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歌い手カレシと絵師なカノジョ 作者:藤夜アキ
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第十九話 前進

 榊原夕葉は恋をまだしたことがなかった。
 恋の始まりも、終わりも、知らなかった。
 彼女にとって、恋は自分の外にあるもので、内にあるものではなかった。
 中学二年生の時、夕葉はそこそこ親しくしていた同じクラスの男子に告白された。六月の、なんでもない日だった。彼女はその時初めて、他人に好かれるという気持ちを知った。家族が向けるものでも、友人が向けるものでもない、別の意味の愛。それを知った。
 しかし、彼女はそれを知識として受け止めるに留まった。人は恋をする生き物だ。その程度の認識しかしなかった。
 彼女は恋に興味こそあったものの関心は無く、だから彼女に告白した男子には断りの返事をした。その返答がその男子の人生を大きく変えるきっかけになるのだが、それはまた別の話。
 以来、彼女は誰かの特別の対象にはならず、心を揺さぶられる相手も出来なかった。
 鷺沼颯斗の存在は、その意味では、夕葉にとって異端だった。好きとは真逆の、嫌いで仕方ないという感情。だが、好きも嫌いも、元を正せば強い執着の生むもの。関心と無関心に分けるなら、両者とも関心の方へ寄る。
 とにかく颯斗の行動が目に付いて仕方ないという夕葉の状況は、颯斗の負のイメージをひたすらに強めて行った。鷺沼颯斗は全てにおいて忌避の対象。そんなイメージが出来上がろうとしていた最中に、まるで違う一面を見せられたのだから、夕葉が戸惑うのは至極当然のことだった。
 人が見るのは人の一面に過ぎない。
 夕葉が見ていた颯斗は、颯斗の一部。
 人はそれまで知らなかった一面を知った時、それまでの評価を否応無しに塗り替える。
 それは良かったものをより良くし、悪かったものをより悪くし、良かったものを悪くし、そして、悪かったものを良くする。
 この時夕葉の心の中に起きた変化は、まさにそれだった。
 僅か。ほんの僅か。だがその兆しが、それまで不動だったはずの車輪を、動かし始めた。
 夕葉は炭を取って、春文に渡した。チラリと目をやると、颯斗が替えの箸が無いかと敦に聞いていた。箸と皿はそれぞれが持って来る予定だったが、颯斗は予備なんて持って来ていなかった。
「え、替えの箸、はちょっと無いな。渡部にも聞いてみたら?」
「いや、良い。あいつと面と向かっては話したくない」
「でもどうすんの? まだまだ残ってるし、もう食べない、ってわけに行かないじゃん」
 二人の会話はひどく小さな声でしていたが、キーワードのカケラを拾って、夕葉はその会話の内容を繋ぎ合わせた。
 そして彼女自身、何をしているのか理解出来ないような行動を取った。
 自分の鞄の方へ行って、予備の割り箸を取り出したのだ。
 それは夕葉なりの素直ではないお礼の仕方だったとも言えるし、少しばかり見直した颯斗へのやさしさの表れでもあった。
「これ。使ったら」
 直接目を見て言うことは出来なかった。
 そっぽを向いて、突き伸ばした腕。
「要らないの?」
「もらっとく」
 それまでの関係は変わらない。崩れない。
 だが、その受け渡しが成り立ったことが、二人にとっては、何よりの前進だった。
 その様子は敦に爽やかな顔をさせた。
 後からそれに気付いた春文と美陽にも、あたたかな心を芽生えさせた。
 それからのバーベキューはつつがなく進んだ。相変わらず五人が一緒になって盛り上がるようなことは無かったが、良い雰囲気が場を包んでいた。
 肉も野菜も焼き終わり、マシュマロを焼く頃合いになってから、敦は気になっていたことを颯斗に尋ねた。
「なあ、あの時なんで榊原を助けたんだ?」
「なんでか、って?」
「お前、榊原と仲良くないじゃん」
「別に。理由とか無い」
「これを機に仲良くなっちゃえば?」
「俺は別にどうでも良い」
 特別仲良くしたいわけでもなければ、衝突したいわけでもない。颯斗には夕葉への執着は無い。
「はは、お前らしいや」
 敦はそのことを分かっていたし、まさかこれが二人を近付けるきっかけになるなんて思わなかった。
「お、良い具合になって来た」
 マシュマロはやさしく口の中で溶け、楽しげな食事の終わりを彩った。
 それは夕葉にも同じで、いつもとは違ってトゲの無い表情がそこにはあった。
「良いとこあるんだね、鷺沼君にも」
「あんなの普通だし」
 口ではそう言うものの、夕葉は得体の知れないあたたかな感情に戸惑いを覚えていた。
 あいつのことなんて嫌いなのに。
 悪くはないかも、なんて思ってる部分がある。
 たったあれだけのことで。
 こんなにも揺れる自分がいる。
 その感情が行き着く先。それを夕葉はまだ知らない。
 時は穏やかに過ぎて行く。
 人の心を緩やかに変えながら。
 春。
 人はそれを出逢いの季節だと言うけれど。
 本当にそんな季節であることを感じさせるようなことは、一生のうちで何度あるだろう。
 だがそれはゼロではない。
 決してゼロではない。
 物語は始まる。
 夕葉は知らない。
 この日のことを、いつか子どもに語って聞かせるようになるなんて。
 まだその想いに名前は無い。
 けれどそうでいられるのも、後少し。
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