第七章 家族の絆
桜の季節は終わり、もう海の季節になったかと思うと、あっという間に台風とともに秋が訪れた。私はこの季節になると、無性に楽しくなる。なぜなら食べ物なりスポーツなり読書なりと、紅葉と同じく彩り緑の季節になるからだ。
外を歩くと、もみじとイチョウの色合いに見とれて、ついつい公園のベンチに腰を下ろしてしまう。時々緑色のイチョウもあって、少し早いクリスマスを思い立たせる。
しかし銀杏のにおいはたまらない。あれさえなければ完璧なのに、なんにでも欠点があることを改めて実感する。
空を見上げると、きれいな海のように澄んでいて、雲は魚のように見えた。すると大きな黒い魚が、右から左へ移動した。風は雲と落ち葉を運ぶ。いったいどこへ連れて行くつもりなのであろうか。
私は腕を頭の後ろに組み、大きく体を伸ばす。そしてお日様の光を浴びて、光合成をする。これが私の習慣である。
今日も家事をこなすと、お昼を食べ、茶色のダウンを着る。そして晴れ晴れとした外へと飛び出し、いつもの散歩コースを歩く。家でゴロゴロするなんてもったいない。疲れていても、何かやるより何もしていないほうが疲れる。このことを知らない奥様たちはかわいそう。
秋風に吹かれ、頬の熱を一気に取り去る。だが、私はそのことを寒いとは思わなかった。こんな風より冬のほうが寒いに決まっている。常にプラス思考、これが私のモットーだ。
しかし風はやまずに、次々と冷たい槍を突き刺すかのように吹く。今日はなんだかいつもと違う感じ。なんかイヤだ。私はそんなことにかまわず、ずんずんといつもの散歩コースを進んでいった。
その時であった。風は私を追い返すかのように突然吹いた。そしてその勢いを加勢するかのように、槍を持った小さな妖精たちが大群となって襲ってきた。妖精は無様にも地面へ落下していくものもいれば、私の体に攻撃してから散っていくものもいた。そして一人の妖精は私のダウンにしがみついた。しかしすぐに妖精を取り払い、急いでもとの道に戻った。
「ただいま」
玄関に入って、すぐに靴が多いことに気付いた。
居間に入って、また同じ言葉を繰り返す。
「ただいま」
「おかえりー」
深雪はソファーの上でぐったりとしていたが、要の姿はどこにも見当たらなかった。
「あれ、要は」
私は要のランドセルがもうひとつのソファーに投げ捨てられているのを見て理解したが、深雪は顔をうつぶせにしたまま言った。
「友達の家に行くって言ってた。それより、お母さん」
深雪は顔を上げる。
「また玄関のドアを開けっ放しにしたまま出かけたでしょ。うちは盗まれるものないけど、少し無用心じゃない」
「はいはい、ごめんなさい」
ふと時計を見ると、出かけてからまだ三十分しかたっていなかった。
私はすぐに空いているソファーの席を確保して、リモコンを手に取りテレビをつけた。チャンネルを次々と回しても、ろくな番組がない。しかしそんな中で、この中でもっともマシだと思える番組にした。
私が何も考えずにボーっとテレビを見ていると、深雪は突然身を乗り出して、不安そうな声で言った。
「ねぇ、お母さん。今度、運動会があるじゃん。来てくれるの?」
私はその返答に迷った。なぜなら、私の体がどうなるのかが分からないからだ。去年は風邪、一昨年は腹痛で、雄治が撮ってきたビデオを家で観賞しただけだ。今年こそは是が非でも行きたいと思っている。だから今回は自分に意気込みを入れえるために、私は少し無理をして言った。
「うん、いくよ。今年は頑張っちゃおうかな」
私は深雪に微笑みかけた。
「本当に」
深雪は天井にぶつかる勢いで飛び跳ねた。
しかし今考えてみると、やはり無理のある約束かなと思った。私は少し言葉を付け加えようかと思ったが、うれしそうな深雪の笑顔を見て、ついほころんでしまった。そんなことを考えている自分が、何だかばかばかしくなってきたのだ。しかしそういう特別な日に限って体が弱くなる。どんなことであろうとまだ不安だ。
