第四章 部活動
学術研究都市ジ・アースは数多くの専門大学を抱えているが、総合大学は一つしかない。ジ・アースの総合大学と言えば、各分野の架橋となり、真のジェネラリストとして在る事を望むものが目指す最高の位置にある。ジ・アースはその運営自体が国連直下でなされていて、あらゆる思想、宗教に対しての自由と寛容を理念に掲げている。
ジ・アースの総合大学――総学――に学生として、指導者として、又維持管理などの総務部門においてさえ係わっている者は、毅然として高らかに人類のよりよい未来のために努力を惜しまないと謳い上げている。ここは各種専門大学の情報を常に集約している。あらゆる情報が、民間の研究機関や企業の機密開発情報までもが、砂糖に蟻が群れる如くに集まってくる。それを整理、調整させて現実社会に価値ある状態にまでまとめ上げて、再び社会に発信していく。ここは、現代社会の大脳新皮質そのものだ。情報の巨大貯蔵庫であり、情報を消化吸収する場所であり、新たな思考構築の材料として再び結実した種を各界に蒔いていく。情報は常に双方向に出入りしている。
大学という名で呼ばれるが、学生を育てる機能と情報集約機関としての働きとを兼ね備えた、特殊な存在だ。
総学はゆとりを求めてか、かなり広い敷地を有している。森のようにしか見えないほどに成長した木々を擁する公園部に二つのグラウンドがあり、その周囲をウォーキングやランニングに適した小径が整備されていて、その周辺には体育館が四つ点在している。体術部のある通称『養心館』は一階を半分にして体術部と何故か体操部が、中二階部分をフェンシングやボクシング、レスリングといった西洋格闘技術部系が利用している。
将来、体を使って稼ごうという奴が基本的に存在していないのが、総合大学という場所だ。体育会系の部活動に所属するものはそもそも数少ないし、健康維持のために仕方なく体を動かす連中が中心で、どう贔屓目に見ても運動部が活発であるとは表現しかねた。
だが、どの世界にも血の気が多すぎたり、体を動かすのが無上の楽しみという連中はいるもので、養心館は他の体育館とは一線を画し、そういった者たちの吹き溜まりと化していた。負けず嫌いの集団が勝ち負けのはっきりした種目をしていると、それなりに熱も入るわけで、体術部は珍しく運動部らしい活動をしている、数少ない部の一つだった。ジ・アースにある他の数多い専門大学と共同開催される『異種混合格闘技大会』なる目玉イベントもある。大会でいい成績をおさめる猛者目当ての女の子がグルーピーとして日参したり、護身術を覚えたいという女子部員も意外と数多いこともあって、養心館はむさ苦しさだけでなく、華やかさと活気にも溢れていた。
堂本一馬が部室で着替えて養心館に入ったとき、時間が早いせいか殆ど人影がなかった。彼は今のところ身長百九十九センチ。十七歳。一応まだ成長中だ。東洋武術の集大成である体術部に自然と多い例に漏れず、髪や肌色は黄色人種の特徴が色濃く出ている。混血の進む現在のこと、遺伝子の中にコーカソイドの割合も多く含まれているのだろう、肌の色とは違って顔だちは彫りが深く、体つきは細いながらもみっしりと充実していた。
去年の格闘技大会で、堂本は部長の榊原に準決勝で敗れて、無冠に甘んじた。今年こそは榊原を屈服させたいものだと、此に関してはささやかな野望を持っている。茶色がかった黒髪に細面の甘い顔が幸いしてか、一番多い取り巻きを抱え、体術部のエースを自認している。榊原蓮は二つ年上で同じ学年、体術に関しては漸く五本中二本はとれる様になった位で、悔しいことにまだまだ彼の方が上手である。
榊原と堂本は部活以外の日常生活では、そこそこ良い友人関係を築いている。学部も同じなことだし一緒に過ごす時間は誰よりも長くなっている。その榊原の方は、ご面相も体付きも逞しすぎて、アイドルには役不足らしく、ファンを自称する女の子たちの数は可愛いものだ。もっとも榊原はその方面には興味が無いらしく、堂本を羨ましがるよりは、煩くて大変そうだと気の毒がってくれる。唯一完全に勝っている部分を認めてもらえないのだから苦笑するしかない。
彼は体を伸ばしてから広い板張りの床に進み出た。普段は手具を好んで使う堂本だが、今日はちょっと具合が悪い。ストレッチで体を解しながら、疼く利き手を意識した。全く、喧嘩を売ったの榊原だし、立会人のつもりで付き合ったものの、榊原が軽くあしらわれるのに逆上して出たのもルール違反に違いないが、向こうは一応コーチだ。生徒の利き腕を責めるなんて阿漕な真似をよくしてくれた。
「可愛い。君、入部希望者なの」
