桜花繚乱
初投稿です。
ジャンルは一応ファンタジーとなっていますが、恋愛かなとも思います。自分ではあまり意識していないので。
序章
春は嫌いだ。――怖くて、悲しくて、泣きそうになるから。
花は嫌いだ。――特に桜の花びらは。まるで泣けと強要されているようだから。
だから私は、桜の花が咲く頃が嫌いだ。
人々が花見だ、宴会だと浮かれているのを、私はいつも冷えた瞳で見ていた。
楽しむフリならできる。酔ったマネも。
でも、心の底から楽しむ事なんて出来ない。
こんなことはきっと私だけだろう。それはよく分かっている。そしてその理由も……。
第一章 花の宴
私の桜に関する最初の記憶は五歳くらいのものだ。
広い敷地にたくさんの桜の木が植わっている。場所はハッキリとはしないが、どこかの公園だろう。
振るように散る桜の花。微かな風に、競うようにして花びらを落とす。
多分家族で花見に来たのだろう。けれど、その記憶の中では私の周りには家族の姿がない。きっと家族から離れて一人桜を見て回っていたのだろうと思う。
そしてそれを見たのだ。
大きな、当時の私が三人くらいで腕を広げなければ周囲を囲めないほど大きな幹の樹の陰で、私は竦んだように立っていた。目の前の光景に魅入られて。
それは不思議な不思議な場面だった。
自分のいるのと同じ程大きな桜の樹の下でくりひろげられている宴。
三人の女性と四人の男性。
彼らは皆、お雛様のような衣装を身につけていた。
女性はお姫様のように長い髪と幾重にも重ねた着物を着ていた。
男性は頭に黒い帽子のようなものを被り、神主のようなひらひらとした裾の物を着て、足首のところがふくらんだ袴のようなものをはいていた。
それらが十二単衣と衣冠と呼ばれるものだと知ったのはずっと後になってからだった。
女性達は右手に薄緑の扇を持ち、緩やかに舞っていた。男性達は片肘で体を支えるようにして横になって、それを眺めていた。彼等の前には白い花瓶のようなものが二・三本置かれていた。
花吹雪の中、まるで夢のような光景だった。
舞っていた女性の一人が、不意に動きを止めて、引かれたように私の方を見た。他の人達もつられるように視線を向けた。
私の視線と彼らの視線が、重なるようにぶつかった。
その途端――!
穏やかな春のような笑みを浮かべていた彼らの表情が一変した。
仮面を貼りつけたように表情が消えた。目尻がつり上がり、ゆっくりと唇の端が持ち上がり、凄みのある笑みへと変わる。
変化に気づいた私が身じろぎした刹那、瞳が赤く光り、唇が薄く開いた。その中に見えたものは、尖った歯と先の割れた細い舌。そして立ち上がった彼らの着物の裾からのぞくのは、虹色の蛇の胴体だった。
地面に降り積もっていた花びらを巻き上げ、彼らは体をうねらせて私に迫ってきた。
私は――身動きできなかった。
彼らの変化を目の当たりにして、金縛りにあったように動くことができなかった。ただ、小刻みに体を震わせて、迫ってくる彼らを凝視していた。
耳まで裂けた口をいっぱいに開いて彼らが迫ってくる。口の端から唾液が糸を引いて後ろへ流れて行く。暗い闇のような口腔が眼前に迫った。
ザァ…………ッ!