さて、運動会の日はどうなるか、今考えても気が遠くなりそうだ。今から自分の体にお願いをして、自分でしっかり管理しなければ。私は改めて気合を入れた。
「古葉さーん」
私は声のする方を向いた。その声は峰倉さんだった。
「古葉さん、お買い物?」
「あ…はい、そうですけど…」
近所のおばさんたちに比べると一番付き合いやすい人なので、仲良くしてもらっている。しかも家の隣の隣が峰倉さんの家なので、さらに付き合いやすい。
しかしいつも私と峰倉さんがこうやって一緒にいると、大抵他のおばさんが出てくる。だからまともに二人だけで話し合える機会というのは、互いの家に相手を呼んだ時だけであった。
「いまから、お茶でもどう?」
「え、もうお昼ですし、お昼食べてからにしますよ」
「いえ、うちで食べていって下さい。一人で食べるのは、ちょっとさびしいし…」
「え、でも、本当に悪いですよ」
「いえいえ、遠慮なさらずに…」
「え、でも…荷物置いてきたいんで…」
「ふー」
家に着くと、ようやく開放された気分になった。外の空気もいいが、一緒に住んでいる家族の空気もいい。
私は約束を守るべく早急に荷物を片付けた。
そしてすぐに家を出てカギを確かめると、峰倉さんの家へ向かった。峰倉さんと二人きりで話すのは何年ぶりだろう。どれだけ近所のおばさんたちによって、ことごとく私と峰倉さんだけの話をつぶされたことだろう。そんなことを思うと、胸がスーとした。峰倉さんは年上だし、人生のことや子供のことについて気を楽にして話せる。
どんなことを話そうか。私は胸をいっぱいにして、うきうきした歩調で歩いた。
「はーい、はい、待っていましたよ」
峰倉さんは私を中へ招き入れた。
峰倉さんの家は非常にきれいに整っていて、各家の独特のにおいを発していた。そのにおいは別にくさくもなく、あえて言うのであれば気にならない、といったにおいであった。私は峰倉さんの後をついていき、そのまま居間に入った。
「さぁ、どうぞ」
峰倉さんはイスに指差して、台所へと入っていった。私は峰倉さんの言うとおりに、指定されたイスに座った。すると峰倉さんは、今まで見たことがない料理を持って、台所から出てきた。言ってはいけないが、けっこうおぞましい。
「なんですか、それ」
私は聞いてはいけないようなことを聞いてしまったような感じがした。自分からまずそうだと言っているのと同じような気がしたからだ。
しかし峰倉さんはそんなことを気にしないで話し始めた。
「ふふん、これはね、新作よ。誰かに感想がほしくって」
峰倉さんはなんだかわくわくしているようであった。普通の人だったら、人の口に合うか不安になるはずなのに。
「ささ、どうぞ」
峰倉さんはうれしそうだった。箸を渡され、それを食べなくてはいけない状況になり、どうしようかと思ったが、腹をくくって食べることにした。
その奇物をつまみあげ、ゆっくりと口に持っていった。ここでぽろっと落とそうとしたが、さすがにそんなことを人前ではできない。まして作った張本人の前なんかで落とせるはずなんかなかった。
口の中に入れ、舌の上に置いた。そしてゆっくり噛み始める。
「どう」
峰倉さんはやや身を乗り出し気味で聞いてきた。
しかし私はこの味に疑問を思ったのか、再び奇物を口の中に入れた。
「ねぇ、どうなの」
峰倉さんは待てない子供のようになっていた。私はこの味に確信を持てた。
「はっきり言って…おいしいです」
「ホント!良かったー」
峰倉さんは本当にうれしそうな顔であった。見た目よりも中身とはこういうことだ。
