夕焼けの赤い光が、町を包んでいた。
丸みのある家々の壁。
平らな石畳。
円を描いて噴水を囲む低い煉瓦塀。
みんな、温かな朱色に染まって、今日という日にさよならしている。
藍色に変わっていく東の空を背にして、一人の子供が立ち止まった。
夕焼けの中を駆け回っていた同じ年頃の子供たちはそれに気付かず、明るい笑い声を上げて、広場を走り続けている。
立ち止まった一人の少年は、俯いて瞼を伏せると自分の耳元に手を添えた。
穏やかに吹く風が、まだ硬さのない、ふわふわの髪の先を微かになびかせる。
何が聞こえただろう。その小さな耳に。
何が映ったろう、その円らな瞳に。
暫くして顔を上げた少年が、ふわりとその小さい手を空へ伸ばす。
夕暮れの最後の光に触れたその場所から、彼は徐々に薄れて、消えていった。
◇◆◇
カラン。と、棒の先にぶら下がっている籠が揺れた。 堅い木を極限まで細く削って作られる光かごは、同じ素材の棒とぶつかり合うと乾いた心地よい音を鳴らす。
カラン…カラ……
カラカラカラ
音の間隔が早くなる。
赤く染まった夕暮れの、最後の光が消え失せようとしているからだった。
出遅れながらも光を採ることに成功した子達が帰途を急ぐ足音が、籠の音に紛れて響く。
急がなくちゃ。
早くしないと、
「夜」に捕まってしまう。
夜の闇に触れたら、もう戻ってこれないよ。
でも、朝を迎えるために、ひかりが必要なの。
夜じゅう、灯していられる、お日様の欠けら。
夕暮れになると、簡単に籠に捕まえられる、淡い光が。
ちょっと高い場所で籠を振るだけ。
勝手に籠の中に入ってくるからね。
行ってきてくれるかな? アリアちゃん。
――でもね、ひとつだけ、お約束。
夜になる前に、必ず、帰ってきてね。
もしも光が採れなかったとしても。
夜になるまで、お外に出てちゃいけないのよ?
元気よく頷いて家を出た。
つい先程のことが、まるで嘘のよう。
街の外れの街道辻に真直ぐ伸びていた影が夜の闇に融け合っていく。
誰も外を出歩かない。
だから、街灯も点らない。
道の脇の木。
レンガの石畳。
その上の小石。
薄墨みたいな夜の色の中に、皆、みんな、溶け込んでいく。
その様子を、じっと見つめて動かない、大きな瞳が一対あった。
街道から少し外れた森の端、下草のなかに埋もれている影。
それは若草色のワンピースを着た少女だった。
寝転んで身じろぎ一つしない小さな体。泣き声の一つも上げずに暮れゆく村を見つめている。
身動き一つしないのは、木の上から落ちた時に、びっくりして麻痺してしまったため。
声も上げられないのは、目の前を行き交う“影”に見つかるのが怖かったからだった。
頭からすっぽり布を被った人間のようなシルエット。
透明であったり透ける黒であったりするそれは触れる者を溶かして消し去ってしまう日常の死神。
上から下へ。右から左へ。
頼りなく揺れる姿が逆に、一触即発な爆弾が傍に転がっているような気分にさせる。
影の前を、一匹のカラスが横切った。 巣に戻る途中だったのだろう。影に触れたくちばしの先から、カラスは見る間に薄れて、消えていった。
波打つように影が揺れる。
それに合わせて透けの度合いも変わっていく。
まるで黒いレースのカーテンが風に揺れるよう。
――あれに触れたら。
一巻の終わり。
見つかっちゃいけない。
気付かれちゃいけない。
このままじっとして、やり過ごせるなら――
そう考えて小さくなる少女の頭の片隅で、別の考え。
もしもこのまま夜になったら?
触れてはいけない、あの影達が、まったく目に見えなくなる。
そうしたら、どうすれば良いの?
不安ばかりが募り、大きな目に涙が溢れた。
思い出すのは、優しい母の顔。頼れる父の顔。温かくて安全な我が家。
帰りたい。
もう会えないのかな…。
夜になる前に帰るのよって、心配してくれてたのに。
あたしが帰らなかったら、きっと泣いちゃうよ。
やだな。やだよ――。
ぽろぽろ、ぽろ。
こぼれた涙が円い頬を伝って流れ落ちる。
雫が跳ねた下草が僅かに揺れた。
その時。閉じていた瞼に仄かな明かりが降り注いだ。
「――?」
闇の中で影に怯えていた少女は、自分の肌に触れる、その、どこか温かな感触が信じられずに丸く目を開いた。
「泣くのはおよし。君をおうちに帰してあげる」
闇に慣れた瞳には少しの光も眩しくて、開いた目に映る声の主は、どんな姿形をしているのか、よく解らなかった。
あなたは誰?
どうして『夜』の中で平気でいられるの?
影が、こっちを見てるような気がするよ。
でも。助けて――
頭を撫でていた手が頬を拭う。
何故だか安心してしまって、少女は気が遠くなった。
声が、続く。
「その代わり、君はもう二度と、光を採らないこと」
どうして?
問いたかった言葉が口から出てこない。
元より異を唱えるつもりはなかったけれど。少女は次の言葉を聞いて、ただ小さく頷いた。
「いつも助けられるとは、限らないから……」
光が集まったような、その誰かは少女の体を抱き上げると、急ぐこともなくゆっくりと路に降り立ち、進み始めた。
気を失う前に、聞こえてきた最後の言葉が、とても優しく少女の胸に届いた。
「無理に捕まえなくても、君の傍にいつも――」
◇◆◇
月日は流れ、少女も娘と呼ばれる歳になった。
今日も外では、カラカラと籠の鳴る音が響き渡る。
それを聞きながら、彼女は窓の鍵を開けた。
あれから一度も、光を採りには行っていない。
だけれども、こうして窓を開けておくと、時折光が向こうから勝手に飛び込んできて、夜中ずっと穏やかな明かりを注いでくれる。
今日も、一粒の光が訪れた。
――ありがとう。
娘は光に礼を言いつつ、窓を閉める。
そうして、あの子供の頃に聞いた言葉を思い出す。
――光はいつも、君の傍に―― |