いつの間にか出現した女子部の連中が、入り口付近で小柄な青年を捕まえて遊んでいる。堂本一馬は舌打ちした。実は昨日、現男子体術部部長であり堂本の親友の榊原は、女子部の新任コーチの葛城という女に決闘を挑んだ。小柄で線も細い癖に、自分たちを虚仮に仕切った視線が気に入らなかいと言っていた。普段あまり女などに頓着しない榊原が、「一発しめてやれば、性根も入れ替わるだろう」などと物騒な科白を吐くので、やり過ぎて事件になっては大変と付き合ったのが間違いの始まり。榊原は情け無くも叩き伏せられて、完膚無きまでに敗北を喫し、榊原の暴走を制御するつもりでついていった自分まで、頭に来た勢いで打ちかかって行って玉砕した。
強さを外見で判断しちゃいけないと分かっているが、今までの経験からはひ弱な外見の強者には出会ったことがなかった。小柄な奴には要注意だ。あれも又、葛城と同じクチなのだったらうんざりする。
そうはいっても、うちの入部希望者なら、女子部の猛者達に捕まっているのを見捨てるわけにもいくまい。筋肉のつき方から察して、体操部って感じでも無さそうではある事だし。大柄な女子達の中に埋もれている完璧な背の低さは、単にチビなのか、年齢が幼いからなのかは見当が付かない。
「バネッサちゃん、倫子ちゃん、マリーちゃん、そのチビちゃんが、入部希望者なら引き渡してくれよ」
「あら、堂本君。どうしたの、その包帯」
愛用の短棒を持っていた所為で、葛城に手厳しく打ち据えられた手首が、今朝起きたらすっかり腫れていた。見るたびに情けなさと悔しさが甦る。葛城は女子部の連中には何故か受けが良い。焼き入れしようとした事がばれるのも、返り討ちにあったと白状するのも些か具合が悪い。
「ちょっとね」
そう誤魔化してチビの肩を抱きかかえ、堂本は男子部の連中がいつもは溜まっている方に導いた。マネージャーはまだご登場じゃない。ま、仕方ない。
「入部希望らしいけど、名前と学年、学部は」
諦めて事務口調で言った堂本に、チビはにっこり笑顔を作った。結構可愛いじゃないか。
「小早川徹二です。人間行動総合学部一年です」
「人間行動総合?またえらく渋いね。俺は堂本一馬。男子部の副部長だ。学部は政治経済で五年。特に国連国家運営学を専攻してる。宜しくな。チビちゃんは一年じゃ、まだ専攻は無いね」
「ええ」
のっぽの堂本の丁度胸ぐらいの所に頭のある小早川徹二は、背が低いだけでなく線が細く、笑顔になると一層子供っぽい印象があった。
「それで、体術の経験は?」
近場で見ても絶対に無さそうだと思ったが、昨日、華奢な女と馬鹿にしていた葛城に痛い目にあった直後だから、一応聞いてみる。堂本の望み通り、彼は首を振って否定した。なんとなく、ほっとする。
「うちの部は結構ハードだから、初心者には結構きついよ。で、年幾つ?」
「もうすぐ十七です」
「なんだ、俺と殆ど変わらないじゃない。こっちもついこの間十七になった所だ。体は柔らかい方?硬いと怪我しやすいんだけど」
堂本は不躾な視線を小早川と名乗った男に這わせたが、彼の方は、プライドがないのか、それとも寛容なのか、別に表情一つ変えなかった。自分くらいの年になってチビなどと呼ばれたら、事実そうであればこそ尚更腹も立ちそうなものだが、彼はまるで頓着していない様だった。
「さぁ、あんまり人と比べたこと無いですから」
「そう、運動経験そのものがあんまりないって事だ。何時まで持つか見物だな」
嫌味たっぷりに言ってみたが、徹二はにっこり笑っているだけだった。どうやら馬鹿の方らしい。うちの学校は表面的には天才集団の筈だが、こういうのも結構多い。IQは申し分ない割に、切れ者でない。十七才で一回生ではIQの方も怪しいものだが。
部室に一度戻って、堂本は小早川を備品の校章入り武道衣に着替えさせた。低学年用の小さいサイズは出払っていて、残っている備品の中で一番小さいサイズにしたが、それでも大きく肩がおちている。ますます子供っぽい印象になった小早川に苦笑する。先ほど年を聞いていなければ、普通一回生に相応しい十一、二歳の子供と間違えそうだ。実際、堂本も大学に入ったのは十二歳になる年だった。あの頃は厭なガキだったと自分で思う。地元では神童と言われ、ちやほやされて、自分が素晴らしい特別な能力の持ち主だと信じて疑わなかった。だが、此処と来たら、そういう地方の神童達の取り敢えずの目標な訳で、自分程度の連中はそれこそ掃いて捨てるほどにもいる。ここで自分のちゃちな鼻柱は徹底的に押しつぶされてしまった。
