あそこにあるはげ山が見えるかい?
そう、三角定規のように頂上のとがったあの山さ。あの山は陸軍の演習に使われていてね。年に一度、国中の砲兵隊が集まって、ふもとからあの頂上をねらって大砲を撃つんだ。もちろん訓練だぜ。そういう競技会なんだ。
山頂には白ペンキで巨大な十字型が描いてあり、その中心に砲弾を命中させた隊が優勝者で、ほうびとして14日間の特別休暇を与えられるんだ。
14日間といえば相当なもんだぜ。だから兵たちは必死になる。山のほうはたまったもんじゃないがね。そうやってガンガン砲弾をぶつけられるから、あんなにはげてしまっているのさ。
この競技会で一度だけ、軍人でも何でもないただの民間人が優勝したことがあるんだ。しかも大砲も使わずにだぜ。やつの放った砲弾は、ペンキの十字の中心を見事につらぬいた。あのときのかっさいと大騒ぎときたらなかったよ。そのときの話を聞きたいかい?
中学を卒業して、新一郎は鉄道会社に就職した。踏み切りに配置され、列車が近づくたびに警手として遮断機を動かすことが仕事になった。手動式の遮断機で、手でハンドルをぐるぐる回して上下させるのだ。
小さいが列車本数の多い踏み切りで、新一郎は張り切って仕事にあたった。特急ツバメや遠く九州へ向かう夜行列車、新鮮な魚を一秒でも早く東京へ送り届けるためにエンジンを全開にする鮮魚急行などもここを通るのだ。
新一郎は責任感の強い人間で、物事を決められたとおりにきちんとこなすことに喜びを感じていたから、毎日毎日定められた時間に列車を通し、赤いテールライトを見送る仕事が本当に性に合っていたのかもしれない。だがある日、そういう生活に思いがけない出来事が降りかかった。
この日も新一郎は、いつものように鮮魚急行の通過を待っていた。朝早くから東京へ行き、魚を降ろして帰ってくる空の列車だ。この踏切を通り過ぎると鮮魚市場へ通じる線路で停車し、魚を満載して、再び東京めざして出発するのだ。
20両編成の長い列車で、ごうごうと通過していくのはいつもの光景だった。だが今日は、それがいつもと違うことに新一郎は気がついた。機関士が運転台の窓から身を乗り出し、新一郎めがけて大きな声で何かを叫んでいるのだ。車輪のごう音のせいで、何を言っているのかはもちろん聞こえない。叫んでいるだけでなく、大きく両腕を振り回してもいる。
何か普通でないことが起こっているに違いないと新一郎は気がついた。機関士の表情はそれほど必死で、何かを訴えようとしていたのだ。目が合った瞬間、機関士が機関車のブレーキ装置を指さしたことに気がついた。絶望に満ちた表情で、機関士はまた何かを叫んだ。
列車のブレーキが故障し、きかなくなっているのだと気がつくのには時間はかからなかった。踏み切りのわきには、警手のための小さな小屋がある。新一郎はその中に飛び込み、電話機をひっつかんで耳に当てた。
交換手を呼び出そうと試みた。緊急事態の発生を猫坂駅へ通報するのだ。
だが交換手は答えなかった。新一郎が何度スイッチを押しても、うんともすんとも言わないのだ。いつもならはきはきした若い娘の声で「はい、鉄道電話交換台です」と返事があるのだが。
新一郎は思い出した。今日は鉄道電話は故障しているのだった。昨日どこかでトラックが電信柱に衝突してしまい、修理に一日かかるということだった。なんてことだ。こんな日に。
電話機をほうり出し、新一郎は駆け出した。鮮魚急行はもう通り過ぎてしまい、テールライトが遠くに見えているだけだ。遮断機は下がったままになってしまうが、気にしている余裕はなかった。新一郎は自転車に飛びつき、さっとまたがったのだ。新一郎は毎日これに乗って、自宅から通勤しているのだった。
全身の力を込めてペダルをこぎ始めた。ここから猫坂駅は遠くはない。自転車だと直線距離を行くことができるからだ。だが列車はそうではない。地形の関係で半円形に大きなカーブを描き、ぐるりとう回していくのだ。うまくいけば、自転車のほうが先に着くことができるかもしれない。
新一郎はスピードを上げた。子供のころから住んでいる町だから、地理はすべて頭に入っていた。どの道を行けば最も早く駅に着くことができるか、新一郎は考えた。
そのためには、まず女学校を通り抜けなくてはならない。あの学校は敷地が広い。う回していては、とても間に合わない。舗装のないデコボコ道に自転車を飛びはねさせながら、新一郎はつむじ風のように駆け抜けていった。今しも道路を横断しようとしていた野良猫のしっぽを、新一郎はぎりぎりのところでよけることができた。猫は驚いて飛びのき、新一郎にキバを向けたが、かまっている余裕はなかった。
女学校の校門が見えてきた。小学生のころ以来足を踏み入れたことのない場所だ。姉がここの生徒だったので、入学式や卒業式に同行したからだが、あのころと校内の様子が変わっていないことを期待するしかなかった。
砂ぼこりを立てながらグラウンドを横切り、新一郎の自転車は校舎の中へ飛び込んでいった。ひんやりとした廊下に出る。たまたま歩いていた女教師が、あわてて飛びのいた。新一郎はかまわずペダルをこぎ続ける。「ちょっとあなた」と声が聞こえたが、無視することにした。