音を立てて目の前を白い塊が通り過ぎた。
一瞬奪われた視界が元に戻ると、そこには降りしきる桜の花以外に何もなかった。
微かな風に花びらが波のように揺れる。聞こえないほどの音を立てて、花びらが降り注いでいた。
「…………ぁ…………」
掠れた声が自分の口から出たものだと気づいた途端、恐怖が襲ってきた。
さっきの彼らが何者なのかは分からないが、とても怖いものだということが分かった。
「……おかあさん……」
唇から零れた呟きが金縛りを解いた。
くるり、と踵を返すと私は駆け出した。
どっちへ向かったのか、どのくらい駆けたのか分からなかったが、桜の木の下に引いたシートの上でお弁当を広げている両親を見た途端、どっと溢れ出した涙と泣き声に自分で安堵した。
良かった、私はまだ生きているのだ――そう思った。
そこにいたのは私の両親だけではなかった。叔父叔母を含む数人。見知った顔も見知らぬ顔もあった。
泣きながら駆けてきた私にそこにいた人々は一様に驚いたようだった。
私は泣きじゃくりながら、今あった出来事を話した。私を宥めていた大人達は、確かめにいった人の報告を聞くと、夢だったのではないかと笑い合った。
笑われた事でむきになった私は、恐る恐る覚えのあった場所へ行った。しかし、何事もなく降りしきる花びらが地面を覆い尽くすように積もり、そこに他者の存在を否定していた。私は、桜の樹の下で夢を見たのかもしれないと、自分を納得させざるを得なかった。
それでもあの時の恐怖は確かなものとして、ずっとずっと尾を引いて私の中に残っていた。
春――私は桜の花の咲く頃が、桜の花自体が、怖くて怖くて仕方がなくなっていた。
第二章 桜樹
春が嫌いになって、桜の花が怖くなって、何年かが過ぎ、私は高校生になり――そして、私は『彼』に逢った。
その日、私は塞ぎ込んでいた。憂鬱な季節が間近に迫っていたからだ。
いつも通る通学路は、道の両脇に延々と桜の樹が植えられていた。ほんのりとピンクに染まった枝先を眺め、私は盛大なため息をついた。
「結構気にいってたんだけどね、ここ」
私は目に沁みるような新緑を思い出しながら呟いた。
「ここを通ることができるのも後一週間……それとももっと早い、かな? どっちにしても、花が咲いたら通れないわね」
誰もいないと思って、少々大きな声で独り言を言った時、くすくすと笑う声が聞こえた。
慌てて忍び笑いの出所を捜してあたりを見回した私の目に、二・三本先の桜の陰に凭れている人が映った。うつむきがちの顔はよく見えなかったが、腕を組んでいるその人の肩が震えているところを見ると、その人が笑い声の発信源だろう。
独り言を聞かれた気恥ずかしさと、馬鹿にされそうなその内容を素直に笑われて、私は理不尽にもその人に怒りを感じた。
ムッとしながら、それでも感情を表さないように知らん顔をしてその人の横を通り抜けようとした。
「花が咲いたらどうして通れないの? 女の子ってのは、花が好きなものだろう?」
笑いを含んだ声を無躾にかけられ、思わず立ち止まった。言外に『変人』と言われた。カチンときた。
そりゃ私の桜嫌いは知人の間では有名で、変人扱いされている。けれど見ず知らずの他人に、しかも独り言の揚げ足を取られるのは気に入らない。
「あなたには関係ないでしょ……っ」
元来私は気が強い。その人の方を向いて、正面から睨んで、ぴしゃりと言う……つもりだった。しかし、その人物の顔を見た途端、言葉は力なく口の中で消えていった。
男性……だろうと思う
黒のセーター、黒のスリムジーンズ。色白で綺麗な肌、サラサラと風を受ける肩まである黒髪、黒目がちの大きな瞳は宿す光の強さが弱々しさを感じさせない。『人形のような』という形容がこれほどぴったり合う人はいないほど整った顔立ち。スレンダーな身体も、華奢というより若枝を思わせるしなやかを持っている。
ぽかんと見つめる私に、彼はにやりと笑みを返した。
「確かに関係はないけどね……っ、と」
弾みをつけると寄りかかっていた桜の樹から身体を起こした。
「ちょっと興味を持った……っていうのはダメかな?」
言いながら私の方へ向き直った。
私達は一歩の距離向き合うことになった。
彼は私より頭一つ分高かった。見下ろされると妙な圧迫感がある。私は思わず足を引いた。
「どうして花が咲くと通れなくなるのか、教えてくれない?」
私が後退した分、彼が足を踏み出した。
「見ず知らずの人に理由を言う義務はありません」
「見ず知らず、ね」
彼の歩幅分だけ退いた私を追いかけるように、彼が進んでくる。
「そうでしょう? お互いに名前も知らな――」
「桜樹」
「……はぁ?」
私の言葉を遮るように彼が言い放った。思考の切り替えがついていかない私が、呆けた顔で見つめていると、彼はもう一度名乗った。
「桜樹。僕の名前だよ」
「おーじゅ?」
「そう、桜の樹と書く。君は?」
「え? ……あ、麻奈」
つられるように名乗ってから、慌てて口を押さえた。どうして初対面の人に名前を名乗らなくちゃいけないのか! 私は口を押さえたまま、上目遣いに彼を睨んだ。
そんな私の抗議を、彼――桜樹は鼻先で嗤った。
「お互いに名乗ったんだから、これで見ず知らずじゃないだろ? 教えてよ」
「――!」
図々しいにも程がある――!
怒りが爆発しそうだった。
私はそれを寸でのところで、何とか呑み込むことに成功した。
無視だ。こういう手合いは無視するに限る!
