自暴自棄とパンツの話
夜。
満月の下、私は精神統一を計っていた。瞼を下ろし、体中から息を吐き出す。
潰れる限界まで胃に酒を流し込んだ私の体は、成人した人間が持つべき機能の殆が休息を取っているらしい。有り体に言えばちっとも頭が回らない。
火照った頬に夜風が心地よい。ついでに、素足にも。
歩幅の狭い小刻みな足音が、暗い路地に響いてくる。
私は目を開けてコートの襟に手を掛けた。もうすぐ三十にもなる男が何をしているのだと、一歩後ろから理性が冷たい視線を送っている。そんな目をするなら、今すぐ私の所へ帰ってこい。
こちらへ向かって歩いてくるのは、狙い通りの若い女性だった。すれ違い際に、実にさり気なく、私はロングコートの前をさっと開いた。
女性の前に私の裸体が晒される。ああ、人として終わる瞬間とは、こんなものなのか。案外あっけない。悲鳴すら聞こえないとは、いや聞こえても困るのだが。
そのまま通り過ぎると思われた女性の足が、ぴたりと止まる。再びコートで前を隠した私の腕が、掴まれてしまった。ああ違った、終わるのは人生のようだ。
通報待ったなしのこの状況でも、私の脳は未だにアルコールに溺れている。
女性は私の目の前に回り込み、神妙な顔で一つ頷いた。
「少し待っていて下さい」
それだけ言い残し、彼女はひらりとワンピースを翻してどこかへ走り去ってしまった。
何故かはわからないが、助かったようだ。呆気にとられていた私は、はっとして歩き出した。少しずつ駆け足になる。とにかくどこかへ逃げ込んで、着替えよう。
私は辿り着いた細い路地裏で、荷物を開けた。まずはパンツを履こう。それからズボンも。
「――はい、お待たせしました」
しゃがみ込む私の背中に高い声が降ってくる。恐る恐る顧みると、先程の女性がパンツを手に立っていた。口元には微笑みさえ浮かべている。
「実に有難いが、間に合ってる」
「パンツが欲しかったのではないのですか」
私の丁重な断り文句に、彼女は唇を尖らせた。それを尻目に、私は黙々と着替えを済ませた。
男物のパンツをひらひらさせ、彼女は嘆息した。
「せっかくそこのお宅から拝借してきたのに」
「……泥棒じゃないか」
「どろぼう?」
「返してきた方がいい」
私が言うと、彼女は意外なまでにあっさりと頷いた。その姿が闇に消えていくのを見送って、私はまた歩き出す。
とんでもない目に遭わせるつもりが、とんでもない目に遭った。やはり人道とは、踏み外してはならないのだ。
教訓を胸に握りしめ、足を進めてゆく。とうに電車は無い時間だが、歩き続ければ朝までにはアパートへ帰れるだろう。
ふと、聞き覚えのある小刻みな足音が後ろから追ってくるのがわかった。私は反射的に走り出した。
「足、速いな、君」
久々の全力疾走は胃の中の酒を暴れさせ、吐き気と目眩を巻き起こした。
死にかけの私を見て、息すら乱れていない彼女はケラケラ笑っていた。
いつの間にか公園に入り込んでいた。私は目に付いた石のベンチに倒れ込む。満月がぶれて三つに見えた。
「帰った方がいいんじゃないか」
「もう少し、時間があるので」
「……こんな時間にこんな所で君のような子と一緒に居ると、違う罪状で通報されてしまう」
「大変ですね」
心底同情した、と言わんばかりの彼女の表情に、私は頭痛まで覚えた。
「わかった、自首する。許してくれ」
「じしゅ?」
「ああ。私が悪かった。自暴自棄になっていたんだ。気の迷いだった」
「自暴自棄になるとパンツを脱ぐのですか」
「そういう人もいる」
なるほど、と納得して彼女は横のベンチに腰を下ろした。学生だろうか。こんな夜更けに露出狂を追いかけ回すとは彼女も中々酔狂なものだ。
「どうして自暴自棄に?」
「ろくでもない人生だったんだ。会社が倒産して失業。見ての通り彼女もいない。気力も底をつきかけた時に、追い打ちをかけるようにウサ男が死んだ」
思い返すと、目の奥が熱くなった。
ウサ男を買った日も、今日のようにしこたま酒を飲んだ夜だった。閉店間際のペットショップの隅っこで、ウサ男は私を睨みつけた。すっかり成長してしまい値下げを繰り返された安い雑種のウサ男は、まるで自分を見ているようだった。
気が付くと家へ連れて帰っていた。目が覚めるとワンルームの柱はあちこち囓られ、脱ぎっぱなしだった服のあちこちにオシッコが掛けられていた。私達はその日から、毎日のように喧嘩をしながら暮らした。
「あいつは最初から病気だったんだ。病気なのにずっとそのまま売られていて、覚悟しろって医者に言われて、でも私と一緒に半年も生きたんだ」
しかしウサ男は、私と退去費用の値上がりを残して、死んでしまった。固くなった小さな体は、撫でても撫でても動かなかった。高い体温も、クサいオシッコも、私の足に噛み付いてきた時の痛みも、もう思い出になってしまった。
「ひどいペットショップですね」
「私も、ひどい飼い主だったのかもしれないがな」
「でも、意外と覚えてないものですよ」
彼女の台詞に私は眉根を寄せた。月の光を遮って、彼女は私の顔を覗き込む。
「ペットショップで過ごした時間より、もっと覚えていたい事があるじゃないですか」
私は体を起こして、彼女を見つめた。
「君、」
「ああ、そろそろ時間です」
彼女は立ち上がって、柔和に笑った。
「どこへ行くんだ」
「月に、帰るんですよ」
「君の出身は竹か」
「なんですか、それ」
不思議そうにしながら、彼女はとん、と地面を蹴った。その小柄な体躯が宙に浮く。
目を瞠る私に、彼女はカチカチと歯を噛み鳴らした。
「貴方の人生がろくでもないのは、貴方がろくでもない人間だからですよ」
「図星をつくのはよせ」
「これからは、一人でちゃんとパンツ履いて下さいね」
空気を蹴って夜空へ上ってゆく彼女を眺めながら、私の脳裏にはウサ男と過ごした日々が駆け巡っていた。
ウサ男は私がそこら中に放置している洗濯物で遊ぶのが好きだった。何度叱ってもすぐ衣服に穴を開けるのだ。そして遊んだ洗濯物を、私の所へ咥えて運んでくる。風呂上がりでも寝起きでも、帰宅した時でも、ウサ男がお構いなしに持ってくるのはパンツだった。小さなウサ男でも運べる、いい重さだったのだろう。
殆ど見えなくなった彼女の姿が、ウサギの形に見えた。
「ウサ子にしてあげればよかったな」
私は長い間月を眺め続けて、それからふらふらと歩き出した。歩く私の背中をずっと、月が押してくれている気がした。
露出狂だめぜったい