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ブレス【breath】
作:徳次郎



【4】寄せる想い・1


 鉢植えのポトスに霧吹きで水を吹き付けると、窓から差し込む陽差に散乱した水の粒子がきらきらと反射して光の輪を描く。
 晴れ渡る碧空そらに白色にかすれた雲が薄っすらと浮かんでいる朝、省吾は少しそわそわした落ち着かない気持ちでトーストを頬張る。
 何だか判らないモノが喉につかえている様な感じがして、上手く飲み込めない。
 気を紛らわしたくて、普段は滅多にやらない窓際の観葉植物に水を与えてみたりする。
 昨夜は学校帰りの興奮が続いて、ぜんぜん寝付けなかった。
 まさか彼女と話が出来るとは思いもしなかった。
 助けた時はその後の見返りなんてもちろん考えていなかったし、意識の薄れた彼女が自分を認識しているとも思わなかった。
 省吾は昨日の帰りの電車の中、十二分ほどの間澪と話しただけなのに、興奮が何時までも冷めなかった。そして、今朝は新たな緊張が全身を取り巻いて筋肉や関節をギクシャクさせる。
 これから再び彼女に会うのだ。いや、絶対ではないが、確信はある。
 彼は玄関の鍵を締めると、ATBに跨って駅へ急いだ。
 照り付ける陽差は暑いが、少し乾いた風が頬を撫で上げて心地いい。
 駅のホームへ降りると、電車の影が遠くに見えた。既に心臓の鼓動がうねる様に高鳴って、膝に力が入らない。
 ……裕也と一緒に、誰に声をかけてもこんな事はない。もちろん、ヘラヘラと喋りの技を披露するのはもっぱら裕也の役目だが、クラスの娘と話しても全然何も感じないのに……
 自分が思いを寄せていた娘だからこんなに緊張するのだろうか。省吾はそう思いながら駅のアナウンスを聞いて、ゴクリと唾を飲むとその場で一度だけ屈伸をする。
 聞き慣れた騒音を風に響かせながら、ホームへ滑り込んできた車両の動きがピタリと止まる。
 ……いた。省吾は窓の外から素早く彼女の姿を見つけたが、見えていない振りをする。
 彼が車内に入ると、澪が遠慮気味に胸の前で手を振って笑った。彼女は何時もの立ち位置ではなく、省吾が乗り込むドアの横にいた。
 省吾はさり気なく……自分ではそうしたつもりでいる。とにかく彼女の隣に立って吊革に手を伸ばした。
「おはよう」
 澪が彼を見上げて笑った。昨日の帰りに初めて話をしたとは思えないような、自然な笑みだ。
「お、おはよう」
 省吾はそれとは対照的な少しぎこちない笑顔で、直ぐに返す。
「今朝ドライヤーから煙が出てね、マジやばかった」
 澪は直ぐに喋りだした。何かを話さなくては、という気持ちはあるのかもしれない。
「もう、微妙に半乾きでさ」
 そう言って、自分のお下げの先を指で掴んで揺らすと、蒼リンゴのような穂のかな甘い香りが省吾に届いた。
 約十二分間……それは、他愛もない話をするにはあまりも短い。話したい事があまりにもありすぎて、しかも頭の中で準備していた話題も切り出せずに結局彼女の話を聞くだけで終わってしまう。
「じゃあね」
 駅へ降りた省吾に、澪は明るく手を振る。
 周囲の視線に少し照れながら省吾も軽く手を上げて返すと、彼女の乗った車両が完全にホームを出たのを見てから、階段に向った。
 ……何でもっと話せないんだろう。二駅なんてあっという間で短すぎる。
 彼女が帰りに何時の電車に乗るのかも訊けなかった。
 部活はやっているのか? いや、身体が少々悪いならば運動部ではないだろう。
 それにしても、帰りの待ち合わせくらい出来ない自分が情けない。こんな事を何度繰り返しても、彼女との関係に進展があるとは思えない。
 そして省吾はふと気付いた。
 携帯番号とメルアド……それさえ聞き出せば何時でも会話できるではないか。電車の中以外で会える約束も出来る。
 しかし彼女に携帯番号なんて訊けるのか?
 省吾は学校に着くまでの間にひたすら思考を巡らせて、途中コンビニに寄って飲み物を買おうと思ったのにすっかり通り過ぎてしまった。
 昇降口で靴を履き替えていると後ろから声が聞こえた。
「見ぃちゃたぁ」
 省吾が振り返ると愛香が立っている。整った眉と長い睫毛が笑っていた。
「な、なんでお前、今登校なんだよ」
 同じ路線を使う彼女が今ここにいると言う事は、同じ電車に乗っていたのは明らかだ。
 愛香はたいがい吹奏楽部の朝練があるので、普段は省吾よりもずっと早い時間に学校へ来ている。
「うん。今日は朝練休みでさ。もうすぐ秋のコンクールだから」
 愛香はそう言うと再び悪戯っぽい笑みを浮かべて
「ねぇねぇ、あの娘誰?」
「あの娘って?」
 省吾はしらばっくれたように視線を他に向けて上履きを履くと、自分の靴箱に履いてきたナイキを押し込めた。
「じゃあねぇ」
 愛香は澪の清楚な笑顔と手を振る小さな動作を真似て見せた。
 しかし、この学校の校則が全く厳しくないせいで、茶色い髪とこっそり着けているマスカラが全く清楚なイメージには映らない。
「なんだよそれ」
 省吾がぶっきら棒に言って歩き出すと、愛香は慌てて自分の脱いだローファーを靴箱に放り込んで、彼を追った。
「ちょっとぉ」
 愛香は小走りに省吾に並んで
「あの娘、南高でしょ。ちょっときびしくない?」
「なんだよ、きびしいって」
「だって、あそこの偏差値、うちの倍だよ」
 省吾は思わず立ち止まった。優秀な女子高とは聞いていたが、そこまでとは思わなかった。
 いや、実際倍というのは、あくまで平均値を比べた場合であって、もちろんこの学校で成績優秀な愛香よりも低い偏差値の生徒が、南高にもいるだろう。
「そんなの関係ないだろ」
 省吾が再び廊下を歩き出すと愛香も歩き出す。
「最初はみんなそう思うのよねぇ。愛さえあればぁ、とか」
 彼女は顎を突き出して天井を見上げると「ねえ、何処までいったの?」
「なんだよ、何処までって?」
「もう付き合っちゃってるの? それか、もっと進んだ関係なわけ?」
 愛香は興味深々で省吾の顔を覗きこむ。
「いいだろ。どうだって」
「あっ、こりゃあ知り合ったばっかり。って感じ?」
「うるさいな」
「ま、せいぜい撃沈されないようにね」
 教室の前まで来た時、彼女は省吾の肩をポンッと叩いて開いたままのドアを先に入って行った。









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