春遠からじ 1
眼前に迫る草薙剣。
妙にゆっくりと、まるでスローモーションのように見える。
どこか他人事のように感じながら、北海竜王は待っていた。
最後の瞬間を。
もはや避けるだけの余力はない。
日本武尊の剣を自らの身体で受け、その隙に残った力を解放する。
相打ち狙いだ。
分の悪い賭けだが、もうこのくらいしか手がない。
そして日本神話の英雄神にも、竜王の狙いは読めている。
読んでいてなお、その誘いに乗った。
竜王の怒りが判ったから。
日本武尊にとってリンは敵であり、戦いの中で倒したことに一片の後悔もない。
正々堂々たる一騎打ちの結果だ。
だが、仲間にとっては納得できるものではないだろう。
ゆえに彼は瀕死の竜王の挑戦に応じた。
最大最強の技をもって。
全力で戦い、屠ることが戦士としての礼だから。
超高速移動から草薙剣を突き出す。
ただ一点。
北海竜王の心臓をめがけて。
この機を逃すまいと広沢の腕が迫る。
だが、わずかに遅い。
ドラゴンの爪は勇者に届かない。
「僕の勝ちだっ」
「どうかな?」
聞こえた気がした。
少女の声が。
突如として出現した紅い槍。
剣先が柄に衝突する。が、それも一瞬。真っ二つに折れる聖槍。
万分の一秒にも満たない出来事。
その一瞬で勝負は決まっていた。
灼けつくように伸ばされた広沢の拳。雷光を纏って日本武尊の頭を吹き飛ばす。
断末魔を残すこともなく、首から上を失った少年がどさりと倒れた。
砂と化し、消えてゆく肉体。
広沢は強敵の末期を見てもいなかった。
折れた槍を愛おしそうに拾い上げる。
「リンちゃん……リンちゃん……」
嗚咽。
屋上に蹲り、慟哭する北海竜王。
腕の中、深紅の槍が消えてゆく。
空が、想いに感応するように雨脚を強めた。
雨。
初冬の雨
心まで凍らせる冷たい雨。
頬に感じ、仁は瞳を開いた。
「はて……?」
死んだはず。すべての爆薬に火を付け、召喚装置と引き替えに木っ端微塵に吹き飛んだはずだ。
それとも、ここが話に聞くあの世というものだろうか。
天国になどどうやってもいけるはずがないから、いるのは当然、地獄ということになるだろうが。
分厚い雲のカーテンに閉ざされた空から、冷たい滴が落ち続けている。
「地獄にも、雨が降るのでござるな……」
奇妙な感想を抱く。
「なにいってるのっ!」
怒ったような声。
このときはじめて、仁は何者かの腕に抱かれていることに気づいた。
「義姉上さま……?」
「いったはずよっ 死んだりしたら絶対許さないってっ」
目の焦点が合い、絵梨佳の怒っているのか喜んでいるのかよくわからない顔が視界に飛び込んでくる。
満たされている柔らかな光。
癒しの力だ。
命を司る芝の持つ特殊能力。だが、絵梨佳にできるのは自己回復のみで、他人を癒すことができなかったのではないか。
ピュアブルーの髪がそよぐように揺れている。
「なんかできちゃったのっ 知らないけどっ」
澪随一のヒーラーである准吾を軽く超えるほどの、圧倒的な力。
芝の本家が持つ本来の力だ。
ここにきて覚醒した。
それによって仁は自分が救出されたのだと想像することができた。
が、その先が判らない。
「あの……義姉上さま……?」
「なによっ!」
「何をそんなに怒っているのでござろうか……?」
「ぐ……」
言葉に詰まる絵梨佳。
本当に間一髪のタイミングだったのだ。コンマ一秒でも遅れていれば仁は助からなかったろう。
実際、仁の命は消えかかっていた。
芝本来の力だったから癒せたものの、五十鈴の回復魔法ではとうてい間に合わず、沙樹や准吾でも首を振るだろうほどの重体だった。
それだってかなりぎりぎりのラインで、ほんの数秒前まで絵梨佳は泣き出しそうな顔をしていた。
危機を脱したことで、芝の姫の心情は絶望から喜びへ、喜びから怒りへとシフトチェンジしていったのである。
簡単にいうと、安心して怒れる状態になった、ということであろうか。
もちろん仁に、そんな感情の機微は判らない。
「義姉上さま……?」
「うるさいっ 仁くんが無茶なことばっかりするから怒ってるんだよっ!」
ぎゅっと抱きしめられる。
