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燈幻郷奇譚 作者:月宮永遠

1章:遠き月胡の音

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8

 千早振ちはやふる神々のふるさと
 美しい桜のそのの暮らしに、亜沙子は少しずつ馴染んでいった。
 亜沙子が生活している緋桜邸ひおうていは、寝殿造りに似ている。八千坪を越える広大な敷地には、寝所のある宮殿の他に、母屋、茶室、洋館、書斎、離れといった建物が点在する、数寄を凝らした大邸宅だ。
 敷地の中央にある宮殿で、一世と亜沙子は生活をしている。宮殿には二人の居住区の他に、郷の中枢たる執務室や、侍従、侍従武官の集う御学問所等もある。
 建造物や衣食住の文化は、古き良き日本に似ているが、神通力で賄われる治水や、宙を浮く飛車とびぐるまがあったり、亜沙子の常識を超越した天上世界である。
 緑豊かな自然は、都会暮らしの長い亜沙子を新鮮な気持ちにさせてくれる。
 始めの頃は、誰かと一緒でなくては山へ入ることを許されず、なにがしかの虫や獣にいちいち驚いて悲鳴をあげていたが、今では、邸の付近なら一人でも入っていけるようになった。
 亜沙子は夜桜を眺めるのが好きで、美しい星月夜ともなると、いそいそと山に入った。茂みの合間のあちこちに、満開に咲き誇る桜の大樹が覗いて、それは美しいのだ。
 その日も、満月に誘われて山へ分け入ったのだが、かろうじて道と呼べる細い獣道がとうとう藪に消えたところで、亜沙子は足を止めた。
「あれ……」
 手にした提灯をあちこちに差し向けるが、道らしき道はない。
 夜分に当然人影はなく、光にまとわりつく蒼白い夜光蝶だけが、神秘的な鱗粉を散らして、ひらひらと舞っている。
「あれ、こっちじゃなかったっけ?」
 返る言葉はない。さわさわと梢の擦れ合う音。ふくろうの鳴き声だけが聴こえる。
 天狼の加護する霊峰で、獣に襲われることはないと知っていても、深い山奥で一人きりは怖い。

