八 ・ 人食いの湖にて
湖は、静かだった。
かつて起こったことも、今から起こることに対しても、ひたすら静かに、美しかった。
その湖の桟橋で、徹は湖を眺めていた。あの時、二人で見ようと思って見れなかった景色を。
前日の雨で、少しばかり水かさのました湖は、それでも十分に透き通っていた。星も輝いて、巨大な水鏡に映る。
「徹……」
「なぁに、誇彦」
薄い笑みを向けた徹に、誇彦は険しい表情のまま、彼を睨みつける。敵意よりも、殺意。
誇彦は、様々な事から推測をたて、その証拠を集めてきた。そして、最後の希望が無くなったのを、先ほど自分の目で確かめてきたのだ。
歌江が、殺されていた。その事実を。
合宿所のロビーで、あの日に別れたままの服で、倒れていた。刺されたとも、斬られたとも言えない傷。飛び散って、広がった血液は黒く変色し、彼女自身の肌の色も変化し始めていた。
胸に広がるのは、とても不快な、しかし抑えがたい黒の色。吐き出したくても、吐き出せない思い。
殺してやる
そう思っていた。つい先刻までは。
だが誇彦は考えてしまったのだ。それが情けになって、弱みになることも理解しながら。
今の自分の思いを、徹は一年前からひた隠しにしてきたのではないかと。徹も、自分と同じ気持ちなのではないかと。
「……」
「後、一人なんだよ」
「?」
なんと言葉をかければいいのか。誇彦がどもっていると、徹が一歩を踏み出した。同時に言った言葉の意味が分からない。
「後、一人。仇がいなくなったらさ、楽になれるかな」
「仇……俺か」
「そう…。ねぇ」
引きずるような足取りと、ガリガリと地面とぶつかる金属音。彼は何かを持っている。片手に。
徹よりは遅い足取りで、確実に後退さる誇彦は、ジワジワと痛み始めた右腕に瞳を細める。
病院にいっていない。痛み止の薬も飲んでいなかった。
「どうして助けてくれなかったんだよ……」
「徹……っ!?」
もの悲し気な表情で歩み寄ってくる徹に手を伸ばした瞬間だ。決して軽くない物が、誇彦の耳元から肩先、足下へと落ちる。
えぐれた地面に突き刺さったのは、赤い斧。よく消火器の横に備え付けてあるような、緊急用の用具だ。
赤黒く汚れたそれを引きずり、徹は誇彦の胸ぐらを掴む。誇彦の胸を締め付けるような笑顔で、彼は囁く。
「どうして助けてくれなかったんだよ。……どうして僕を疑ったの? あの時、僕は君を信じたのに。助けてくれるって信じたのに。裏切られても信じたのに。……ねぇ、誇彦。何で誇彦は僕を信じてくれなかったの。何で裏切ったの。君は僕に、何も返してくれなかったね」
「……。俺は、誤解であれば良いと思った」
自分を掴む徹の手首を掴みかえし、誇彦は睨む。
「真実を追求すれば、俺の中の誤解が解けると思った」
しかし、誤解は解けなかった。それどころか、推測が真実になってしまったのだ。
「裏切ったのは、お前だって……」
「僕じゃないよ」
「……じゃぁ、それは何だ」
誇彦の言い分に腹を立てた様子もなく、徹は笑顔で否定する。分かりきっている事なのに、否定を口にしたのだ。
誇彦が斧を示したとしても、それは変わらない。『僕じゃないよ』の一点張り。
「僕じゃないよ」
「……じゃぁ誰が?」
「僕」
馬鹿にしてるのか、と怪訝な表情になった誇彦に、徹は言った。
「誇彦が知ってる僕はやってない。那由子を忘れてた僕はやってないよ」
「!」
「やってるのは僕。那由子を忘れられなかった僕がやってるの」
ブン、と肩先を再度かすめた斧。胸ぐらを掴む手のせいで、避けるにも限度がある。少しばかり服が切れた。
「忘れられるわけないのに。馬鹿だよね」
「二重人格?」
「さぁ。どうかな。もう僕は僕だから……僕しかいないよ」
と、手を放した瞬間、斧がふりおろされ、誇彦の左腕を裂く。
「先輩!!」
「やめないか、二人とも!」
そこに漸く駆け付けた翼と定。
遮るように間に立つ翼は、徹が手に持つそれを見て、僅かに怯む。
定は、誇彦の傷を見て、慰め程度にしかならないが、持っていたハンカチを巻く。そして、徹を見た。
小さく笑う彼を。
「退きなよ。怪我するよ」
「退きません!」
ガクガクと足が震えているのが分かる。張り上げた声も震えている。
目の前の人は、本当に、徹なんだろうか。
自分に『信じて』と言った彼なんだろうか。
一歩一歩、歩み寄ってくる彼は、本当に……。
「翼、奴を信じるな!」
その言葉に、体が動いた。
叫んだのは誇彦。だが誇彦は、翼がまさか、前方に走り出すとは思っていなかっただろう。
走り出した翼は、振り下ろされる斧よりも速く、徹に体当たりをくらわせる。大きくよろめいた徹の足は、桟橋から離れ、翼と共に湖に落ちる。
水かさが増えたとはいえ、足がつかない訳ではない湖で、水中から顔を出した翼は、その瞬間、頭を掴まれた。そして冷たい湖に押し込まれる。
「邪魔をしないで」
息を止めていられなくなって、空気の泡を吐き出した翼の肺は、酸素を求めて、水を吸い込もうとする。それでも耐える翼が、もう少しで溺死するというときだ。