抵抗もせず身を任せるニンジャボーイ。
「申し訳ございませぬ。どうやらお手数をかけたようで……」
「ちがうよ」
「はて?」
「こういうときは、謝るんじゃないんだよ。仁くん」
優しげな絵梨佳の微笑。
不意に、仁の頬に朱がさす。
少しだけの躊躇い。
「……ありがとうござりまする。義姉上さま……」
ぎこちない笑み。
笑うことになれていないのだと、表情が語っていた。
「いったん本陣までさがるよ」
「御意」
少年を抱いたまま重力制御で宙に浮かぶ絵梨佳。
ゆっくりと仲間たちの元へと戻ってゆく。
ニンジャボーイの働きによって、際限のない黄泉醜女の生産は止められたものの、それで澪が完全に有利になったわけではない。
いまだに決定打を放てないのはたしかだし、いぜんとして要塞は失陥の危機にある。
なにより、本陣はまったくの無傷なのだ。
「ふむ。どうしようかな」
戦況を眺めやったこころ。
下顎に手を当てる。
「たたみかけるべきではないか? 門を壊されたとはいえ、黄泉醜女はだいぶ呼べたのだろう?」
悩んでいる様子の軍師に、バンパイアロードが提案した。
「四百ってとこだね。倒された分を差し引いて、残は二百五十ちょっとくらいかな? そっちは?」
「こちらも、二百五十いるかいないかというところだ」
「日本武尊の気配も消えたね。やられちゃったかな」
けっこう損害は大きい。
敵方の気配も大きいのが二つばかり消えているから、まったく戦果がなかったわけでもないだろうが。
「ここで引いても、得るものは何もないんだよねぇ」
「では攻勢を強めるべきだろう」
「むーん。流れがさ」
「流れ?」
「ん。口で説明するのは難しいんだけどさ。流れが向こうに行っちゃった気がするのよね」
なんとも要領を得ない言葉だが、御前の血気を冷ますには充分だった。
攻めるべきではないときに攻めて、結果として敗北してしまった例など枚挙に暇がない。
きちんと計算を建てて、それに基づいて動くタイプのこころが、継続攻勢を保留するのだから、傾聴すべきである。
「攻勢を続けるのはまずいと判断するのだな? 八尾どのは」
「判断ってほどじゃないよ。いったん軍を下げて再編成した方がいいかなって思っただけ」
「再編成? ということは」
「うん。こっちも本隊を出す」
「はやいな……戦闘開始からまだ三十分だぞ」
溜息を吐く御前。
こころが苦笑で応えた。
その三十分で、勝敗の帰趨をある程度決めておきたかった。
結局、要塞を陥落させることはできなかったことがすべてである。
「敵本隊にも痛撃ってほどのダメージは与えてないし、なんとも拙い戦いをしちゃったね。我ながら」
善戦はしたが、結果が伴っていない。
軍師としては慨嘆のひとつも漏らしたくなってしまう。
「前哨戦は痛み分け、としておくか」
「そだね。このまま敗勢に追い込まれるのは嫌だから、いったん引こう」
さっとこころの右手が上がる。
「兵力の逐次投入になってしまいました。我ながら、なんとも拙い戦いをしたものです」
こころの嘆きは、彼女の専有物ではなかった。
ぼろぼろになったハイエースに背を預け、後退してゆく御前陣営を眺めながら、魚顔軍師も同様の呟きを発している。
「でも、敵が引いてくれれば要塞と合流できます。さしあたり戦略目標は果たせますよ。信二先輩」
妙に青い顔で言うのは実剛だ。
クレイジードライバー楓の運転で、ちょっと車酔いしちゃった。
「敵にしてみれば、陥とせれば幸い、くらいのものでしょうからね。ここで攻略にこだわりませんよ。こだわってくれた方が良かったんですがね」
二正面作戦を強いることができる。
敵が増えなくなった今なら、戦闘継続の方がどちらかといえば好ましい。
疲労度の問題はあるものの、できればたたみかけたかった。
それが判るから、敵もさっさと引いたのだろう。
「まあ、そう上手くもいかないでしょう」
「そうですね。御大将のいうとおり、ここは当初目標を果たせたとところで満足するべきですね」
「いらない欲を出すと足下をすくわれますから」
肩をすくめる次期魔王。
第一ラウンドは終了だろう、と。