女生徒たちの歌声が聞こえてきた。合唱の練習をしているのだろう。ということは、音楽室はあの方向にあるのだな。
暑い日なので、教室のドアは開け放されていた。新一郎は、そこから音楽室の中へ飛び込んでいった。
ピアノをひいていた若い教師が大きな悲鳴を上げた。とうとう曲がりそこね、新一郎は机をいくつかなぎ倒したが、そこには誰も座っていなかったのは幸運というしかない。
女生徒たちの黄色い悲鳴を背後に聞きながら、新一郎はあっという間に音楽室をあとにしていた。裏庭に面したドアも、風を通すために開いたままになっていたのだ。タイヤで芝生を踏みつけ、金魚のいる池に車輪を取られて大きな水しぶきを上げたが、新一郎の姿は10秒後には裏門の外へ消えていた。狭い路地に入り、さらにスピードを上げた。
前方に大きく細長い建物が見え始めた。猫坂鮮魚市場だ。猫坂近くでとれる海産物を一手に扱っている場所で、敷地は広く、構内を移動するのに仲買人たちが自転車を必要とするほどだ。敷地内には専用の駅まである。
積み込みを待つために、今ごろはプラットホームには魚介類を入れた木箱が何百も積み上げられているに違いない。プラットホーム全体が魚の匂いで満ちていることだろう。ゴム長靴をはいた男たちが、鮮魚列車の到着を今か今かと待っているのだ。
守衛の制止を振り切り、新一郎の自転車は市場の正門を突っ切っていった。ハンドルを押さえ、急カーブをきった。古い自転車だったせいか、大きな音を立てて突然チェーンが切れたが、気にしているひまはなかった。それに、もうそんなことはどうでもよかった。目的地に着いたのだ。
自転車をほうり出し、新一郎は駆け出した。仲買人たちでごった返す中を進み、プラットホームへ急いだ。
プラットホームの様子は想像していたとおりだった。魚を詰め込んだ木箱が整然と並んでいる。その手近な一つに手をかけ、新一郎が中身を線路に向けてばらまき始めたとき、まわりの男たちには意味がわからなかったに違いない。一瞬はぼうぜんとしていたが、すぐに新一郎に飛びかかり、やめさせようとした。
その手を振りほどこうと新一郎は暴れた。男たちはますます手に力を込める。だが新一郎の口から出る言葉を聞いて、男たちも迷いを感じないではいられなかった。
「ブレーキが壊れた鮮魚列車が暴走している。もうすぐここへやってくる。ここで止めないと大変なことになるぞ」
仲買人たちは、きょとんとして顔を見合わせた。自由になった新一郎は、線路に魚を落とす作業を再開した。だがその表情の中に真実を感じとることができたのだろう。仲買人たちも一人二人と加わっていき、一分もたたないうちに全員が手伝い始めた。
線路はすぐに魚で埋めつくされることになった。ハマチ、サバ、アジ、タチウオといった普通の魚から、タコやイカのたぐい、ナマコやシャコまでいた。何をあわてたのか、役に立ちそうもないダシジャコをまき散らす者までいた。
線路はそうやって埋めつくされたが、鮮魚列車を止めるにはまだ不十分だと思われた。仲買人たちは仲間に声をかけ、もっと多くの魚を持ってこさせた。巨大な冷凍庫の扉が開かれ、保管されていたマグロが大量に運び出された。鮮魚列車が姿を見せたのは、マグロの最後の一匹が線路の上に並べられたときだった。
「来たぞ」一人が叫んだ。
ヘッドライトを光らせたまま、鮮魚列車はものすごい勢いで接近してくる。汽笛を鳴らし続けているが、スピードがにぶる気配はまったくない。駅の入口を通過した。プラットホームめがけて、矢のように飛び込んでくる。
とまあここまで話すと、この先どうなったかはもう想像がつくだろう? こうやって鮮魚列車が暴走していたとき、町の反対側では砲兵隊の競技会が行われていたのさ。
魚の山に衝突し、鮮魚列車の速度はガクンと落ちた。ねばっこいタコやイカを車輪の下に巻き込みながら減速が続き、やがて列車はゆっくりと停止した。大惨事を未然に防ぐことができたわけだ。
町の反対側では奇妙なことが起こっていた。次弾を発射してよいとまだ審判員が合図を送ってもいないのに、風を切って何かが飛来し、はげ山の頂上に命中したのだ。
審判員たちは驚いたが、砲兵が合図を待たずに発射したのでないのは明らかだった。火薬の爆発音がまったく聞こえなかったからだ。双眼鏡で見ても、砲煙一つ上がっていない。
事情が明らかになったのは、夕方になってからだった。そして協議のすえ、審判員たちは新一郎を優勝者とすることに決めたのさ。カチンコチンに凍って石よりも固くなった冷凍マグロは、標的の中心を1センチの狂いもなくつらぬいていたからね。これ以上正確な砲撃はありえなかった。
わかるかい? 線路に積み上げられていた魚の一番上に、冷凍庫から出されたばかりのマグロが置かれていたのさ。流線型にとがっていて、長さ1メートルもあるやつさ。鮮魚列車がぶつかり、その衝撃でマグロは宙を舞った。そして数キロの距離をまっすぐに飛び、あのはげ山の頂上に命中したんだ。新一郎はすっかり有名になり、鉄道会社のはからいで14日間の特別休暇が与えられたというわけさ。 |