「では、この建物内に満たされている匂いは、キメラの行動の抑制のためのものか」
アーチャーが研究員たちの話を聞いて、そう皮肉めいた言葉を口にした。
キメラには凶暴なモノが数多くいるが土砂災害で建物が崩壊し、野放しになる危険性があった。とはいえ、この緊急時にその一頭一頭に対し薬物を投与する余裕もない。だから、研究段階ではあるが一度に多くのキメラに投与が可能な薬品を使用した。しかし、何がどう作用したのか現在のところ不明だが、実験ではなかった効果がキメラたちに現れた。
「抑制させるつもりが暴走させたというわけですね」
アーチャーの皮肉の続きをわざわざ言ってのけるルビー。
制御できもしないモノを作ったのが彼らなら、それを解き放ったのも彼らの責だ。
研究棟の職員は、ここで隠れている彼ら以外は全てキメラに殺されたという。飼育棟の職員については、わからない。しかし、飼育棟は研究棟よりもキメラの数が多い。もし向こうのキメラも全てが暴走したと考えれば、その結末は容易に想像できる。
「全く以てダメダメです。優雅さの欠片もない。所詮は自業自得です。放っておいていいと思いますよ」
ルビーは彼らを切り捨てる。
当然だ。
管理できず、凶暴化したキメラが町に降りてしまっているというのにそれを放置し、こんな場所に閉じこもって自己保身だけを考えているだけの輩。そんな者に、ルビーは価値を見出せない。
ルビーの言葉を聞きながら、アーチャーは無言で研究員たちを見た。
彼らはビクリと大げさなほど身体を震わせる。もうアーチャーは彼らに刃を向けてさえいないというのに、怯えて小さく縮こまっていた。
「ルビー、先ほど採取した検体の解析は終わったか?」
アーチャーは彼らの方を向いたまま、ルビーに声をかける。
「はい、だいたいの解析は終了しています。ある種の因子を持つ生体の嗅覚を刺激することで、精神の鎮静と衝動の抑制の効果が期待できるようです。ただし、キメラの暴走の原因についてはまだわかりません」
「そうか」
ルビーの解析結果を確認し、少なくとも研究員たちが嘘を付いていないことだけは理解する。
「た、助けてくれっ!!」
研究員の一人が緊張に耐え切れなくなり悲鳴じみた声をあげて、アーチャーに懇願する。
「こんな場所にいつまでもいたら、気が狂ってしまう! 頼む」
キメラがいつ襲ってくるか知れない。
逃げ出したいが、暗い森の中を走る勇気もなく、ただ息をひそめて狭い隠し部屋の中に閉じこもる。
助けが来るかこないか、あるいはキメラが襲ってくるか否か。そんな戦々恐々とした時間に耐えられるほど、彼らの精神は鍛えられていない。
「………………………………」
ルビーはアーチャーの肩の上からそれを無言で見下ろす。
「行きましょう、アーチャーさん」
それは研究員たちからすれば、無情ともいえる言葉だった。だが、ルビーの言うように、彼らを助ける義理などアーチャーたちにはない。
「―――――もしもーし、アーチャーさん?」
アーチャーも、ルビーが口にしなかった言葉の意味を理解しているはず。だというのに、彼はルビーの促しに応じず鋭い視線を上に向けていた。
「天井?」
そんなところに何かあるのかとルビーもつられるようにして、見上げる。
けれどルビーには何の異変も見つけられなかった。所々に黒いシミがついた白い天井があるだけ。隠し部屋だからなのか照明設備はなく、アーチャーが立ちふさぐ出口の向こうの部屋から漏れてくる灯りだけがこの部屋の光源だった。そんなうす暗い部屋の天井をアーチャーは鋭い眼差しで見ている。
戦闘者である彼が、無意味にそんな視線を向けるわけがない。ルビーも押し黙って気配を探るが、所詮彼女は愉快型魔術礼装。アーチャーが何を感じ取っているのかまるで理解できない。
そして、研究員たちもそれは同様だった。アーチャーの警戒だけは伝わっているが、それだけだった。
「…………?」
ふいにルビーは違和感を覚える。けれど、自分が何に違和感を覚えたのかわからない。
白い天井に見えるのは黒いシミだけ。
まるで、雨漏りした跡のような――――
薬品の管理が神経を使うのは、気温や湿度で薬品の成分が劣化してしまうことが多々あるからだ。つまり、薬品を保管する部屋での水漏れなどあってはならない。薄い壁一枚隔てられているとはいえ、隣の部屋は何らかの実験を行うために薬品を保管していた場所だ。
その部屋の天井で雨漏り。
しかし、昨夜の大雨と土砂崩れで建物が歪んだと考えればそれもおかしくはないかもしれない。
そんな取り留めもない思考がクルクルとルビーの脳裏を埋める。
「あれ?」
いや、そんなまさかと、ルビーは杖頭を振ってもう一度天井を見直す。
黒いシミの色が濃くなっていないか?
