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絆2 〜因縁編〜
作:秋之



八 ・ 人食いの湖にて


 湖は、静かだった。

 かつて起こったことも、今から起こることに対しても、ひたすら静かに、美しかった。

 その湖の桟橋で、徹は湖を眺めていた。あの時、二人で見ようと思って見れなかった景色を。

 前日の雨で、少しばかり水かさのました湖は、それでも十分に透き通っていた。星も輝いて、巨大な水鏡に映る。


「徹……」

「なぁに、誇彦」


 薄い笑みを向けた徹に、誇彦は険しい表情のまま、彼を睨みつける。敵意よりも、殺意。

 誇彦は、様々な事から推測をたて、その証拠を集めてきた。そして、最後の希望が無くなったのを、先ほど自分の目で確かめてきたのだ。

 歌江が、殺されていた。その事実を。

 合宿所のロビーで、あの日に別れたままの服で、倒れていた。刺されたとも、斬られたとも言えない傷。飛び散って、広がった血液は黒く変色し、彼女自身の肌の色も変化し始めていた。

 胸に広がるのは、とても不快な、しかし抑えがたい黒の色。吐き出したくても、吐き出せない思い。


  殺してやる


 そう思っていた。つい先刻までは。

 だが誇彦は考えてしまったのだ。それが情けになって、弱みになることも理解しながら。

 今の自分の思いを、徹は一年前からひた隠しにしてきたのではないかと。徹も、自分と同じ気持ちなのではないかと。


「……」

「後、一人なんだよ」

「?」


 なんと言葉をかければいいのか。誇彦がどもっていると、徹が一歩を踏み出した。同時に言った言葉の意味が分からない。


「後、一人。仇がいなくなったらさ、楽になれるかな」

「仇……俺か」

「そう…。ねぇ」


 引きずるような足取りと、ガリガリと地面とぶつかる金属音。彼は何かを持っている。片手に。

 徹よりは遅い足取りで、確実に後退さる誇彦は、ジワジワと痛み始めた右腕に瞳を細める。

 病院にいっていない。痛み止の薬も飲んでいなかった。


「どうして助けてくれなかったんだよ……」

「徹……っ!?」


 もの悲し気な表情で歩み寄ってくる徹に手を伸ばした瞬間だ。決して軽くない物が、誇彦の耳元から肩先、足下へと落ちる。

 えぐれた地面に突き刺さったのは、赤い斧。よく消火器の横に備え付けてあるような、緊急用の用具だ。

 赤黒く汚れたそれを引きずり、徹は誇彦の胸ぐらを掴む。誇彦の胸を締め付けるような笑顔で、彼は囁く。


「どうして助けてくれなかったんだよ。……どうして僕を疑ったの? あの時、僕は君を信じたのに。助けてくれるって信じたのに。裏切られても信じたのに。……ねぇ、誇彦。何で誇彦は僕を信じてくれなかったの。何で裏切ったの。君は僕に、何も返してくれなかったね」

