魔界に行ったのにやってることはパン工場のバイトかよ!
大学三年の冬、俺は留年した。全てはシュレディンガーが訳の分からん式を発見しやがったせいだ。
事務棟はおんぼろで隙間風が酷い。俺の名前だけが書かれた留年者リストが風で丸まって、かさかさと耳障りな音を立てていた。
三日後、俺は実家に電話した。激怒するかと思っていた母の声が存外冷静だったので、俺は胸を撫で下ろした。
「来月から仕送り止めるね。」
母は淡々と告げた。
「来年度の学費も自分で何とかなさい。」
新年度の学費は五十四万円。納入期限は五月末だ。
俺は週一回だったパン工場のバイトを五日に増やした。十二時~十八時のシフトで二時間毎に十分間の休憩が入る。仕事内容は日によって異なる。今日はベルトコンベアで流れてくるショートケーキの上にいちごを載せ続ける仕事だ。ひたすら右手をボウルとコンベアの間を往復させる。
パン工場で働くコツは出来るだけ時計を見ないことだ。時計を見る度に絶望が体に蓄積していくからだ。ならば一度も見なければ良いのだが、それは息継ぎせずに泳ぐようなもので不可能である。十回程時計を見て、首辺りまで絶望に浸かった辺りで休憩になる。それを三回繰り返せば終了だ。
パン工場バイトの良い所は休憩室でパンを無料で食えることだ。俺は昼飯と晩飯をパンで済ませている。今日も棚から惣菜パンを二個取り、コップに水を注いでパイプ椅子に腰を下ろした。
「お先に。」
俺の横を、顔なじみのバイトが通り過ぎた。同じシフトの時は一緒にパンを食う仲だ。昨晩のアニメの話がきっかけで話すようになった。そうは言っても顔を合わせるのは休憩室だけが。
「今日はパン食って行かないのか。」
聞くやいなや、俺は後悔した。奴の鼻が自慢げに膨らんでいたからだ。
「実はな、俺の彼女が手料理を作ってくれるって言うんだ。悪いな。」
奴はにやつきをこらえ切れない様子で、俺の肩をぽんぽんと叩くと休憩室を出ていった。俺は思わず握りつぶしてしまったせいで中身が溢れだしてしまっているジャムパンを口に運ぶ。そのパンはいつにもまして不味かった。
翌日、俺は工場へ向かう途中、コンビニに立ち寄った。漫画雑誌を立ち読みするためだ。奥の雑誌コーナーへ向かう途中、パン売り場を通る、カップルの女の方がアンパンを手に取った。一昨日俺が黙々と塩づけ桜を押し付けて作った奴だ。
男はそれを横から覗きこむと、顔をしかめた。
「止めとけよ。そこのパン、添加物まみれで社長も食わないらしいぜ。」
「えー。そうなの。もう食べるの止めるわ。」
女は投げ捨てるようにパンを棚に戻すと、男と連れ立ってコンビニを出ていった。
俺は立ち読みを始めたが内容が頭に入って来ず、早々に店を出た。お陰で早めに工場に着いてしまった。朝飯を食っていないので腹が減っているが、コンビニの件を思い出してしまい、パンを食う気になれない。俺は貧乏ゆすりをしながら時間を潰した。
その日はサバランをブランデーに浸す仕事だった。スポンジを掴んでは表面をさっとブランデーにつけてひっくり返す。作業を繰り返す。
畜生、畜生、畜生。俺はぶつぶつと呪詛の言葉を繰り返した。
俺より太っているくせに彼女なんか作りやがったバイト仲間が許せねえ。
俺が作ったパンをディスりやがったカップルが許せねえ。
ろくに授業にも出てねえくせに、試験前だけ過去問を回してもらって突破しやがった同級生達が許せねえ。
何よりこんな誰でもできるクソみたいな仕事しか出来ねえ自分が許せねえ。俺がコミュ障じゃなければもっとマシな仕事が――
「君! 」
肩をゆすられ、俺は我に返った。見れば手に握ったスポンジはぼろぼろに崩れ、床に散らばってしまっている。手元にはコンベアで流れてきたスポンジが滞留し、零れ落ちそうだ。チーフがホイッスルを鳴らし、ラインを止めた。