私は彼から視線を外すと、顎をツンと反らした。あからさまな拒否の態度にムッとした桜樹の顔が視界の隅に映ったが、そのまま気にせずに通り過ぎようとした。
「!」
いきなり腕を捕まれ、ぐいっと引かれた。
バランスを崩した私はあっと思う間もなく、桜樹に抱き締められてしまった。
彼の腕の中は不思議な感覚がした。
桜樹からは人間の持つ生活臭のようなものが感じられなかった。汗の匂いや体臭の代わりに、どこかで嗅いだことのある微かに湿り気を帯びた青くさい匂いがした。
「なっ……!」
誰かに見られたらからかいの種にされてしまう……腕を振り払おうとしたが、もがくことさえ出来なかった。細いわりに力が強い。
「なに……するのっ!」
焦って叫ぶ私を、更に自分の方へ押しつけるようにしながら、
「シカトするからじゃないか」
「離してよっ! 大声出すわよっ!」
「出してみれば? 出しても誰も来ないと思うよ、辺りに人影はないから。それでも出すって言うんなら、その口を塞ぐこともできるけど?」
じたばたともがいていた私は、最後の一言に動きを止めた。
「……ふ、塞ぐ……?」
恐る恐る顔を上げると、にんまり笑った桜樹の顔があった。
「そ。こんな風に――」
いいながら整った顔が近づいてきた。
カチン、と身体が硬直した。ま、まさか……!
目を見開いている私のほんの数センチ手前で彼は顔を止めると、くっと笑った。
「静かにしていれば何もしないよ」
――一気に力が抜けた。
抱き締められていなければ、おそらくその場にヘタリ込んでいただろう。
「で、花が咲いたらここを通らない理由を教えてよ」
私の顔を覗き込むようにしながら、彼は三度訊いてきた。私は細く息を吐き出し、目を閉じて、力なく呟いた。
「……あなたには関係ないじゃない」
私のことをよく知っている人達でさえ、この話をすると困った顔をする。知らない人だと必ず汚物でも見るような目をする。そのせいでいじめにあったことさえある。私のいろんな意味でのトラウマだ。
夢だと思えばいい――今まで何度そう思ったことか。でも夢にしてしまうには、余りにもインパクトが強過ぎた。夢だと思う度に生々しく思い返してしまい、逆に夢ではなかったと再認識してしまう。もう既に忘れられなくなっている。
「関係ないなら言ってもいいじゃない。別に吹聴したりしないよ?」
桜樹の声は優しかった。春風のように耳に心地いいし、背中に回された手も、心を軽く支えてくれるようだった。
ずいぶんと迷ってから、一言だけ答えた。
「桜の花が嫌いなの」
「どうして?」
「どうしてでもいいじゃない! 理由は言ったでしょ、離してっ!」
私は桜樹の腕を剥そうともがいた。
彼の腕の中は不思議な感覚がした。
徐々に時間が退行して行くようで、私の昔の記憶がどんどん鮮明になってくる。恐怖がじわりと触手を動かす気配がする。
ここは危険だ――私の中で何かが叫ぶ。
「どうして嫌いなのか、その理由が聞きたいよ。教えて」
「何でそんなことを知りたがるの? それこそ関係ないじゃないっ! お願い、離して!」
ともすれば震え出しそうになる体を懸命に抑えて、私は必死に訴えた。
ここから早く、一刻も早く彼の腕から逃れなければならない。恐怖に押しつぶされないうちに――警告音が鳴り響く。
しかし、逃れようとする私を桜樹は離してくれない。そんなに力を込めているようには見えないのに、腕はびくともしなかった。それどころか、ますます深く私を抱き込んだ。
「――……関係はあるよ」
ぽつり、と桜樹が呟いた。今にも消え入りそうな声だった。
その声の力の無さに私は身じろぎを止めて彼を見上げた。寂しそうな瞳が私を見下ろしている。
「関係は、ある」
もう一度確認するように言った。
「僕はずっと君を見てきた。君がこの桜並木を樹の一本一歩に話しかけながら歩くのを。春も、夏も、秋も、冬も……それこそ一年中、ずっと。何年も何年も見続けてきた。それがいつも今ごろになると姿を見せなくなる。病気になったのか、それとも通り道を変えたのかと心配していると、葉桜になったころまた通い出す。新緑も綺麗だけれど、花はもっと綺麗だと思うのに、君はいつもそのころになると通らない」
優しくて、寂しい瞳が私を見つめる。見つめ返すと、切なくなってくる。