実際、天才と煽てられて育った早熟な子供が新入生の多くを占める。高レベルの基礎知識を体系だって有している事を前提に進む、難解なカリキュラム。きわめて優れている故に目立ってきた天狗達が初めて、ドングリと気付くとき……。ませているだけで心に余裕など無い子供は、友人の作り方を知らないことに気付き、大体慌てるのだ。少なくとも自分はそうだった。根拠のない自信が打ちのめされるまで、鼻持ちならない態度の奴が何と此処では多いだろう。この一歳年少の小早川の幼い印象――あどけなさは、ジ・アースでは天然記念物モノだ。
ストレッチを兼ねた柔軟体操を始めて、堂本はたまげた。信じられないほど柔軟なのだ。大学に入ってから思い立って始める者は大抵非常に硬い。男は特にその傾向が強い。柔軟運動で大の男が悲鳴をあげるのが楽しくて、堂本はつい必要以上に力を入れて補助する傾向が強いのだが、別に何もしなくても胸が膝に沿う。
試しに開脚をやらせたが、これは多少痛いようだが殆ど又が床につきそうだ。毎日続ければ、直ぐに綺麗な形になるだろう。呆れた堂本が口に出す。
「本当に運動経験ないのか?信じられんなぁ」
小早川は一瞬、酷く混乱したような表情を見せた。そして、
「多分」
と、言った。その答えに堂本は呆れた。多分てのは何なんだ。多分てのは。
「自分は、その、事故で昔のこと良く覚えてないんですよ。でも、母も何も言ってませんでしたから、多分、無いと思うんですが……断言するのも、一寸」
歯切れ悪く説明した小早川に、堂本は戸惑った。
「そりゃ、悪いこと聞いちまったかな」
「いえ。別に構いません」
そう言われても、続ける言葉に窮する。うっかり間の悪い沈黙が場を満たした。
「事故って後遺症とか無いのか。体術ってのは割とハードな運動なんだが」
やっと堂本が言葉を見つける。小早川はふっと微笑んだ。
「大丈夫です。やられてるの頭だけですから」
こめかみを指さした小早川に、再び絶句してしまう。冗談なのだろうか。それとも、真面目に言っているのだろうか。ここは、頭がどうにかしたものが、特別枠で入れるような所とは違う。小早川がにこやかに言った。
「僕は疲れてみたいんです」
「はぁ?」
「熟睡出来ないんです。くたくたになれば、落ち着いて眠れるかと思って。睡眠薬に頼るより健康的でしょ」
堂本は無性に腹が立ってきた。こんな奴、絶対にもつ訳無い。誰が面倒見てやるか。
いい加減に基本的な礼と、打撃、蹴撃の型を説明し、反復するように説明し終わったところで、丁度部長の榊原蓮とマネージャー兼任のスティーブ・フォードが入ってきた。
榊原達は堂本と居る小早川に気付いて、彼らの方に寄ってきた。
「見掛けない顔だが、新入りか?」
堂本は軽く頷く。
「このチビちゃんは、小早川君。えっと名は何だっけ」
「徹二です」
「で、経験が全く無いそうですので、柔軟運動と、基本の型を幾つか教えてた所です。走らそうかとも思ったんですが、俺とじゃ可哀想だと思ったんで。チビちゃん、このでかいのが、部長の榊原蓮。普通のがスティーブ・フォード。彼はマネージャー役もやってくれてる。分からないことは此奴らに聞いて」
さっさと堂本は小早川を二人に押し付けると、走ってくると言い残して養心館を出ていってしまった。
「ったく。大会が近いから、少しでも練習時間とる気だな」
堂本を見送って、榊原が不満げに鼻息を吐いた。
「一馬は今年は部長に負けないって息巻いてますからね。俺が小早川君みましょうか。部長も一馬に負ける気はないんでしょう」
「当たり前だ。だがなスティーブ、お前さんこそ、雑用も有り難いけど、もうちょっとアグレッシブになれんのか」
小早川は二人の会話を黙って聞いていた。どうやらスティーブは大会の前から、上位を狙うほどの達人で無いらしい。とはいえ部長の榊原の物言いから察すると、彼に足りないのは、技術力ではなく闘志らしい。
「最初に妙な型覚えると苦労するからな。本当は堂本あたりが時間造ってくれると有り難いんだがな」
「葛城さんに頼みませんか。女子は夏まで大会無いし。葛城さんは女子部のコーチですけど、もともと別の部って感じじゃないし。それに、小早川君、どっちかって言うと演武向きじゃないかな」
スティーブの言葉に、榊原は曖昧に頷いた。
「演武向きって、まだ始めてもいないのに決めつけるな。いろいろ幅広くやってみて、好きな物が出来るってもんだ。ま、どのみち基礎は葛城に頼んでも良いかもな」
「ヘェ、珍しいですね。部長は葛城さんだけは駄目だって言うと思ってましたが」
「あのおばさん、悔しいけど、腕は確かだよ。あの高飛車な態度も実力の裏付けあってじゃ、仕方ないな」
女子部は去年まで専任のコーチが無く、男子部と一緒に練習をしていた。彼女らが軟弱なイメージの強い、総合大学の運動部でありながら大会でいい成績をおさめるのは男と同じ土俵で鍛えていたからだ。そう信じている榊原には、女子の部員が増えたことと昨年団体戦で準優勝したことで、女子部として独立することになったのにかなり不満があった。