 オォーン……

 どこかで狼が吠え、連鎖するように、山のあちこちから遠吠えが響き渡った。歩くのが怖くなって、立ち止まって周囲をうかがう。
(襲われないよね? 襲われないって聞いたけど……どうしよう、逃げるべき?)
 茂みの奥から、今にも腹を空かせた獣がやってきそうだ。ここにいたら、食われるかもしれない。亜沙子は、羽織を脱ぐと、裾をまくって大樹の幹に足をかけた。
「お嬢さん、やめておきなさい」
 突然、老人の声が聞こえた。
「ひっ!?」
 暗がりを提灯で照らすが、人影はどこにも見当たらない。
「怖がらなくてええ。あれは、天狼の群れがお嬢さんを探しているんじゃ」
「え……」
 よく眼を凝らすと、幹の傍にぼんやりとした人影が見えた。豊かな白髯はくぜんを胸まで垂らした、羽織袴の老人だ。「すぐに迎えがくるから、そこでじっとしていなさい」
「えっ? あれっ?」
 老人は喋ったかと思ったら、もう姿を消した。暗がりを凝視していると、突然、背後の茂みが揺れた。
「ッ!?」
 吃驚びっくりして振り向くと、鬱蒼とした森の奥に、炯々(けいけい)と輝く双眸が覗いた。
 茂みから現われたのは、背に羽を生やした巨躯の狼だ。食われる――亜沙子は幹に背をはりつけ、恐怖にのけぞった。
「亜沙子。私だよ」
 耳に馴染んだ、思慮深い声を聞いて、亜沙子は目を瞠った。闇夜に輝く、英知を秘めた青と金の瞳。
「……一世さん?」
「こんなところにいた。探したよ」
「一世さんなの?」
「そうだよ。天狼には二つの姿があるといっただろう」
 ゆっくり近づいてくる一世は、驚くほど大きな体躯をしていた。
 艶やかな蒼銀色の毛並みをした、背に翼を持つ、大きな狼……まさしく神獣だ。
「一世さん!」
 きてくれたことに感動して、亜沙子は足の痛みも忘れて、転がるように駆け寄った。茂みに足を取られて転びそうになると、一世は素早く身体を伏せて、亜沙子を支えた。
「心配をかける」
 一世は安堵したように、ため息をついた。
「ごめんなさい」
「山へ入る時は、声をかけなさいといっただろう?」
「ごめんなさい。何度も通った道だし、平気だと思ったんです」
「思いこみは危険だ。ここは秘境なのだから。道は一つに在らず、時々姿を変える」
「そうなんですか? 気をつけます……」
「迷ったまま、帰ってこれなくなるかもしれないよ」
「はい……」
「全く、若い娘がそんな薄着で、夜更けに独りで出歩くなんて……」
 諫める口調に、亜沙子は気まずい思いで俯いた。
 薄紅鹿の子の長襦袢に紫濃の羽織をかけている姿は、亜沙子の感覚では不断着だが、ここではしどけない姿に映るのかもしれない。
 両腕で自分を抱きしめる亜沙子を、一世は包みこむように、身体を丸めてすり寄った。
「一人では山へ入ってはいけないよ。いいね?」
「はい」
「……足を痛めたの?」
 一世は、亜沙子の足に鼻頭を近づけて訊ねた。
「少し、鼻緒ずれしちゃったみたいで……ひゃぁっ」
 うっすら滲んだ血を舐めとられて、亜沙子は頓狂な声をあげた。
「信じられぬ。歩いているだけで傷を負うとは、亜沙子はなんとか弱いのか」
「まだ草履に慣れていなくて……これは木綿で、履きやすいと思ったのですけれど」
「頼むから、もう遠くにいかないでおくれ」
 大きな顔に頬ずりをされて、亜沙子はふわふわした胸毛に顔をうずめた。金木犀のような優しく甘い香りがする。
「さっき、桜の樹の下で、おじいさんに声をかけられたんです。天狼が探しているから、待っていなさいって」
「桜の精だろう」
「そうでしたか。びっくりしちゃって、お礼をいってない……」
 桜の大樹を仰ぐと、白い花びらが風に舞って、一片、亜沙子の髪に乗った。
「……礼はいらぬ、そういっているよ。さ、背にお乗り。その足では歩くのも辛いだろう」
「え? でも、いいんですか?」
「どうぞ」
 そういって身体を伏せた一世の背に、亜沙子は恐る恐る横座りで乗った。
 亜沙子の準備が整うと、一世は背に乗った亜沙子を確認するように上目遣いに振り向いた。
「山桜を見にきたのだろう? 見晴らしの良い場所に連れていってあげよう」
「でも、重くありませんか?」
 背を撫でると、一世は気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「なんの、まるで重みがなくて不安になるよ。軽いなぁ、亜沙子は……ゆっくり歩こうか」
「よろしくお願いします」
「うむ」
 一人でいた時は見知らぬ景観に怯えていたが、一世が一緒だと少しも怖くない。亜沙子は、清涼な空気を胸いっぱいに吸い込だ。
「いい気持ち」
 朗らかに亜沙子が笑うと、一世も喉を鳴らした。肉食獣を思わせる重低音の響きだが、少しも怖くない。
 夜闇の中を蒼白い桜や、蛍、夜光蝶が照らしている。ゆっくり進んでいくと、茂みが途絶えて視界が晴れた。
「わぁ……」
 四方を囲む、桜の群。
 暖色の花びらは、薄明薄暮の中では青白く見える。ここでは特に、月の光がまっすぐに降りてきて、桜を幻想的な蒼白に照らしている。
 胸を打たれる美しい光景に、亜沙子は言葉をなくした。
 一世は、格別に大きな桜の大樹へ寄ると、ゆっくり体を伏せた。亜沙子が背から降りると、首を伸ばして頬を寄せてくる。
 大きな頭を撫でてやりながら、亜沙子は桜の大樹を仰いだ。白い花弁が風に舞って、淡雪のとばりのように視界を埋め尽くす。
 心を洗われる、美しい光景だ。
 上向けた掌に、一片、また一片、白い花びらが積もる。息を吹きかけると、ふわり風に舞って、一世の鼻の上に乗った。
「あはは、かわいい……」
 亜沙子がほほ笑むと、くぅ、と一世は甘えるように少し高い声で鼻を鳴らした。
「不思議。桜を見ていると、気力が満ちていくみたい」
「桜には霊力が宿っている。山の桜は、どれも樹齢一千年を超える大樹だからね」