「不思議だったんだ。なぜなのか、どうしても理由が知りたくて、今日決心して君の前に出てきたんだ」
桜樹は真摯な瞳で私を見た。
「教えてほしい。今を逃すと、僕また一年待たなければならなくなる」
「え?」
「教えてほしい。そうすれば二度と君の前に現れないと誓う」
真剣な眼差しで、彼は私を見つめる。その眼差しが与える重圧に耐えられなくなって私は顔を伏せた。
「…………小さいころ」
口の中で呟くような小さな声で私は話し始めた。
「桜の樹の下で鬼を見たの。夢だったのかもしれない。でもその時の印象が強過ぎて……」
「鬼……って?」
「何人かの男女が、平安時代の貴族みたいな着物を着て、宴会――と言うより花を愛でる宴みたいな感じで、桜の花の散る樹の下にいたの。どうしてそんなところにそんな格好の人達がいるのか、その人たちが何者なのか、全然分からなかった。ただ、『綺麗だなぁ』って、子供心にそう思ったの。声をかけたり、近くへ寄ったりすると消えてしまいそうで、離れたところから黙って見ていたの。そしたらそのうちの一人が急に振り向いて、私を見つけて……!」
話しながら私の体は小刻みに震え出していた。
止めようとしても止まらない。体温がすうっと下がって、目の前が暗くなっていった。かくん、と膝から力が抜けた。ふっと身体が軽くなった。膝がくだけそうになった時、桜樹の腕が掬い上げるように私の身体を支えてくれたのだ。
眼前に明るさが戻ってきて、顔を上げた私の視界に、穏やかな微笑を湛えた綺麗な顔が在った。ドキンと胸が騒ぎ、注視できなくて顔を伏せた。
「続けて」
桜樹が促した。静かな、少し湿り気を帯びたような声が、耳から心へと広がる。恐怖が薄れれてゆくようだ……。
「……私のところへ鬼みたいな顔でその人達が迫ってきて、怖くて、でも目が逸らせなくて、それに足も竦んで動けなくて……。喰われる! って思った途端目の前が真っ白になって……気がつくと何もなかったの。その人達がいたという痕跡も、誰かがいたという跡もなかった。みんなは夢を見たんだって言うし、私も自分以外の人と話しながら夢だったかもしれないと思う。だけど、それでも怖くて……。桜の花を見るとどうしてもそれを思い出してしまうの」
話しながら、自分でもやはり尋常な話しではないという自覚が、頭をもたげてくる。顔が徐
々にうつむいて、声が口の中に籠ってしまう。しかし彼は私が話し終えるまで黙って聞いていてくれた。
私が口を閉ざし、二呼吸ほどの沈黙の後で静かに彼が口を開いた。
「――それは」
夢だよ、という言葉が続くと信じていた。今まで他の人に散々言われた言葉が続くと。だから忘れてしまえ、と慰められると思っていた。
けれど彼は私が想像していたこととはまるきり違う言葉を紡いだ。
「夢じゃない」
驚いて顔を上げると、私を見つめる彼の視線とぶつかった。深く、穏やかで、包み込むような優しさを持った真摯な瞳。
「夢じゃないよ」
彼はもう一度繰り返した。
「君が見たのは春の神達だ。普通の人には見えないモノだ。それが君には見えたんだ」
桜樹の手が私の髪に触れた。そのまま梳くように撫ぜる。
「彼ら――春の神達は自分達の姿を人に見られるのを嫌う。『本性』が蛇だから見た人の百人中、九十九人までが悲鳴を上げて逃げ出すからね。それに見えても波長が合わないとお互い干渉できない。波長の合う人なんて本当に稀なんだ」
「…………」
私はぽかんとして桜樹を見つめた。――彼はどうしてそんなことを知っているのだろう……?
「本来、そういう人は祝福されるべきなのに……特に君が見たのは、彼らの『本性』じゃなくて『気質』の方なのに、彼らは『本性』を見られたと思ったんだ。春の神の臆病さが君を怖がらせたんだ」
「……どうして」
呆然と彼を見上げたまま、私は呟いた。
「どうしてそんなことを知ってるの? あなたは……誰?」
私の問いかけに少しだけ驚いたように目を見開いて、桜樹は答えた。
「僕? 僕は『精霊』だよ」
ひらひらと目の前を何かが落ちていった。それが桜の花びらだと分かった途端、私は驚きの余り息をすることさえ忘れた。
桜が咲くにはまだ間があったはずだ、少なくとも後一週間くらいは……!