新しい料理を作るのは楽しいし、その味も楽しみだが、本当においしいかは自分では分からない。よっぽどのことでないと、丹精こめてつくった自分の料理をまずいとは言えない。
私は箸を止まらせることなく、皿から皿へと動かし続けた。
「どうしようかと思ったのよ。ちょっと見るだけでおなかいっぱいになっちゃいそうじゃない。良かったー、あなたが第一号なのよ、これ食べたの」
なんという人だ。完全に遊ばれているように思えた。
「またお願いね」
絶対イヤだ。
「そういえば、久しぶりですね。こう、二人きりで話すなんて」
「そうね。よくよく考えてみれば、外でいつも私たちが二人きりで話そうとすると、高倉さんや久間さんたちが入ってくるもんね。こうやって二人きりで話すなんて、半年ぐらいなかったわね」
「そうですね。」
私は机の上の紅茶を手にとって、口に流し込んだ。
「ところで、今度、子供たちの運動会があるんですよ。それで、子供に絶対行くって言っちゃったんです。私、病弱じゃないですか。なぜだか知らないですけど、毎年その日は病気にかかったり、つい行けなくなっちゃうんですよ。今年こそ行かなきゃって思っているんですが…どうすればいいのでしょうか。峰倉さんって、けっこう健康体じゃないですか。なにか健康の秘訣でも教えていただければと」
峰倉さんもカップに手を伸ばした。
「やっぱりメンタル面の問題じゃないかしら。心のどこかでトラウマみたいに、またなったらどうしようって思っちゃっているから、体調崩しちゃうんじゃないかしら」
「気持ちか…」
私は黒いため息をついた。峰倉さんはというと、大事そうにカップを持って、紅茶をすすりながら、カップを影に、こちらを覗いた。その時峰倉さんの目は、私の気持ちを見透えているようであった。
「でも一応、知りたいなら、私がやってる健康を保つ方法を教えてあげる。もし自分が元気だって分かれば、気持ちの改善にもなるし、いいかもしれない」
「そうですね。教えていただければ幸いです」
「そう、じゃあ、まず…何からやりましょうか」
「へー、お子さんはもう大学二年生で…」
その後は峰倉さんの教えてくれたストレッチをしながら、くだらない世間話を続けた。峰倉さんも隣でストレッチを続ける。話しながらで、時間もついつい忘れ、外はすでに暗闇に包まれる寸前だった。そして時計を見る。
「あの、すみませんが、そろそろ帰ります。今日はありがとうございました。また、何かあったら、またよろしくお願いします」
「あ、そう…じゃあ、これ持ってって。今日食べたあれよ。余分に作っちゃったの」
「いえ、そんな…悪いですよ」
「いいからいいから」
峰倉さんは台所に入って行き、奇妙に浮いている物体が入っている透明の容器を持って出てきた。
「はい、これ。後で感想聞かせてね」
「はぁ…」
私は押し付けられた容器を返すわけにもいかず、素直に受け取るしかなかった。しかし、心の中では素直どころか、何で渡すんだよ、とかなりひねくれていた。確かにおいしいが、見た目がまずい。誰が見ても引く。絶対に雄治だって要だって深雪だって、見るだけで吐くに決まっている。ああ、この奇物の処分、どうしよう。
「じゃ、また来てね」
峰倉さんに悪気が無いのは分かっているが、こういうときにも気を使ってほしい。しかしこのままでいてもしょうがないので、とりあえず帰ることにした。もし雄治らが食べなくても、私が一人で食べよう、別に味はおいしいのであるから、と思ったのだ。
「では、おじゃましました」
「またね」
峰倉さんは小さく手を振って私を見送った。私は軽く会釈をして、開けたドアの向こうへと歩き出した。
外はひんやりとした空気が漂っており、その空気はなでるように私の頬を走った。空はかなり低く、紫色に染められていた。空のはるか彼方には、うっすらと昼の光が残っている。そして風が吹き、まるで浸透させるかのように髪の隅々までなびかせる。その時、自分の家のベランダで、何色かの色が見えた。そしてすぐにそこに何があるのかを思い出した。
