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夜明け前

作者:イリ
 生半可な夢がわたしの身体を元に戻し、せめて夢の中だけでも自由になればいいのだがそうはいかない。暗い海に放り出され止ることなくひたすらと泳ぎ続けるのだ。深さがどれくらいなのかもわからない海底に怯え、辺りに人がいるかも分からずに助けを求める。どこまでいってもわたしはもう昔に戻ることはない。
「……っ」
 汗ばんだ額を手の甲で拭い目が覚めると、夢よりも現実はもっと酷い。重い身体を起こし、ホースを引きずり一段、一段階段を下りる。足の前にホースが絡まり気をつけないともつれて階段から落ちてしまう。長いホースを纏めながら居間にいくと呼吸を整える為にソファに腰を下ろす。
「荷物はもうまとまってるの?」
 母がわたしが下りてきた事に気付き寝室から顔を出す。まだ寝てればいいのにと思いながらもわたしは頷き、返事を返す。去年の暮れからわたしは自宅から約1時間かけて通う職場に転職した。このままではいけないとずっと思っていた。
 テレビの中から容姿だけしか取柄がないアナウンサーが、桜が開花した事を伝えていた。どうやら今年は例年よりも随分早く咲いたらしい。桜の開花はまるでわたしの門出を祝ってくれているようにも思う。
「お父さんが帰ってきたと思ったら、まさか和音が出て行くなんてね」
 わたしは明日、この家を出て行く。息が詰まるとかそういった事だけではない。このまま終わりたくないと思ったからだ。出来ない事を当たり前に思ったり、人に支えて貰う事を当たり前に思ったりはしたくないのだ。いずれ自身がどうなるかなんてずっと以前に知っている。それまでの時間を泣くのではなく、わたしは前を見て過ごす事を決めた。
「どうなるかなんて、わかんないよ。三日で帰ってくるかもしれないし」
 元に戻らない身体を全て受け入れる事ができるようになるのは、きっと何十年も後の事だろう。それで幸せかどうかなんて、その時決めたらいいのだから。長い目で見て安定を手にするよりも、明日どうなるか分からない身体を抱えている今をどう過ごすかの方が問題で、わたしは止まったままの時間を動かす事を選んだ。
「一度出て行くなら帰ってくるんじゃない」
 母は笑顔で言った。わたしはこの人が居なければ恐らく途中で全てを諦めていたに違いない。この人のおかげでまた沢山のチャンスを手にする事が出来た。わたし一人では到底成し得ない事を反対しながらも最後はいつも、背中を押してくれていたのだ。

 あなたとわたしはそんなに違いますか?

 いつかの日記に一言だけこう記されていた。どうしてそう書かれていたのかは分からないが、きっと病に気付いた初期のものだろう。七年前に泣き続けていたわたしに何か一言送ることができるのであれば、もう少し走れば楽になるよ、と教えてあげたい。
 楽になるまでに様々なことがあって、辛くて悔しくて苦しくて逃げたくてどうにもならずにただ泣く事になるけれど、それでも沢山の人の優しさに触れて忘れられないような素敵な言葉をもらえる事を教えてあげたい。
 この七年を思い返せばあっという間で、ただそれをまだ七年と呼ぶのか、もう七年と呼ぶのが正しいのかは今は分からない。五体満足とは言えない身体を引きずりながら、まるで夢のような果てのない海をさまよい、それでもわたしは生きていくのだと思う。狭い選択肢の中で何かを探そうと努力をしていく。
 いつかの日記に答えを出すのであれば、間違いなくそれはイエスだ。好んでこの身体になりたいと思う人など居る訳がない。この重たい足とくたびれた肺を持ち生きていくなんて困難だ。けれどわたしもこの七年で気付いた事がある。
 泣きながら過ごしていたあの頃と、現在のわたしもまた違うのだ。僅かな希望を胸にあの頃よりもずっと上を見ているのだから。先の見えない壁に立ちはだかれて立ち止まりまた涙を流そうともわたしは必ず動き出す。