風もないのに桜が散る。咲くはずのない桜の花が。
「君の話しかける声が好きだった。優しくて、穏やかで、心が満たされていくようだった。冬の立ち枯れのような樹にさえ愛おしそうに話しかけてくるのに、樹々が一番美しい季節は姿を見せない。それがとても気になった」
桜樹の瞳が私を包み込む。
「花の咲くころしか僕は外へ出られない。今は少し早いのだけれど、理由を知りたくて無理をして逢い来た。でもその価値はあったと思う」
ふわり、と桜樹が微笑む。
「僕が恐怖を取り除いてあげる――」
桜樹の言葉を待っていたかのように、私達の周りに誰かが降り立った気配がした。
視線を向けた途端、私は凍りついてしまった。
忘れようとしても忘れられない顔――幼い頃に見た七人の男女が、そこにいた。
「――っ!」
声にならない悲鳴を上げ、桜樹の胸に顔を埋め、しがみつき、ガタガタと震える私の耳元に、彼はそっと囁いた。
「大丈夫、彼らはもう怖くない。顔を上げて、自分の目で見てごらん」
諭されるように何度も囁かれ、恐る恐る私は彼らの方へ顔を向けた。
彼らは私を見ていた。
どこかしら困ったような表情の混じった笑みを浮かべ、静かに私を見つめていた。そこからは以前のような敵意は感じられなかった。
なだめるように背を叩く桜樹に励まされ、私は彼の服を握り締めていた手を少しだけ緩めた。
ゆらり、と彼らが近づいてきた。びくりと身体が震え、緩んだ指に再び力が籠る。そんな私を安心させるように、桜樹が私に回した腕に力を込めてくれた。
すべるように近づいてきた彼らが、私のすぐ目の前で止まった。穏やかな瞳が私を捕らえた。物言わぬ彼らの思いが胸に染みて、切なさが広がってくる。
そのなかの一人が半歩進み出て、白い手を伸ばす。その手が頬にふれた瞬間、ぴくりと体が震え緊張が走った。思わずぎゅっと目を閉じた。
「……えっ?」
柔らかな感触が私の頬を取り囲み、それよりもっと柔らかなものがそっと額に触れた。ふわりと陽だまりの匂いがした。そっと瞼を上げると、白い手の持ち主が私の額に唇を寄せていた。目を開けた私に気づいたその人が、ゆるりと微笑んで身体を離した。
次の人は私の右の目尻に触れ、花の香りがした。その次の人は柔らかな緑の匂いと共に左の瞼に触れていった。
次から次へと、七人の春の神たちは私に触れていった。いろいろな春を感じさせながら……。
「もう桜の花は怖くないでしょう?」
最後に桜樹が私を見つめながら確かめるように問いかけた。ゆっくりと頷く私を見て、今までで一番優しい笑顔を見せる。
不意に眼前を白い布で覆われた――それが桜の花びらだと分かったのは暫くしてから。
周りの風景が見えないほどの花びらに覆われ、呆然とする私が束縛感の消えたことに気づくと、花びらは私から離れていった。
「桜樹」
彼を呼んだ私の目に、花びらに囲まれて春の神達と一緒に佇む桜樹の姿が見えた。彼らは皆、優しい顔で私を見つめていた。
「今度は花を見においで」
桜吹雪が徐々に収まり、一人二人と春の神が花びらに溶ける。彼を見つめたまま私が頷くと、満足そうな桜樹が言った。
「約束だよ」
最後の花びらと一緒に全ての神が消え、それを確かめたかのように微笑んだ桜樹の姿が背後の桜に吸い込まれていった。
「……桜樹?」
私は桜に駆け寄ると、彼を捜した。しかし、どこにも彼の姿は見当たらなかった。
突然竜巻のように足元から風が吹きあげた。地面を覆いつくすほど積もった淡桃の花びらを巻き上げる。私は思わず顔を覆った。
風が通り過ぎ目の前から手を退けると、そこはいつものとおりの並木道だった。桜の蕾は咲くまでまだ数日待たなければならない。
「桜樹!」
私の彼を呼ぶ声が樹々の間を走り抜けた。応えはない。
「……桜樹……!」
切なくて、訳もなく涙が溢れた。
私はその場に立ちつくしたまま、涙をこぼし続けていた。
第三章 桜花繚乱
高校二年の春まだ浅いころ、花咲く前の桜の樹の下で逢った彼。自分の言いたいことだけを言うとさっさと消えてしまった――桜樹。あれが『恋』だったと気づいたのは、ずっと後になってからだった。
私は自分の気持ちを認識したと同時に、宙ぶらりんのままの気持ちを抱えて過ごさなくてはならなくなった。
自分の好きになった相手が人間ではなかった、ということ。
当の桜樹はそれを知っていながら、私に一言も言うヒマを与えなかった、ということ。
こちらから呼びかけることはできない、ということ。
相手に打ち明けることも諦めることもできない、ということ。