両わきから手を入れられ、湖から抱き上げられる。いつの間にか消えていた徹の手。
「あ、かはっ……げほげほっ!!」
「翼くん、落ち着いて。ほら深呼吸」
翼の体を支えて言う定は、翼の彼の背中をさする。気管にまとわりついた水分を飛ばすように咳をする翼は、激しい水音に視線をあげる。
湖の水でうるんだ視界で、誇彦と徹が対峙していた。
「先輩……っ!」
「翼くん、待ちなさい!」
水をかきわけ彼らの合間に入ろうとする翼を、定が止める。それでも、翼は振り払った。
「徹、悪いが俺は死にたくない」
「うん」
「もうやめにしないか」
「無理だよ」
「……抵抗するぞ」
「うん」
異様な会話だ。
徹が笑顔で頷いているのが、異様な光景だ。 片手に斧を握り締め、くすくすと。
何が楽しいのか分からない。
水の中のせいか、二人の動きが酷く遅い。同時に翼自身も、二人の場所にたどり着けずにいた。
体が重い。
「……」
そんな彼らの姿を見ながら、定は一人、岸近くで携帯を耳に当てる。
「夜分遅くにすみません。友人が斧で……」
警察を呼んだ定の口調は丁寧だった。あまりにも丁寧すぎて苛々するほどに。そうしながら定は、あの輪の中に入ろうとはしない。傍観者として、立たずむだけ。
「よろしくお願いします」
携帯を閉じても、定はそこを動かなかった。
「ひっ!?」
激しい水しぶきが翼の眼前で上がる。驚き身を縮める翼など関係なく、徹は誇彦を目がけて斧を振り下ろす。
避けるばかりの誇彦は、『くそっ』と吐き捨て、右肩に彼が手をやる。その隙を、徹は見逃さない。
ガツンッ、という音に、身を縮めたままの翼が瞳を見開く。
刃とは反対側の平たい部分が、見事に誇彦の側頭部を殴りつけていた。水面に崩れ落ちた誇彦。血が滲む湖面。
「先輩!!」
自分が、こんな大きな声を出せるとは思っても見なかった。
バシャバシャと水をかいて誇彦を助けようとする翼の前に、徹が立ち塞がる。無表情で見下す彼の表情には笑みがない。
萎縮するように動けなくなった翼は、ただ彼を見るしかない。
「先輩じゃない……」
蚊がなく程度の、それ以下の声しか出ない。聞こえなかった風の徹は、暫く翼を見ていたが、はぁ、と息を付くと、斧を振り上げた。
「やっぱり邪魔するんだ」
落ちてくる斧。息を飲んだ翼は、目をつむってそれを避け、誇彦の方向ヘと泳ぐ。
と、ぐん、と何かに引っ張られた。何に引かれたのかは分からない。しかし、それは確実に翼を引っ張る。
「……そっちは、駄目だ」
「え?」
その声は徹。ゆっくり顔を上げ、翼を見た。虚ろな感じの彼は、そこからは動かずに言う。
徹には見えていた。彼女がそこに立っているのを。黙って立っているのを。
「僕が行くから……僕が……」
手にしていた斧から、容易く手を放した徹は、迷わずに潜る。それについていった翼は、いきなり何かに引き込まれ、半強引に湖に姿を消した。
その様を見ながらも、定は何もしない。蚊帳の外、と言う風に、見ているだけだ。そこに立って、誰が上がって来るかを。
それは奇跡に等しい目覚め。はっとして目を覚ました誇彦は、自分が流されているのを知った。
一年前のあの日と同じ感覚。
「……っ!?」
しまった、と思いながらも、誇彦が水面に視線を向けた時だ。徹が、自分の横を流れに逆らわずに通る。
はっとした誇彦が彼の腕を掴む。
その瞬間の彼の表情。暗い水底の様な、目だけで人を射抜けるほどの怒り。
それでも誇彦は放さない。
今度こそ離すまいと、死なせまいと。
暴れる徹を押さえ込み、再度浮上を試みる誇彦だったが、思うように上がれない。歯を食いしばり、伸ばした右手。
それを翼が掴んだ。本来、肩より上に上げることすら許されない右の腕。
自らも少し流されながら、それでも今の誇彦らを引き上げるには、十分な補助力となる翼。彼は、ギリギリと絞め上げるように自分の手を握り締める誇彦に、僅かに疑問を、不安を感じ始めた。
しかし、それよりも今は速く湖から上がらなくては。
更に力をます誇彦の手。手首が折れるのではないか。翼がそう思った瞬間だった。
ブツン!
ゾッとする、力の抜けた誇彦の手を握り締めながら、翼は寒気を感じた。
遅れて、ゴバァッと、泡が上がる。
チラリと見ると、誇彦が苦悶の表情で、けれども必死に足を動かし、水面を目指す。
後もう少しで!
翼が懇親の力で水面に指先を出し、バシャリと音を立てた瞬間、急に体が軽くなった。
「いたぞ、こっちだ!」
みると、スーツを来た大人……
「お……お父さん?」
そこにあったのは、翼の父。と言うことは、警察だ。
助けられた事を嫌がり、湖に戻ろうとする徹と、右肩を押さえ、頭と左腕から血を流す誇彦。そして、ただ見ていた定。
翼は毛布にくるまれ、定と共に、父の車で病院へ行った。
長い一日。
日が昇ったのに、どうして一日が終わった気がしないんだろう。
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