「君、もう中堅なんだからこんなことじゃ困るよ。」
終業後の面談室。パイプ椅子で向い合ってチーフが切り出した。
「一日で三回もラインを止めるなんて新記録だよ。」
チーフは呆れたように笑うと、俺に向きあった。
「で、来月も同じシフトで良い? 」
「辞めます。」
「ああそう。お疲れさん。」
チーフは来月の俺の予定の欄に横線を引いた。
代わりはいくらでもいるってことかよ。
俺は工場を飛び出した。
数時間後、俺は四畳半のアパートで後悔していた。パン工場のバイトで金を稼がねば、学費が払えずに大学中退になってしまう。同級生の後輩になるだけでも屈辱なのに、中退にでもなったらあいつらに何を言われるかわかったもんじゃない。それに留年の上に中退じゃ不真面目な奴と見なされて、企業が雇ってくれないだろう。
「畜生、何で軟派サークルに入って遊び回っていた奴らが進級できて、俺が留年なんだ。」
何度も繰り返した呪詛の言葉を吐いて、俺は床に倒れ込んだ。
とにかく、何としても五月までに学費を工面しなくてはならない。そのためには次のバイトを探さねばならん。俺はどんよりとした気分で万年床に入った。
翌朝、俺は久しぶりに大学に向かった。バイトを紹介している大学生協の掲示板を見るためだ。
掲示板にはびっしりと求人情報が貼りだされていた。端から目を通す。
「英会話スクール講師」
無理だ。日本語会話だっておぼつかねえのに英会話なんか教えられる訳がねえ。俺は次の紙に目を移した。
「引越し手伝い」
無理だ。ペットボトルを三本買っただけでふらつくのに、タンスなんか運べるかっての。俺は次の紙を見た。
「街頭アンケート」
絶対無理だ。知ってる人に声をかけるだけでも緊張するのに、見知らぬ人に声なんかかけられるかよ。
俺は次々求人を見ていくが、どれもこれも俺には出来そうもないものばかり。とうとう求人情報は最後の一枚になってしまった。俺はため息をつきながら腰を屈めて、右下隅に貼られた求人情報に目を落とし、顔をしかめた。それはパン工場の求人だったからだ。
しかし、他にできる仕事が無いのも事実。俺はしぶしぶ続きを読み始めた。
パン工場バイト急募
仕事内容…パンの製造
勤務地…パン工場
勤務日…三月二十六日から五日間
勤務時間…一日一時間~。シフト応相談。
時給…一万円
集合場所…三月二十六日午前十時 ○○駅前
募集人員…若干名
何気なく読んでいた俺は、思わず用紙を二度見した。
時給…一万円
何でこんなに時給が高いんだ。英会話スクール講師ですら時給二千円。普段のパン工場のバイトなんか時給八百五十円だ。それなのに時給一万円なんて、何か裏があるに決まってる。
俺が逡巡していると、向こうから別の男がやって来て、バイト情報をチェックし始めた。
募集人員は若干名。ぐずぐずしているとこいつに先に応募され、締め切られてしまうかも知れない。
俺は慌てて窓口に駆け込んだ。
その夜、俺は自宅で頭を抱えていた。つけているテレビの内容が全く頭に入ってこない。
受付のお姉さんは「普通のパン工場の仕事ですよ。」と言っていたが、こんな破格な時給、絶対やばい仕事に決っている。
俺達、六人のバイトは黒服の男によってスモークガラスのマイクロバスに載せられる。着いた先は山奥の洋館。俺達が中に入ると鍵のかかる音がする。
「おい、扉が開かないぞ。」
「くそっ。完全に閉じ込められた。」
すると居間のテレビのスイッチが自動的に入り、仮面をつけた男が映し出される。男は変成器を通した耳障りな声で告げる。
「これから皆さんに殺し合いをしてもらいます。」
「嫌だ! ここから出してくれ! 」
あまりに恐ろしい想像に俺は思わず叫んだ。
「うるせえぞ! 」
隣室のおっさんが壁を叩いた。