「あ、洗濯物」
「ただいま」
私はすぐさま容器を玄関に置いて、階段を駆け上がり、すっかり冷えきった主寝室に入った。そしてすぐにガラス戸を開け、ベランダに入った。あまりに急いでいたので、冷たい洗濯物が顔に覆いかぶさった。
「あー、せっかく乾いたのに…」
完全に洗濯物は湿っていた。もう、どうしよう。とりあえず、すべての洗濯物を取り込み、部屋中に掛けた。
「大丈夫かなぁ」
不安になりながらも私は部屋を後にした。
玄関に置いておいた容器を持ち、居間に入った。
「おかえり。遅かったね」
深雪と要はテレビを見ていた。そして深雪はこちらを見て、私が持っている容器に気が付いた。
「なにそれ」
深雪はちょっといやな顔をした。少し白がかっているのだが、中身が見えるのであろうか。その言葉につられて要もこちらを見た。
「もしかして…また?」
要は恐怖に顔をこわばらせていた。よっぽど嫌らしい。時々峰倉さんからこういうものをもらって帰ると、二人はそろって嫌がる。やはり、確かにおいしいのだが、見た目が悪すぎる。誰も食欲を注がせない。しかしもらった限りには、食べなければならない。
「そう、もらっちゃった」
私は苦笑いをつくって、二人の共感を求めた。しかし二人は目をそらすように、テレビに目を向けた。私は重い足を台所へと運んだ。
「ごはん、できたよ」
私はできた料理を次々と食卓に並べていく。
二人は席に着き、手を合わせて言った。
「いただきます」
私も席に着き、同じ言葉を続けた。
「で、これは…何?」
深雪は箸で例の容器をさした。
「ん、これ。これは…もらったやつ」
私は誘惑を感じさせる笑みをつくってみたが、深雪と要はその奇妙な物体に釘付けになっている。私はもう食べたくなかったが、二人に食べさせるために、それを素早くつかんで口に入れた。二人は私の果敢な姿にぽかんと口を開けている。
「んん、おいしい」
「見た目がまずすぎるよ」
要はきんぴらをつつきながら、素早く突っ込んだ。その通りだと思った。私は当然言い返すことなんてできなかった。私は黙々とご飯を食べ続ける。要と深雪の食器もどんどん空になっていく。何分後のことであっただろうか。一方に減らない奇物をつついていると、深雪がそれにゆっくりと手を伸ばした。その姿を要が心配そうにじっと見つめる。もちろん私もそうだ。箸を噛みながら、がんばれ、と心の中で何回も叫ぶ。とその時、その気持ちが通じたのか、深雪がついにそれをつまんだ。そしてその奇物の汁を机上に滴らせているのに気付かないで、ゆっくりと口に運んだ。口に入れようとすると、磁石が反発するように、本人の本能で拒否している。しかし決心したのか、ついにそれを口の中に入れ、一回、二回とゆっくりと噛んだ。
「どう?」
箸を口から離しながら、つい聞いてしまった。要の目はかなり真剣だ。
「ん…おいしい…」
「…へ」
要は不思議そうに首をかしげた。まさかこんなまずそうなものがおいしいはずがない。しかし要の心は、ひょんな一言で季節の変わり目のように、一瞬にして変わった。そして要の箸は奇物をつかみ、口の中に入れた。舌触りが悪かったのか、うっ、と小さく呻いてまずそうな顔をした。が、一回、二回と噛むと、表情が一変した。
「ん、あれ…ほんとだ。なにこれ」
要は今まで味わったことのないおいしさに感動した。
そして二人はさっきとは違う、異様な空気の中で美食を味わった。
「古葉、お前は今年、どうするんだ」
加藤はタバコを口にくわえ、パイをかき混ぜながら、もごもごとした声で言った。そして加藤は袖を肩までまくり、背もたれに寄りかかって一服をした。