「……。俺は、誤解であれば良いと思った」


 自分を掴む徹の手首を掴みかえし、誇彦は睨む。


「真実を追求すれば、俺の中の誤解が解けると思った」


 しかし、誤解は解けなかった。それどころか、推測が真実になってしまったのだ。


「裏切ったのは、お前だって……」

「僕じゃないよ」

「……じゃぁ、それは何だ」


 誇彦の言い分に腹を立てた様子もなく、徹は笑顔で否定する。分かりきっている事なのに、否定を口にしたのだ。

 誇彦が斧を示したとしても、それは変わらない。『僕じゃないよ』の一点張り。


「僕じゃないよ」

「……じゃぁ誰が?」

「僕」


 馬鹿にしてるのか、と怪訝な表情になった誇彦に、徹は言った。


「誇彦が知ってる僕はやってない。那由子を忘れてた僕はやってないよ」

「!」

「やってるのは僕。那由子を忘れられなかった僕がやってるの」


 ブン、と肩先を再度かすめた斧。胸ぐらを掴む手のせいで、避けるにも限度がある。少しばかり服が切れた。


「忘れられるわけないのに。馬鹿だよね」

「二重人格?」

「さぁ。どうかな。もう僕は僕だから……僕しかいないよ」


 と、手を放した瞬間、斧がふりおろされ、誇彦の左腕を裂く。


「先輩!!」

「やめないか、二人とも!」


 そこに漸く駆け付けた翼と定。

 遮るように間に立つ翼は、徹が手に持つそれを見て、僅かに怯む。

 定は、誇彦の傷を見て、慰め程度にしかならないが、持っていたハンカチを巻く。そして、徹を見た。

 小さく笑う彼を。


「退きなよ。怪我するよ」

「退きません!」


 ガクガクと足が震えているのが分かる。張り上げた声も震えている。

 目の前の人は、本当に、徹なんだろうか。

 自分に『信じて』と言った彼なんだろうか。

 一歩一歩、歩み寄ってくる彼は、本当に……。


「翼、奴を信じるな!」


 その言葉に、体が動いた。

 叫んだのは誇彦。だが誇彦は、翼がまさか、前方に走り出すとは思っていなかっただろう。

 走り出した翼は、振り下ろされる斧よりも速く、徹に体当たりをくらわせる。大きくよろめいた徹の足は、桟橋から離れ、翼と共に湖に落ちる。

 水かさが増えたとはいえ、足がつかない訳ではない湖で、水中から顔を出した翼は、その瞬間、頭を掴まれた。そして冷たい湖に押し込まれる。


「邪魔をしないで」


 息を止めていられなくなって、空気の泡を吐き出した翼の肺は、酸素を求めて、水を吸い込もうとする。それでも耐える翼が、もう少しで溺死するというときだ。

 両わきから手を入れられ、湖から抱き上げられる。いつの間にか消えていた徹の手。


「あ、かはっ……げほげほっ!!」

「翼くん、落ち着いて。ほら深呼吸」


 翼の体を支えて言う定は、翼の彼の背中をさする。気管にまとわりついた水分を飛ばすように咳をする翼は、激しい水音に視線をあげる。

 湖の水でうるんだ視界で、誇彦と徹が対峙していた。


「先輩……っ!」

「翼くん、待ちなさい!」


 水をかきわけ彼らの合間に入ろうとする翼を、定が止める。それでも、翼は振り払った。


「徹、悪いが俺は死にたくない」

「うん」

「もうやめにしないか」

「無理だよ」

「……抵抗するぞ」

「うん」


 異様な会話だ。

 徹が笑顔で頷いているのが、異様な光景だ。 片手に斧を握り締め、くすくすと。

 何が楽しいのか分からない。

 水の中のせいか、二人の動きが酷く遅い。同時に翼自身も、二人の場所にたどり着けずにいた。

 体が重い。


「……」


 そんな彼らの姿を見ながら、定は一人、岸近くで携帯を耳に当てる。


「夜分遅くにすみません。友人が斧で……」


 警察を呼んだ定の口調は丁寧だった。あまりにも丁寧すぎて苛々するほどに。そうしながら定は、あの輪の中に入ろうとはしない。傍観者として、立たずむだけ。


「よろしくお願いします」


 携帯を閉じても、定はそこを動かなかった。


「ひっ!?」


 激しい水しぶきが翼の眼前で上がる。驚き身を縮める翼など関係なく、徹は誇彦を目がけて斧を振り下ろす。

 避けるばかりの誇彦は、『くそっ』と吐き捨て、右肩に彼が手をやる。その隙を、徹は見逃さない。

 ガツンッ、という音に、身を縮めたままの翼が瞳を見開く。

 刃とは反対側の平たい部分が、見事に誇彦の側頭部を殴りつけていた。水面に崩れ落ちた誇彦。血が滲む湖面。


「先輩!!」


 自分が、こんな大きな声を出せるとは思っても見なかった。

 バシャバシャと水をかいて誇彦を助けようとする翼の前に、徹が立ち塞がる。無表情で見下す彼の表情には笑みがない。

 萎縮するように動けなくなった翼は、ただ彼を見るしかない。


「先輩じゃない……」


 蚊がなく程度の、それ以下の声しか出ない。聞こえなかった風の徹は、暫く翼を見ていたが、はぁ、と息を付くと、斧を振り上げた。


「やっぱり邪魔するんだ」


 落ちてくる斧。息を飲んだ翼は、目をつむってそれを避け、誇彦の方向ヘと泳ぐ。

 と、ぐん、と何かに引っ張られた。何に引かれたのかは分からない。しかし、それは確実に翼を引っ張る。


「……そっちは、駄目だ」

「え?」


 その声は徹。ゆっくり顔を上げ、翼を見た。虚ろな感じの彼は、そこからは動かずに言う。

 徹には見えていた。彼女がそこに立っているのを。黙って立っているのを。


「僕が行くから……僕が……」


 手にしていた斧から、容易く手を放した徹は、迷わずに潜る。それについていった翼は、いきなり何かに引き込まれ、半強引に湖に姿を消した。

 その様を見ながらも、定は何もしない。蚊帳の外、と言う風に、見ているだけだ。そこに立って、誰が上がって来るかを。















 それは奇跡に等しい目覚め。はっとして目を覚ました誇彦は、自分が流されているのを知った。

 一年前のあの日と同じ感覚。


「……っ!?」


 しまった、と思いながらも、誇彦が水面に視線を向けた時だ。徹が、自分の横を流れに逆らわずに通る。

 はっとした誇彦が彼の腕を掴む。

 その瞬間の彼の表情。暗い水底の様な、目だけで人を射抜けるほどの怒り。

 それでも誇彦は放さない。

 今度こそ離すまいと、死なせまいと。

 暴れる徹を押さえ込み、再度浮上を試みる誇彦だったが、思うように上がれない。歯を食いしばり、伸ばした右手。

 それを翼が掴んだ。本来、肩より上に上げることすら許されない右の腕。

 自らも少し流されながら、それでも今の誇彦らを引き上げるには、十分な補助力となる翼。彼は、ギリギリと絞め上げるように自分の手を握り締める誇彦に、僅かに疑問を、不安を感じ始めた。

 しかし、それよりも今は速く湖から上がらなくては。

 更に力をます誇彦の手。手首が折れるのではないか。翼がそう思った瞬間だった。


  ブツン!


 ゾッとする、力の抜けた誇彦の手を握り締めながら、翼は寒気を感じた。

 遅れて、ゴバァッと、泡が上がる。

 チラリと見ると、誇彦が苦悶の表情で、けれども必死に足を動かし、水面を目指す。


 後もう少しで!


 翼が懇親の力で水面に指先を出し、バシャリと音を立てた瞬間、急に体が軽くなった。


「いたぞ、こっちだ!」


 みると、スーツを来た大人……


「お……お父さん?」


 そこにあったのは、翼の父。と言うことは、警察だ。

 助けられた事を嫌がり、湖に戻ろうとする徹と、右肩を押さえ、頭と左腕から血を流す誇彦。そして、ただ見ていた定。

 翼は毛布にくるまれ、定と共に、父の車で病院へ行った。

 長い一日。

 日が昇ったのに、どうして一日が終わった気がしないんだろう。















.


貴方は誇彦先輩に従おうと思いますか?











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