それらに気づいてから、あまりの理不尽さに腹が立った。
私は何一つ、彼に言っていない。始まってもいないものをどうすればいいのか……私の心はあの時から止まったままだった。桜の花が咲き、散るのを何度も見送った。そして私は社会へと出た。
春になると、どこもかしこも「花見」だと浮かれまくる。確かに春になって花が咲くとなぜかしら心が浮き立つ。だけどどうしてそれが桜の花なのか、私には分からない。春に咲く花なら、別に桃や梅やたんぽぽでもいいはずだ。
そんな思いを心に持って、私は乱痴気騒ぎを冷ややかに眺める。単純に騒げる人たちが疎ましいとさえ思える。
「おおーい、麻ちゃん」
酔っ払いが馴れ馴れしく呼ぶ。私はそれに笑顔で応じる。ここ数年ですっかり地顔と思われている人受けの良い笑顔で。
「何ですかぁ」
少し軽めに語尾を伸ばすのは、相手を侮っていることを悟らせないため。
「こっち、こっち。こっちにもお酌してよ。美人のお酌の方が酒が美味いんだからさ」
セクハラまがいのことを言いながら、私の一応上司がひらひらと手を振る。それに合わせながら酔ったフリで適当に相手をあしらう。
桜樹との約束だから、私は桜の花を見る。でも本当は見たくない。
確かに怖くはなくなった。しかし代わりに胸が苦しくなる。今にも泣き出してしまいたくなるほど、苦しくて苦しくて堪らなくなる。できるなら花枝を一本残らず折って捨てたくなる。それをしないのは、桜樹が桜の精だと分かってしまったから……。
桜樹と逢ってから、私はいろいろと調べた。
人間相手なら、本人に訊くなり周りの人に訊くなりすれば、欲しい情報は簡単に手に入れることができる。けれど相手が人外で、しかも目の前にいないとなれば、それらしいものを捜し出して片っ端から調べていくしかない。そして私に分かっているのは、桜樹が『春』をよく知っていて、『桜』と関係があるということぐらい。
私は『桜』に関するものを手当たり次第に調べた。
植物図鑑や園芸誌はもちろん、童話や小説・説話民話に至るまで、『桜』の一文字が書いてあるものは全てといってもいいほど……。そして知ったのだ、桜の樹の精は男性なのだ――と。
花の精といえば楚々たる美女か可憐な少女だと思いこんでいたけれど、日本において桜は男性なのだ。ところによっては老人のことすらあるらしい。
それを知った時、私は妙に納得してしまった。
細い、どこに筋肉がついているのかと思えるほど細かった桜樹の身体――けれど、弱々しさは微塵も感じられない。それどころか靱ささえ感じた身体は、『樹』だったからだ。
湿ったような苔むしたような、それでいて清々しくさえあった体臭は、森林浴などと称して雑木林に入り込んだ時に嗅ぐものとよく似ていたと言うことも。
ドンチャカ騒ぐ人々から少しづつ離れ、私は樹の陰へとまわった。誰からも見えないことを確認すると、樹に背を預けて大きな溜め息をついた。
「……疲れた……」
一人で花見に来られるほど私の心臓は強くない。他人にどう思われようと、樹にすがって泣き出してしまいそうで、その場から離れることができなくなりそうで、そんな醜態を他人に見せたくなくて、どうしても来ることができない。だからこうやって大勢に紛れて、その勢いを借りてやって来る。
けれど、元来私は一人でいる方が好きだ。人に合わせる術は知っているが、精神的にはかなり辛い。ストレスになると分かっているのに、一人で花見ができないので仕方なく馬鹿騒ぎにつき合う。
「……逢いたい、なぁ」
ぽろりと本音がこぼれた。
逢いたいのに逢えない。話しかけても反応はない――どころか、聞こえているのかどうかも分からない。
樹木の寿命は長い。彼らから見れば、百年足らずの寿命しかない人間のことなど、目の前を通り過ぎて行く煙のようなものだろう。その中のほんの一瞬言葉を交わした人間のことなんて、覚えていないかもしれない。
「桜樹の馬鹿……」
逢いたいと思っているのは私だけかもしれない。
切なさだけが解けない雪のように心に積もって行く。このまま積もって心の中一杯になったら、私の心はきっと凍りついてしまうだろう。
「……もう一度、逢いたい……」
せめて、私の想いを告げることができれば……そうすれば少しは苦しみが薄らぐかもしれない、例えどんな結果になったとしても。
風でもあるのだろうか、蕾を含んだ花房が微かに揺れる。花の重みにしなる枝が揺れて、風を受け止める。
「――風になれたら……」
風になれたら、桜樹と話すことができるだろうか……? 彼を感じ、彼も私を感じ取ってくれるだろうか?