「今年か…今年はちょっとだぶってなあ。ほら、子供の運動会だよ。今年は例年よりも遅いんだ」
「はーん、そうなんだ。で、長さんは大丈夫ですよね」
加藤はすでにヤマを積み始めている。自分も急いでつくり始めたが、長さんは背もたれに手を垂らし、顔は天井を見ている状態で、何もしようとはしない。非常にだらしない格好であった。しかしその格好は、中年後半の刑事みたいで、結構様になっている。だが、はげかかっている頭が気になる。長さんはミイラが目覚めたような声を出しながらゆっくりと頭を起こし、手を天井に突き上げて大きなあくびをした。
「ん、なんだ。なんか用か」
まったく聞いていない長さんに、加藤は少しあきれていた。そしてその言葉に、加藤の向かい側に座っている後藤が笑った。しかしそんなことを気にせず、加藤は再び同じことを聞いた。
「ああ、大丈夫だ」
長さんはあっという間にヤマを作り、険しい顔で言った。そして袖を捲り上げ、手を台の上についた。
「今度こそ負けんぞ」
長さんは一人で気合を入れた。後藤は再び笑ったが、長さんは気にも留めなかった。
加藤はまだ人を集めたいのか、また新たに声をかけた。
「ところで、岸谷と江崎さんはどうする?」
部屋のすみのテーブルで、岸谷と江崎は座っていた。二人は自分と加藤よりも年下だが、加藤はなぜだか江崎のことをさん付けで呼んでいる。
「そうね…私は大丈夫だと思うけど…岸谷君はどうするの?」
「俺ですか。俺は…というより、何をするんですか?」
岸谷は一年目だが、江崎とは非常に仲がいい。江崎は事務の仕事で、岸谷は機械整備をしている。仕事がない時は、事務の仕事を手伝ったり、江崎の話し相手になっていたりする。しかしその仲を加藤は裂こうとしている。江崎がこの工場に入ってきてから、加藤は一目惚れをしていた。確かにスタイルも顔もいいので、こんなむさ苦しいところに入ってきたのがもったいないくらいだ。しかし芳江には敵わない。
「それはな…遠旅だ」
加藤はうれしそうに言った。しかし岸谷は厳しい指摘をする。
「で、どこに行くんですか」
その言葉に加藤は戸惑った。まさか適当にブラつくだけなんて言えない。きっと加藤には先輩としてのプライドがある。そのためにも、何かまともなことを言おうと必死に頭を駆け巡らしているだろう。その証拠に額から冷や汗が流れている。
しかし何も言えない加藤を察し、江崎は思いつく言葉を次々と言った。
「温泉よね、もちろん。連休を使って。鬼怒川か、湯西川か、どっちがいいと思う?」
「そうなんですか」
岸谷は少し怪しむように言った。加藤は江崎の言うことにぎょっとしたが、そのことを否定することはできなかった。
「あ…ああ。そうなんだ。どっちがいいかな」
加藤は苦笑いをつくった。たぶん、予算をどうしよう、と思っていることであろう。後藤も今度ばかりか、快活に笑わずに苦笑いをしている。
しかし長さんは一方に始まらない麻雀に飽きて、イスにもたれて眠っていた。多分、これで一週間に一度の麻雀大会はお開きだろう。
オレはふと時計を見た。
「もうこんな時間か」
ついに運動会、当日になった。
外は快晴でもなく晴れでもなく、生憎の曇り空であった。しかし私の体調は、朝起きてから今に至って変わらずに快調である。今日は例年と同じようにはなさそうなので、少し緊張した。もしも、と考えてしまうだけで頭がくらっとなる。やはり峰倉さんの言う通り、気持ちの問題なのであろうか。
私は今日の弁当をつくり、家事も自分のこともなにもかも済ませ、後は雨が降らないことを祈るだけだ。
雄治は先に行って場所をとっていてくれている。後は自分が行くだけだ。
「よし、行くか」
私はドアに鍵をかけて、暗く鳥肌が立つような風が吹く外へ出た。
住宅街は恐いほどひっそりとしていて、公道は誰も歩いていない。車もめったに通らず、堂々と道の真ん中を歩けそうだ。しかし車が来る時は面倒なので、あえて道の端を歩いた。