質実剛健が目標にある榊原の願いを全く無視したのか、そんな中で、コーチのアレク朴の紹介で来たセレンシィ葛城は、見るからに華奢で壊れそうな位小柄だった。榊原が見てすらうっとりするほどの綺麗な演武を披露し、忽ち女子たちの憧れを獲得してしまったが、対戦に於いてこそ本領を発揮するウチの女子には全く向かない。そう思った榊原は、何度か抗議したが朴は全く取り合わなかった。
そして、葛城も榊原を相手にしなかった。葛城は必要最低限の言葉しか発しない。決して微笑まない目が表情というものを排除している。化粧一つしないし、武道着か黒尽くめのワンピースしか見たことがない。年は自分と大差ないはずなのに、瑞々しい若さを感じがたい。
気に入らないという先入観である人間と出会うと、目に付く物が何もかも不快な色彩を帯びる。おばさんなどと陰口をたたいて、榊原は彼女を毛嫌いしていた。女子部が独立することに何の含みもないスティーブにしてみれば、葛城に好きも嫌いもないのだが、榊原が彼女を毛嫌いしていることは、近しくしていればすぐに気付く。だから、思いがけない肯定的な言葉に、スティーブは不思議なこともあったものだと、少なからず驚いた。
「噂をすれば、葛城女傑のご登場だ」
スティーブの視線につられて、小早川はその葛城とやらを探した。が、同じ様ないでたちの女たちは何時もにも増して区別が付かない。のっぺらぼうの美醜なぞ真剣に考えていると、気持ちが悪くなりそうだ。
「あれで女子には人気有るみたいですね」
「今まで女子向きの演武を教えられる人材が居なかったからな」
演武って何だろう。二人の話が遠くで聞こえる。又、水の中に閉じこめられそうだ。早く、逃げなくては。こみあげてくる吐き気を小早川は押さえつけた。
基礎トレーニングを初級クラスの連中とするように言われて、小早川はランニングに出た。空気が綺麗に乾いている。此処は水の中じゃない。胃を押さえつけていた重苦しさが漸く去っていった。走る。走ったことなぞ有っただろうか。そう、あった。緑の草原。裸足で走る。風が頬をなぶっていく。少年の髪は彼が動く度に踊る。大樹のもとを横切るとき、光りがおどけて視界を揺るがす。あぁ、誰だ。これは誰の記憶なのだ。靴も履いていないのに、足は何も感じない。草原に緑の波が丈高くうねっているのに、頬にも裸の胸にも風を感じない。何か薄い膜で覆われているのだ。これだけ鮮明なイメージが、記憶があるのに、自分の体は動いたことを覚えていない。
足が走る。風が起こる。自分がおこした風以外に、地球の大気が揺らいで生まれたそれが、違う方向に吹き抜けていく。耳がくすぐったい。イメージに感触が加わる。息が切れる。胸が苦しい。ともすれば足が縺れる。だが、これは生きた感覚だ。記憶の中で狩りをする豹のようにしなやかに走る自分とは、まるで違う。だが、いま自分は走っているのだ。足が大地を踏みしめる感覚がある。空気が気管を出入りする感触がある。
「息は吐くだけで良いんだ。無理に吸おうとするな」
のんびりしたペースで走る連中の中でも目立ってぎこちないフォームで、荒く呼吸をしている小早川を見かねて、気持ちの上では見捨てたはずの堂本が、追い付きついでにアドバイスした。小早川は記憶の海を泳いでいた。だから、それが誰だか分からなかった。
「魚が……初めて……水を出たら……」
数多くあるイメージ。自分の中に波打つ、雑多極まりない沢山の情景。此処が何処で自分が何をしているのかも、ともすれば失われそうになる。記憶の暴風雨の中に翻弄されている感情が、頼りないが確かに一本の細糸になって感覚と記憶を縫い合わせていく。その驚くべき感動。なにか確かな存在が、神の声をささやく。息は吐け。それで楽になる。無理に肺を絞って濁った息を追い出すと、新鮮な空気が自然と入ってきた。美味しい。
「魚が、何だって?」
堂本は驚いて小早川を見下ろす。長身の彼にしてみれば、印象だけでなく体の大きさもまるで子供なのだ。一瞬、泣いているのかと思った。夥しい汗が目に入って居るだけなのかもしれない。
「息をしてるって……知るだろう……」
(ダメだ。こいつは、極めつけの片寄りまくってる方だ)
堂本は呆れたを通り越して、別世界の生き物として今日知り合ったばかりの少年を見た。普通は、呼吸していることの感覚など特に意識することはないだろう。走り馴れてないと、息が苦しいなんてのは当たり前だ。自分も最初の頃はランニングが一番嫌いだった。だが、『魚が水を出たら、息をしてると気付く』なんてトンデモナイ発想がどこから出てくるのだろう。