ひらり――と、花びらが落ちて来る。
ぼんやりとそれを見ていた私は、ハッと我に返った。
確かに花は咲いている。しかしまだ満開ではない。せいぜい八分咲きといったところ。
それでも今日花見に来たのは、ちょうど仕事がひと息ついたのと、週末で明日は休みだという
ことと、満開になってしまったらおそらくのんびり花見をするスペースがなくなるだろうという理由からだ。満開でもない花が散るはずはない。
しかも、花の下はさっきから騒がしいが、空は静かだ。花の周囲に取り付けられたぼんぼりで、付近は夕闇よりはかなり明るくなっていて空の星は見えない。それでも晴れているのは分かる。馬鹿騒ぎの音以外に音はない。微かに枝を揺らす微風さえ吹いていない。なのに、花びらが散る――?
振り仰いだ私の目に、それを待っていたかのように次から次へと花びらが舞い落ちてくる。
「……桜樹……」
私の唇が、無意識に彼の名を紡いだ。
それと呼応するように、花びらが音を立てて私を取り巻き出した。どこにこれほどの花びらがあったのかと思うほど、視界を花びらが覆いつくす。白いベールを張った様に私と周囲を遮断する。軽い眩暈を感じた――かつてこれと同じようなことがあった?
(――え?)
花びらで覆われた白い視界に、突然影が混じり込んだ。
影は花びらと同じ速度で落ちてきて、私の目の前に降り立った。それは人の形をしていた。影が、すっと顔を上げた。
「――桜樹……!」
あの頃と少しの変わりもない桜樹の姿がそこにあった。
「久しぶりだね」
降りしきる花びらのベールの中であの頃と同じ顔で桜樹が笑う。
「…………」
「どうしたの?」
何も言わずに見つめる私に、桜樹は怪訝そうな瞳を向けた。
言いたいことがあったはずなのに、いろんな想いは心の中で嵐のように渦巻いているのに、彼の顔を見た途端に私の口は言葉を無くした。
心をどんな言葉にすればいいのか、想いをどんな言葉に載せればいいのか、まるきり分からなかった。
何か言わなくては……!
気持ちは焦るのに、唇は細かく震えるだけで開いてさえくれなかった。
「……!」
「麻奈っ?」
目の前が滲んでぼやけたと同時に、桜樹が焦った声を上げた。頬を何かが伝っていく感覚で初めて自分が泣いたのだと分かった。
「……桜樹…………」
泣きながら、呟くように彼の名を呼んだ。滲んで見えない視界の中で、それでも彼が微笑んでくれたのが分かった。
不意に、覚えのある感触に身体を戒められた。忘れられない匂いがした。時が一気に逆行する。私の精神は高校生のころへ戻っていた。
「……逢いたかった」
桜樹の胸に顔をうずめて、吐息のように微かな声で告げた。涙が堰を切ったように溢れる。すがりつくように彼の背に腕を回した。
「……うん」
「…………逢いたかったの……」
「うん」
「……ずっと、ずっと、逢いたいって思ってた」
「知ってるよ」
「……本当に、逢いたかったの」
「だから、逢いに来たじゃないか」
馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返す私に、同じように桜樹は同じ言葉を返してくれた。
静かな桜樹の声に涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。穏やかな目差しが私を見下ろしている。
「君が僕に逢いたいと思っていたのと同じくらい、僕も逢いたかった」
「……本当?」
「本当」
視線を合わせたままゆっくりと頷く桜樹が信じられなかった。
「どうして……?」
「多分、君と同じ気持ち」
「嘘っ!」
私は叫んでいた。
桜樹が私と同じ気持ちだなんて! そんなこと、絶対に信じられない!
「どうして嘘だ、なんて言うの?」
少しむっとした桜樹が訊く。
「だって、だって……! 私とあなたとじゃ違い過ぎるじゃないっ!」
「どこが?」
「だって、桜樹は『桜』じゃないっ! 私は普通の人間よ? 姿形は勿論、生きてる時間だって、考え方や感じ方だって違う――」
「そんなことはない」
即座に桜樹が否定した。その早さに、私はそれ以上言葉を続けられなかった。
「姿形は人間同士だってみんな違う。考え方や感じ方だってそうだ。寿命は……考え方次第だと思う。容器の寿命は確かに違うだろうけれど、精神の寿命は差がないはずだ。……それに」
肉体の寿命が問題だ、と言おうとした私を彼は押し止めた。そして全部分かっているというようににっこりと笑うと、
「君はひとつ大きな間違いをしている」
と言った。
「間違い?」
「そう。僕は『桜の樹』の精じゃない」
「うそ……っ! だって前に逢った時に言ったじゃない、『桜』の精霊だって!」
私は詰るように叫んだ。
私は確かに聞いた、自分を『精霊』だと告げた桜樹の声を。少しだけ膨らんだ蕾の、桜の樹の下で!
