九 ・ 陸の螺旋と水の終焉
何故かは分からないが、徹は普通病院の病室に篭っていた。警察が取り調べに来ることも無ければ、誰かが会いに来ることもない。
カーテン出絞めきり、鏡は破られて、テレビの画面は粉々。ガラス製品の物も容赦なく打ち砕かれていた。そうしなければ生きていけない。
徹はそう悟った。
鏡に映る自分。あれはドッペルゲンガー。あれは自分を殺しに来るのだ。友を殺して、最後に自分を……。
病室の端にあるベッド。シーツにくるまって、カタカタと震える。食事もろくにとらず、点滴や注射などはもっての他だ。
湖に行ってから経った時間は三日ほど。だが徹はそれを理解していない。
彼は、延々と夜を繰り返していた。理解しきれない恐怖の螺旋。フと沸き上がる破壊衝動。鍵のかけられた扉。孤独。
叫んでも誰も来ないのは分かっていた。けれど、ナースコールを押すと、誰かが来てくれる。扉の外側からだが、声をかけてくれる。その、脅えた声。
自分を脅える声に脅え、鏡で笑う自分に脅え、自分を疑う者に脅えた。
「那由子……」
そんな彼の唯一。それは目覚めてからずっと頭に浮かぶ少女。思い出の彼女。
忘れていた、忘れなければいけなかった少女。
『あたし、那由子ってゆうの。よろしくね、徹君』
『よろしく』
彼女との出会いは遅かった。彼女と初めて出会ったのは、高校の入学式。だが、席が隣になった訳ではない。帰りがけ、校門で唐突に声をかけられたのだ。
可愛い子だと思った。明るくて、いい人そうだと。
『徹君、私ね、この部活に入ろうと思うの』
『へぇ……絆って、部活の名前?』
『そう! 皆で仲良くする部活なのよ!』
『楽しそうだね』
『徹君も入ろうよ!』
『……うん。那由子が入るなら』
そうして入った部活。定が部長の部活。特に何をするでもなく、ただ話をするような部活。
部長の定は、全員にそつなく会話し、そして全員の繋ぎ役になっていった。時間と共に、繋ぎ役など必要ないほどにうち解けた仲間。このまま、楽しく全てが流れていくと思った。
『徹、お母さん、暫く出張に行くから』
『分かったよ、母さん』
『那由子ちゃんのお母さんに話したらね、その間なら徹を泊めてくれるって……』
『え』
徹の母と那由子の母は、仲が良い。こちらも高校からの付き合いだが、話が合うようで、よく長電話をしていた。同時に、那由子と徹も。
『母さん、僕は一人でも……』
『駄目』
『え?』
『駄目よ。家には入らないこと』
『な、何で?』
その頃の徹は、純粋だった。悪く言うなら、鈍感。母親の異変に全く気付かない。
『ちょっとクリーニングを頼んだのよ。だから』
『そうなんだ……』
母親の言うことなら何でも信じた。那由子の言うことも何でも信じた。そして、母親と那由子が信じている者も全て信じた。
痛い目を見ても、徹は信じた。徹には、それを実行できる力があったのだ。
その夜だって。
『……ご、ごめん……僕、やっぱり、やっぱり、あの、ほら、えっと………庭で寝るよ!』
彼女の家にいることすらおこがましく、思わず部屋を出ようとした徹は、ズボンの裾を掴まれて踏みとどまる。
『何よ、私は気にしないよ?』
『ぼ、僕が気にするよ……』
『同じ布団で寝る訳じゃないのに……』
そういう問題じゃない。と、思いつつ、徹はベッドの脇に敷かれた自分の布団に正座する。視線を斜め下にそらして。
友達以上の関係とは言え、恋人同士ではない。
そうなのに、普通に那由子の隣に布団を敷いた彼女の母。この状況を知っている彼女の父。徹はその二人の考えが分からなかった。
『じゃぁ、私は寝るよ? 明日は学校だもんね』
『え、あ……あぁ、うん』
もぞもぞと、何の恥ずかしげも躊躇もなく布団に潜る那由子に驚きながらも、徹も布団に入る。頭まで、すっぽりと布団にくるまって、申し訳ない気分になりながら。
『……』
『……』
しかし、徹は、あれほど那由子の隣で寝ていると言うことを気にかけながらも、布団に入ってから三十分後、普通に眠っていた。
夢など見た覚えもなければ、途中で目覚めた覚えもない。
朝方、携帯のアラームがなり響いた事に驚いて、慌てて伸ばした手。アラームを止め、もそ、と布団の中で丸まった時だ。寝巻きではなく、自分の肌が脇腹に触れた。
本来有り得ないことだ。
『!?』
ばさり、と布団を捲った徹、自分の寝巻きの上着が枕元にあるのを発見し、とりあえず半裸になっていた上半身を隠す。
口は声を出さずに、訳の分からない何かを叫び、自分の布団に入っていた那由子を凝視した。
ベッドから落ちたとも見えたが、布団に入っていた意味が分からない。混乱する徹が、挙動不審に周囲を見ているその瞬間、那由子がムクリ、と起き上がり……笑った。