小早川は実際に走ってみて、体が息をしていることを映像ではなく実感として知ったばかりだった。感動していた。足が地面を捉える感覚が何ともいえない確かさを教えてくれる。確かなこと。自分が此処にいることだ。間違いなく生きている。沢山の記憶。その全てを本当にやってみたら、自分はこのちっぽけな体を満たしている狂気から解放されるのだろうか。
何か、食べてみようか。堂本の存在などすっかり忘れて、小早川は考えていた。普通の食事をすることは禁止されている。理由は聞かされていないが、自分の胃腸は消化吸収能力が極端に劣っているのだそうだ。パッキングされた得体の知れない粉末をぬるま湯でドロドロに溶かして飲み込む。精神を安定させる為とか言う薬も忘れずにとらなければいけない。記憶の中では、あの冷徹な母とは違うイメージの母さんが、湯気の立つスープをウサギの絵が付いた皿に盛ってくれていた。
空腹感は血糖値と胃の膨張具合に左右される。空腹を感じたときには栄養剤を飲んで血糖値が上がってくるのを待つか、あのドロドロを胃に流し込む。なんとも味気ない行為。せめてウサギのスープ皿を探してみようか。
堂本は訳の分からない譫言を口走りながら、歩いていると言っていい早さで走る小早川を呆れて見ていた。小早川の走り方は滑稽なくらいぎこちない。本当に何にも運動したことがないらしい。運動どころか走ったのも初めてじゃないかという酷さだ。だが、その表情は何故か気持ちよさそうにさえみえる。
「ランニング終了。休憩」
初心者組で今日のリーダーを勤めたらしいビジョルドが、声を張り上げた。結局堂本は苛つく鈍さに速度を落として、小早川の伴走をしてしまった。小早川が先行していた連中が止まったのに気付かず走り続けようとしたので、堂本は襟首を掴んで引き留めた。
「あ、堂本さん」
今初めて自分が横にいるのに気付いたらしい。表情がそう言っている。
「最後の半周、ずっとお前さんの横にいたんだが」
「あ、ああ。そうか、堂本さんの声だったんだ」
小早川は寝惚けているような反応を止め、はにかんだように微笑んだ。
「呆れた奴だな。全然気付かなかったのか」
「はい、済みません。僕は考え事してると回りが見え無くなっちゃうんです」
堂本はもう一度呆れつつ確信した。ジ・アースに来る天才達の中には万遍なく整っているのと、ネジが抜けてるとしか思えない奴といるが、此奴は後者の極めつけの本物らしい。
「考え事って。そういや魚がどうしたこうしたって、ぶつぶつ言ってたな」
「ええ、魚が初めて空気を吸ったら、きっと呼吸してるって意識をするだろうなと。普段は呼吸しているというのは意識して行っているモノではないけれど、普通に行えない状況になると、無意識で行っているあらゆることは、物凄く複雑なものなのだと……感動したのかな。僕は。その、僕の、事故の前の記憶って凄い曖昧なんです。自分が走っている画像は有るのに、感覚が全然なくて。それで、今日初めて走ったら、自分は息をしてるんだって気付いて。……走るって息が苦しくて、足を前に出すことも中々難しかったし、そういった感覚が有るのが、凄い……新鮮……でした」
微笑んだ小早川に、堂本はうっかり魅せられそうになった。記憶に感覚が付随しないのは当たり前だ。しかし、普通は「走ったら苦しい」くらいは覚えているものだ。感覚を保存するのは難しい。触覚や嗅覚といったそれらは、外環境の微妙な変化を絶えず捉える器官だから、刺激が無くなったら直ぐに忘れられるように出来ている。だが、経験は言葉に変換されて保存される。匂いを鮮明に感じられなくても、いい匂いだったとか、そういった感情は必ず残る。走るイメージだけがあって、付随感覚を忘れる。そんな妙な記憶障害なぞ聞いたことがない。
一般的に言って、視覚は他の五感の中で尤も複雑で膨大な情報に基づいて分析される。だが、見える位置にある危険は、直接ふれられる危険ほど深刻且つ緊急でない。川向こうの火事を見るのは恐いが、目の前の煮え立つ鍋の熱気の方が、より危険だと体は知っている。だから、意識レベルでは失われにくいが、無意識レベルでは失われやすいのは視覚情報、会話も含む聴覚情報などの高位度記憶からだ。一度忘れた顔を、見たからと言って思い出すことは困難だが、臭いを感じたとき、嗅いだことのある臭いであれば、直ぐにそれと分かる。普通はそう言ったものだ。だが、彼は走っていた画像は覚えていて、息苦しかった感覚や足が痛む感覚を忘れていたという。そんな事があるのだろうか。だが、この表情に嘘は感じられない。地面に転がって荒い息を吐きながら、空を見上げて微笑む顔は幼い子供そのものに、裏が見えない。本当に此奴は自分と同じ年なのだろうか。いずれにしても、全く、妙なチビだ。
