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 サミュエル達一行は、その日の午後遅くにドリアン伯爵邸に着いた。真っ先に出て来たのは奥方で、彼女は両手を差し出しながら、未来の花婿を迎えたのだった。その後ろを、控えめにベアトリスが立っているのを、サミュエルは認めて微笑んだ。
 淡いピンクの衣装のベアトリスは微笑みこそしないまでも、どこか諦観をたたえながら静かにサミュエルに歩み寄り、
「ようこそ」と言いつつ、優雅にお辞儀をしたのだった。
「お元気でしたか、ベアトリス嬢」
「はい。サミュエル様もご息災であられますようで」
「まあ、そこそこ元気ですよ。ましてあなたのその姿を見れば、更に力がわき、疲れも吹っ飛びました」
「まあ、ご冗談を」とベアトリスはレディらしく上品に言い返す。その一見穏やかな有様は、すっかりエクリースを諦めきった姿だったが、アンネットは騙されなかった。

 奥方はこの若い二人のやり取りを、微笑みながら嬉しげに見つめていた。
「さあさあ、サミュエル様。どうぞ中へ。夫が居間でお待ちしておりますわ。じきに晩餐を始めましょう。さぞやお疲れのことでしょうね、美味しいお料理を用意致しておりますわ」
 奥方は本当に心から喜んで、サミュエルを迎え入れたのだった。

                ☆ ― ☆ ― ☆

 サミュエルはここに来る前にイデットに呼ばれ、不可解な難問を突きつけられたのだった。それは“ベアトリスが歌いたくない歌を所望せよ”と言うものだった。イデットはずっと昔、乗馬教師でありかつスパイでもあるプラットが書いていたことを、決して忘れてはいなかった。(注:第五章の1参照のこと)
 それは、エクリースによって禁じられている歌だということだった。以後、ベアトリスは決してその歌は歌わないのだという。その意味するところは不明で、又その題名すら分からないが、イデットはその歌が何らかの不吉な意味を持っていることを感じていた。
 それを探りたくもあり、又秘かにエクリースやベアトリスの不幸を願っていたイデットは、何も知らないサミュエルを利用することにしたのだ。卑しい身分の出の母を持っていたサミュエルは、今ではイデットの操り人形に過ぎない。ただし、イデットはさすがにサミュエルの心境の変化には気付いてはいなかったが。
 それは“愛”という気持ちであり、以前には持つはずもなかった“愛情”を、サミュエルはベアトリスに感じているという事実だった。

 今又ベアトリスに再会したサミュエルは、数ヶ月の間にも大人になっていくベアトリスの色香に、くらくらとしていた。そしてただそれだけではなく、ベアトリスを守りたいという気持ちも感じて、我ながらたじろいでいたのだ。
 今のサミュエルは、なぜエクリースがベアトリスに心許したのかをやっと理解することが出来た。ベアトリスの持つ、可愛げな容姿だけではない利発さ、賢さ、思いやり深さと激しい情熱……それらを、サミュエルは感じ取ることが出来るのだ。そして、それを愛しいとまで思い始めていた。
 氷のようだったエクリースの心まで溶かし、そして辺りを明るくする何かをベアトリスは持っていた。まことベアトリスは、自分に相応しい相手なのだとサミュエルは確信していた。

 田舎料理のご馳走の後、サミュエルは例のバルコニーにベアトリスを誘った。既に外は暗いが、月明かりに満ちた夜の大気は澄んでいる。その中に、ショールを肩に掛けたベアトリスは、長い茶色の髪を垂らして、夜風に晒すままにしていた。
 以前に比べ、ベアトリスの様子は穏やかに感じられる。それは、諦観なのだろうか?
「ベアトリス嬢、わたしと婚約して下さる事を感謝申し上げます。よくぞ決心して下さった」
「あなたは良い方ですもの」とベアトリスは俯きながら答えた。
「今はただそれだけですか?」
「……」
 ベアトリスは躊躇いつつ、何かもごもごと言っただけだった。

「わたしは……あなたを愛しいと思っているのです。それは心から感じている気持ちです。以前には無かった、不思議なざわざわする気持ちを」
「ありがとうございます」とベアトリスは答えた。「でも、今晩はこの辺で。誕生日の支度もありますし」
「ああ、済みません。あなたをこんなら遅くお引止めして。けれども」
とサミュエルは何かを思い出して言った。
「何でしょう?」
「あ……それは……」
 サミュエルは、しばし躊躇った。けれども、イデットの催眠のような命令には負けてしまうのだ。

「つまり、あの……以前、エクリース王子から禁じられた歌を、一度聞きたいと思いまして」
「え!?」とベアトリスは立ち尽くした。「『待ちくたびれた駒鳥』の歌ですか?」
「ああ、それのようです。いや、それです!」とサミュエルは叫んだ。
「わたしは、それが聞きたい。お嫌ですか? エクリース王子は既にここには居ません。わたしの為に、それを是非! ステキな歌だと聞いておりますゆえ」
 ベアトリスは、じっと立ち尽くしていた。ベアトリスの前には、暗い闇夜が広がっていた。けれども、ベアトリスは暫くしてゆっくりと答えたのだった。
「分かりました。あなたの為に、歌いますわ」

 その時、エクリースは森の野営地で眠ろうとしているところだったが、突然襲ってきた激痛に身体を捩りながら、悲鳴をあげて地面を転がりだしたのだった。






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