ごめんねプリン
―――― ごめんねプリン――――
それは、私にとって大切な呪文のような言葉だった。
私の心の中の引き出しに、ずっとずっとある言葉。
その言葉が生まれたのは、私が小学生の頃だった。 多分五年か六年。
五年の春に、私は完全に母の背を追い越していた。
そしてそれと同時に、背だけでなく何もかも全てにおいて、自分はもう大人なんだと思い始めてもいた。
その頃、私は母と喧嘩が絶えなかった。
私は、母が自分の都合によって私を子ども扱いしたり大人扱いするように思っていた。
母は、自分の思うままに子どもをあっちこっちへと操ろうとしているんだ、と思っていた。
それが私には、無性に腹が立つことだった。
ある日、母と喧嘩中に私はそのことに関して自分がどんなに傷つくのか悲しいのかを母に思い知らせてやりたい、と思った。
だから、ありとあらゆる汚い言葉で母をののしった。
本当はそうは思っていない言葉までもが、私の喉から飛び出し始めていった。
私は母への攻撃を続けた。
私が言葉を吐き出すうちに、母は悲しそうな表情になっていった。
でもその悲しそうな表情に腹が立ち、また言葉を続けた。
そして私は、大声で啖呵を切ったあと、逃げるように自分の部屋に走っていった。
――― 傷ついているのは、私なはず。
――― 傷つけられているのは、私なはず。
――― だから私はやってやった。
――― 言ってやった。
――― 私は正しい。
――― だから、これでいいんだ。
そう思いながらも涙が出て止まらなかった。
……でも。本当は分かっていた。
引くに引けずに、あそこまで言ってしまったことを。
もう既に、あそこまで言ってしまったことに後悔していることを。
でも止められなかった。
気持ちが暴走して、坂道を転がるようにセーブできなかった。
――― 喧嘩したい訳じゃない。
ただ、分かって欲しかったんだ。
私の気持ちを。
ベットにうつ伏せになったまま、少しだけ顔をあげた。
ベランダに面した大きなガラス窓が開けっ放しになっていて、そこから吹いた風がカーテンを揺らしているのが見えた。
あぁ、窓を閉めていなかったんだなぁ、と思った。
部屋の扉は閉めたのに、開いている窓。
そのアンバランスさが、まるで今の自分の姿と重なって笑えた。
かといって、今さら窓を閉めるのも面倒で、そのまままたベットにうつ伏せになった。
とその時。
母の声がした。
「美香ちゃん。プリン、食べよう?」
驚いて顔を上げたら、少し気まずそうな顔した母がベランダに立っているのが見えた。
その姿に私は驚き、思わずベットから起き上がり、そして立ち上がってしまった。
部屋の中とベランダで、私は少しだけ視線の低い母と見つめあった。
夕方で、風も吹いてきて。
そして母はプリンを持っていた。
すごく妙な図だと思った。
けどそんな母の姿を見たら、これは部屋に入れないわけにはいけなぁ、という気持ちになってしまった。
それで、私は「うん、食べる」と母に答えた。
母がベランダから私の部屋に入ってきた。
やっぱりそれも妙な図だと思った。
そしてプリンを持ったまま母が、床にぺたんと座った。
だから私も続いて、母から少し離れた場所にぺたんと座った。
「はい。食べるんでしょ?」
母がプリンを持った手を伸ばしてくる。
私も伸ばしてそのプリンを受け取った。
プリンはカップに入ったまま、お皿の上にスプーンと一緒に載っていた。
私はプリンが特別に好きって訳じゃなかった。
だから母がプリンを持ってきたときも、「なんでプリンやねん」と心の中で突っ込みをいれた。
でも、食べたくないって訳でもない。
だから、母から手渡されたプリンを大人しく食べた。
食べだすと不思議なことに、段々と心が落ち着いてくるのが分かった。 冷静になってくるのが。
「美香ちゃんの言ったこと。ママ 真剣に考えるから」
母が言った。
口の中で、形のあったプリンがふにゅっと溶けていった。
「……私、嫌なこと言った。本当は、そうじゃないってことまで言った。そこは、ごめんなさい」
思いがけず、心にある気持ちのままの言葉を私は母に言っていた。
そしてその言葉も、今食べたプリンのように口の中でふにゅっと溶けていった。
す――――っと体に染みてもいった。
照明もついていない薄暗い部屋で、母は私がプリンを食べ終わるまで待っていた。
プリンはやけに甘かった。 その分、カラメルソースがほろりと苦かった。
プリンってやつは、甘くもあり、苦くもあった。
だからって、その日があったからって、母と私の喧嘩がなくなるって訳ではなくて。
私は相変わらず、自分の気持ちを母が全然分かってくれてない、って怒ることが多かった。
でもそんな時。
私は、ベランダに立つ母の姿を思い出した。
母に腹が立ちながらも、そのことを思い出し、冷静になろうと思った。
母が私に歩み寄ろうとしてくれたことを忘れちゃいけなんだ、と思った。
ごめんねプリン
それは、甘くて苦い。
私は心の引き出しの中にそれをしまうことで、感情を爆発させるのをやめようと思った。
一方的に一時の感情で相手を打ちのめすことだけを目的に、自分の気持ちを吐き出さすことをセーブしようと思った。
もしあの時。母がプリンを持ってきてくれなかったら。
やっぱり暫くは、気まずい関係だったかもしれない。
私は母と関係を切りたい訳じゃなかった。
ただ、分かって欲しいだけ。
だったら、相手に理解してもらえないと腹を立てるのでなく、相手に自分の気持ちを伝えるための術を探らないといけないんだって思い始めもした。
自分勝手な言い回し。
自分中心な表現。
気が付けば、私は独りよがりの表現しかできないようになっていた。
そうこうするうちに、母との関係は良くなっていった。
そして母だけでなく、私の周りにいる人のそれとも。
母だけとの関係に必要だと思った術は、実は誰との関係を保つにも繋がる「魔法の術」のようなものだった。
てのひらの上だけで回っているようだと思った小さな関係も、物事の真理をついていることがあるんだってことを悟った。
一人でピアノを弾いていたのに、気が付けばいつのまにかバックには壮大なオーケストラ―がいた、なんて気分になった。
全てのことには、繋がりがあるんだって思った。
どんなことも、無駄ではないと。
会社帰りに寄ったスーパーのデザートコーナーで、ずらりと並ぶいろんな種類のプリンが目に入った。
相変わらず、プリンが凄く好きって訳ではない私だった。
でも、プリンを見るたびに私は母を思い出した。
そして子どもだった自分も。
プリンを手にとる。
そして、買い物籠に一つ入れた。
何もない籠の中でつーっとプリンのカップが滑っていった。
―――― ごめんねプリン――――
それは世の中の謎を解く力もある、私にとっては大切な言葉だった。