養心館に戻ると、ランニングをとっくに済ませたらしい榊原達は、朴コーチと実技練習に入っていた。堂本は軽く舌打ちした。このガキに付き合ってると時間が足りなくなる。だが、今日くらいは仕方ない。榊原に一度は上手く押し付けたつもりだったが、自分から係わってしまったのだ。
「先ずは、呼吸法からいくか」
堂本は諦めて、小早川を見た。
「息は漢字で自らの心と書く。つまり心身一体を象徴した文字だ。心が乱れると呼吸が乱れる。だが、東洋武術の子孫である体術では、それを逆手にとって息を整える、調息することで 心を整えようと言う基本概念がある。この調息には、大雑把に言って静行と動行に分けられる。静行とは禅僧の瞑想修行の一助として創始され、発展した物で、動作を伴わない。これは試合前に緊張したりしたときに、心を平静に保ったりするのに有効だな。もう一つの動行は、演練中につまり、演武したり、仕合って居るとき……当然、激しく動くわけだが、このときに呼吸を制御することで激しく変転する状況を、冷徹に判断し体を反応させていくために使うわけだ。初心者の内は理論を検証するより、実践方法を正しく把握して反復することにより、無意識下でそれが行えるようにする。先ず、それを目標にすること。此処までで質問は」
小早川の後ろで、初心者として一塊りにされている一人が言った。
「あの、私達呼吸法というの、教えて貰ってませんが」
「あれ、そうなのか。榊原の奴、手抜きだな。だが、演練中に動行はやっているだろう」
「いいえ、初めて聞きました」
暫く、堂本は天井を仰いでいたが、頭を振って大きく溜息を吐いた。チビだけで持て余しているのに。練習時間がとれなくなるじゃないか。そう思うが、ここで無視しては此奴らも納得しないだろう。さわりだけ説明して、逃げよう。
「えっと、調息法にも幾つか種類がある。俺は、基本的に中国拳法の流儀だ。それで良いなら取り敢えず、聞きたい奴には説明するが」
「是非お願いします」
小早川は積極的な者達に押し分けられてしまって、隅に追いやられていた。だが、特にその事を不満に思う風でなく、大人しく堂本の説明に集中していた。
「息法――息をする方法だな、これは吸息、鼻より静かに息を吸う動作、次ぎに保気、胸腹部に息を充満させ体に新鮮な酸素を行き渡らせる動作、それから吐気、鼻より静かに七分を目安に息を吐き出すこと、最後に残気、残りの三分を体に溜め置くことを言うんだが、この四つをもって一呼吸と数える。これから俺は半跏趺坐するけど、胡座が苦手な者は仰臥姿勢、つまり普通に仰向けに寝ても良いぞ」
堂本は左足を右の太股まで深く引き上げて胡座をかくと、両手をよく見えるようにゆっくりと動かして、組み合わせて下腹部に当てた。
「左手を上にして両手を重ね、両親指を軽く併せて輪を作り、下腹部、臍下丹田にゆっくりとあてる。結手といって、拳法式の礼にも使う形だ。礼法は好きな流儀でして良いから、拳法式の礼をしておいて、柔道技を多用するのも良い攪乱策になるぞ。それで、この深く足を組む胡座で集中力が保てないようなら、今日は普通に寝て、体の力を抜いて、手は同じように臍の下に当てる。それから、目を軽く閉じる。禅の修行じゃないんだから、半眼、つまり薄目を開けた状態だな、それは厳禁。必ず、視界を遮ること。そして、ゆっくりと鼻から息を吸い、深く組んだ手の位置に納まるように溜めていく。目安は七秒。これが吸息。そして腹にたまりきった息が胸まで溢れた状態で、約三秒止める。保気だ。そして、吸息と保気に掛かった時間分、約十秒かけて吸ったいきの七分目まで吐く。吐気だな。そして次の吸息まで三秒ほど残り三分の息を体になじませる。これが拳法の基本的な息法だ。息法中、肩が上下したり、体が揺れたりしちゃいかん。静止した状態で、静かに呼吸する」
堂本は、さっと立ち上がった。
「質問は?じゃ、暫く練習しとれ。いつも言ってるが心柱線をしっかり意識することは忘れずに。動行は後で説明する」
そのまま、体よく逃げ出すと堂本は榊原達が演練している所へ行った。
暫く榊原を相手に充分体を動かした堂本は、ふと気になってあの新入りの方を見た。あれから随分時間が経ったから、初心者組でも他の連中は二人組になって演練擬きをしていた。が、彼は一人で黙して座ったままでいる。綺麗な半跏趺坐の姿勢だ。さっきの堂本が一瞬だけ見せた形を忠実に模倣したのか、それともあの形を知っていたのか迄は分からないが、付け焼き刃にしてはなかなか堂に入っている。
「ちょっと、アレみてくるわ」
榊原にそう言うと、堂本は小早川の方に走っていった。
(何だかんだ言って奴は世話好きだからなぁ)
