第十九章 声
「・・・は生類哀れみの令をしきましたが、この令は思いもよらないほど民衆に波紋を広げたわけです。」
席に着いて頬杖をついたまま、小雪はノートをとるわけでもなく教卓の傍で教科書を片手に話す長い髪に軽くウェーブを掛けた、昔は美人であっただろうと思われるような顔立ちの中年の女教師の姿をただじっと眺めていた。
綱紀の家に行った日からもう一週間以上が経過している。
彼は教育実習に戻り、いつものように授業を田村引率の元行っているようだ。
本当にあの日から小雪は彼に一度も会って居なかった。
元々、彼は音楽室以外の居ることの方が少ないようであったし、音楽室のある1階は保健室や家庭科室などの特別教室しかないので用がなければその付近に行くこともない。おまけに彼女は音楽の授業を取っていないのだから、実質彼女は彼の前から「消える」という行動は成立していた。
しかも彼には謹慎処分という罰が与えられたというのに、自分には何の咎めもなかった。
・・・綱紀は完全否定したかららしいが、その噂を利用して小雪をもっと不利な立場に追い詰めることも出来たはずなのに、敢えて彼はそれをしなかった・・・そのことに気づき、小雪は何だか泣きたい気持ちになった。
・・・彼が本当は優しい人間であることを知っている。そしてそんな彼を追い詰めた自分は、ひどい人間以外でも何者でもない。彼の大切な人を奪ったことは、彼の何かを変えてしまったのかもしれなかった。
また小雪は駿との思い出が詰まったあの公園にもあの日以来顔を出していなかった。
綱紀の前から消えるということは、駿に関連する事柄からも離れるということだ。
けじめをつけるために、小雪はあの名前も分からない公園に足を踏み入れないことに決めた。
急に来なくなったら勝司が心配するかもしれないとも思ったのだが、彼に会うと決心が鈍りそうだから、申し訳なく思いつつも彼には何も言わずに通うことをやめた。
・・・前にも書いたが、勝司は本当に駿によく似ているのだ。
授業終了のチャイムが鳴る。
「・・・それでは今日の授業はこれで終わりです。次は享保の改革から入るので予習を忘れないように。」
と、女教師は抑揚の無い声でそう言うと、荷物をまとめてさっさと教室を後にした。
彼女の授業は分かりにくいわけでは決して無いが、いまいち受けることに対する意欲が小雪には沸かなかった。
それは教える側である彼女にやる気が感じられないせいもあるのかもしれない。彼女は授業中全く笑わない。ただ教科書に書いてあることを淡々と読み足りないところを足していく。そんな感じだ。
きっと彼女は授業をしていても楽しくないだろう・・・聞いている生徒が楽しくないのにどうやって教える側が楽しめるというのか。
最初はあったかもしれない情熱は、いつの間にかどこかに消えてしまったのかもしれない。
最近の子どもは生意気だからなぁ・・・と他人事のように思いながら小雪は立ち上がって、廊下の一番端に位置するトイレへと向った。
小雪たちのクラス2-3は6クラスある中のちょうど真ん中に位置する。トイレから遠いわけでもないが近いわけでもないという可もなく、不可も無い場所である。
休み時間であるため、廊下に何人かの生徒がそれぞれ固まって何事か話している。
そんな中をすり抜け、小雪はトイレにたどり着き、中に入る。
トイレの中には小雪以外誰も居ないようで、スリッパを置くために敷かれているすのこの上には何もおかれていない状態だった。
それを確認し、安堵すると、小雪は3つある個室のうち一番奥の個室を選び、中に入った。
用を足し、服を治して外へ出ようとしたとき・・・小雪は確かにトイレの中に入ってくる人の足音を聞いた。それはせわしなく、落ち着きの無い走り方・・・何処かで聞いたことのある走り方だった。
まずい・・・そう思いトイレの扉に手を掛けるが、案の定・・・・開かない。
そして、それを確認している間に・・・小雪の頭上から大量の水が勢いよく降り注いだ。
一瞬で体全体がびしょ濡れになる。上を見上げるが、もうそこには水を掛けた人間は見当たらず、くすくすと囁きあうような笑い声とともに数名の人間が去っていく足音がした。
「また・・・やられちゃった。」
苦笑を漏らしながら、小雪は誰にともなく呟いた。
実は小雪がこのような目に合うのは今回で二度目だ。
一度目は3日前の昼休み。
ここと同じ二階のトイレに訪れたとき、同様のことをされた。
最初何が起こったか分からなかった小雪だったが、冷静になったとき、これはわざと他人からされたことだということを理解することが出来た。
・・・物を隠されるよりも、もっと手口が大胆かつ巧妙化してきたようである。
そのときはそのまま昼休みが終わるのを待ち、授業が始まってからトイレットペーパーを置くために壁に付けられた片足が乗る程度の棚を足場にして何とか壁をよじ登ると、ある程度は絞ったとはいえ水が滴る制服を引きずるように歩き保健室へ向った。保健の先生は保健室に入ってきた小雪の姿を見ていぶかしんだが、ちょうど雨の日だったので、「雨が降らないだろうと思って、遅刻もしていたし急いできたらずぶ濡れになってしまった」という言い訳で何とか彼女を納得させ、保健室に常備されている体操服を貸してもらって授業を受けた。
