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燈幻郷奇譚 作者:月宮永遠

1章:遠き月胡の音

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 亜沙子が燈幻郷へきて、百夜が過ぎた。
 長閑のどかな郷で花鳥風月に囲まれて、都会の喧騒を少しずつ忘れていった。遠く、懐かしい日々を恋しく思い出す日もあるが、天狼の傍にいると寂しさは紛れた。
 燈幻郷は標高三千尺あまり、眺望絶佳ちょうぼうぜっけいを拝める蓬莱山の中腹あたりにある。
 天帝の藩屏はんぺいである天狼は、とても勤勉だ。
 前の晩にどれだけ呑んでも、夜明け前から起き出して働き始める。
 朝の凛と澄み切った空気の中、戦闘部隊は鍛錬を始め、山の哨戒しょうかいや晩餐の獲物を捕りにいく。
 邸に仕える者は、庭を払い清め、池の枯葉や藻を取り、回廊の床や窓を磨きあげる。また、別の者は家庭菜園に磯釣り、食事の準備に洗い物をこなす。
 天狼主あめのおおかみぬしである一世を筆頭に、徳の高い輪廻転生の記憶を持つ天狼は、瞑想に耽り神霊と交感する。 
 そんな彼等と違って、亜沙子の朝はのんびりしたものだ。 陽が昇ってしばらくしてから起き上がり、侍女に手伝ってもらいながら、その日の衣装に着替える。
 着飾っても、亜沙子が出歩くのはせいぜい邸の庭までだ。
 思えば、子供の頃から内向的な性質をしており、大人になってからも変わらなかった。
 一人きりで過ごすのは、少しも苦ではない。
 基本的に、誰かに会いたくなったり、喋りたくなることがないのだ。
 幾人か友人もいたけれど、亜沙子から誘うことはまれで、向こうから誘われない限り、休日に出かけようとはしなかった。
 ぐうたらな生活を送っているが、亜沙子もここへきた当初は、家事手伝いを申し出て奮闘していた。
 だが、何をするにも背丈が足りず踏み台を必要とし、非力で扉一つ開けるにも苦労する。良かれと思って動けば動くほど、周囲の手を煩わせるだけだと気がついてしまったのだ。
 ならば料理を……と、割烹着を着てお勝手を覗いたこともあるが、柳のような美女達が、巨大な鮭を捌いていたり、猪の血抜きをしている光景を見て凍りついた。怖気づいて立ち尽くす亜沙子に気がついた侍女が、そっと背中を押して、部屋まで送ってくれたことは一度や二度ではない。
 綺麗な着物をきて、美味しいものを食べているだけの生活に申し訳なくなるが、優しい天狼たちは、にこにこしながら亜沙子の世話を焼いてくれる。
 せめて、彼等が喜ぶ月胡の演奏は上達したいと思い、毎日、稽古だけは欠かさずに続けている。日課らしい日課はそれくらいで、それ以外の時間は基本的に自由に過ごしている。
 庭を歩いたり、読書をして過ごしたり、天狼の子供達と遊びに出かけたり、様々だ。
 夕餉は一世が邸にいる時は共にする。しばし団欒を楽しみ、時には遅くまで晩酌する。
 眠くなったら部屋に戻り、さやかな梢の擦れる音、虫の音、岩清水のせせらぎを聴きながら眠りにつく。
 清涼で穏やかな時間は、都会暮らしに疲れ果てていた亜沙子の心身を、少しずつ癒していった。