まあ、しかし生協が紹介しているバイトなんだし、さすがに殺し合いはないだろう。俺は何とか心を落ち着かせた。だが、じきに別の想像が頭をもたげた。
俺達四人のバイトは白衣の男によってミニバンに載せられる。着いた先は山奥の研究所。俺達は来る日も来る日もモニターと称して新製品のパンを食べさせられる。
「何かこのパン変な味がしねえか。」
「まあ、まずいパンを食うだけなんて楽なバイトじゃねえか。」
だが、三日目に仲間の一人が突然倒れ、動かなくなる。一人少なくなった俺達の前に、いつものパンが出される。
「さあ、食べて下さい。早く。さあ。」
「勘弁してくれ! 」
嫌な汗が流れ、俺は思わず呻いた。
「うるせえって言ってんだろうが! ぶち殺すぞ。」
隣室のおっさんが再び壁ドンをした。
未承認薬の被験者には事前に同意書が必要なはずだ。俺は何とか心を静めた。だが、じきに新たな想像が沸き上がってきた。
俺達二人のバイトは作業着の男によって軽トラに押し込まれる。着いた先は山奥のパン工場。俺達はコロッケパンを作り続ける。
「このひき肉、何の肉なんだろうね。」
「牛とも豚とも違うような。」
最終日。好奇心に駆られた俺はバックヤードを覗きこむ。そこには解体されたばかりのバイト仲間の死体が。側に立っていた工場長が、血まみれのナタを持って振り返る。
「おや、君も肉になりに来たのかい。」
「ひいっ! 命だけは助けてくれ! 」
背筋も凍る情景に、俺は思わず絶叫した。
「別に本当に殺す訳じゃねえよ。」
隣室のおっさんが困惑したように返答した。
俺は床についたが、次から次へと嫌な想像が浮かんでくる。俺は一晩中寝たり起きたりを繰り返した。
翌朝。俺は眠い目をこすりながら駅前でバイトの迎えを待っていた。怪しげなバイトとは言え、時給一万円の魅力には抗えなかったのだ。
どうせ高すぎるバイト代も、緊急に人が必要だったとかそういう平凡な理由に決っている。万が一黒服の男がスモークガラスのマイクロバスで迎えに来たりしたら、その時逃げれば良いだけだ。
目の前にスモークガラスのマイクロバスが止まり、中からサングラスに黒服の男が下りてきた。
「バイトの方ですね。」
黒服が目の前に立つ。俺がとっさに頷くと、黒服は俺の体をひょいと持ち上げ、マイクロバスに押しこむと、扉を閉めた。
逃げ出す間もなくバスは発進した。体中からどっと汗が吹き出す。
「あの…どこに向かっているのですか。」
「パン工場です。」
黒服は前を向いたまま答えた。
俺はそっと携帯電話を取り出した。学費を出してくれない親も、誘拐されたと知れば捜索願くらい出してくれるだろう。だが、駅前から五分と走っていないはずなのに、アンテナは圏外になっていた。
俺はぐったりとシートにもたれかかった。今頃になって猛烈な眠気が襲ってきて、俺は眠りに落ちていた。
「着きました。」
黒服に肩を叩かれ、俺は飛び起きた。黒服に続いて外に出る。
目の前には大きなパン工場が夕日に照らされている。俺は驚いて携帯を取り出して時刻を確認した。午前十時五十分。バスに乗せられていから一時間と経っていない。なのに何故夕方なんだ。
俺の疑問をよそに、黒服は工場へ向かって歩き出した。俺も慌てて後を追う。空には翼竜が舞い、道端にはマンドラゴラが生えている。ゲームで見慣れた光景だ。
俺は黒服に続いて工場の通用口から中に入り、驚いて振り返った。空を飛んでいるのはどう見ても烏などではなく、翼竜だ。口をぱくぱくさせる俺の腕を取って、黒服が歩き出した。
廊下の向こうから歩いてきたゴブリンがよく分からん言葉で黒服に挨拶をする。頭がショートした俺は、黒服に手を引かれるまま、面談室へと連れ込まれた。
「どうぞおかけ下さい。」
椅子に座った俺は我に返った。
