第4章:偉大なる詐術者(1)
雨が降りる。
時にアダージョ、時にモデラート。
一粒一粒が足並みを揃えて風に乗り、重力を携えて地面へと向かう様は、まるで戦争の訓練を行っている兵隊のようだ。
そこに意思はなく、ただ在るのは摂理の名の下に植えつけられた名分と、外部の力によって発生したうねりのみ。
魔術都市の第二聖地【ウェンブリー】の空を覆う灰色の氷晶群は、時折光を交えながら、固い大地を水色に染めていた。
「さて、それではボチボチ始めましょうか、ねぇ」
【ウェンブリー魔術学院大学】実験棟三階大会議室――――別名【教授会室】。
外の忌々しい光景を横目に、その場所に集った人数は9名。
教授会に組する者の数より1人多い。
無論、だからと言って椅子が足りない、などと言う事はない。
最高級の素材で精巧に製造された木製の机を囲む8人は、それぞれいつもより少しだけ狭まったお互いの距離に粒ほどの違和感を覚えつつ、視線を一箇所に集中させていた。
教授会――――それは大学の最高権力者である学長・副学長及び教授によって構成される機関で、教育及び研究の基本方針の策定、人事、学科課程の編成、学生の入学や転学、卒業、或いは賞罰などの認定……と言った、学内の重要事項を審議する為の組織である。
その扱いは大学によって様々で、学長のワンマン経営であれば会議は単なる報告会にもなり得るし、密で開けた連携を好む学長ならば学科同士の積極的な意見交換の場ともなり得る。
「まずは、ゲストの紹介と行こう。ミスト助教授、前へ」
ウェンブリー魔術研究大学学長【フォーゲル=モウリーノ】は、丁度その中間に位置する性質と言われている。
馴れ合わず、孤立せず。
常に情勢に気を配り、どこかが窪めばそこを修復する。
決して慌てず、臆病にもならず。
一歩間違えば崩壊しかねない修羅場でも、それは一切変わらない。
その性質こそが、彼を大学の学長へと導いた要因であり、大学の学長に留めている原因でもある。
「先日【パロップ】で開かれた展覧会において、総大司教ミルナ=シュバインタイガー様が襲撃された事はもう耳に入っているだろう。その際、我が大学の派遣した人間の暗躍によって大事に至らずに済んだ、との事で、総大司教様から感謝状を頂いている」
しわがれた歓声が上がる。
声を上げなかったのは、本来ならこの場にはいない筈の人間――――ミスト=シュロスベルだけだった。
「進んで派遣を申し出たミスト助教授の功績は非常に大きく、この実に名誉な出来事を皆で祝し、ここに讃えようではないか」
雨音をかき消さんばかりの拍手とはいかないが、大きな打音が室内に鳴り響いた。
それが消えるのを待って、再びフォーゲルが口を開く。
「ついては、ミスト助教授並びに派遣した研究員を表彰し、大学の発展に更なる活力を与えたい。異存のある者は……」
「学長」
そこに異議を唱えるべく声を上げたのは――――他ならぬミストだった。
「この件に関して、僭越ながら進言させて頂きたく存じます」
「ほう、何だね。言ってみなさい」
褒美の請求――――素直な人間ならそう考える所だが、ここに純粋な心を持つ者などいない。
彼の野心を知る16の目は、それぞれの思惑と好奇心を持ってその言葉を待った。
「今回頂いた総大司教様の感謝状を――――個人ではなく、研究室でもなく、前衛術科の功績として内外へ発表して頂きたい所存です。既に派遣した者からも了承を得ています」
雨音が強まる。
ミストの言葉は、実質的な賞与の放棄だった。
助教授である彼は、前衛術科代表として感謝状を受け取る事は出来ない。
前衛術科の功績は、即ち前衛術科教授のステータスとなる。
つまり、放棄であり、譲渡でもある。
「理由を、聞こうか」
真意を測りかねている事を雄弁に語るフォーゲルの言の僅かな空白に、ミストは内心満足しつつ答えを紡ぐ。
「今回の派遣についてですが、本来ならば前衛術科の両教授の推薦で派遣されるべき人員が決定されなければならない所を、私の一存で決めさせて頂きました」
事実を事実として語るミストに皮肉めいたものを感じたのか、半ば名指しされた格好の前衛術科教授ライコネン=ヒーピャとグラウディオ=ポニージャの表情が同時に曇る。
曇りであっても表現の仕方は多種多様で、皺の寄せ方から眉の角度、口角の筋肉の張りもまるで違う。
ミストはそれを観察するように眺め、続けた。
「前衛術科の絶対的方針として『実践なくして理論なし』と言う教訓があります。それを胸に抱き、私は常日頃から部下に実戦の場を経験して欲しいと願っていたのですが、その機会に恵まれず頭を抱えていました。その悩みを察し、御両名が私に機会を与えて下さったのです。この度、このような僥倖に恵まれたのは、未熟な私とその部下を深い思慮で見守る支えがあってこそ。総大司教様の感謝の言葉は、御両名にこそ相応しい」
ミストは話しながら、教授達の顔色を窺う。
地位を得た者程、評価に飢えている――――その自論をこの場で再確認した。
「そして、このような素晴らしい教授を2人も抱える我が大学こそ、魔術士の、そして聖地に身を置く市民の模範でなければなりません。個人の表彰では個人の評価に偏重してしまい、中には穿った見方をする者も出るでしょう。それでは意味がありません。大学こそが評価されるべきなのです」