黒い雲をつかむように手を天高く突き上げ、雲を掻き分けるように手を動かした。
そんなことをしながら歩いていると、背後から峰倉さんの声がした。
私が振り向くと、峰倉さんは駆け足でやってきていた。
「古葉さん、今日は頑張ってね」
「あ、はい。ありがとうございます」
「それじゃ」
峰倉さんは微笑みながら、自分の家に帰っていった。
ほっと胸をなでおろすと、なんだか少し気持ちが落ち着いてきた。と同時に空も晴れてきた。天気予報では雨が降るかも、と言っていたのに。
道行く車や人々は、全部学校の方向に向かって行く。みんな笑顔に満ちていて、学校へ向かっている。私もなんだかわくわくしてきた。
「おーい、こっちだ」
雄治の声が左方から聞こえた。私は人と人の中を掻き分け、小走りで雄治のもとへ駆け寄った。そこは前から二番目の席で、まあまあ良いと言える。
「雨だって言ってたのにな。こんなに外れるときがあるんだな。ま、いいけど」
雄治はビデオカメラのセットをしながら、苦痛そうな声で言った。
「そうだね」
私はその場に敷いてあるビニールシートの上に座り、砂上の少年少女を見つめた。ただなんとなく見つめているのである。
今日は風が少し強く、砂が空に吸い込まれるように天高く舞っている。少年少女は頭の帽子をしっかり掴み、それに耐えている。小さく悲鳴を上げるものもいれば、風を真に受けている子もいる。あー、靴下を洗うの大変そう。
空ではかすかな楽園のように、太陽が雲の間から顔を出すと思うと、すぐに雲が覆いかぶさる。しかし、その時だけ風はやむのであった。まるで太陽の命令に逆らえないかのように。
「お、そろそろ始まるぞ」
雄治は子供のように胸を躍らせている。私もなんだかドキドキしてきた。いよいよ初めて二人の運動会を見るのである。長年の苦節、やっと叶う。
好調らしき人物が朝礼台に立って一礼。それに続いて生徒たちも先生も一斉に礼をした。
「えー、今日は…」
また始まった。大体の学校の共通することは、やはり校長の話が長くことなることである。卒業式の式辞はともかく、こんな天気の日に長々としゃべられるのは辛いし、彼らの足も気遣ってほしい。私は昔から校長の話が嫌だった。確かに一部はいいことを言うかもしれない。しかしそれまでの過程が長すぎる。
生徒たちを見てみると、やはりあくびをしているものがいる。私もそれにうつされたかのようにあくびをした。
あーあ、いつになったら始まるのかな。
「要、カッコよかったよ」
要はおにぎりを食べながら照れくさそうに笑った。
「深雪も惜しかったけど、頑張ったね」
「来年こそ、頑張る」
深雪はミートボールを箸でつまみ、口の中に投げるように入れた。
「で、午後のプログラムは何?」
「四つだけ。学年対抗リレーとムカデとダンスと…」
深雪は困ったような顔をしながら必死に思い出している。そういえば口の中のミートボールはどこへ行ったのだろうか。
「保護者のやつ」
要が横からもごもごとした声で口を出した。深雪もそうそれと満足そうに言った。
私は冗談じゃないと思って雄治を見た。目を合わし、そのことを察したのか、雄治はすぐに応答した。
「大丈夫だよ。俺だけだから。心配するな」
雄治は安心させるかのような笑みでこちらを見た。
「お父さんが出るの?」
深雪は不審そうな顔で見た。次に私を見た。
「私じゃ、当然無理よ」
「よーい、ドン」
先生の声とともに号砲がグラウンド中に鳴り響いた。
そして五組の父子がきれいに五列に並んで走り出した。父子は二人三脚で息を合わせてゴールに向かって走る。身長差や本当に凸凹な父子が走る姿は、見る人にとっては滑稽な姿に見える。砂煙が水しぶきのように立ち、波のごとく、ゴールに押し寄せた。速い父子と遅い父子との差は大きく、二十秒差の時もあった。しかしはじめにゴールした父子より、遅い父子のほうが、最後まであきらめない姿が輝いて見える。最後までやり遂げることは、どんなに気持ちがいいことだろうか。