「あの、先ほどすれ違った方ですが、随分とゴブリンに似た方でしたね。」
「ええ、彼はゴブリンです。ちなみに私はサタンです。」
黒服が黒服を脱ぐと、一メートルはあろうかという漆黒の翼が現れた。
「ひいっ! 何でもするから命だけは助けてくれ。」
俺は椅子から転げ落ちて後退った。
「随分と種族的偏見の強い人ですね。」
黒服を脱いだサタンの男はサングラスをくいと押し上げた。
「あなたにはこれから五日間、魔王生誕祭を祝うデコレーションケーキの製造を担当して頂きます。勤務時間は一時間です。」
「一時間? それは随分と短いですね。」
「短いかどうかは実際に働いてみてから判断して下さい。」
確かに、重労働なら一時間でも長い。延長を願いでるのはやってみてからで良いだろう。俺は椅子に座り直すとおずおずと尋ねた。
「そのケーキは俺一人で作るのですか。ケーキの作り方など分からないのですが。」
「担当して頂くのは簡単な作業ですよ。分からないことがあればラインチーフのビューグガーに聞いて下さい。」
「それでその、ビューグガーとか言う人は人間ですか。」
「みだりに他人の種族を尋ねるのは感心しませんね。しかしまああなたは多種族の生活になれていないので仕方がありません。ビューグガーはグールです。」
「工場で働いている人の内、人間は何人くらいいるのですか。」
「あなただけです。残りはグールが十三人、ゴブリン十一人、オークが八人です。」
「……大丈夫なんですか。その、集団で襲われたりとか。」
サタンはサングラスを持ち上げた。
「ここ、王都グシュギャンゲボラにおける人口十万人あたりの年間殺人発生件数は0.06人です。一方、東京では0.35人。私としてはあなたがグール達に犯罪を犯さないかどうかの方が心配です。」
俺は二の句が継げなかった。
俺はサタンに連れられて休憩室に入った。人間界のパン工場の休憩室はテーブルとパイプ椅子が並んでいるだけの殺風景な場所だったが、魔界の休憩室はゆったりとしたソファーやマッサージチェアが並んでいた。サタンが言った通り、大勢のグール、ゴブリン、オーク達が思い思いにくつろいでいる。見たこともないようなボードゲームで遊んでいる奴が多い。
サタンは手を叩いて注目を集めると、聞いたことのない言葉で話し始めた。俺の名前が混じっていたので、どうやら俺を皆に紹介しているらしい。
サタンの話が終わると、皆が「ゴギュンテ。」と唱和した。
「ゴギュンテ。」
俺がおずおずと同じ言葉を返すと、皆が一斉に足を踏み鳴らした。魔界において足を踏み鳴らすのがどういう意味なのか分からないので、歓迎されているのか敵意を表されたのか判断できん。俺が意味を聞こうと振り返ると、サタンの奴は既に帰った後だった。
俺は部屋の隅っこの空いているソファーに腰を下ろした。昨晩七十九通りの恐ろしい想像をした俺も、三十二人の低級魔族と同じ部屋に押し込められるとは思っても見なかった。
サタンの話が本当なら、今の俺は東京にいるよりも安全なことになる。だが、凶悪な面構えの魔族どもが歯を剥き出しにしているのを見ると、俺をいかに惨たらしく食い殺すかの相談をしているようにしか見えねえ。
それにしても、先ほどのサタンとは違い、低級魔族どもはどいつもこいつも知性の欠片もないような顔をしていやがる。三十二人の知能を合わせたよりも、俺のほうが賢いに違いない。いざとなったら知恵で奴らを出し抜くしかねえ。
そんなことを考えていると、一匹のゴブリンと目が合った。まさか何見てんだよ、などと因縁をつけられるのではないか。俺は慌てて視線を逸らすと縮こまった。だが、俺の願いも虚しく、そのゴブリンは立ち上がるとこちらに向かって歩いてくるではないか。
