俺は昔から父のことが嫌いだった。だから離婚するときも、俺は母と一緒に暮らしたかった。父と遊んだ記憶なんて殆どない、それどころか一緒の家に住んでいるのに、顔を合わせることも滅多に無かった。
離婚してから、母からの手紙が何度か来たのだが、封を開けずに机の引き出しに入れたままだった。手紙を読めば、俺は父のもとから逃げ出したい気持ちになると思ったからだ。
そして数日前、母は死んだ。
その事実を父から聞かされたとき、俺は気付いたら家から飛び出していた。逃げる場所なんて、もうどこにもないのに、俺は家から飛び出していた。
そして気付けば、何日も駅のベンチで寝ては起きてを繰り返していた。
日差しが容赦なく肌を焦がし、照りつける太陽とセットで聞こえてくるセミの声が妙に体を熱くさせる。腕時計は午後二時を指している、一番暑い時間帯だ。
「ったく、セミの声に、温暖効果でもあるのか?」
どうでも良いことが、口から漏れる。もう何もかもどうでも良かった。この場所で死のうかとさえ考えた。
耳元では依然としてセミの煩い鳴き声が、絶え間なく響いてくる。
「あー、もう、うるさい! 少しは静かにしてくれ」
セミに怒っても仕方ないか、相手に言葉が通じるとは思わない。
「みーん、みーん、暑いですね」
「あぁ、暑いな」
「みーん、みーん、ここで何してるんですか?」
「昼寝だ」
「静かにしてほしいですか?」
「ああ、当たり前だろ、この暑いのにセミの鳴き声なんか聞いてたら余計に暑くなっちまう、まぁ、セミに言っても仕方ないが……」
セミに言っても? じゃあ俺は誰と会話をしてるんだ?
俺は声のする方を向いた。俺の隣に好奇心の眼差しいっぱいでこっちを見ている女の子がいる。セミの正体はこいつか……。
「あのー、ここで何してるんですか? もし暇だったら……」
「昼寝をしている」
俺は女の子が喋り終わる前に言った。それにさっきも同じ事を聞いただろ。
「こんなところで昼寝してたら、真っ黒になっちゃって、ヒリヒリして、お風呂入れなくなっちゃいますよ」
「水風呂が好きなんだ」
「じゃぁ、一緒に水遊びしませんか?」
「しない、俺は子供じゃない」
「子供じゃなくても、すると思うけどなぁ、じゃぁ一緒にシャボン玉」
シャボン玉こそ子供のやることだ。
「しないって言ってるだろ! したけりゃ一人でしてろ」
俺はそう言って横になって目を閉じた。
「楽しいのにな、シャボン玉」
少女は俺の隣から動こうとしない。
「ふぅー、うわっ、しっぱい、しっぱい、ふぅー、うぅ、うまく飛ばない」
どうやら相当へたくそらしい。これで楽しいのか疑問なのだが。
「ふぅー、うぅ、昨日はうまく飛んだのにな」
「あーもう、うるさくて眠れないだろ! 貸してみろ」
俺は起き上がり、少女の手からシャボン液の入った赤いプラスチックの容器とストローを奪い取った。
「よく見てろよ」
俺がストローに口をつけて息を吐くと、ストローの先端から七色のシャボン玉がふわりと浮かんだ。
「わぁー、すごい、すごい」
無数のシャボン玉が空へと舞い上がる、それを見て少女は嬉しそうに微笑んだ。
「シャボン玉とんだ、屋根までとんだ、屋根までとんで、壊れて消えた」
子供の頃から知っているシャボン玉の歌を、少女が口ずさんだ。その歌は母がよく歌ってくれた、母の好きな曲だった。俺は少女の方を見つめて、母と一緒に住んでいた頃を思い出していた。
歌い終わるまで俺はずっと少女の方を見て、聴き入っていた。少女が歌い終わり一呼吸つくと、俺は急いで少女から目線を逸らした。
「屋根までとんだシャボン玉って、どうなるか、知ってます?」
少女は俺の横顔を見つめながら言った。俺はそっけなく
「だから、最後は消えるんだろ?」
と答えた。俺には少女の質問の意図が全く分からなかった。
「消えたシャボン玉って、きっと誰にも覚えられてないんですよね、こんなにも綺麗なのに、消えたとたんに誰からも忘れられて……」
少女は小さな声で、寂しそうに、そう言った。