ミストの淡々とした、しかし熱を帯びた回答はそこで締められた。
最初に反応を示したのは――――
「ふむ。立派じゃの」
69歳、もうじき定年を迎える教授会魔具科教授のクールボームステプギャー=ベレーボだった。
最高齢の老人が手放しに褒めた事で、ミストの提案は色のわからない色気よりも格が前面に出る格好となった。
要は、大学の助教授としての立派な正論と言う位置付けを手に入れた、と言う事だ。
「……素晴らしい。これこそ教員の、組する者の在るべき姿だ」
それを敢えて指し示すように、副学長の言葉が続く。
自然にもう一度、雨音に似た拍手の音が生まれた。
「相わかった。其方の進言通りに事を運ぶと約束しよう。前衛術科教授両名、及び他の者、異論はないな?」
学長の決定に、今度は誰一人口を挟まない。
それを受け、ミストは笑みを作る。
自身の意見が通った、満足感に溢れた清涼感の漂う笑み。
表現する為には、口角を左右均等に上げ、微かに目を伏せる必要がある。
所詮、表情など力の入れ具合で幾らでも制御可能。
演技ではなく、ただの自己制御に過ぎない。
『目を見ればわかる』
『活き活きしている』
そのような事は、それを知らない知ったかぶりの戯言だと、ミストは認識していた。
「ありがとうございます」
そして、頭を下げる。
頭の中に矜持はない。
頭を下げても、心の位置は変わらない。
これもまた、知らない者が多い。
童でも理解出来ている者は出来ているのに、多くの老人はこれを理解できない。
不可解であり、愉快な事だとミストは興味深くその事実を捉えていた。
「では、次の議題に――――」
そして、この話は終わる。
多少のサプライズを含んだ教授会は、それでも定刻通りに恙無く終了した。
「ミスト助教授」
間断なく振り続ける雨に耳を傾けながら廊下を歩くミストに、背後から声が掛かる。
ミストは直ぐに振り向き、特徴の一つである長いクセっ毛を湿気によってやや膨ませたライコネンと向き合った。
ミストとライコネンは同じ科ではあるが、専攻が違う為に直接の師弟関係はない。
このような機会がなければ、顔を合わせる事も余りない。
しかし、ライコネンは常にミストを見ていた。
彼だけではない。
後衛術科の教授2名も、結解術科の教授も、そして魔具科の長い名前の教授も、彼の動向には目を光らせている。
それだけの存在と認めた上で。
「有り難く頂戴しておくよ。席を譲る気はないがね」
その先陣を切るように、ライコネンは直接的な牽制を入れた。
直接的故に即効性は高いのだが、ミストは顔色一つ変えず、表情すら変えず、ごく自然に頭を振る。
「とんでもない。そのような心算はありませんよ、ライコネン教授」
「……フッ。いつまで空惚ける事が出来るか、楽しく拝見させて頂くとしよう」
ミストの低くなった頭が上がるのを待たず、ライコネンは歩を進めた。
ライコネンの立ち振る舞いに、言動程の余裕はない。
専攻が異なるとは言え、魔術の世界は医術や算術程細分化・専門化はされてはおらず、極端に言えば学科の掛け持ちも出来なくはないくらい、分野の垣根が低い。
近距離用の魔術に特化した知識だけしかないとか、闇討ちに適した技術のみに精通しているとか、そんな研究員は余りいない。
そもそも一分野を深く追求するにしても、結局は多方面に渡って学ぶ必要があり、それは魔術に限った事ではない。
何をもって権威とするかの違いだけだ。
一般人の生活と余り接点のない、魔術と言う極めて閉鎖的な学問において、実用性は余り優先されない。
つまり、知識さえあれば経験はなくとも実績は作れるのだ。
少々専門分野から離れていても、名前と力が伴えば権威になれる。
それが大学の活性化にも繋がり、不穏な空気を生む要因ともなる。
「ミスト君」
再び名前を呼ばれたミストは、ゆっくりと顔を上げた。
こちらは同じ専攻でミストの直接的な上司に当たる教授――――グラウディオだ。
ライコネンと同じく髭を蓄えているが、人中にのみ、しかも少しだけ。
所謂チョビ髭だ。
威厳より親しみやすさを優先させたらしいが、それが意図通りの効力を発揮しているかどうかは定かではない。
ミストは教授達と飲みに行く機会を極力作らずにいた。
接待が当たり前のように横行するこの世界において、ミストの遜りのなさは界隈において有名だが、それには様々な憶測が付いて回っている。
人間嫌いであるとか、稀代の酒嫌いとか。
或いは、女好き故に接待より女遊びに感けている、等。
だが、いずれも一切当を得ていない。
実際のところ――――ミストはその必要があれば時間を割くつもりでいる。
この大学に、その対象となる相手がいない。
それだけの事だった。
「ちょっと教授室までお付き合い願おうか。こんなめでたい時に何だが、少々問題が起きたものでな」
「わかりました」
心の高揚など微塵もない声色で、了承の意を唱える。
ミストは窓から見える空を横目に、上司の後に続いた。
この日の空は、最後まで暗雲が支配していた――――
第4章 " the great impostors "