倉本蒼の営業(5):文字の魔物
倉本藍「夢や理想を描くのは自由です。人間は欲望ある生き物ですから、実現するかどうかはさておき、夢や理想を叶える努力をすることができます。ですが、現実逃避を実現するのは、対象の精神を破壊でもしない限り、無理な相談ではないでしょうか」
日下渚「はあ」
(二分後)
倉本藍「……は、ただ現実をひた隠しにしようとしているだけです。結局のところ、君達人類は完全に管理された文明社会で生き延びるしかありません。それでも現実逃避をしようと愚かなことをいうのなら、止めはしません。私にできるのは、歪な形で、君達の願いを叶えるビジネスをすることだけです」
日下渚「倉本さん、今日も営業に失敗したのですね」
倉本藍「……はい」
私と日下渚の二人は、日下家の部屋で、渚と一緒にくつろいでいました。
「今日の授業はこれくらいにしましょう。最後にホルクハイマーとアドルノや文明化論の話へと逸れてしまいましたが、次回はイオニアのミレトスの授業に戻ります。参考書をいくつか渡しておきますので、自由にお読みください」
「はい。ありがとうございました」
私はにっこりと微笑みながら、礼をする渚に本を手渡します。
「それは何ですか?」
渚は私の傍に置いてある紙の束を指差しました。
私はパンフレットのひとつを開いてみせます。
「ああ、これですか。営業用のパンフレットですよ」
「パンフレット、ですか。イラストばっかりなのです」
「はい。長々と説明しても、最近の人間は飽きっぽいところがあるようです。パワーポイントで作成したような単純化した資料を用いて、脳みそをほとんど働かせなくてもわかるようにしてあげないといけません。もっとも、私のビジネスに懐疑を抱く隙を与えないための戦略でもあるのですがね」
「突然、悪魔です、契約してください、という時点で、怪しさ満点なのです」
「あはは、それもそうですね!」
私はパンフレットをまとめ、正座した足を崩しました。
楽しい勉強会を終え、くつろいでいる間に、とっぷりと日が暮れます。
「おやおや。真奈花はまだ帰ってきませんね」
「わからないのです。アルバイトに行ったはずなのです」
「そうですか。残業でしょうか」
私はステンレンス製の腕時計に視線を落としました。
「しかし、もう夜の十二時ですねえ。高校生が夜中の十二時までアルバイトをできるとは思えません。もちろん、法を遵守しないなら別ですけれど」
「怖いこと言わないで下さい」
「わかりませんよ。人間は欲望のためなら平気で悪に手を染めますから」
私は、倉本藍、高校一年生、十五歳です。
華奢な身体と長い黒髪、天才的頭脳と抜群の運動神経が取り柄です。
胸がないのは愛嬌です。
「警察に連絡するのです。倉本さん、電話を貸してほしいのです」
「スマホのことですか?」
「……あの、使い方がわからないのです」
日下渚は、肩辺りまである黒髪を束ねて、左耳の上辺りにしっぽを作ってあります。渚の姉、真奈花は、現在行方不明です。姉妹揃って貧乏人のようです。私達は学生用の格安アパートに住んでいます。値段の割には、トイレ・バス・ベッドが付属していて、部屋も八畳くらいあり、なかなか豪華な造りです。私の部屋は、日下家の部屋の左隣です。
私がしっかりと面倒を見て差し上げなくてはなりません。
そういう契約だからですよ。
「ふむ、そうですね」
私は足元の地面に知恵の泉を広げると、真奈花の居場所を覗き見ます。
「何をしているのですか」
「ちょっとした魔法です」
渚が泉の中を覗き込み、小首を傾げます。
「文字がたくさんあって、よく見えないのです」
「ここは、学校の一室ですね。ここに真奈花がいるようです」
「どうして学校にいるのですか?」
「この大量の文字、どうやら面白いことが起きているようですね」
「真奈花に何かあったのですか?」
「まあ、そんなところですね。警察では対応できないでしょう」
渚はじっと私の顔を見つめます。
私は心底愉快な気持ち、首を曲げてはにかんでみせます。
「わたしも行くのです」
「では、準備ができたら行きましょうか」
「準備できたのです」
「真っ黒ですね」
渚は全身真っ黒のパンツスタイルです。
私が真奈花に買ってあげた服ですね。サイズが少々大きいです。
私は制服に着替えました。
「どうして制服なのですか。目立つのです。補導されるのです」
「学校に行くときは制服と決まっていますから」
「潜入するのに制服と決まってはいないのです」
渚には変な目で見られました。
気にしないことにします。
「では、行きます。少し眠っていてください」
「どうしてですか?」
「私ひとりなら、テレポートでもよかったのですがね。地獄の門を通じて隠密に移動しようと思います」
「なら、眠らなくてもよいのではないですか?」
「君……渚は、地獄の住人と目を合わせたいのですか?」
「それはそれで楽しそうなのです」
私は小さく笑いました。
「下手をすると、脳が焼かれて精神が死にますよ?」
「寝るのです」
「おやおや」