「ごめんなさい、昼寝の邪魔しちゃいました。今日はとても楽しかったです、それじゃ私は帰りますね」
少女は俺に笑顔を向けたそう言った。勝手に喋るだけ喋って少女は背を向けて走り出す。
「おい」
あろう事か、俺は少女を呼び止めていた。理由は分からないが、もう会えないような気がした。初めは迷惑だと思っていた。だけど、少女と話している時だけ、母が死んだことを忘れていられるように思えた。
少女も俺が呼び止めるなんて思っていなかったらしく、振り返った顔は少しだけ驚いていた。
「なんですか?」
「よかったら、名前だけでも教えてくれないか」
名前を聞いておけば、また会えるような気がした。
「私の名前は夏見、榊 夏見です」
「俺の名前は……」
「知ってます。高坂 夷月さんですよね、あっ! そうそう、そのストロー、間接キスですね、それじゃ」
あっ……俺の顔が熱を帯びるのを感じる、太陽の熱ではなく、内から出てくるような熱だった。
少女はそれだけ言い残し、走り出した。俺は姿が見えなくなるまで、その背中を見つめていた。
「どうして、俺の名前を知ってたんだ?」
俺は少女の名前を知らない、会ったのも今日が初めてだと思う。だけど少女は俺の名前を知っていた。
「ったく、なんだったんだよ」
日がだいぶ傾いて、暗くなり始めた頃に、俺は久しぶりに家へと帰ってきた。
家に父がいないのは幸いだった。何日も家に帰らないで、叱られると思ったからだ。
俺は居間にあるテレビの電源を入れて、座布団を枕にテレビを見る。どこにチャンネルを合わせても七時前の時間帯は、ニュースしかやってなかった。
『今朝、二時ごろに交通事故がありました。場所は○山県、○○市、○山、県道沿いの国道で横断歩道を渡っている少女を信号無視の車が……』
ニュースの現場は、ここの付近、普段は滅多に車も通らないほどの田舎なのに事故なんて……。俺は自然とニュースに聞き入っていた。
『被害者の少女の名前は榊 夏見』
「えっ?」
俺は昼間に逢った少女のことを思い出した。彼女の名前と同じ名前だったからだ。
「どういうことだよ! 夏見って」
『現在のところ意識不明』
この世の中に同じ名前の人が何人いるかなんてわからない、単なる偶然なのかもしれない。
俺は、玄関から靴も履かずに駆け出していた。偶然であってほしいと願った。
だけどその望も病院を訪れたときに、あっさりと否定された。
少女の白い手首に巻かれた包帯が赤く染まり、手首には点滴の管がテープで止めてある、紛れもなく昼間に逢った少女だった。
「どういうことだよ! おい、起きろよ」
夏見の体は、服で隠れていない部分は殆ど包帯が巻かれ、触るのも躊躇われるほどに痛々しかった。
俺は少女の胸に耳を当て、小さな手を優しく握った。
ドクン……ドクン……ドクン……と心臓の音が聞こえる。
「なんでだよ、昼間はあんなに元気そうだったじゃねぇか! なのに、なのに、なんでなんだよ」
過ごした時間は、ほんの数分だったかもしれない。
「なぁ、明日は、水遊びをするんだろ、ほら、一緒に水遊び……なぁ、夏見」
夏見の手が少しだけ動いたように感じた。そして、口元が微かに動いた。
「……お……にい…………ちゃ……ん……あり…………がと……」
ドクン、ドクンと脈打つ心臓の音よりも大きく、夏見の声が聞こえたように感じた。
ドクン……ドクン……ドクッン……
゛消えたシャボン玉って、きっと誰にも覚えられてないんですよね、こんなにも綺麗なのに、消えたとたんに誰からも忘れられて゛
そして音は止まった。シャボン玉のように……。
母が死んだと聞かされたときにも出なかった涙が、流した記憶さえない涙が、止め処無く溢れた。
それから数日が過ぎて、俺は徐々に母の死を受け入れれるようになっていた。大切な人の死を体験したのは初めてのことで、なかなか受け入れられない自分がいた。
俺の帰る場所はもう゛ここ゛にしかない、逃げる場所なんてもうどこにもない、それさえも受け入れられるようになっていた。