シミの範囲が広がってはいないか?
「……っ!! よけろっ!!!」
アーチャーが弾かれたように動いた。研究員の一人を押しのけたのと、天井から何かが落ちてきたのはほぼ同時だった。
ジュッという、肉が焼けるような音と白く細い煙が上がる。
天井から落ちてきたのは、部屋の出口を塞いで余りあるほどの巨大な粘液の塊だった。どす黒い粘液が揺らめくたびに中に蠢く黒い影が見える。粘液が付着した場所は、まるで酸を浴びせられたように音を立てて溶けていく。
その巨大なアメーバー状の生命体が、出口をふさぎ中にいる者たちを威嚇するように歪み、膨らみ、飲み込もうと粘液の腕をユラユラと震わせる。
「アーチャーさん!!」
左腕を抱え込みきつく押さえているアーチャーにルビーが声をあげる。先ほど研究員を庇ったときに、飛散した粘液を左腕に浴びてしまった。
だが、アーチャーは心配ないと首を横に振り、押さえていた右手を外す。赤く焼け爛れた肌が顕わになる。二の腕から前腕にかけて赤く爛れ、創部からはジワジワと出血しており、酸のせいか流血が止まる気配もない。
アーチャーは口の中で小さく呪を呟いて右手に白い中華刀を投影し、右半身を前にして刀を構える。
研究員たちは、そんなアーチャーの影に隠れるように部屋の隅に一塊になって身を縮こまらせていた。
孤立無縁の中で、アーチャーは躊躇わず前に出る。
アメーバーは自らに近づいてきたアーチャーを敵と認識したのか、あるいはただの反射なのか、それとも捕食行動なのか。自らを構成する粘液の塊を飛ばしてきた。
それはアーチャーから見れば止まっているにも等しい速度。躱すことなど造作ないはず。
なのに、アーチャーは躱さずに右手の剣で打ち払う。アメーバーが粘液を吐き出す。それをアーチャーが剣で払う。
その攻防を繰り返しながら、アーチャーは一歩ずつ前に出る。しかし、吐き出された粘液を完全に防御できているわけではない。左手が使えないというのもあるが、アーチャーが粘液の塊を回避する気がないからというのもある。だから、弾いて飛散した粘液がアーチャーにかかる。そのたびに、ジュッと小さな音がして、酸で服や肌が焼ける。
だが、そんなことには一切構わずアーチャーは機械的に対処していく。
アーチャーが処理する度にアメーバーの粘液の量が減る。それとともに、黒い粘液の中で蠢いていた黒い影が徐々に顕わになる。まるで黒く焼け焦げた何かの生き物の塊。それを核としてアメーバーは存在している。
アーチャーが粘液を弾き、ダメージを負う。それを代償にして、内に隠れていたアメーバーの存在の核が表に出てくることになる。
最後の一歩をアーチャーが詰める。
そして、最後の一撃となる剣を振り下ろす。
そこにさしたる感慨はない。これはアーチャーにとって当然の結末でしかないから。
黒い塊が、その一撃にあっさりと崩壊し崩れ落ちる。核を失ったことで、粘液も力なく床に広がり、シューシューと音を立てながら蒸発していった。
研究員たちが、アーチャーに対して何かを言うよりも早く。
「行くぞ、ルビー」
短くそれだけを告げて、一度も研究員たちを振り返ることもなくその場を後にした。
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