渚は簡単に信じてくれました。
実は、気をつけていれば、たいしたことにはなりません。
今度、観光案内で連れていってあげましょう。
「わかりました。では、しばしの間、辛抱してください」
私は渚を魔法で眠らせて、お姫様抱っこします。
私は高さ三メートルほどの高さある地獄の門を召喚すると、重い扉を開き、つかつかと足を踏み入れました。
とある教室で、私はトマトレタスサンドを食べています。
自宅にストックしてあるサンドイッチのひとつを持ってきました。
さて、結構面倒なことになっているようですね。
「着きましたよ」
私は渚にかけた魔法を解きます。
ぱっちりと目を開いた渚は、目を見開きました。
「ほえっ?」
湊の黒髪の毛先を、「人」の黒い文字がよじのぼっています。
私は渚にくっついている「人」の文字を指先でつまみました。
「これは何ですか? また魔物ですか?」
「はい。〈文字の魔物〉です」
文字の魔物は、小さく「ピィー」と甲高い鳴き声を発します。
渚は私の横顔をじっと見つめたまま、眉尻を下げました。
「何だか、かわいそうなのです」
「後で嫌というほど見ることになりますよ」
私は渚の掌の上に「人」をのせました。「人」は大人しくしています。
「さて。問題は隣の教室です。さっき外から眺めましたが……ふむ。実際に見たほうが早いでしょう」
「わかったのです」
私は渚とともに、隣の視聴覚室へ向かいました。
本来は、部活でしか使われていない空き室のはずです。
「何ですかこれは」
「文字ですね」
「それはわかるのです。でも、どうして文字が飛んでいるのですか」
除き窓から見ると、部屋中を文字の大群が埋め尽くしています。
「魔物ですから、飛ぶくらい当たり前ですよ」
「そういうものなのですか?」
「そういうものです。魔物は概念が具現化した存在です。以前見た〈舞踏の魔物〉は、人間の強い悔いや悲しみが凝縮された、負の集積体といったところです」
「…………」
「どうしました?」
「今回の魔物は?」
「これは少し例外です」
「例外、ですか」
渚は飛び交う文字の群れをぼんやりと眺めています。
渚の掌にのっていた〈人〉の文字は、渚の右肩でくつろいでいます。
私は視線を視聴覚室の魔物に移します。
さて。ちょっと遊んであげましょうか。
「開けますので、私の後ろに隠れてください」
私は戸を素早く開きました。
文字の大群が鳥の群れのように舞い、一斉に外へと出てきます。
文字の大群は、純弾さながら勢いよく飛び出しました。
文字達は、私の胸にぶつかり、弾けました。
「おや……」
私の身体が軽くのけぞりますが、渚が支えてくれます。
「平気ですか?」
「ええ、まあ」
すぐに肉体と制服の修復を終えます。不意打ちとは卑怯ですね。
私は身体についた黒鉛を払い、部屋に足を踏み入れます。
逃げ惑う文字を踏み潰しながら、真奈花を捜します。
しかし、次々と文字の魔物が溢れ出してきます。
ふと気づくと、周囲は橙色の結界に覆われてしまいました。
魔物達の甲高い鼻歌が空間を支配します。
終わりのない地平線の先には、何もありません。
地面には白いチョークで書かれた棒人間が蠢いています。
「ひえっ!」
渚は棒人間の手から逃れるように、後ずさりました。
「……これはまた面倒なことになりました」
白い棒人間が、私に向かって歩いてきます。
「邪魔です」
私は上空に瞬間移動し、棒人間にとび蹴りを食らわせます。
しかし、次々と棒人間はあらわれます。
いちいち相手していては、きりがありません。
「ひゃっ! 倉本さん!」
「おや」
私の背後で、渚が棒人間に取り囲まれています。
渚に危害は加えないはずですが……。
私は地獄門を召喚し、重厚な銀色の扉を開きます。
数多の棒人間は、地獄門へと吸引されていきました。
門の中では翼の生えた牛の姿をした悪魔像が棒人間を斧で粉々にしています。
「こんなものでしょうか」
「倉本さん、後ろです!」
私は回し蹴りをして、文字の魔物を黒鉛へと変えました。
はぐれた文字の魔物は、地獄門へと吸い込まれていきます。
「本体はどこでしょうかねえ」
私は悪魔像に文字の魔物の処理を任せて、飛び立ちます。
中空で見渡すと、文字も魔物を放っている本が見えました。
「そこですか」
私は指先で魔方陣を描き、本に太い落雷を一撃見舞いました。
ガラスの割れるような音とともに、結界が崩れていきます。
渚は頭を抱えてうずくまりました。
悪魔像に命じて、渚に結界破壊時の事故が起きないよう護衛させます。
景色が歪み、やがて、もとの部屋に戻りました。
悪魔像は翼を羽ばたいて地獄門へと戻り、門は瞬時に姿を消します。
中上級程度の悪魔までなら、いつでも、私の優秀な使い魔になってくれます。
「もう平気ですよ、渚。怪我はありませんか」
渚はよろよろと身を起こしました。
「はい……平気なのです」
「それはなによりです」
私はちらりと視線を動かします。〈私が以前書いた〉日記が開いたまま、真奈花の足元に落ちていました。さすが私の日記、雷を受けてもなんともありません。