その日は相当周囲の友達から心配され、皆彼女が制服でないことを聞いてきたが、さすがに友達には保健の先生に言った言い訳を通すわけにも行かず、曖昧に笑ってごまかしておいた・・・もちろん澪にはそんなことが通用するわけも無く起こったことを報告させられたが。
小雪はスカートから携帯を取り出す。幸いそれほど濡れていなかった。そのことに安堵し、メールを一件送信する。
・・・澪はその時これは一度ではすまないだろうと言った。だから次このようなことがあったときのためにと、小雪の着替えを用意してロッカーに置いてくれているのだ。彼女の姉もこの学校の卒業生だったためである。
制服を持ってきてくれるようにメールして、1分もしないうちに澪から返信がきた。
トイレの場所とどの位置に入っているかを聞かれ、それを返すとすぐに行くと一言だけ書かれているメールが送られてきた。
個室により作り出された閉鎖空間は、時に落ち着きを与え、時に恐怖を植えつける。昼休みとはいえトイレに近づく人はそう居ないので、今の自分の状態を感づかれずに住んでいるが、それでも不安を拭いきれなかった。
腕を組んで体を縮込ませる。この時期に体が濡れると、体感温度が普段よりぐっと低くなる。寒い・・・そして、情けない。
この嫌がらせに、恐怖を感じるようになったのはいつ頃からだろう。
最初物がなくなるようになってしばらくは、いつかは収まるだろうという安易な考えしか持って居なかった。しかしその手口はエスカレートし、今では昼ドラや学園ドラマにありそうな陰湿だがそれで居て過激ないじめにまで発展してきている。
姿が見えないだけにそれは恐ろしかった。おそらく足音からして複数の反抗だろう。一人だけではないということが更にその恐怖を増幅させた。自分をうっとうしいと思っている人間が多数居ると思えば良い気分はしない。むしろ、人間不信に陥ってしまいそうだった。
綱紀のことは身から出た錆・・・仕方が無いと思っている。だからこそこのいじめも彼が予測していたかどうかは分からないが、その結果だと素直に受け入れることが出来た。
しかし、恋は脅威だと思う。恋は女性を美しく、あるいは可愛らしく変貌させるが、時に嫉妬に駆られて恐ろしく、狡猾な「女」という生き物にしてしまうことがある。
きっと綱紀を好きであるあまり、「見えない彼女達」は「女」へと進化してしまったのだろう。彼を好きになる気持ちが分からないわけではない。ならばそれも仕方が無いことなのかもしれない。全ては人一人の命を奪った自分の代償なのだろう。
そう頭では分かっているが、どうしようもなく心細く、また恐怖に怯えていた。
本当に情けない・・・こんな自分は嫌いだけれども、これがまた自分なのだということを知っている。だから変えることなんて出来るはずもなくて。
でも、唯一心を穏やかにしてくれるものがある・・・それは・・・。
小雪が入っている個室のドアをノックする音がトイレ内に響く。
警戒心を抱いて黙っていると、
「小雪、私だよ。・・・怖かったでしょ。もう大丈夫だから、出ておいで。」
という澪の穏やかな、それでいて諭すような声が聞こえてきた。
それは・・・自分の事を大切に思ってくれる人たちの、声だった。
「大丈夫?この前の事が起こってからトイレ行く時はいつも私を誘ってって言ってるのに・・・小雪には自覚が足りないんだよ。誰が犯人か分からないけど、いつも小雪が独りになるのを見計らっているのは確かなんだからね。」
じゃなきゃこんなにタイミングよく小雪に何かあるわけ無いじゃない、と濡れた小雪の制服をあらかじめ用意していたビニール生地の袋に入れながら澪が言う。
人目もあるため、昼休みが終盤に差し掛かったところを見計らって外に出た小雪たちは、今、一階の保健室の隣にある女性用更衣室に居た。
更衣室は適度に広く、ロッカーが両脇に何台も置かれているというのに一気に10人以上が着替えられる広さは十分にとられていた。
小雪は澪に用意してもらった制服に着替えた。
「ごめん・・・これ以上澪に迷惑掛けたくないって思って。それに・・・もう同じことはしてこないかと思って。」
あははと、小雪が乾いたように笑うと、澪は深くため息をつく。
「余計な気を回さなくて良いの。というか・・・一人で行動するほうが私の迷惑になるって肝に銘じておいて!!・・・あんたになんかあったらその方が私には辛いし、悲しいんだからね。」
しかめ面でそう言う澪の言葉が、小雪は胸にじんわりと染み渡って細部にいきわたるのを感じる。彼女の言葉は、小雪に元気をくれる。自分は一人じゃない・・・嫌がらせを受けたあとでもそう感じることが出来る。
嫌がらせを受けていることを知っているのは澪だけだった。ほかの友達や、弥生、綱紀・・・もちろん風だって知らない。(風に知らせて夜月にでも知れたら大事になりかねなかったため、相談しようにも出来なかった。)だから、澪の存在は唯一自分の辛さを分かってくれる存在であった。
