なんとなく、彼はいつものようにそこにいた。
のどかな田舎町の、小さな喫茶店だ。彼の通う大学がすぐ近くにあって、それでちょくちょく足を運ぶ。さほど繁盛しているとも言えないような店だからか、マスターともいつの間にか顔見知りになっていた。
地味な内装の店内。カウンター席に頬杖をついて窓の外を見てみると、地元の中学生が集団で下校しているところだった。
「……教師、ねえ」
誰にともなくつぶやく。
そうして、彼はカップを傾けた。
「あれ?」
いつの間にか、琥珀色がカップから消えていた。無意識のうちに飲み干してしまったらしい。
「店長、おかわり」
「あいよー」
愛想のいいおじさんが応じる。やかんをコンロにかけて、彼の手元を覗き込んだ。
「なにそれ?」
この店主はお客に対して遠慮が無い。
「ああ。俺、もう三年ですから」
言いながら、手元の書類をぺらりとめくってみせる。
「教育実習……。ああ」
店長は合点のいった表情を浮かべた。
「もうそんな時期かあ。中等教員だっけ?」
「はい」
彼の学部は教育学部、当然だが教員になることを目的としている。
教員の資格を得るためには、教育実習に参加することが一つの条件となるのだ。
「そうかあ。先生になるのか」
「あー、いや……」
「ん?」
「なんというか……。別に、そこまで教師やりたいってわけじゃないんです実習も、行こうかどうしようか、って」
「じゃあ、なんで教育学部に入ったんだ?」
彼は苦笑した。そういえばこんな話を、いろいろな人としたような気がする。
その度に答えてきたのと同じ言葉を、彼はまた口にした。
「大学選ぶときにはね、ちょっとはそういう気持ち、あったんですけどね。教師になってやろうって」
下校中の中学生の列は、いつの間にかなくなっていた。
「英語の教師になって、子供に教科書に載ってないような言葉をめちゃくちゃ教えてやろう。それこそ、日本語にしたら『クソ!』とかね」
「はは、そら、面白そうだね」
「……あとは、なんていうか。いいこと言いたくて」
「え?」
「なんでもないっす」
カウンター越しに受け取ったコーヒーをすする。薄めだがしっかりとした味。
「うまいね」
「当たり前だ」
店長も向こう側の椅子に腰掛けた。今、彼のほかに客はいない。
「……で、まあ。大学で2年、やってみてね。その間、あれこれとバイトもやって」
「今はなんだっけ?」
「コックです。そこの居酒屋の」
「ああ。そうだっけ?」
「そうすよ。こないだ来たじゃないですか」
ばつが悪そうに店長は頭をかいた。
「いろいろやってみて、思ったことがあるんですよ。なんていうか、甘っちょろいのかな、と」
「何が?」
「……大学、かな。教育産業ってヤツ」
「塾とか?」
「はい。一年の夏ぐらいに、塾の講師やってたんです。俺」
教師になろうという奴は、割とこういうバイトを選択しがちらしい。
「その前にやってたのは引越し屋だったからか分からないですけど、やりがいが全く無くて」
「へえ。普通、逆だと思うんだけどな。子供と接する仕事が出来て嬉しい、とかさ」
「引越し屋って、朝から夕方まで体動かして、『ああ、仕事終わった』って思えるじゃないですか。そういうリズムみたいなのが無くて」
「それだけ?」
「あとは……。そうすね、バイトって時給だから。この一時間と、あの一時間の価値は本当に同じなのか、って考えちゃうんです」
「なるほどねえ」
愚痴っぽい言葉を一つ一つ受け止めた。
「……そうだな。じゃあ、俺の一時間は、きみの一時間より価値があると思うか?」
「え?」
彼はちょっとたじろいだ。
「そうだなあ……。価値、っていうか、なんていうか。店長の一時間と、俺の一時間って、比べられないような気がする」
「ん?」
「だって、俺の感じる価値は店長のとは違うから。店長から見て、俺の一時間は大して魅力的じゃないでしょ」
「なんでそう思うんだ?」
聞き返されて、ちょっと考える。
「なんでって。なんでかな」
「……そんな根拠、どこにもないだろ?」
「かもしんないです」
「……そういうもんだろ。自分でそう思ってる、ってだけでよ。本当にどうかなんて知らないって事のほうがはるかに多いんだよ」
はっとした。そう、自分はいったい何を知っているというのか。
「……可能性、って奴ですかね」
「かもな。だから、やる前から価値がないかどうかなんて、誰にも分かんないんだよ。それも、本人が一番な」
そういうことか、と、彼は苦笑した。
自分は確かに『家庭教師をやった』経験はあるかもしれない。
でも、『教師になる』という経験は、なった人間にしかないのだ。それなのに自分は、その経験に価値がないと勝手に思い込んでいた。
「……店長の一番は、ここだったわけですか」
「わからん」
おじさんはにやりと笑った。
「わからんが、今は楽しく仕事してるよ」
「……実習、行ってみようかな」
「へえ?」
「何事も経験かな、ってね。そういう、単純な動機でいいか、って」
「おう、そんなもんだ」
とりあえず、彼はコーヒーを楽しもうと思った。今日はもう一杯淹れてもらって、いつもよりすこしだらだらしていこうか。
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