彼女の方は普通に服を着ている。
一先ず安心してしまったが、安心する理由が分からない。
『あ、あの……ぼ、ぼぼ、僕……』
半涙目で後退さる徹に、那由子は微笑むばかりで何も言わなかった。
そして二人は、その日から恋人同士になった。
今思えば、あの時からだったのかもしれない。あの時から、自分にはドッペルゲンガーが憑いていた。
あの記憶の無い夜から。
那由子を忘れた徹と、忘れられなかった徹。その違い。
その考えを、徹は肯定してしまった。
それを肯定することがどんな事になるか。それを徹は実感していた。
ドッペルゲンガーは知っているのだ。一番恨むべき相手が誰か。
コンコン
それは小さな音。ノックだと気付いたのは、それが聞こえて三度目。
「徹? 私だ、定だ」
「……」
定だって? 徹は、シーツから顔を出し、扉を凝視する。
定は至って変わらぬ様子で言う。
「入るぞ、いいか?」
「……」
シーツから抜け出て、ベッドから降りた徹の前で、鍵がガチャリと解除され、光が入る。現れたのは、当然、定だ。
三日ぶりの、しかもあんな事があった筈なのに、彼は、全く変わった様子がない。
笑顔で手をあげる。
「久しぶり。どうした、そんな顔をして」
「さ、定」
知らず知らず、足を踏み出した徹に定は微笑む。しかし、その徹の足が止まった。理由は、あのメール。自分を疑った彼に対する、密かな脅えだった。
と、それに気が付いたのか、定が携帯を取り出す。
「徹、お前……最後まで読んだか、メール」
ピピピ、と久しぶりに聞く電子音。定は目的の送信メールを見付けて、徹に見せた。
『昨日はどこにいたんだ? 心配したんだぞ』
心配したんだぞ。それを確認した徹は、呆けたような表情で、画面と定を見比べる。
苦笑をもらす定は、部屋の有り様を見て、溜め息を付きながら窓辺まで歩いていって、カーテンを開く。
「さぁ、空気を入れ換えようか!」
開け放たれた窓。曇りガラスの窓は、徹を映す事はない。それから、個室に備え付けてある浴槽にお湯を張り始める定を、徹は後ろから見ていた。
「ほら、風呂にでも入って、すっきりしたらどうだ? お前、酷い顔だぞ」
鏡を割って以来、自分の顔なんて見ていない。散らばったガラス片や、テレビの画面、それを脇に寄せている定を眺めながら、徹はお湯が溜ってゆく音を聞く。水が流れる音を。
お湯が湯船を満たしたのに気が付いたのか、定が顔をあげ、浴室の蛇口を捻る。それから、浴室に散らばっていた鏡を箒で片付け、細かい破片は丁寧にシャワーで流す。
「ほら、準備出来たぞ」
「……うん」
「あ、そうだ」
入れ違いに浴室に入る徹の背に、定は言ったのだ。笑顔で。
「翼くんが今、誇彦の所に居るから……もうすぐしたら来るかもよ」
「誇彦……」
「そう。誇彦」
ぱたん、と閉められた扉。首を巡らせただけで見える浴槽。考えてみれば、この浴槽に湯を張る必要はない。シャワーで十分なはずだ。
そんな事を考えながら、頭の半分では、誇彦の事を考えていた。彼奴が生きているのか、と。
胸に広がる感情。頭を支配する思い。
「……」
湯船の湯に映る自分の姿。笑う姿に、徹は、息を飲んで……
しかし、不意にその姿が歪んだ。バシャリ、と腕の形をしたお湯が徹の頭を掴み、湯船に抱きこむ。
バシャバシャと初めの数秒なっていた、騒がしい水音は、不意に途切れる。
『これ以上、誰かを殺してしまう前に……私と同じく死のう』
暖かな水の腕に抱かれながら、徹の耳にはそれが聞こえた。確かに、あの少女の声音で。
『死のう。徹くんは……もういらないの。こっちの世界の方が』
それは甘美で心地よい囁き。
『……楽しいから』
最後まで彼女の声を聞きながら、徹は抵抗を止めた。最後の最後まで体を手放さなかったのは……那由子を忘れた徹だったのだろうか。那由子を忘れなかった徹だったのだろうか。
最後まで体を手放さなかった。それが本物の徹だったのに。
しかし、もう関係ないだろう。体など、もう不必要なのだから。
そして、その後、翼に発見される彼は……とても安らかな、傷一つない、儚さを置いて、横たわっていた。人形。
人間とは思えない美しさ。彼が生きて、動いて、話している時には気付かなかった。
「人間は、醜いんだ。器がどれだけ美しくても」
いつの日か、定が呟いた言葉。
あの頃の徹には理解できなかった。理解するには……自分の死を見つめなければいけなかったから。
徹がこの選択をして幸せだったかどうかは……だれも知らない。
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