俺が下を向いたまま震えていると、ゴブリンが目の前に立ち止まった。ゴブリンは人間より小柄だから、一対一ならなんとかなるかも知れないが、いかんせん向こうは三十一人も仲間がいる。戦いになったら勝ち目はない。
必死に目を逸らしている俺の努力を無にするように、ゴブリンは身を屈めて俺と目を合わせ、凶悪な面を歪めて歯をむき出しにし――
「僕ドヴォゲボンです。」
と日本語で言った。
ドヴォゲボンはケーブルテレビでやっていたアニメを見て日本語を覚えたアニオタなのだと言う。俺達はキルラキルの話でたちまち意気投合した。
「ところでドヴォゲボン。あそこでみんながやっているゲームは何? 」
「あれはシュレディンガー方程式を解いて戦うパズルゲームだよ。元々子供向けなんだけど奥深い戦略性で大人でもはまる人が続出しているんだ。」
「えっ、あいつらみんなシュレディンガー方程式なんか解けるのか。」
「そりゃあシュレディンガー方程式なんて小学校で習うもの。」
ドヴォゲボンはしわがれた声で無邪気に答えた。
始業のベルが鳴り、魔族達は三々五々立ち上がって生産ラインへと向かった。俺もドヴォゲボンの後について歩き出す。
「仕事はどんな感じなの。」
俺が尋ねると、ドヴォゲボンは吐き捨てるように答えた。
「恐ろしい仕事さ。」
先ほどキルラキルが貴種流離譚の構造を持っていることについてあれほど熱く語っていたドヴォゲボンがそれきり一言も話さない。周りを見れば、休憩室では凶悪そうながらもどことなく楽しげに過ごしていた魔族達が、一様に、死地へ向かうような顔をしている。俺の体に再び恐怖が襲ってきた。
同じパン工場でも人間界のとは大違いで、凶悪な食人植物を捌いたりするのかも知れない。しかしここは魔界。逃げ出そうにもどこに逃げたら良いのかも分からない。俺は絶望的な気分で衛生服を着てマスクと手袋を装着し、工場へ入った。
工場の中は人間界のものとそっくりだった。俺はドヴォゲボンに通訳してもらってチーフから仕事を教わった。もっとも、実際は通訳もいらない程だった。俺の仕事は次々と流れてくるミニケーキに魔王の砂糖菓子を載せるだけの仕事だったからだ。
ブザーが鳴ってラインが動き出す。俺は黙々と砂糖菓子を載せ続けた。右手ばかり動かしているので、だんだん右腕がだるくなってくる。時折左手で右腕を揉みながら載せ続ける。
しかし、ドヴォゲボンが恐ろしい仕事などと言うからびくびくしていたが、実際はいつもやっているのと同じ単純作業じゃねえか。脅かしやがって。俺が隣で働いているドヴォゲボンを見ると、何だか様子がおかしい。まず、目がうつろだ。だらだらと冷や汗を流し、息も荒い。
「おい、大丈夫か。」
俺がマスク越しに尋ねると、ああ、という弱々しい声が返って来た。まだ働き始めて二十分も経っていない。もしかしてゴブリンはものすごく貧弱なのか。それともこの後恐ろしい仕事が待っているのだろうか。ミスを犯したらサタンによってハエにでも変えられてしまうのだろうか。俺はだんだん不安になってきた。
働き始めて三十分が過ぎた頃、事件が起きた。一人のドワーフが叫び声を上げてラインを離れ、逃走したのだ。それに触発されたように、次々と魔族達が職場放棄し、休憩室へと駆け込んでいく。一分後には残っているのは俺とドヴォゲボンだけになってしまった。動いているのは魔王デコレーションケーキのラインだけだ。
「おい、何が起こったんだ。」
俺が尋ねると、ドヴォゲボンは息も絶え絶えに答えた。
「魔族にとって、単純作業というのはこの上ない苦役なんだ。」
ドヴォゲボンが掠れた声で絞りだすように語った所によると、魔族は知的好奇心への渇望が強いため、単純作業をやらされると過大なストレスがかかり、三十分もすると堪えられなくなってしまうのだという。
「それなら三十分毎に休憩を入れれば良いじゃねえか。」
