母が身振り手振りを混じえながら口を動かしました。
『ママも優子とパパが大好き』
 その日の夜、母は家を出て行きました。
 翌日、歩道橋が不具合のため取り壊されると聞いて私が慌てて向かうと、そこにはあの同級生もいました。私に気づくと、彼女は恥ずかしそうに、
「昨日は急に泣いたりしてごめんね」
 謝る彼女に首を横へ振りました。しばらく二人で、歩道橋の周りを忙しなく歩き回る作業員を眺めていましたが、やがて彼女はポツリと呟いたのです。
 夢の中で愛犬に会ったのだ、と。
「結局、あの歩道橋では一度も会えなかったけど、何だかもういろいろと吹っ切れた気がするの」
 愛犬は元気に吠えて、尻尾を振ると彼女に近づくことなく、光の向こうへ消えたそうです。まるで最期の別れを言いに来たみたいに。
「元気でねって、言ってたのかもしれない。いつまでもクヨクヨしてたら、向こうだって浮かばれないよね。何にもならないもんね」
「そうね」
 私たちはお互いに顔を合わせて、小さく笑いました。

 初夏になるといつも、母と過ごしたあの幻のような日々を思い出します。
 それでも生きなければならない、というあの頃からの決意を胸に、私は今日も前を向くのです。

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