落書き
その古びた廃校は呪われているともっぱらの噂だった。
灰黒く汚れた壁、ガラスの割られた窓を見上げながら、剛は改めてそのことを思い出した。
近くで見ると昼間でも結構不気味だったが、壊れたドアから中をのぞくと埃だらけの廊下が長く延びているのが見える。
窓からの日差しで視界は良好だ。
剛は覚悟を決めるとおそるおそる校舎の中に足を踏み入れた。
床板を踏みしめる自分の足音が、静まり返った建物の中でやけに響く。
とりあえず手近な教室に入ってみた。
壁に大きな黒板がかかっているのがいかにも学校らしいが、中は酷く荒れていた。
整然と並べられていたであろう机やイスはことごとくなぎ倒され、さらにはどこかの不法業者が入り込んでいるのか、足の踏み場のも無いほどに、粗大ゴミが散乱している。
テレビ、冷蔵庫、ベッドや絨毯などゴミの中、剛は足元に注意しながら廃棄物の間を見て回った。
剛の目的は金目のものだ。あわよくば換金できそうな銅や鉄の塊が捨てられていないかとわざわざこんなところまでやって来てみたのだ。
ゴミの中を少し漁ってみたが、どうも良い感じのものは見当たらない。
他の教室を探してみようと顔を上げたとき、ちょうど正面にあった黒板が目に入った。
入って来た時は気がつかなかったが、真ん中の部分の埃がそこだけ綺麗に拭われて白いチョークで大きく文字が書かれていた。
『この落書きを見つけた人にお願いです → 』
文章の最後にチョークでなぜか下向きに矢印が付いていた。
何だろう?
剛は黒板に近づいてみた。すると矢印の指している先が見える。
黒板下の壁の部分。そこにも落書きがあった。
『この落書きを見つけた人にどうかお願いです。わたしの話を ↓ 』
その落書きの最後にもやはり矢印が添えられていた。
今度はまっすぐ左、窓の方へ。
剛がなんとはなしに矢印の誘導に従ってみると、思ったとおりまた別の落書きにぶつかった。
『読んで下さい。わたしはあなたをずっと待っていました ↓ 』
剛は回りを見回してみた。
もちろん誰もいない。いるはずもない。
その落書きの最後にもやはり矢印があり、窓の下の壁に沿って別の落書きを指していた。そちらの落書きの最後にも矢印が見える。
どうやら一連の落書きは矢印で繋がっている様子だった。剛は矢印を追いかけてみた。
『わたしはいつもこの学校でいじめられ ↓ 』
『いじめられていました。わたしは一人ぼっちでした。だから ↓ 』
『だから死のうと思いました。わたしは屋上から飛び降りました。しかし ↓ 』
『しかし死ねなかった。生きていた。動けなくなっているわたしを見つけた ↓ 』
『のはわたしをいじめていた奴でした。助けてはくれませんでした。わたしが ↓ 』
『助かれば奴のやったことがばれますから。だから動けなくなっているわたし ↓ 』
『わたしを穴に埋めました。生きたまま埋められました。苦しかったです。そして ↓ 』
『そして、わたしは死にました ↓ 』
そこまで読んで剛はふっと笑った。
なんだ。やっぱりただのイタズラか。
矢印は更に続いている。
黒板から壁、柱、また黒板、倒れた机、床へと。
落書きの文字は少しずつ小さくなり、段々と側に行かないと読めなくなってきている。
『苦しかった。今も苦しい。このままで ↓ 』
『このままでは死んでも死にきれません。だからどうかお願いです。わたし ↓ 』
そしてまた矢印。
その矢印を辿って教室の中央を横切ろうとした時、剛は急につんのめった。
ずぶりと床が抜け、足下の感覚が無くなった。
たくさんの廃材でよく見えなかったが、床は壊れており、そこに大きな穴が空いていたようだった。
しまった!
身構える暇も無く、剛は穴の中に落っこちた。
穴は深く、剛はそのまま縁や壁面に身体をぶつけながら底まで落ちていった。
「痛え!」
尻餅をついて倒れ込んだ。しばらく痛みが過ぎるのを待って、なんとか身体を起こす。
「痛てててて……」
腰をさすりながら立ち上がった。身体のあちこちに擦り傷ができていた。
しかし狭い穴の壁面に身体をぶつけた落ちたおかげでスピードが緩まり、ねんざも骨折もすること無く穴の底に到達することができたみたいだった。
「畜生! あんないたずらに引っかかるなんて」
上を見上げた。丸く切り取られた光が見える。
穴は深かった。あそこまで昇るのは一苦労だろうとうんざりした。
目が暗さに慣れてくると、回りの様子が見えてきた。
穴の内部は石造りの井戸のようだった。
いったいここはどこだ?
いぶかしむ剛の足先にこつんと軽いものが触れた。
丸いものらしく、ころっと転がっていく。
足元に視線を移すと、バレーボールくらいの白く丸いものが見えた。
なんだ?
不用意に顔を近づけたことを一瞬で後悔した。
それは、人間の頭蓋骨だった。
「うわああああ」
びっくりして後ずさると、今度は踵にもさっきと同じく軽い硬いものが当る感触がした。
全身がビクッと震えた。
剛は一旦深呼吸をすると、勇気を振り絞り、振り返って下を見た。
…………。
想像していた通りだった。足元にいつのものだかわからない白骨が転がっていた。
それが理科室の標本でない証拠に、骨はぼろきれのような服を纏っている。
あの落書きの主だ。
剛はそう直感した。
落書きの主は自分を発見して欲しかったに違いない。
こんなところで殺されて、ずっと一人ぼっちだったなんて。……かわいそうに。
珍しくまじめな気持ちになり、剛は骨の前にしゃがみこむと目を閉じて両手を合わせ、しばらくお経らしきものをつぶやいた。
しかし、再び目を開けたとき、剛の頭にちょっとした疑問が浮かんだ。
なんでここには頭蓋骨が3つもあるんだろう?
目の前の状況にちょっと納得がいかなかった。
剛が落ちた穴の向こう側、辿れなかった矢印の先、床の上。
剛にはもう読むことはできないが、そこには小さな文字で、こう書かれていた。
『だからどうかお願いです。わたしより苦しんで、苦しんで死んで下さい』