だからだろうか、母から届いた手紙の封を初めて開いた。母から届いた手紙を読むことなんて無いだろうと思っていた。
『高坂 夷月さまへ
息子に手紙を送るなんて、少し変な感じがするね。息子に手紙を書くなんて、夢にも思ってなかったけど、慌しく出て行った所為か、大切な話をする時間もなかったね。
夷月には、私達の勝手な都合で迷惑をかけて、いくら謝っても許して貰えないと思う。だけどね、夷月には私達が離婚した理由をちゃんと言ってなかったと思うから、手紙に書いておくね。
私達が離婚する一ヵ月前だったわ、父さんの勤めていた会社がね倒産したの、父さんは何でも自分で背負い込むタイプの人でしょ、貯金もあまりなかったしすぐに全部無くなったの。
父さんは、私に迷惑が掛かるからって離婚届を私に差し出したの……勿論、私は嫌だって言ったのよ。でもね、私が働きたいって言っても、絶対に頷いてくれなかった。
夷月は知らないと思うけど、私のお腹の中には、赤ちゃんがいたの。父さんそれを知ってるから、絶対に私に働かせたくなかったんだと思う。
あの人ね、自分が生活していくのに精一杯だったのに、夷月の親権、絶対に譲ろうとしなかった。
「お前はお腹の赤ちゃんのことだけ考えろ、夷月は俺が必ず立派な大人に育てるから」って言ってたのよ。本当に自分勝手な人だよね、でも私嬉しかったな。
夷月はいつも父さんが遊んでくれないって拗ねてたけど、父さんあんな風に見えても私達の事、いつも一番に考えてくれてた。
父さんといつまでも仲良くね
母より』
俺はいつの間にか泣いていた。手紙を読んでると、笑ってる母の顔を思い出した。本当は母が一番辛い筈なのに、そして何より、自分が思っている以上に、愛に包まれて生きているのだと感じた。
今までずっと嫌っていた父、俺は初めて気付いた父の愛に涙を流した。
『高坂 夷月さまへ
夷月に手紙を書くのは、二度目だね。少し間が空いたけど、初めに送った手紙は読んでくれた? あのときに話してた子供が産まれたのよ、名前はね父さんの字と母さんの字を一文字ずつ取って『夏見』よ榊 夏見、良い名前でしょう。
一番に夷月と父さんに見せてあげたいけど、ちょっと遠いからしばらくは会えそうもないのよね、でもね、絶対に二人で会いに行くから、その時を楽しみに待っててね
母より』
夏見が俺の妹……とても信じられない言葉が、母の手紙には綴られていた。
あの日、母が死んで数日が経ったあの日に出会った少女が俺の妹……
「そんなこと、あるわけないだろ」
必死に否定してるのに、夏見が最後に゛おにいちゃん、ありがと゛と言った。その言葉が頭から離れなかった。あいつは全部知ってて、俺達に会いに来てくれた。そして俺は何も知らないまま、夏見に接していた。もし知ってたなら、もう少し優しく接してやれたのかもしれない、そう思うと胸が締め付けられるように痛くなった。
そして最後の手紙には、母が病気で長くないことと、父と俺と夏見の三人で仲良く暮らしてほしいと書かれていた。それが母の最期の望みだった。
古い記憶を思い出しながら、俺は家のベランダに座っていた。
俺は一人の娘と、妻と三人で人並みの幸せを満喫している。一人娘は夏見にどこか似ている気がした。
「ふぅー、うわっ、シャボン玉、うまく飛ばないよ」
「ちょっと、お父さんに貸してみな」
俺は赤い容器に入ったシャボン液をストローにつけて、ストローに口を当てて息を吐く。
「わぁー、すごい、すごい、どうやったらうまく飛ばせるの?」
「頑張って練習したら、すぐに飛ばせるよ」
手に持った容器を再び娘に返す。
「ふぅー、あっ! みてみて、うまく飛んだよ」
七色のシャボン玉が空へと舞う。
「シャボン玉とんだ、屋根までとんだ、屋根までとんで、お空になぁった」
「お父さん、歌詞違うよ、夏見が歌ってあげるね」
シャボン玉とんだ、屋根までとんだ、屋根までとんで壊れて消えた。
「夏見、本当は壊れて消えたりなんてしてないんだよ、最後はお空になるんだよ」
俺は今でもちゃんと覚えているよ……夏見、そして母さん。 |