本当に澪には申し訳ないことをしていると思っている。
誤解を受けるようなことをしたのは自分なのにこうして心配してくれて、なおかつ小雪のことを助けてくれる。彼女には恩義を感じることばかりだ。力不足の自分の代わりに行動力と頭の働きで補ってくれている。本当に、感謝してもしきれない。
これ以上自分の傍に居たら、彼女にも災難が降りかかるかもしれない。
それなら・・・自分から遠ざけた方が良いかもしれなかった。
そんなことを考えていた小雪は、頬に感じた痛みによって無理やり現実に引き戻された。
・・・澪が小雪の両頬をつねっていたのである。
「また、ろくでもないことを考えていたでしょ?私は、あんたと一緒に居ることを一度だって後悔したこと無いんだからね。これからも後悔するつもりはないから。だから、綱紀先生の時にしたみたいに、今度は私から遠ざかったら私友達やめるからね!!」
「だって・・・私と居ると、もっと迷惑かかるかもしれないよ。澪にまで危害を加えられたら、私さすがに辛くて耐えられない。・・・だったら・・・。」
鋭く睨みつける澪に、最後の言葉尻が小さく聞き取れないものになってしまったが、澪には聞き取れていたらしい。つねる力をいっそう強くした。
「だったら・・・何?私はあんたが嫌がらせを受けているのに自分の保身のためにあんたを見限ったりしないわよ。」
そこまで言うと、澪は小雪の頬から手を離した。そして今度は幾分やわらかい表情で小雪を見つめた。
「それにしても・・・小雪初めて辛いことをちゃんと言ってくれたわね。」
「えっ?」
澪の言っている意味が汲み取れない。
それに気づいたのか、澪は苦笑しながら言葉を続ける。
「あんた何も私に言ってくれなかったじゃない。何が起こったかってことじゃないわよ?・・・今の気持ちのこと。意地悪されるのも辛いなら辛いって言えば良いのに、大丈夫だって強がっちゃって。綱紀先生のこともそう。本当は駿君のためにピアノ弾くのだって公園に行くのだってやめたくないし、綱紀先生にだって自分の気持ちを分かってほしいのに、忘れてくださいって言ったことがどれだけ悔しかったかくらい見てれば分かるわよ。途中で投げ出すことは、小雪が一番嫌いなことだもんね。なのになんでその悲しい気持ちを言ってくれないのかなぁ・・・ってちょっと思ってた。あんたが私に心配かけたくないって気持ちは知っているけど、でもやっぱり知りたいじゃない、友達なんだから。私はあんたと形だけの友達になるつもりはないの。友達はそういうものだって私はずっと思ってた。でも、今は違う・・・友達は形だけじゃ駄目なんだって。・・・小雪がそれを教えてくれたんだからね。」
小雪は、私と形だけの友達になるつもりなの・・・?その質問に、小雪はしっかりと横に首を振って否定した。
そしてそのまま澪に抱きつくと、彼女の胸に顔をうずめて、溢れる涙が抑えきれず泣いた。
「・・・本当は・・・本当は、怖くて・・・誰に次は何をされるかも分からないの・・・本当に怖くて・・・でもそれを・・・誰にも言えなくて・・・。」
次は何をされるんだろう・・・どんな人たちに恨まれているんだろう・・・そんなことを想像するだけで怖かった。今よりももっとひどい目に合わされたらどうしよう。澪にまで危険が迫ったら?そんなことばかり考えていたら体が自然と震えてくる。足がすくんで学校に来るのが怖くなる。・・・それでも、皆が心配するのが分かっているから来ないわけにはいかなくて。いじめている人にも、その行為にも負けたくなくて。
「綱紀・・・先生のことだって、・・・何も出来なくて・・・駿の・・・お兄さんを未だに悲しめているのに・・・その悲しみを癒すことは私自身には出来ないって・・・分かっているけど何かしたかったの。大好きな駿の・・・大切なお兄さんだったから。でも・・・結局彼を困らせることしか出来なくて・・・それどころか私の存在は邪魔で・・・どうしたら良いのか分からなくて。」
綱紀のところに行った日から、実はずっとしっかり寝付けていない。
泣きながら帰ったあの日から何度も考える。自分がしたことが果たして正しかったのかと。
何の罪滅ぼしも出来ない。したところで自己満足だとは分かっているけれど、それでも彼のために何かしてあげたかった。唯一彼のために出来たことが彼の前から消えることだけだなんて・・・そんなむなしいことってない。それでも、自分にはそれしか思いつかなかった。それが悔しくて仕方が無い。
そんな感情をずっと誰にも言わずにぐっとこらえていた。あふれ出しそうな気持ちを抑えていた。それが一番良いことだと思っていたから。こんなことを話しても負担を掛けることになると思っていたから。
でももう限界だった。
一度溢れた思いは関を切ったように止まらない涙とともに、流れ、止まることを知らない。
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