私は後ろに両手を地面につけながら、朝とは見違えるほど晴れた、青空を見上げた。空に浮かぶ雲が、青く塗ったカンバスに白いインクを垂らしたように、くっきりはっきりとしている。雲はなぜ白いのであろうか。空はなぜ青いのであろうか。
そろそろ二人が走るころかな、と思い、グランドのほうを見た。そして突然、号砲が鳴った。私は急いで雄治と要の姿を探した。トップのほうから順に探していく。トップでもなく、二位でもなく、三位でもない。しかし四位にいた。
そして私は急いでビデオカメラを起動させようとした。あれ、どうやるんだっけ。使い方なんてすっかり忘れてしまった。なにせ三年ぶりだ。焦りすぎて、ビデオカメラがスタンドから落ちそうになった。観客の声がグランドを飛び交う。しかし私は何も言えない。今、どんな状況かを確かめるべく、走者を見た。なんと、トップはすでにゴールし、二位があと少しのところにいる。雄治らは五位に転落。その時、ビデオカメラの液晶に、二人の姿が映った。
雄治と要は一生懸命に息を合わせようとしている。なんだかここまでその息が合わせようとするのが伝わってくる。二人は調子よく走って四位を抜き、三位を抜きそうになったが、気持ちが焦ったのか、互いの足が絡み合って転倒した。その時、私はつい大きな声で応援をした。この歓声の中、彼らに伝わるか分からないが、彼らの力になればと必死に叫んだ。五位に抜かれ、六位がすぐそこまで来ていた。そしてそのまま抜かれ、二人はついにビリになった。しかし二人はあきらめずに、再び息をそろえて走り出した。三位までゴールをしたが、四位と五位はまだゴールから離れている。二人のペースは徐々に上がっていき、あっという間に五位を抜かした。そして四位を追う。
その時、度のずれたメガネをかけているように、目の前がぼやけて見えた。そして後から気付いたのだが、私の目からは、意識もしていないのに、涙がぽろぽろと溢れ出してきていた。なぜだろうか。砂煙は立っていたが、目は痛くない。あくびをしたわけでもない。体に突然、激痛が走ったわけでもない。何か辛いことを思い出したわけでもない。涙腺が、特別に人より、ゆるいわけでもない。しかし、私の目から溢れ出してくる涙は、滝のようにとどまることを知らなかった。いくら涙を拭いても、次々と山水のように湧き出てくるので、ハンカチは汗を拭いたようになっている。
しかし一瞬だけ、目の前の光景がはっきりとした。二人は着実に四位に近づき、共にゴールに近づいていた。あと少しで追い抜ける。私は液晶から目を離し、生の二人の姿を見た。液晶を通してなんて、もったいなかったからだ。
涙はすでに止まっていたが、自分では気付かなかった。ただ、よく見えるというのが、継続しているだけであった。しかし、見えるというだけではなく、私の目には、もっと違った見え方で二人が見えた。突然、心が動いていたかのように。
その時、私が見えていた彼らが何か、初めて分かった。他にも、なぜ私の目から涙が流れたのか。私にしか見えない、彼らの姿が。
ただ彼らを見ているだけで、考えることもなく、突然、誰かが頭の中でささやいたかのように、急に思いつき、理解した。彼ら自身を、私自身を。
そして二人はゴールを駆け抜けた。結果は、最後の最後まで抜かせず、不本意の四位。しかし、私の中では何かが変わった。根拠はない。だが、私はその変化を、この手でしっかりつかんだような気がした。
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