その男はふるえていた。
四方を安っぽい仕切りで囲まれた、マンガ喫茶の狭い個室の中、椅子の上でヒザを抱いて、これ以上できないほど身を縮めながらふるえていた。
髪は半分以上白いものがまじり、着ている服のえりと袖は黒く汚れ、やつれて貧相な顔の男が個室に備え付けの小さな四角い置き時計を目の前に置いて、その秒針が一秒、一秒、一秒と回っていくのを、ただじっと見つめている。そして、時計は午前一時を指した。
(一時間・・・あと一時間・・たった一時間)
男を押し囲む個室の右の壁が突然ゴツンッと鳴り、男の体はびくんっと硬直する。それがゆるむとき、男はわき腹に汗が流れるのを感じた。
右隣の客は一度ゴツンとやったあとは音を立てず、幸せそうに軽くいびきをかいて、静かになった。
男は右の壁の向こうにいる客を妬んだ。殴って 殴って 殴り殺してやりたいほど妬んだ。
男はこの十五年間、二時間以上眠れたことがなかった。野宿をする山の中で、公園のベンチで、山奥の建設現場、粗末な宿舎の寝床の中で、都会のカプセルホテルで、眠ると必ずあのときの夢を見て、汗まみれで飛び起きた。
粘着テープで椅子に縛られた女。
となりの椅子に同じように縛られた男は、バールで殴られて陥没した頭から噴水のように血を噴き出す。
砕けた脳が反射的に口から発する「あお、あ、おッ」という意味のない音を発しながら、左足だけがビクンッビクンッと跳ねている。
夫の頭が粉砕されたときのクヮシャッという音を聞き、骨や灰色のものが飛び散るのを見て、その返り血を頭から浴びた女は失禁し、床に尿をたれ流した。
血で真っ赤に染まった部屋で失禁する女を見て、男はなぜか猛烈に昂った。その瞬間、女を犯すのが金を奪うより重要な目的に変わり、力ずくで両脚を開かせようとするが、女は抵抗したあげく、わき腹をバールでぶん殴られた。パキンボキンと何かが砕ける音。
「んぐむおああおうっ」
女は絶叫した。男はだらんとゆるんだ女の両脚を拡げ、下着をむしり取って突っ込む。
「むおしてあう、んのいくおう、んおってあう、えっあいむおしてあう」
女はガムテープの下から、言い続けている。殺してやる、この畜生、呪ってやる、ぜったい殺してやる。
その声を聞きながら、男はあっという間に果てた。
今度は、仕切りの左の壁がゴンッと鳴って、我に返った男が時計を見ると、十七分過ぎていた。
あと四十三分。それだけ逃げ切ることができれば、十五年前に男が起こした強盗殺人事件の時効が成立する。
そうすれば何もかも終わる。悪夢を見ずにゆっくり眠れるだろうし、飯を食うときに背後にビクつく必要もないだろうし、風呂で頭を洗うたび、肩に手が置かれた感触に驚いて飛び上がることもなくなるかもしれない。そう、このまま逃げ切れたなら。
男があの新聞記事を見て気を失いそうになったのは、三日前のことだった。
「群馬県で男性の変死体見つかる」と簡単な見出しの付いたその記事で、男と共に十五年前、あの裕福そうな夫婦の家に押し込み、その夫婦を殺して四百万の金を奪い、その家を燃やした共犯者が、群馬の人里はなれた山の中の廃屋で死んだ。
「現場の状況から見て自殺・他殺の両面から、群馬県警は捜査をはじめる方針」
記事には簡潔にそう書いてあったが、男にはその死にざまが想像できた。自分で灯油をかぶって火をつけ、自分の肉を燃やし溶かしながら、自分の頭蓋骨が砕けるまでバールで殴り続けるさなか、奴はその目で何を見たのだろうか。
そして奴を殺したそのものは、自分のところにも現れるのではないだろうか。
流れていく男の思考を引き戻すように、もういちど左の壁がゴツンッと鳴って、また男の視線は時計に戻る。まだ、三十一分も残っていた。男は無意識のうちに、椅子の上で体をユラユラ揺らしはじめている。
左の壁の向こうにいる者は、なにか落ち着かずに動いているらしく、男にもそれが聞こえてきた。
ぎしっ ごつっ かりかりっ かりっ
その瞬間、ろくに寝ていないため疲れが限界な男の頭に、突如としてとてつもなく恐ろしい疑問が突き刺さり、揺れていた体が硬直して、そこからピクリとも動かせなくなった。体温がすうっと下がり、わきの下からどっと汗が噴いた。
(と な り に い つ 客 が 入 っ た ?)
この個室に入る小さなドアは、左右にスライドさせる形のもので、開け閉めの時にはそれなりに音がする。午前一時を回ったこの静かなマンガ喫茶の中では、その音がもっとも大きい音とさえ言えるほどだ。だが男は、左どなりの個室のドアが閉まった音を聞いた記憶がなかった。
男のこり固まった首がギギギッとを立てるほど、ゆっくりと、顔を左の仕切り壁の方に向けるのと同時に、壁の向こうの音はピタリと止まった。その静かさに、男の背筋が総毛立ち、今度こそ全身が、地震のようにガクガクふるえはじめた。
壁の向こうにいるなにかは、男という獲物に飛びかかる前に、その場でうずくまっているに違いない。いちばん効果的なタイミングで、スキをついて、背後から襲いかかるために。
いったいこの壁のむこうに何がいるのか。
男は襲ってきた恐怖の大さに涙を流しはじめた。恐怖と緊張でギリギリ締め上げられた精神に限界が近づいて、涙でぼんやりした視界の中、壁に落書きがあるのを見つけて、男はますますおののいた。
おまえはここで
死んでしまえ
もうダメだ。あと一分でも長くここにいたら狂ってしまう。ここを出て、人の多いところへ行こう。街の中を歩き回っていればすぐに────
左の壁の上から、頭が二つ、立ち上がろうとした男を見下ろしていた。
男と女。男の頭は四分の三ほど欠けていて、灰色の中身がうどん玉のようにこぼれそうになっている。女は鼻だけ残して粘着テープで顔を巻かれ、浴びた血がこり固まった長い髪が、男のいる個室までだらんと垂れていた。
男は殴られたときに両方の眼球が飛び出していたはずだし、女は粘着テープを巻かれて見えないはずなのに、二つの頭は男を見つめている。男の頭の何かが、うごめいている。割れた頭蓋骨の中に重なりあって湧いたウジ虫が、ポロポロ落ちてくる。
「うぎぃやああああああああ!!」
男の絶叫で、店内の寝ている全員が飛び起き、寝ていない全員が個室から飛び出した。何事かと集まった客たちの目の前で、面倒なことが起きたという思いをありありと顔に出した店員が、誰も飛び出してこないただ一つの個室をノックし、声をかけ、二回それを繰り返したあとドアを開けた。
一本残らず真っ白い髪をした中年の男が、パソコンの乗っている台の下にある暗がりの、隅の隅の方へ逃げこむように、体を詰めこんで死んでいた。
両手で顔をかきむしったような傷のある顔は、となりの無人の個室との壁の方を見上げ、ある有名な絵画のタイトルそのままに、叫びを上げた恐怖の表情のままで死んでいた。
「髪が真っ白じゃん。この人、なにかよっぽど怖いものを見たんだな。このあたりに」
集まった客のひとりがぼそっとつぶやき、その場の全員が、死体が見上げている壁の上を見て、背すじを寒くしたそのとき。
死んだ男の個室に置いてある時計が、午前二時を指した。 |