 ある晴れた日の午後。
 月胡の稽古を終えて、これから何をしようか考えていると、回廊の反対側から歩いてくる一世と目が合った。
「お早う、亜沙子」
 にこやかに笑みかけられ、亜沙子もぱっと笑顔を浮かべた。
「お早うございます、一世さん」
「どこへいこうとしていたの?」
「特に決めていません。何をしようか考えていたところです」
「ちょうど良かった。少し時間ができたから、亜沙子を探していたんだ。一緒に過ごそう」
「あら。じゃあ、お散歩でもしますか?」
「いいよ。庭を歩こうか」
「はい」
 一世の誘いに、亜沙子は満面の笑みで頷いた。
 庭といっても、白砂の敷かれたり水の流れる庭園は、周囲を森に囲まれているから、どこからどこまでが庭なのか判らないほど広い。
 風雅な鶯の啼き声に耳を澄ませながら、亜沙子は池の外縁に咲く花を眺めた。
 忍冬すいかずらに菩提樹、まばゆい金雀児えのしだ金鳳花きんぽうげ。四季の百花繚乱が、目を愉しませてくれる。
「綺麗ですねぇ……」
 しみじみ亜沙子が呟くと、一世も同じ花を見て、表情を和らげた。
「毎日見ているけれど、亜沙子が隣にいると不思議と新鮮に見える」
「お上手ですね」
 照れる亜沙子を見つめて、本当だよ、と一斉はほほえんだ。何やら甘い空気が流れて、困ってしまう。
 瑞々しく香る黄金色のキングサリが、噴水のように垂れている棚に入ると、一世は亜沙子を抱き寄せて耳朶に唇を寄せた。
「ひゃあっ」
 くすぐったい、身体をくねらせながら笑ってみせると、一世は何もいわずに美しい顔を寄せて、そっと亜沙子の額に唇を落とした。
「一世さん?」
 亜沙子は、困ったように一世の身体を押しのけた。日を追うごとに、彼の甘さは増していくように思う。
「かわいいね、亜沙子」
 赤くなった亜沙子を見て、一世は柔らかく目を細めた。
「もう、からかわないでくださいよ」
 苦笑いで躱すと、庭の中ほどにしつらえられた四阿あずまやで足を止めた。
 眼下には透き通った池がある。石清水のたまる自然の池だ。水草の奥で、赤い金魚が揺れている。
「餌をあげてみる?」
「ぜひ」
 一世は懐に手を突っ込むと、小袋を取り出し、中から餌をひとつまみ、亜沙子の掌に落とした。
「ありがとうございます」
 もらった餌をぱらぱらと池に落とすと、金魚達が水面に顔を覗かせて、パクパクと口を開けた。見ているだけで癒される。和みつつ、掌にある餌を少しずつ落とした。
「もっとあげる?」
「……いえ、もう大丈夫です。ありがとうございます」
 背中を柔らかく押されて、亜沙子は再び歩き始めた。
 涼しい風が吹きぬけていく。ひぐらしの合唱と、さわさわと鳴るこずえの葉。
「ここの暮らしには慣れた?」
「はい、おかげさまで」
「不自由はしていない?」
「していません。満ち足りた、穏やかな日々を過ごさせてもらっています」
「ならいいのだけれど」
 淡い笑みを浮かべる一世を見て、亜沙子は少し不安になった。
「お世話になりっぱなしですみません」
「亜沙子。紫蓮じゃないけれど、子供が余計な心配をするものじゃないよ」
「……子供じゃありませんし」
 一世は亜沙子の両手をそっと包みこんだ。
「こんなに小さくて、華奢で、一人にはしておけないよ。お願いだから、邸にいておくれ」
「……」
「故郷が恋しい?」
 沈黙をどう思ったのか、一世は探るように訊ねた。
「……恋しくないといえば嘘になるけど、どうしても帰りたいと焦がれるほどでもないんです。薄情なのかもしれないけど……」
 ふとした瞬間に、以前の生活や母を懐かしく思い出すことはある。でも、帰りたいとは思わない。心穏やかでいられる今の暮らしの方が断然良かった。
「亜沙子は少しも弱音を吐かないから、もどかしい。無理していないか、気になってしまう」
「していませんよ。皆がいてくれるし」
 見知らぬ異国の地で生きていられるのは、故郷への想いが薄いこともあるが、一世を始めとする、賑やかで親切な天狼が傍にいてくれるおかげだ。
「亜沙子は、あまり故郷の話をしないね」
「……あんまり、いい思い出がないんです。あの頃は、毎日へとへとで、逃げたい、遠くにいきたいってずっと思っていたから」
「ここへきたばかりの頃は、元気がなかったね」
「おかげさまで、元気になりましたよ」
「うん。顔色も良くなったし、陰っていた魂魄も澄んでいる。蓬莱山の空気に馴染んできたね」
「一世さんのおかげです」
「元気になって良かったよ……同族に会いたいかい?」
「そうですね……会いたい人もいるけど、どこかで元気にしてくれていたら、それでいいや」
 懐かしい人達を想い浮かべながら、淡くほほえむ亜沙子を、一世は優しく抱き寄せた。
 この腕の中にいれば、畏れも、恐怖も、哀しみもない。あらゆる心配事から護ってくれる。温もりに包まれて、亜沙子はそっと瞳を閉じた。



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