思い込みではない。聞き間違いでもない。『桜』の精霊だと直接には言わなかったが、話の前後は紛れもなくそれを示唆していた。
彼は、私の必死の抗議を穏やかな顔で頷いて受け入れた。
「確かに『桜』の精霊には違いないけれど、『桜の樹』じゃない。僕は『桜の花』の精霊だ」
穏やかに告げられた真実に、私は茫然とした。
「…………桜の、はな……?」
「そうだよ。花が咲いている間は一番『精気』が充実していて、何でもできるんだ。『人型』を取ることは勿論、その『人型』をただの人間に認めさせることも、花びらを自在に操ることも、それを使って『結界』を張ることも」
「『結界』?」
「そうだよ。気がつかなかった? 君と一緒に来た人達、こっちに全然注意を払っていないだろう? 花びらを使って『結界』を張っているから、彼らは僕達が見えないんだよ」
言われて初めて気がついた。私が一緒に来た人達は、相も変わらずドンチャカ騒いでいる。私が男性と抱き合っているのが見えていれば、冷やかしのひとつも飛んで来てもおかしくはないはずなのに。
「でも、花が咲いている間しか人型を取ることができない。花が散ると、『精気』もなくなってしまう。樹の中に吸い込まれて、翌年になるまで封じられてしまうんだ」
「…………」
「『寿命』という点じゃ、僕と君、どっちが長いんだろうかな?」
悪戯っ子のように彼は片目を瞑って見せた。
「……そう言えば」
私はぼんやりと呟いていた。
初めて逢った時、彼は『花の咲く頃しか出てこられない』『少し早い』『無理をして逢いに来た』と言っていた。あれは、こういうことだから……?
「分かってくれた?」
茫然としながら、それでも私は頷いた。
そうか、桜の花か……だから、あの時も今もこんなに花びらが舞い落ちるのか……。不思議に思っていたことがひとつずつ解けていった。
「! じゃあ、桜樹」
ふと頭を掠めたことを私は桜樹に訊ねてみた。
「小さい頃『春の神』を遮ってくれたのは……」
「そう、僕だ。興奮状態の彼らを止めるつもりだった」
小さい頃『春の神達』に襲われかけた私の目の前を横切った白い塊は、あれは桜樹の放った桜の花びらだったのだ……!
「あの頃はまさかその子供に惹かれるとは思ってなかったけれど、ね」
はにかんだような笑みを桜樹は浮かべた。
「で、僕は人間で言うところのプロポーズに来たんだけど……やっぱり返事はしばらく待たなければならないんだろうか?」
ふっと笑顔を消した桜樹が不安げな色を瞳に浮かべて、私を見つめた。
桜の花が咲いている間しか猶予はない――長く待つことはできない、と彼の瞳は訴えていた。だから私はその瞳をまっすぐに見て訊ねた。
「申し込みを受けたらどうなるの?」
花が舞い落ちるように柔らかくと微笑んだ桜樹が、ゆっくりとその腕を私に回して答えた。
「こうなるんだよ」
花びらが纏わり付くように、桜樹の腕が私を抱き込んだ。私は目を閉じるとその腕に全てを委ねた……。
結章
「おおーい、麻ちゃーん。どこだあー」
「麻奈さーん、帰るわよー」
花見客が口々に名を呼んでいる。かつての私の同僚や上司が『人間』だった頃の名を。私がすぐ傍にいるのに、彼らは私に気がつかない。私の周りを回りながら名を呼ぶ。
「おおーい……」
声が少しずつ遠くなってゆく。それは私の『意識』がゆっくりと彼に同化してゆく証し……。
ふわり、と彼の『意識』に包み込まれる。
(知人と別れるのは、さみしくない?)
彼の『意識』が問いかける。
返事はしなくても『意識』は伝わる。
さみしくはない、決して一人にはならないから。私の『意識』と彼の『意識』は撚り合わさってひとつの『意識』になる。誰よりも近くで、いつでも彼を感じていられる。
(そうだね)
彼が笑う。
(そうよ)
私も笑う。
私たちはこれからいくつもの春を一緒に咲いて過ごす。桜の樹がこの世からなくなってしまうまで…………。