鍛冶が媼
「――それで、三年ぶりに養老院を訪れたところご母堂が、ご母堂とは似ても似つかぬ別人になっていたと?」
「はい、三年前に母を連れてきたときは間違いなく母だったのです。それが今日訪れてみれば、どこの誰かも分からぬ媼が母かのように振舞っていたのです」私は抱えていた頭をあげ、じっと刑事さんを見つめた。「もう、訳が分からないのです。職員は皆、あの媼を母というが、私から見ればあれは見知らぬ他人なのです。もし、あの媼が本当に母だとしたら、私は母の顔も分からぬくらい気でも触れてしまったのでしょうか!」
焦燥から声を荒げた私の肩に妻がそっと手を添えてくれる。その手から伝わる温もりのおかげで私は正気を保つことができた。
「落ち着いてください。何も貴方が嘘をついている、とは言っておりません。ただ……」巨躯の刑事がほとほと困り果てたという顔で慌てる姿は少しばかり滑稽であった。「ここの職員は彼女のことを貴方のご母堂だと言っております。しかし、息子である貴方は彼女を全くの別人だという。正直、我々にはあの女性が何者か分からぬのです。何か本人と判定できる証拠はないのでしょうか? 写真でもなんでもいいのです」
「あれば良いのですが、母は古い人で写真を撮ると魂を盗られると言って写真館に近づくことさえしませんでした。おかげで写真は一枚もないのです」
「本人からお話を聴ければ良いのですが、あのような状態では」
刑事が言葉を濁すのは、彼女を見たからに違いない。先年、母は脳梗塞で倒れた。一命はとりとめたものの手足の痺れと言語障害が残った。当時、私は大阪で働いており、まだ妻とも結婚していなかった。東京に残してきた母を看護するために大阪東京間を往復ことは経済的にも物理的にも不可能だった。
「ほかに証拠になるものは……」私と刑事が考え混んでいると、妻が私の袖をツイツイ、と引っ張った。
「あなた……」耳もとで妻が囁くように尋ねた。「お義母様にはアザやケガ痕などはなかったのですか? 特徴的なものであれば証拠になると思うのですが」
「アザやケガ痕か」少しでも昔のことを思い出せるかと、天井を見上げたが鮮明な記憶は蘇らなかった。「母はとても躾に厳しいひとだったとかは覚えているが、そう言う身体的特徴はあまり思い出せない。記憶にあるのはせいぜい、小柄な女性であったとか、いつも綺麗に髪を結っていたくらいです」
背筋が曲がっている。作法がなっていない。と子供の頃はよく平手や竹でできた板で叩かれたが、その手が白かった。荒れていたということは記憶に残っていない。考えてみれば、私は叱られないようにするのに必死で、母をまともに正視したことなどなかったのかもしれない。
「そうです」妻が思いついたとばかりに手を叩いた。私がはしたないと嗜めると妻は、小さく頷いた。「申し訳ございません。判断できるか自信はないのですが、血液型判定で調べることはできないのでしょうか?」
血液型判定は、ここ数年で広まった血液検査で個々人がもつ血液の特徴で輸血が行えるか否かを判定する検査である。兵役につく若者や出産を控えた女性やその家族の多くが検査を受けている。妻と私も妻の懐妊を期に検査を受けた。その際、医師から両親の血液型が分かれば、生まれてくる子供の血液型を予想することができる、と説明された。妻はそれを思い出したに違いない。
「なるほど……。これは妙案です」
刑事は大きく頷くと、隣室に控えていた部下に養老院に媼の血液型判定の記録があるか調べるように指示した。指示を受けた警官は小走りで部屋から出ていった。
「記録があれば判断が付くかもしれません。貴方の血液型は?」
「AB型です。先月、妻と病院で調べてきたので間違いないと思います」しばらくすると先ほどの警官が戻ってきた。警官は刑事に一枚の書類を渡すとまた部屋から出ていった。「どうですか、刑事さん」
「結果から申し上げますと、あの女性の血液型はO型です。ここに養老院付きの医師の所見があります」刑事は一枚の書類を私と妻の前に広げた。そこには媼の血液型判定の結果と血液型ごとの出生予想が書かれていた。「O型の女性からAB型は生まれません。生まれる可能性があるのはA型、B型、O型だけです。つまり、あの女性は貴方のご母堂ではありません。早急に、ご母堂がどこに消えたのか。いつから入れ替わっていたのか調査いたします」
そう言うと刑事は部下を連れて去っていった。私が養老院の担当者と会って行くから先に帰っていなさい、と妻にいうと妻は、小さく頷いて帰っていた。
周囲に誰もいなくなったことを確認すると、私は隣室の扉を開けた。
そこには一人の老婆がいた。私はその老婆に優しく声をかけた。
「ご無沙汰しています。お継母様、今日は嬉しいお知らせがあって参りました」
老婆は私をじっと見ている。言語障害のせいでだらしなく開いた口に、ぶるぶると小刻みに震える手足。そこには過去の凛とした継母の面影はなかった。唯一、眼だけが正気を保ち私を睨みつけている。重度の障害が残っても精神だけは、自尊心だけは失われていなかった。
「貴女は、今日から貴女ではなくなりました。これがどういうことか分かりませんよね。でもきっとすぐに分かります。昨日までの手厚い看護は受けられず、ただただ邪魔者扱いされる日々がはじまります」
私は満面の笑みを浮かべていたに違いない。
実母は私を生んだ際に亡くなった。私は実父のもとに引き取られた。しかし、実父には既に妻がいた。実母は妾であった。子供のいなかった実父は、継母に実子として育てるように命じ、戸籍も継母から生まれたように届けを出した。しかし、継母は父の見ていないところでひたすら私を責めつづけた。
妾の子の癖に。
お前のせいで母は死んだのだ。
この疫病神め。
継母の怨嗟を子守唄に私は成長していった。その間、私はひたすらに復讐することだけを望んだ。そして、この媼が誇りにしている正妻の立場もなにも奪うことだけを考えた。実父が亡くなり、継母が倒れたとき私は歓喜した。そして、この計画を建てた。芋虫のように蠢くだけで自分では何ひとつ出来ぬ媼からすべてを奪うために。
「これまでありがとうございました。そして、さようなら。お継母様」