榊原は心の中で思った。彼は自分では怜悧な切れ者を目指しているらしいが、実のところ口で言うほど他人を突き放せない、お人好しの面がある。偽悪家ぶって辛辣な口をきくが、行動は誰より温かい。その証拠に葛城に焼きを入れようと言う自分の暴挙に付き合って、一緒に叩きのめされる位だ。
「形は決まってるな」
堂本は暫く小早川をみていた。目を閉じて静かに呼吸法を繰り返しているらしい彼は、自分が前に立って見下ろしている気配も気付かないようだ。だから言葉にしたのだが、小早川は堂本の言葉を聞くなり、パッと目を開いた。
「面白いですね、呼吸に集中して目を閉じてただけなのに、誰が来たのか分かりますね。やっぱり堂本さんだ」
嘘と無縁の無垢さを持つ笑顔だった。堂本は一瞬背筋がゾクッとざわついた。気配を察するというのは、呼吸法を完全に体得した後で、初めて得られる感覚だ。最初は長く呼吸法をすると、眠気に襲われて意識が飛びそうになるのが普通だ。目を閉じて静かに息をすることでリラックスすれば、感覚が鋭利になるより先に、体は睡眠しているのだと脳が錯覚してしまうのだ。
――此奴、妙だ。
堂本のそんな混乱をまるで知ることもなく、小早川は強張った体を解すために首を回したり、手足を振ったりしていた。
「他の連中は、演練の方が良いみたいだから、調息法は又の機会にするか。チビちゃん、先教えとくわ。一度しか言わないから、よく聞いとけよ」
何気なく堂本が言うと、彼はすっと堂本の目を直視して、軽く頷いた。その時の視線は容赦のないひたむきさだった。よく聞けと言った方が、後込みしたくなるほどに自分を射すくめる。第一声を発するのに、堂本は柄にもなく緊張した。
「……動きながらの、調息法は難しい。当然体位は常に移動し、変化している。突き蹴り受け、間合いの変化によって、動きは激しいだけでなく、緩やかであったり、激したりする。動きの緩急に併せて、リズミカルに、乱れなく行わなければならない。吸息・保気・吐気・残気があるのは静行と同じだが、長吸、長く吸い込むことだな、短吐、短く吐くこと。短吸―短吐。長吸―長吐。長吸―短分吐……短く区切って吐くことだ……これを適宜選択しながら、長くなっても乱れないように鍛錬する。そう直ぐに出来るものではないが、始めの内に強く意識することによって、無意識で行えるように自然となるものだ」
「難しそうですね」
短く受け止めた。質問がないか聞いてみたが、言われたことは頭には入ったというのが彼の返事だった。分かったと言わないだけ、本質を把握していると言うことだ。頭で理解しても、体に叩き込むまで分からないのが運動だ。堂本の中では、最初の印象とは逆に、小早川はなかなか侮れないかもしれない、という思いが湧き始めていた。
「凄く綺麗ですね」
ふと、堂本を通り過ぎて視線をずっと先に遊ばせた小早川が言った。堂本がつられて背後を見ると、件の葛城が女子部のエース、バネッサ・ファーウッドに演武の型うつしをしていた。演武は対戦式の武道ではなく型の美しさを競うもので、女子には人気が高い。確かに手具を使ってする演武は新体操のような美しさがある。悔しいことに葛城の演武は見事だ。隙が無く、切れ味鋭く、滑らかで優美。だが、いつもの葛城の纏っている寄らば切るの雰囲気は相変わらずで、集中して容姿だけに絞ってみても、堂本の価値観では綺麗という感じではない。バネッサときたら、筋骨隆々とした女性の範疇に入れたくない体付きである上、まだ始めたばかりの型で動きもぎこちない。葛城にせよ、バネッサにせよ、凄くというには一寸語弊がないだろうか。
「つかぬ事を聞くが、綺麗って演じてる婆さん?それともアマゾネス?」
「その言い方は酷いですよ。あの、小さい人。堂本さんはそう思われませんか」
間違いなく寸足らずの小早川に小さい人と言われては、いくら葛城でも間尺に合わないだろう。それに、こんな風にまじめに聞かれて、そうは思わないなどと無碍に断じるのも気が引ける。堂本は曖昧な笑いを浮かべて誤魔化した。
「あんな風に動けたら、きっと気持ち良いでしょうね」
動きのことか。それなら、たしかに葛城のそれは強烈に綺麗だ。
「馬鹿言え、アレはそう簡単にできるもんじゃないぞ。立ち方から覚えるお前さんなんぞ、卒業までにあの半分だって覚えられるか保証しかねるね」
「それもそうですね」