私は紅表紙の日記を拾い上げ、閉じます。
同時に、渚の肩にのっていた〈人〉の文字は黒鉛になりました。
渚は少し、しゅんとしました。
「消えてしまったのです」
「魔法が解けたのですよ」
「ちょっとかわいそうなのです」
「……ふむ、そうですか。今度、何か考えておきますかね」
「お願いするのです」
渚は小さくお辞儀しました。私は義務を果たさなくてはなりませんからね。
さて、真奈花は……捜すまでもありませんでした。
「おや、こんなところで寝ていましたか。風邪をひきますよ」
真奈花は部屋の隅、ちょうど死角となる入り口のすぐ左にうつぶせで転がっていました。すうすう、と寝息を立てています。
私は日記帳を異空間に収納します。
このような恥ずかしいものを残しておくわけにはいきません。
おそらく、好奇心旺盛な誰かは、私が日記に施した防衛魔法を発動させて、真奈花を転移させてしまったのでしょう。
本来は真奈花に読まれないようにするために、私以外が開くと、〈真奈花を日記の上空にテレポートさせて、びっくりさせた後に眠らせる〉、お遊び満載の転移魔法の施しをしたのですが……真奈花以外が読むときのことを想定していませんでした。そもそも渚は他人の日記を読もうとはしませんからね。もっとも、真奈花や渚に危害を加えるようなことは禁じてありますから、真奈花は元気そうですね。
これを読んでしまった誰かは、私の仕込んだ第二の魔法で、どこか遠い次元の彼方に飛ばされてしまったのかもしれません。
そもそも、誰にも見つからないように視聴覚室の戸棚の隅に差しておいたのに、どうして見つけてしまうのですか。今度からは私の懐で厳重に保管しておきます。
さて。何もない戸棚とうのは寂しいものですね。代わりに、ほとんど実害のない、私が最近したためた魔道書を三冊ほど置いておきましょう。一冊だけ暴発したら危ないものがありますが、その時はその時です。もちろん、私や真奈花、渚には作用しないように仕掛けを施しておきます。安全第一、享楽第二です。
「何をしているのですか?」
「魔道書を見つけたので、回収しただけですよ」
嘘は言っていません。
「そうなのですか」
「警備員に見つかる前に、早く帰りましょう」
私は真奈花を抱えると、地獄の門を召喚しました。
渚は軽くまたたきします。
「あの、わたしは……」
「普通に私の後ろを着いてくれば平気ですよ。寄り道したら知りませんが」
「わかったのです」
渚は私の背中にぴったりとくっつきました。
やれやれ。何だか疲れました。
私は日下家の部屋に真奈花を寝かせます。
部屋の外に出て、二階の手すりから、渚と夜空を眺めました。
私には満点の星空がくっきりと見えます。
渚は、私と並んでぼんやりと月を見上げています。
「真奈花は、明日になったら目が覚めるでしょう」
「はい。あの、門の中にいた魔物さん、優しいですね」
門前にいた悪魔像のことでしょうか。今日はそれ以外の悪魔と顔を合わせていません。皆、私を恐れて避けていくものですから。
「私の客人ですからね。もっとも、優しいふりをしているだけかもしれませんよ?」
「そんなことはないのです。今度は、ほかの魔物さんともお話ししたいのです」
「珍しい玩具にされるだけだと思いますがねえ。私のような偏屈は例外だと思ったほうがいいですよ」
私はうんと伸びをしました。魔力が枯渇しているせいか、とにかく眠いです。
「今日はもう寝ましょうか」
「はい。おやすみなさい」
私は渚にひらひらと手を振ります。
渚がおもむろにドアを閉じたところで、私も自室で横になりました。
面倒ですので、制服姿のままです。人前ではないので、わざわざ人間らしいふるまいを演じる必要はありませんよね。とはいえ、私は眠くならないはずなのですが、今日はぐっすりと眠りたい気分です。
おかしいですね。おかしいといえば、私の日記の内容もこれまたおかしな内容です。私のビジネスの話を書くのは当然として、真奈花と渚の成長日記のようなものになってしまっています。これは真奈花には見せられません。悪魔としての矜持が失われてしまいます。渚は……淡白な反応が返ってきそうですね。
私は今日の日記を寝ながら書き終えると、そのまま瞼を閉じ眠ります。
ふむ。私が私として存在し、人間の器をもって実存し続けるためには、次回こそは営業を成功させなくてはなりませんね。そうでなければ、この日記の続きを書くことも、楽しい勉強会を開くことも、かなわなくなってしまいますから。
私のささやかな享楽を失うわけにはいきません。(了)
日下渚「倉本さん。倉本さんは本気を出すとどれくらい強いのですか。ゲームに喩えてください」
倉本蒼「じゃんけんでは何故かいつも負けてしまいますねえ」
日下渚「はあ」
日下渚「あひるさん。倉本さんは本気を出すとどれくらい強いのですか。ゲームに喩えてください」
賀茂川家鴨「裏ラスボスを一撃で倒せるくらいの強さです」
日下渚「……はい?」