「そうすると十五分で逃げ出すんだ。」
ドヴォゲボンは何とか砂糖菓子を載せ続けているが、目の焦点が合っていない。
「おい、ドヴォゲボンもやばいんじゃねえか。休んで来いよ。」
「君一人を残していく訳にはいかないよ。」
「いや、俺は全然平気だから気にするなよ。」
「そうか、済まない。」
ドヴォゲボンは休憩室へと駆け戻って行った。ドヴォゲボンが抜けてしまったので二倍働かねばならない。俺は両手で砂糖菓子を掴み、同時に載せる技を編み出した。左手で乗せた奴が多少傾いているが、非常事態なのだから仕方ないだろう。
休憩というから、十分くらいしたら戻ってくるのかと思いきや、魔族達は一向に戻ってこない。遂には一時間が過ぎ、就業時間が終わってしまった。
交代要員が来るのかと思いきや、ラインが止まり、工場の灯りが消えた。何とこの工場は一日に一時間しか稼働しないらしい。
休憩室は空っぽだった。いや、一人だけ残っていた。いまいち顔の見分けがつかないが、どうやらドヴォゲボンのようだ。
ドヴォゲボンはふらついた足取りで近づいてきた。三十分経ってもまだ単純作業のダメージが残っているらしい。
「君が全然戻ってこないから心配していたんだ。」
「いや、普段は六時間働いているから。」
「ええっ! 」
ドヴォゲボンは驚きのあまり腰を抜かした。オーバーな奴だな。そこにサタンが入ってきた。
「どうだね。一時間でも短くはなかったろう。」
「いえ、普段は六時間働いていますから。」
「ええっ! 」
サタンは驚きのあまり腰を抜かした。ドヴォゲボンがオーバーなわけではなく、これが普通の反応なのか。サタンは立ち上がってサングラスを押し上げると、普段の済ました表情に戻った。
「ということは、もう五時間働けるということですか。」
「そんな、非魔道的なことはやめましょうよ。」
ドヴォゲボンがサタンに懇願する。俺の身を案じてくれるのは有難いが、正直迷惑だ。
俺は人間界では毎日六時間働いていたこと、八時間働いている人もいることなどをじゅんじゅんと説明し、六時間勤務を勝ち取った。
「魔王スペシャルデコレーションケーキは、魔王生誕祭の日だけ給食で出される特別なデザートで、子供たちが楽しみにしている。今年は人手不足で生産が間に合いそうになかったが、君の頑張りいかんでは今年も子供たちにささやかな喜びを届けられるかも知れない。頼んだぞ。」
サタンの言葉に、俺は頷いた。
俺は五日間、いつも通り一日六時間ずつ黙々と働いた。俺に触発されたのか、魔族達の労働時間は徐々に伸び、最終日には何と逃げ出すまで三十三分も頑張るようになった……って三分だけかよ。
最終日には残業を申し出て、何とか人数分の魔王スペシャルデコレーションケーキを作り終えた。
仕事を終えて工場を出ると、ドヴォゲボンが待っていた。ドヴォゲボンは俺にドドメ色のラッピングが施されたハート型の箱を手渡すと、
「べ、別にあなたのために作ったんじゃないんだからね! 」
としわがれた声で言うと、走り去って行った。俺はずっとドヴォゲボンは男だと思っていたのだが、もしかして女子だったのだろうか。だとすると、俺は異世界にやって来て女子と仲良くなり、子供たちの笑顔のために戦ったことになる。まるで勇者みたいじゃないか。
俺はハート型の箱を大切に抱えると、スモークガラスのマイクロバスに乗り込んだ。
人間界に戻った俺はチーフに頭を下げ、パン工場のバイトに復帰した。
その後、生協の掲示板に、妙に時給の良いパン工場バイトの求人が出ることはなかった。
パン工場で働くコツは楽しいことを思い出すことだ。俺は絶望しそうになると、ドヴォゲボンにもらった漆黒でいわく言い難い味の手作りお菓子を思い出すことにしている。
大丈夫。俺はまだやっていける。