これを怒らせるのは、どうやら至難の業らしい。堂本はからかうおうとしたのが不発に終わってしまったので、真面目に自分の得意とする拳法式の立ち構えから教え始めた。最初にいい加減にレクチャーしたのとは全く別物だ。体を動かし馴れない素人に付き合うのは面倒臭かったが、直ぐに格好良い蹴りや突きをやってみたがる事なく、忠実に基本を繰り返す姿勢が気持ちよかった。基本中の基本である気合いのかけ方や、足構えなどを一通り説明した。そして拳法独特の目配りである八方目を説明した。これは、他の東洋武術とは完全に異なる目配りである。相手を睨んだりせず、目を動かさず、四方八方を見るものだ。つまり、相手が上段から大きく振りかぶってくる様子を見せた時、つられて目の動きを上に向ければ、足を払おうという相手の動きに対応できない。視線は、相手に自分の集中が何処に向いているのか教えてしまう。眼球を動かさず、広い視野を同時に分析する。相手の目を睨み付けて、気合い勝ちを狙うのも良いが、堂本はこれが一番有効と思っている。
つい夢中になって集中的に小早川を教えていて、ふと気が付くと、榊原が帰り支度を始めていた。堂本は小早川に素っ気なく、今日は仕舞いだと告げると、集中が切れたのか、完全に小早川は潰れた。無理もないが、このチビ、結構見かけによらず根性の塊かもしれない。だが、それを無視して堂本は榊原のほうに向かった。体育会系の世界は、甘くないのだよ。誰かに助けおこして貰いたいなら、二度と来るな。
「ご苦労さん。随分真剣に面倒みてたじゃないか」
堂本を見ると榊原は人が悪く笑って、そう言った。堂本は苦く笑った。
「ボランティアは今日だけですよ。明日から部長の仕事ですからね」
「おいおい、試合が終わるまで勘弁してくれよ」
そういう榊原に、堂本は首を振った。
「部長の仕事です。新人に妙な型を覚えさせたいんですか? 致命的ですよ」
言外に、格好良く見える仕合にばかり興味を向ける他の新人達を批判しているらしい。同じ一年でも、経験者は良いのだが、うっかりと弾みで運動を始めようと思い立った連中に一から仕込むのは、彼らが逃げ出さないと言う保証が無い分勇気が居る。
第一、格好から入りたがる者は基礎練習に直ぐネをあげる。だが、基本の鍛錬無しに、拳も蹴りも力を得ることはない。その形だけでも、訓練に依ってしか本当に綺麗にならない。そして、習得したつもりで居ても、訓練を怠ればざるの目から水が零れるほど簡単に、それは失われる。
「試合が終わるまで、おばさんに頼もうかってスティーブと話してたんだが、どう思う」
「おばさんって、葛城?」
一瞬戸惑ったが、確かにあの葛城なら基礎はみっちり叩き込んでくれそうだ。一方的に叩きのめされたと思っていたが、冷静によく考えると相手の欠点を確実に責めてくるあのやり方は、自分の不足を思い知るのに有効だったとおもう。
「別に良いんじゃないですか。頼みにくかったら朴コーチから頼んで貰えばいいし」
「頼み難いって?」
聞きとがめたスティーブには笑って誤魔化すしかない。未成年だが体格的には大の男が二人掛かりで焼き入れを試みて、呆気なく畳まれてしまったなどと、恥ずかしくて言えたものでない。
堂本はのんびり帰り支度を続けている榊原を待たずに、さっさと身支度を整え、夕方の町並みへと飛び出した。ずぶの素人にかかりっきりだったため、少し動き足りない体が、自然と足を走らせた。その日はやけに赤い月が昇り始めていた。星も瞬き始めている。
初めて地球に降りたとき、その頼りない星々に驚きと戸惑いを覚えたものだ。体中が重く、呼吸するのにさえ苦痛を覚えた。転ぶとけがをするというのすらも凄い発見だった。動くことに苦痛を覚えなくなるまでに二年近くかかった。体を鍛えることをしなかったら、今もひ弱なままであったかもしれない。
「体が疲れ切れば、なにも構えなくても眠れると思って」
入部動機を聞いた自分に、あの奇妙な新入り小早川は、そう応えた。一日が異常に長く感じられ、息をするだけで疲れる情け無い体をどうにかしたくて運動を始めた自分と随分違う。自分や榊原と同じ東洋系の癖に、透き通るような白い肌をしていた。少年と言うより少女のようなあどけない印象を持つ、黒く大きめの瞳。通りすがりの子供に手折られるのを待つ道端の花のような、とでも形容したらいいだろうか。よく見れば可憐な姿なのに印象が薄く、たよりなさげに感じられる。自信なさげな印象を持ちながら、断定的に物を言い、幼い子供じみた無邪気さを持ちながら、垣間見せる鋭く容赦ない視線。
――面白ェ。
今まで知らない種類の生き物だった。だが、まだ不思議なほど幼い。
――卵だ。
卵。その言葉が思い浮かんだ途端、堂本は嬉しくなった。そうだ、間違いない。あいつは何かの卵だ。だが、どんな種類の卵なのだろう。孵るのが楽しみだ。軽く走っていた堂本の足が、彼の浮き立つ気分を引き受けて、マラソンランナーのそれになった。
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