 わたしには肺がない。正確には片肺が全く機能していない。もう七年も前からだ。徐々に増えた病名と徐々に進行していく病に蝕まれ、何時からか健常者ではなくなってしまった。健常者との境目は何処からなのかは説明し難いが、今現在、健常者ではない事は間違いない。
 好奇の目に晒され、恋人は離れ、幾つものものを犠牲にした。数え切れないほどの、と言っても過言ではない。昨日まで出来た事が今日出来なくなってしまったり、昨日まで許されなかった我侭が突然許されるようになってしまったり、わたしの周りが急速に変化を遂げた。その流れについていけずに声を上げ泣いてみても、何かが救いの手を差し出してくれる訳ではなく最後は自力でどうにかしなければいけなかった。
「あはっ。やっぱりまだ寒いや」
 この部屋で見る最後の夜明けの星を見ていた。わたしの病は日常生活に大きな支障を来たす為に、家族など沢山の人に助けられ日々を過ごさなくてはならない。その優しさを素直に受け入れるようになるまで随分の時間が必要だった。もっと早く気付けたら違う今があったのではないか、と嘆いた日々も今じゃ遠く昔のようにも感じるのだ。
 だんだんと東の空が明るくなってくる。それに伴い先程まで光っていた星もその明るさに紛れ姿を消してしまう。そんな中わたしは、まだ健常者だった頃に百メートルの距離をどうやって走っていたのだろうと考えていた。決して歩けない訳ではない。ただ全力疾走などもう二度とする事ができない。ネジの外れたからくり人形の様にしか歩けないわたしは数メートルの距離すらも手ぶらで歩く事は許されない。壊死した関節が悲鳴をあげるのだ。
 一歩、また一歩と歩くたびに体が歪み呼吸が上がる。片肺がこれでもとばかりに働くが十分な酸素が身体に流れることなく唇は見る見るうちに黒くなっていく。それに看かねた母親がお願いだからやめてくれ、と止めに入り、わたしは何もする事が出来ないでいた。
 長距離マラソンが好きだった。あと少し、もう少し、と足を動かしながらも何も考えずにただ走り続ける。走り続けると自分の呼吸音だけが耳元に聞こえてくる。まるでリズムを刻むように一定の速さで。それがどれだけ気持ちいいことかもうこの身体は覚えてはいないのだろう。
「あ」
 遠くから車のヘッドライトが見える。白の軽自動車、あれは母の車だ。工場勤務を終え眠たげな顔をしているに違いない母が帰って来たということはもう五時を過ぎている。ベランダに居る事が見つかるとまた血相を変えて二階の部屋へと上がってきてしまう。わたしは慌てながらも部屋の中に入る。
 薄暗い部屋に戻るとまたわたしはただの病人戻ってしまう。わたしの中に酸素を送る機械音が音を立てている。まるで別の誰かが深呼吸するようなその機械音は不快でしかない。けれど、わたしはこれに支えられて生活しているのも事実なのだ。
 何時からか朝を確認しないと眠れなくなってしまった。昼と夜の生活が逆になっている訳ではなく、夜に眠りにつくのが恐くなってしまったのだ。目覚めるとまたどこか身体が悪くなっているのではないか、病が進行しているのではないか、いらぬ心配をするようになり、朝になり自分の身体に異常がない事を確認しないと眠りにつけないのだ。朝になるまでの時間を読書したり映画を見たりするのではなくただ部屋の天井とひたすら睨めっこをしているのだ。
 わざと窓際に置いたベッドの上からでも窓の外を見ることは出来る。遠くの工場の煙突から煙が出てきて、朝日もいよいよ顔を出す。薄くなっていく星たちにさよなら、と挨拶をしてわたしも漸く瞳を閉じる。

 朝日が昇る少し前の夜明けに見える星をいつも見ていた。深呼吸の音までもが辺りに響き渡りわたし以外に誰もいない。時折遠くで車の排気音が聞こえ、そしてまたわたし一人に戻る。春だというのに吐き出す息は白く、寝巻きだけでは立っていられない。
 無音に近いこの時間はわたしが唯一、昔に戻れる時間。誰にも邪魔をされることなく、わたしを縛るホースや椅子もない。黙って呼吸をして星を見上げ、何も考えなくてすむ唯一の時間を明日からは別の場所で感じるのだ、今日とまた違う感情で。

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