 桜に霊力があるというのは、判る気がする。清涼な空気が体の隅々にまでいきわたり、生命力が指の先にまで満ちていく。
「神の郷に咲く桜ですものね……」
 秘境に咲く桜は、見ているだけでも生気を与えてくれる。亜沙子の魂を、霊力で癒してくれるようだ。
 眺めているうちに、寝転がって仰ぎたい誘惑に駆られた。着物を汚してしまうだろうか? 袖に視線を落としていると、どうした? と一世が訊ねた。
「寝転がってみたいけど、どうしようかなって」
「寝転がればいい」
「お着物が汚れないかな」
「洗えばいい。私に寄りかかっていれば、そうは汚れまい」
「いいんですか?」
「どうぞ」
 長い尾で腹を押され、亜沙子は身体を倒した。柔らかな青銀の胸毛に包まれる。
「重くありませんか?」
「ちっとも重くないよ。遠慮しないで、もっと背を預けてごらん」
「じゃぁ……」
 おずおずと体制を整え、寝そべるように体重を預ける。
「すごいなぁ……桜の傘……」
 視界いっぱいに桜の枝と花が映り、亜沙子は思わず感嘆の声を漏らした。
 これほど美しい夜桜を見たことがない。
 青銀の毛を指で梳きながら、亜沙子は飽くことなく桜を眺めた。とても心地良くて、一世にくるまっているうちに眠気がやってきた。
「……ん?」
 気がつけば、青年の姿をした一世に子供のように抱きかかえられていた。
「あれっ?」
「起きた? もうすぐ着くから、静かにしておいで」
 顔に陰が落ちたと思ったら、額に柔らかなものが触れた。一世の唇だ。亜沙子は頬を朱くして狼狽えた。
「すみません、歩きます」
「足を痛めているだろう? いいから、じっとしていなさい」
「す、すみません……」
 恐縮する亜沙子の背を、一世は宥めるように撫でた。間もなく玄関灯の明かりが見えてくると、亜沙子はほっと息をついた。
「ありがとうございます……あ、もうここで」
 降りようとしたが、じっとしておいで、と一世は亜沙子を離そうとしない。部屋まで運ばれ、寝椅子にそっと下ろされた。一世は腰を屈めて、亜沙子の腕や足に視線を落とした。
「さっき気がついたんだが、手と足に、傷がついている」
「え?」
「腕を診せてごらん」
「はい」
 いわれた通りに、袖を少しめくって腕を差し出すと、大きな掌に、亜沙子の腕はすっぽりと包まれた。虫刺されの痕があちこちに点在している。
「……? なんだろう、この赤い痕は……典医を呼んだ方がよいな」
 深刻そうに呟く一世の言葉に、亜沙子は慌てた。
「ただの虫刺されですよ。放っておけば治りますから」
「虫刺され?」
「山を歩いていましたから」
「虫に刺されたくらいで、亜沙子は傷を負うというのか?」
 一世の驚愕の表情を見て、亜沙子はなんともいえぬ表情を浮かべた。
「まぁ、仕方ありません。一世さんだって、虫に刺されたんじゃありませんか?」
「天狼が、虫如きに傷を負うわけあるまい」
「……」
「誰か! 紫蓮を呼んで参れ!」
 一世は、部屋の外に向かって声を張り上げた。亜沙子が止める間もなく、はい、と灯里が応じる。
「一世さんっ、本当に平気ですから! こんな時間に紫蓮さんを呼びつけるなんて、悪いですよ」
「何をいうか、亜沙子の一大事だ。手も足も傷だらけではないか!」
「ただの虫刺されですってば!」
「油断はならぬ! ……全く、こんなに危なっかしくては、邸の外に出せぬよ」
「そんなぁ」
「一体どこをどう歩けば、足の指から血を流し、手や足を虫に食われるの?」
「すみません、山歩きに慣れていなくて」
「独りで歩いてはならぬ」
「これくらい、平気ですってば」
「ならぬ」
 問答しているうちに、いささか疲れた顔で紫蓮がやってきた。
「……また貴方ですか。今度は何をやらかしたのですか?」
 冷たい眼差しを向けられて、亜沙子は困ったように眉を下げた。
「すみません、全然、大したことじゃないんですけれど」
「あのな、独りで山を歩き、このように満身創痍になって帰ってきおった」
 一世は亜沙子の腕を掴むと、虫刺されの痕を紫蓮に見せた。
「……貴方は金輪際、山に入らないように」
 亜沙子はがっくり項垂れた。
「これくらい、どうってことありません。そんなことをいわないでください」
「歩くだけで傷を負うとは、どれだけ脆いのですか。うっかり死んだらどうするのです?」
「流石に、うっかり死ぬことはないかと」
「亜沙子に限っては否定できませんよ。とにかく、傷を診せてごらんなさい」
「ハイ………………ただの虫刺されっていってるのに」
 後半をぼそっと呟くと、二人から睨まれた。紫蓮は貝の入れ物を開くと、薬草の匂いがする膏薬こうやくを指に取り、虫刺されの上に塗った。
「痛みますか?」
「平気です。冷たくて気持ちいい……お世話になりっぱなしで、すみません」
「謝罪は不要です。貴方の面倒を見ると、一世が決めたのですから。健やかにしていらっしゃい」
「はい」
「軽い返事ですね。誠意を感じられませんよ、全く。判っているのですか?」
「……」
 もう黙っておこう。亜沙子は粛々(しゅくしゅく)と治療を受けながら、代わる代わる小言をさんざんたまわった。
 一通りいいつけて満足した二人は、ようやく腰を上げた。
 部屋の前までいき、お辞儀をする亜沙子の頭を、一世は壊れものに触れるかのように、優しく撫でた。
「ゆっくりお休み」
「はい」
「明日の朝も、塗り薬を忘れずに塗るのですよ」
 紫蓮は貝の容れものを、亜沙子の手に握らせた。
「はい。一世さんも、紫蓮さんも、夜更けにすみませんでした。お休みなさい」
 二人を見送って部屋に戻ると、とんとんと肩を叩く。正直、山歩きよりも、二人からの小言の方が疲弊した亜沙子だった。



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